【物語三昧 Channel:Vol.3】TONO『カルバニア物語』人間らしさを失わずこの過酷な世界で生きていくこと with 海燕 - 2019年2月4日 Mon JST

カルバニア物語(17) (Charaコミックス)

さてさて、めちゃ忙しないですが、今年の目標は単品の解説ラジオを積み上げようということで、僕は早い方がいいと思う人なので、年の前半に2019年の目標を達成すべく、全力疾走、、、というか、やれるときにやらないと、いつできるかわからないですからね。人生は短い。

今回は、いくつも記事を長きにわたって書いていますが、大好きな『カルバニア物語』。僕は、9巻の公爵の日、というエピソードが好きすぎて、何度読んでも読むたびに、号泣してしまいます。昨日も読んだら、疲れ切って、ラジオの準備のための義務的なものだったのに、、、、気づいたら泣いてて、ああ、これな自分にとって琴線に触れる話なんだなぁとしみじみ思います。というか、傑作ですよね、これ。なので、紹介したくて、語りたくて。まず海燕さんとの第一号に、これを選びました。ちなみに、ペトロニウスの名にかけて傑作です!と言い切れる、★5つ(主客両方)の作品です。

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さて最近「勝てるところで勝負をしよう」との合言葉の下、僕と海燕さんでは、巨人LD教授にどうやって対抗しよう!と考えたときに、彼の弱い?領域で、僕らが相対的にましなところは少女マンガだ!ということで、海燕さんと、集中的に解説ラジオをしようとしています。話せば長いのですが、最近僕の大きな気づきは「憧れは人をだめにする」です(←この10年言ってきたことと逆じゃん(笑))。あこがれているだけだと、いっこうに尊敬する「その相手」と対等にならない。そして、腐る。上下関係は、やっぱダメなんだな、と。だから、本気で尊敬してあこがれるのならば、「その人に勝つべく、どうやって倒せるか!考え、いま倒せない自分を悔しがる!」という意識と行動が重要だと。これは出口治明さんを見てて、あまりに博学ぶりに悔しくなったからなのですが…まぁそれは置いておいて、なので、とてもめまいするほどのクンフーを積み重ねた巨人LDさんを倒すには!どうすればいいのか!という問題意識の下、まずは少女マンガ集中してみようぜ、と思いつきで考えてみました。


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カルバニア物語(1) (Charaコミックス)

【物語三昧 Channel:Vol.2】漫画版『風の谷のナウシカ』解説ラジオ with LD - 2019年2月2日 Sat JST

風の谷のナウシカ 全7巻箱入りセット「トルメキア戦役バージョン」

2019年は、単品紹介をしていこうということで、2回目は、漫画版『風の谷のナウシカ』。LDさんと解説していきたいと思います。基本的には、ラジオだけ聞けばわかるようにしようと思っているのですが、そうはいってもこれだけの古典的傑作になると、複雑な積み上げの果てに生まれているものなので、できれば、下記課題図書、ラジオ、作品を見ていると、より楽しめると思います。また、ラジオ聞いて、納得いかなかったり、もっと知りたいと思った場合は、ぜひとも、参考に挙げているものもトライしてみると、さらに面白いと思います。

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もう相当の古典となっているので、意外に、映画も含めてみていない人いるかもしれない?と思うのですが、どうでしょうか。少なくとも、これは、読んでいないと人生損をしているというようなレベルだと思いますし、興味なくても教養(笑)として知らないと、ちょっとさびしい。日本エンターテイメント史における金字塔なので、ぜひ押さえたい所です。ちなみに、下記に過去の記事と、ベースとなる概念の説明のラジオ講義を張っておきます。聞く前に見なくてもいいと思いますが、すべてつながっているので。


『風立ちぬ』 宮崎駿監督 宮崎駿のすべてが総合された世界観と巨匠の新たなる挑戦 - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために


『崖の上のポニョ』と『スカイクロラ』にみる二人の巨匠の現在〜宮崎駿は老いたのか?、押井守は停滞しているのか?(1)/ポニョ編 - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために


『崖の上のポニョ』と『スカイクロラ』にみる二人の巨匠の現在〜宮崎駿は老いたのか?、押井守は停滞しているのか?(2)/スカイ・クロラ編 - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために


また、宮崎駿さんは、なんというか社会哲学や経済・社会思想史のラインで考えると、理解が一直線につながるような人なので、戦後のアカデミズムや思想史の展開を知ると、補助線として凄い理解が深まります。ほんとうは、吉本隆明さんとかの位置づけと搭乗の時のインパクトを知っていると、興味深いと思いますね。このへんは、そういうのに造詣が深すぎる高畑勲さんの影響だろうと思います。ちなみに、僕の様々に読んだな宮崎駿さんの昨比の読解の中で最も断トツに素晴らしいのは、稲葉振一郎さんの『ナウシカ読解 ユートピアの臨界』です。もう絶版なのかな?。これ、社会哲学などの導入書として素晴らしく機能するので、おすすめです。

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風の谷のナウシカの元ネタとしては、『地球の長い午後』が有名ですね。古典の傑作SFです。また、宮崎駿さんは、作品も凄すぎますが、それ以外の言行録もめちゃくちゃ面白い人なので、いくつか出ていますが、トライしてみると素晴らしく作品世界の理解広がりが深まっておすすめです。


出発点―1979~1996


地球の長い午後 (ハヤカワ文庫 SF 224)


下記は、これまでにやったラジオですね。


物語マインドマップ 2.善悪逆転の物語~勧善懲悪のヒーローが人類終末論にたどり着くまで


物語三昧ラジオ/風立ちぬ 2013/08/16


物語三昧ラジオ/シン・ゴジラ(ネタバレ) 2016/08/11


ちなみに、宮崎駿作品の原点は、僕は、『未来少年コナン』だと思うんですよね。彼の思想の問題提起などほぼすべての原点が詰まっている。『太陽の王子 ホルスの大冒険』なども本当の原点に感じますが、これ高畑勲監督作品ですしね。『未来少年コナン』は、いまでも色あせない素晴らしさに満ちている作品なんで、ぜひともトライしてみては。ちょっと古典紹介でした。


風の谷のナウシカ [DVD]


未来少年コナン Blu-rayボックス

物語の物語、やっと通販開始します。在庫これしかないので宜しくです。

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物語の物語1


1.神話とアーキタイプ~少年は竜を殺し、少女はシンデレラの夢を見る

2.善悪逆転の物語~勧善懲悪のヒーローが人類終末論にたどり着くまで

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3‐1.竜退治の彼岸~ガンダムからエヴァに至るロボットアニメの戦史

3‐2.竜退治の彼岸~ガンダムからエヴァに至るロボットアニメの戦史

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物語の物語3

4.変身ヒロインの系譜~魔法少女から『セーラームーン』の彼方へ

5.美少女カンブリア爆発~ラブコメからハーレム、そして女の子しかいない世界

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やっと、'18冬コミの同人誌をBOOTHにて販売開始しました。我らがLDさんの壮大な物語の物語。僕も海燕さんももちろん記事を寄稿しています。サークル、プロジェクト物語三昧改め?AzukiArai Academia(アズキアライアカデミア)で。ちなみに、海燕さん、ペトロニウス、LDさん、でこぽんまぎぃさんの4人のサークルです。HPのリニューアルとか、新しいYouTubeのアカウント設置とか、みんな忙しすぎて(みんないいとししたおっさんなので(笑))遅々としか進みませんが、まぁ僕らクンフーやめないので、着実に進むと思います。ぜひとも。前回は、僕のところでは、宣伝し忘れて、申し訳なかったです。1巻も増刷しましたので。


HPはまだあまりリニューアルできていないのですが、まぁ今年中には少しいじりたいなぁ。とか。なんでも、コツコツです。

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ちなみに、全講義9章を既にYouTubeでは公開しています。生の講義なので、本ほど読みやすく話ですが、続きがどうしても気になる!という人は、すべて公開されています。同人誌には、吉宗綱紀さん、津田彷徨さんなど、ロヒキアさん、レスター伯爵さんなど、様々な人に寄稿してもらっています。今後も、もっと充実させていくつもりです。読んでも聞いても面白いですが、広大なマップで戦後日本エンターテイメントを鳥瞰しているので、マップを見ながら、作品解説を見ながら本で読むほうが、理解しやすいと思います。次章以降は下記ですね。9章までを、あと1-2年くらいかけて本にしていくつもりです。

6‐1~3.セカイ系の台頭~エヴァとアンチエヴァ、ループ、悪を為す事

7.脱セカイ系としての日常系~『あずまんが大王』と無菌系、ふたたび竜退治へ

8-1~3.脱英雄譚~ガンダムのテーゼと“彼岸“のさらに先の物語

9.新世界系の登場~新たな竜退治へ


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ちなみに、僕らは、物語三昧ラジオ、今後は、小豆洗いじゃなかったアズキアライラジオに名前を変えますが、一月に一回のペースでさまざまな作品の文脈を話し合っています。もう10年近くやっている気が、、、(笑)、なので、実は、この公開講義の9章の以降の新しい文脈、次世代の物語など、様々なテーマが最前線で出てきています。まとまっていないので、聞きにくいと思いますが(笑)、でも、文脈わかると、めちゃくちゃ面白いですよ。その一環で、グリッドマンの作品分析も位置付けられるのです。ちなみに、LDさんは、最近凄まじいVtuberへの狂いっぷりで(笑)、昨年2018年のオフ会講演会での分析はすごかったなー。まぁその辺もだいぶラジオになっているので、見ていただけると面白いかもです。


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1巻読んでいない人は、いまなら在庫あります。予算限って、作っているので、これ売り切れたら、新しく今年2019の夏の時は作れないかもなぁと思うので、ほんとに欲しい人は、早めに買っておいてください。1巻は、こんな感じですね。


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物語の物語1-2

「心の問題をアダルトチルドレン的にセンシティヴに読み解いていく」時代の終わりとしての『SSSS.GRIDMAN』

p-shirokuma.hatenadiary.com

シロクマ (id:p_shirokuma)さんや海燕さんが反応してくださって、なんだか久しぶりに、はてな村的な楽しさを感じました。

ブログというメディアには利点が幾つもあるけれども、ひとまとりの意見が読めること、それとリンクを張ることで意見のネットワークみたいなものが作れるところだと思う。
 
今回、アニメをよく愛好してらっしゃるペトロニウスさんが『GRIDMAN』について面白いことをリンク先で書いていたので、重複をおそれず、自分の『GRIDMAN』観を書きとめたくなった。


『GRIDMAN』を平成オタの葬送として眺めた

こういうの、いつも思うのですが、いいよなぁ、と思うんですよね。ブログの良さ。ツイッターのコメント等は、「いいね」「だめだ!」の感情の好悪を、どちらにせよ捨てセリフ的に表現するのはできるのですが、それって、気持ち的な支持か不支持かということ以上の意味を感じないんですよね。というのは「どれだけちゃんと買いたいことを理解してくれているか?」とか「相手がどれだけ自分の頭で塊として意見を持っているか?」とか、コミュニケーションの濃密さが、ツイッターだとほとんどわからないし、要は捨て台詞の敷居が低くて、よかったか悪かったか?という感情の好悪以上の情報交換以上に発展しない感じがするんですよね。ツイッターは、あまり信用ならん(笑)。楽しいんだけどね。で、いつも、昔のはてな村的な雰囲気とかよかったなーと、おっさん回顧しちゃうんですよねぇ。


とはいえ、そもそもブログメディアの旬というか、アーリーアダプターが高い意識もってやる時期は過ぎたとおもうので、もう、こういう面白さ(ブログ同士で意見のネットワークがつながって、考察みたいのが深堀されていく感じ)はほとんどないよなーと思っています。なんというか、そういう時期は過ぎたのであって、もう戻ることは、よほど新しいテクノロジーとか出てこない限り、昔に戻ろうことはないよなぁと、おもっえいるので、懐かしむというか、「そういう良い時代もありました」ぐらいでいました。まぁ、僕は趣味で書いてて、それ以上は、蛇足というか余技というか、別に読んでもらう必要もないぐらいなので、あまり気にせず、コツコツ書き続けるてて(もう10年以上コンスタントに書いているし)、昔の方がよかったとは思いません。あまり、そういうコミュニケーションの楽しさに依存すると、続かなくなるので、僕はただただこつこつアウトプット出せること自体に喜びを見出そうと、おもってはいます。。。


とはいえ、時々、こういう共時的に、話がつながったり盛り上がったりすると、やっぱり楽しいなーとしみじみ思います。自分が、それにこたえるだけの余裕と時間があることが前提なんですけどね(笑)。というか、ちょっとびっくり。シロクマさんは、ずーーーーーーーーーーーと、それこそ、10年近く、さすがだなーと、横目でちらちらブログ面白いので見ていた方なので、まさか取り合えげてもらえるとは、驚いたんですよねー。めちゃめちゃうれしいですねー。あまり考えたことがなかったですが、同じ40代のアニメ好きに当たるんだなーと、いまさらながら、そうかー同士はいるんだなー(笑)、となんだかうれしくなってしまいました。40代になっても、僕もますます盛んになりこそすれ、めちゃアニメ見てますんで。しかも語っちゃうし(笑)。


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ちなみに、関連ないんですが、↑上の記事素晴らしかったー。



さて前回の記事は、ベジータ問題という言い方で、罪と罰の構造について話したんですが、実際には、僕自身のメインの感想は、「古臭さ」と「新しさ」の違いはどこにあるんだろう?というものでした。しかも、凄い同感なんですが、僕も、最終話の最後の10分は、爆笑とまでいかなかったですが、ニヤニヤ笑ってしまいました。というのは、これ『エヴァンゲリオン劇場版 まごころを君に』のアスカにキモイといわれたり、観客を映し出したりする、受け手の心の問題に対して切り込んでくる手法と同じだと思うのですが、当時、あんなに、心を揺さぶったテーマが、なんか、半笑いしちゃうような感じがして、、、ああ、受け手の受け取り方は、凄い変わったんだなーとしみじみしたんです。その問題がなくなったわけではないのですが、いまさらその話蒸し返しても、、、という意味の半笑いです。

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これには、「世代的にもうそんなものは受けてはいない」という世代的な受け手全般を語るポイントと、自分自身が40台になって大人になって責任ある立場になると、いちいちこんな心の問題みたいな、そんな暇あれば仕事しろよ(もしくは、遊べ!)という回答以外考慮しなくなった心のおっさん化というか磨滅化問題(笑)、と組み合わせであるとは思うんですが、にしても、既に「心の問題をアダルトチルドレン的にセンシティヴに読み解いていく」ことに対して、世代的(2019年の今の空気)と自分自身(40代のおっさんの自分)の両方ともに、古典的で、古臭い、と笑い飛ばしてしまう感受性があるんだなーと思ったんですよね。まさに、シロクマさんのタイトルは、素晴らしくそこを射抜いている。『GRIDMAN』を平成オタの葬送として眺めた、という。平成30年も今年で終わるのですが、その中心にあった感性が、既に終わりを告げているのだなーと、しみじみ思ったんです。エヴァンゲリオンの新劇場版の評価で、あのアダルトチルドレンのシンジ君が、心の問題ではなく、ちゃんと行為に足を踏み出しいかなきゃだめだというラインで再構成されている、とかつての僕は書きました。でも、だからといって、そのころでは、まだ、この古典的テーマを見て、苦笑したり、古すぎて、、、、というような感慨はなかったと思うんですよねぇ。でも、2019年の今は、はっきりと、あーこれは、古いなと思うんですよ。


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もちろん、そもそも論として、アニメーションや物語を見るときに、「スタイル」というか中身の皮の意匠を見るか?、それとも脚本の評価をするか(文脈を読むか?)という、「読み方・見方の違い」というのはあると思うんです。どっちが、正しい見方というわけでもないんですよね。文脈読みをしがちな、僕のようなおっさんは。いかにも文脈的な、少し引いて観るがかっこいいふうに語りますが、それはまったくちがいます。シロクマさんは、のど越しさわやかというような言い方をされていますが、キャラクターがかわいいから、雰囲気がきれいだから見たい、で十分なんだろうと思います。というか、そもそも、本来は、中高生向けのレンジの物語を、それでも40とか超えて見続けるというのですから、どうしても「見方にひねり」が入ってしまうのは致し方がない(笑)のであって、エンターテイメントの消費は、それが楽しいか楽しくないかで、もちろんいいんですよね。ただ、文脈を読むというような見方「も」あるよ、という感じ。



ここで語られている町山氏の映画評論的なものが「サブカル的な愛好家」の視聴スタイルであり、ここでいう「メッチャ作中だけが作品世界なのダみたいな若いころの純血主義」のほうが私のルーツに近いと感じる。


『GRIDMAN』を平成オタの葬送として眺めた


ここでシロクマさんやmatakimikaがおっしゃっている視点は、なるほどなーと思いました。僕は、こういう文脈読み、メタ的に眺める、作品同士の関連性を強くこだわる見方をする人なんですが・・・・同時に、作品単体に集中して、その世界を具体的にこだわって積み上げて評価する友人のLDさんやルイさんらの分析というか見方がとても尊敬するというか、かっこいいと思ってきたんですが、どっちの楽しみ方もできると、さらにおいしいよね、という感じなんですが、どちらにもよさと悪さがあるんですよね。メタ的に作品を外から眺めると、作品自体とは関係ないところに話が行ってしまいやすい。かといって個別具体論だけをテーマにすると、好きか嫌いとか解釈の幅が狭くなってしまったり、、、。どっちもできるような、人間になりたいと思う今日この頃です。


でも、こうした見方がハイブリッドに複雑に教育された消費者・受け手(要はお年寄り(笑)?)からすると、どうしても、いろいろ考えちゃう(笑)。その辺のモヤモヤを、いろいろ考察しながら、読み解けると、それはそれも面白いかなぁと思うのです。この作品の「座りの悪さ」は、やっぱり文脈で考えると古典的なテーマをやっているのに、しかしながら、テーマの消化としては、「心の問題」に対して、めちゃくちゃ後退しているし、本気で対峙していないんだと思うんですよね。いや、それが悪いというのではなくて、「そういうもの」について、全く重きを置いていない。なので、アカネちゃんの救済問題は、いや、全然救われてないし、なにがポイントで彼女の心の中の翻意(=現実に帰ろう!と突然言い出す)も丁寧に語られない。けど、それは、そもそも「このアニメーションのイシューではないので、考慮しません」とした潔さが、いやいや、最後観ててあっぱれって思ったんですよね(笑)。なので、テーマ読みする傾向のある僕としては、最悪点をつけてもいいはずなのに、凄い評価高く楽しめてしまった。こういうアニメが、2019年(平成30年)に、出てくるというのは、ああ、一時代が終わったんだなーとしみじみさせました。



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この辺の話も、とても面白かった。他の人の受け取り方がわかると、作品が一粒で二度おいしい感じになるので、いいですねー。ちなみに、海燕さんも長文記事を書いてくれたんですが、僕、アメリカに住んでいるので、ヘブンズフィール見る方法が限られてて、まだわからんですー。早く見たい、、、、。日本のアニメも時々上映があるんだけど、けっこう期間と場所が限定されちゃうんだよなー。ベジータ問題は、別にこの作品に限らず、物語類型としては、重要なものなので、今後も色々な評価で出てくると思いますので、コツコツ検討しましょうかー。僕も、つい最近LDさんに教えてもらって、おお、こういうのがあるかーと思ったものなので。


とはいえ、ひさびさに「みんなといっしょに考える」「つながる」お祭りみたいなものを感じて、楽しかったです。取り上げてくださったシロクマ (id:p_shirokuma)さんや海燕さんらに感謝を。


『SSSS.GRIDMAN』Japan 2018 雨宮哲監督 ベジータ問題(罪と罰の応報関係からみる物語構造)-モブをどれだけ殺しても、人がそれを許してしまうのはどうしてなのか?

SSSS.GRIDMAN 第1巻 [Blu-ray]


評価:★★★★4つ
(僕的主観:★★☆2つ半)


海燕さんのおすすめで、視聴終了。出来は、とてもいい。しかも、これは人気あったんじゃないかな、、、支持されるアニメだと思う。もともとのグリッドマンの設定を、ちゃんと強い意志のもとに統合して料理していて、ある特定のシナリオで料理しなおそうとしたこと、それをポップな方向でなし、実際に成功していることで、これは作品としての出来は素晴らしい。なので、★4。けど、僕としては、たぶん二度と見返さないな、と思うこと、それと、やはり究極的なところで脚本や主人公たちの動機の構造が主軸ではなく、デザインと雰囲気、空気感がスタイリッシュなことに主軸がある作品で、そういう作品は、あまり好きに離れないので、★2つと主観評価はとても低い。まだ言葉が足りないが、ある意味、アカネと六花がかわいいだけ(ではないんだけど、どうしてもそれが残ってしまう)の物語だよね、というのが視聴終了後の感触。でも、もともとの制作陣の意図は完全に成功していて、人に愛されると思うから、悪くはない、悪くはないのですよ、、、、、しかし、、、、

1月の物語三昧(アズキアライアカデミア)ラジオで、詳しく解説しています。今回は、作品単体に集中して、分析できたし、幅広く様々なものに接続できたので、いいラジオでした。僕は約二日間で12話ワンクールを見たんですが、正直、なんというか、最後まで見れたんで、面白かったんだけど、何が面白かったのか、、、それの割には「だけど…」という風に留保というか、まぁもう一度見稼ことはないな的なマイナスもつきまとっていて、どう評価していいかが言葉になっていなかったんですよね。それが、おしえて!LD教授!の質問をしたところ、ドラえもんの四次元ポケット張りに、見事な答えが帰ってきたので、せっかくなので、まとめておきます。ちなみに、いつも書きますが、ネタバレです。


グリッドマンの解説に置けるキーワードというか視点は、二つ。一つは、


(1)新条 アカネちゃんが男だったら誰も救いたいとは思わないだろう、お前ら?問題-結局、人は、物語はかわいいが正義なのか?


(2)ベジータ問題(罪と罰の応報関係からみる物語構造)-モブをどれだけ殺しても、人はそれを許してしまうのはどうしてなのか?


の2つで、この作品を読み解くと、この作品の全体の構造がどうリデザインされているかがわかるという話でした。いやはや、ラジオを聞けばわかるんですが、LDさんは、全くこの作品を見ていないで、ツイッターの情報とかだけなんですよ、、、、それ何にこの見事な分析とか、どういう頭の構造をしているんだろう、とほんと、震撼します。では、メモ的に始めてみます。


そもそも、僕がこのアニメを、あまり自分お好みではないのに見ようと思ったのは、Twitterで新条アカネと宝多六花が、よくイラストでかかれていて、キャラクターがとても愛されている感じがしたんですよね。けれど、どうも脚本構造自体は、ほとんどの人がわかっていない???な感じで、最終話に至っては、とても意味不明で「さっぱりわからなかった」という感じなんですね、ネット民の皆さんの感覚が。要は、脚本が意味不明、と。普通はこの感じだと、ネットやツイッターで、アンチというか批判がいっぱい出る流れなんですが、あんまりみないんですよね。「でも」、尊いじゃないですか、アカネちゃんと六花は、というふうにみんな好意的。これがなぜか知りたかったんですよね。たしかに、アカネちゃんのキャラクターは、とても現代的で、「今っぽくて」かわいいので、愛されるのはわかるけど、なんか、脚本がダメであってさえも、それでも尊い的なこの、ギャップが僕にはよくわからなくて、、、、。で、海燕さんが進めていたこともあって、見てみようと。予算策定の忙しくて追い詰められているのに、思わず。夜の3時まで。。。期末の前に銀英伝を一気読みしてしまう中学生的なノリで。


そしてみてみると、古典的な脚本で、「夢オチ」というか「内面世界に閉じ込められたところからの脱出劇」のセカイ系で一世を風靡した典型的なものでまとめられていて、正直2019年のいまでは、一つ前の流行で、今更それをやるのか、という感じだったんですよね00年代ぐらいの10年のはやりですね。力技でまとめているので、古典的な脚本なので、意味は分かるけど、、、まぁリアルタイムで見ている中高生では、ほとんどわからないかもなぁ、と思ったんです。『灰羽同盟』とか押井守さんの『天使の卵』『うる星やつら ビューティフルドリーマー2』、村上春樹の『1Q84』とかのやつですね。。この系統は、時代感覚がずれていると、説明がとても必要で、もちろん過去の作品を大量に見ている、それなりの年齢のオタクというかアニメファンには、細かい説明しなくても、わかるでしょうが、それは物語としてはあまりに不親切で、積み上げが丁寧ではないと思う。

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1Q84 BOOK1〈4月‐6月〉前編 (新潮文庫)


なので脚本も、古臭いし、シンプルに描いてはいるけど、これ単体で分かるほどうまく表現でいていないし、、、要は出来が良くないように思えるんですよね。けれども、たしかに、新条アカネと宝多六花を見ても、尊いというのはわかるんですよ。とても現代的に洗練されていて、ポップな感じで、、、いい出来だ、という感じがしています。なんでだろう?というのが僕の疑問は、深まるばかりでした。されにこの大きな疑問に接続されて前話見た後の質問というか疑問は、アカネが、いきなりグリッドマンの「何とかビーム!」を浴びたら、自分の過ちを自覚して、現実に戻ろう!と12話の最後でいきなりなるんですが、この理由が、全然納得いかなかったんです。



教えて!LD教授!!!



LDさんにの解説するところでは、これは1993年の円谷プロの『電光超人グリッドマン』の構造を、どうリデザインしているかという差異の視点で見ると、よく理解できるとのことなんです。


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この作品の新条アカネ/アレクシス・ケリヴのポジションは、藤堂武史/魔王カーンデジファーにあたります。ここで、大きな違いは何かというと、アカネちゃんが、かわいい女の子になっていることです。ようは、藤堂武史は、自己中心的なコンピューターおたくの男で、なんですが、この場合、同じことを、男がしたら、みんな許さないでしょう?、と。でも、かわいい存在だとみんな許せちゃう。このアニメーションの肝は、アカネちゃんを、かわいい女の子にして、「みんなが救いたい!」と思わせたところに、そのポイントがある。そして、それが成功している限り、TRIGGERの企画意図は成功している、というんです。



しかし、このかわいい存在ならみんな救いたいでしょう?許せるでしょう?といったときには、罪と罰の問題が生まれるんです。これを、ベジータ問題と、LDさんは呼んでいます。用語解説(僕の理解なので、LDさんの理解とはずれるかもですが)にですが、ベジータ問題というのは、ドラゴンボールの続編の超(こんなのるんです!知らなかった。息子が盛り上がっていて、初めて知りました)では、フリーザとか何となく仲間っぽく味方になっているんですよ。でも、これ、常に物語の構造的に、問題点が生まれちゃう話なんです。だって、フリーザ、あんなに大殺戮をして、罪もない人を殺しまくったのに、味方になったら、それは許されるの?という話。


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そんなに「人を殺しまくった敵」を味方になったからと言って、許せるんだろうか?問題(笑)。


つまりね、ベジータとか、かつての敵だった奴が、味方になったからと言って、過去に行った殺戮など、許しがたい罪が生産されるかどうか?ということなんですよ。グリッドマンでいえば、アカネちゃんは、明らかに殺人を犯しているわけです。大きく脚本としては、2つのポイントを明確に作っているくらい。一つは、気に食わないからと、存在を抹消してしまった友人(というか知り合い)。もう一つは、実際に、主人公の響裕太くんを、こっちは物理的に刺していますよね。裕太は殺すことはできなかったですが、これは明らかな殺人未遂ですよね。


これ、許されるの?ということです。


物語の中で、ドラマトゥルギーとして、アカネちゃんには、あきらかに、自分が作った世界の中であるとはいえ、「他者を殺害して、その存在を踏みにじっている」これを、許していいの?という問いです。この問題が内在的に、彼女のこういうに付きまとっているのは、脚本が、明らかに物理的に裕太を刺すシーンを作っていることから、間違いないと僕は感じます。



で、ベジータ問題というのは、何を指すかというと、明らかにみんな(受けても、中の登場人物たちも)許しちゃっているね!ということです。



つまり、大量殺戮や殺人が、簡単に許されちゃっている。。。。。これ、「味方になったら許される」というロジックだけではなくて、モブ(=物語の作中で、積み上げがない記号としてのわき役)を何人殺そうが、受けても登場人物も、ほとんど問題ないということなんです。いや、確かに、よくよく考えると、これ、すげぇおかしな話じゃない。論理的にも、倫理的にも、これって、、、、、。でも物語的には、これは事実。


ちなみに、海燕さんの指摘で、このアカネちゃんの他者の殺害の罪を無効化する手法の一つとして、この世界が彼女の内的世界であるという「箱庭世界」的に描写することで、これは現実ではないんだ、と読者に印象付けることによって、罪を無力化するという手法もあるのではないか、という指摘がありました。これは、テクニカル的には、僕もそう思ったので、なるほど、と思いました。罪を薄めるのには役に立つ。でも、、、、内的世界でも、その世界が存在したら、それはもう他者だと思うんですよね。それを、ずたずたに破壊していることが、罪ではないとは思えない。なので、これは、なんというかドラマトゥルギーの展開のパターンとしては、もともとの問題設定(罪と罰)に、正しく呼応して答えていない。箱庭世界は、現実ではないから、人間じゃないので、殺しまくってもいいです、は答えになっていない。人間とは何か?、その人にとっての他者とは何か?という議論を招きますが、でも、アカネちゃんの他者破壊の罪が消えるわけではない。もちろん、箱庭世界とは、すなわち、セラピー、、、、ここではアカネちゃんの精神を救うためだけの目的に設定された世界なので、そのために彼女が、トライ&エラーをするのは、いいじゃないかという考え方もあります。これは、物語自体が、何を目指しているかによって評価が変わってしまうでしょうね。


とはいえ、個別の枝葉ではなく、本論に戻りましょう。ベジータ問題。許されない罪を犯した奴が、味方になったからとか、改心したからと言って、許されるのか?という物語内在のロジック。



これにはっきりと答えた大傑作があります。



これを最もうまく作った作品で思いつくのは、神戸守監督の『エルフェンリート』(2004)です。この作品は、この物語類型を語るときの頂点に立つ見事な物語なので、これから何度も指摘すると思いますので、ぜひとも見ていただけると。これ、本当に素晴らしい作品ですよ。以下、当時の記事で、僕は下記のように書いています。

■人間を人間としてみないこと、そして人を愛することが同時に存在すれば・・・・

物語が始まると、第一話から、人類を殺戮するために生まれた主であるディクロニウスであるルーシィがガンガン人を殺しまくるんですが、そのシーンを見た瞬間に、この物語は「罪と許し」の物語なんだな、と思いました。この「エル・グレコのイエスの手」は、罪が犯される時、ということを指示す有名な象徴ですよね。この作品は、基本的にすべてこの「読み」に沿って解釈するといい作品だと思うんですよね。つまり、人類を殺すために生まれてきた主であるディクロニウスのルーシーには、その種としての本能を持つと同時に、その本能を正当化してしまうような人間の内面の汚さや残酷な差別意識を幼少時に経験するんですよね・・・またその後の人体実験動物としての過酷な生活は、人類を滅ぼす動機を正当化してしまう。けれども同時に、ルーシーは、人の子として生まれて、人を愛したり友達に出会ったりしてしまうんですね・・・。そうすると、彼女は、自分が殺すべきただの「モノ」として人間をみなすのか、それとも自分と同族の共感の対象としてみなすのか、という部分で揺れてしまうんです。そして、彼女が、人間を、いやもう少し狭く言えば、コウタという一人の男の子を好きになってしまえば、彼に受け入れてもらう必要が出てきてしまうんですよ。けど、彼女自身は、凄まじい人間を殺戮し続けており、そしてその中にはコウタの家族も入っているんですよね・・・コウタが彼女を許し受け入れた時が、ルーシーにとっては実は最も過酷で苦しい時なんです。なぜならば、罪が許されるということは、これまでのすべての罪が罪だということで確定してしまい、コウタが許してくれたとしても、彼女自身が、その罪を許せなくなるからです。


言っている意味が分かるでしょうか?
(僕は、文章が冗長で誤字脱字が多すぎる上に、日本語ヘンなので(笑))


この作品は、最初の初手、数分(笑)で、もう既にルーシーが救われること、救済されることは「できない」と構造化しちゃっているんですよね。個人として、人を殺すこと、人間をモノとしてとらえるということは、そういうことを意味します。この手の作品の基本路線は、すべてこうです。つまりは、許されざる罪を抱える時、人はどうあるべきか?というといです。まぁ非常にキリスト教の現在的な発想と親和がある考え方だなーと思うのです。人類の抹殺やハルマゲドン的なものは、どうしてもこの罪と赦しの構造をとりやすいのでしょう。


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これは何を言っているかというと、救済はされない、犯した罪のレベルが激しすぎて、救済しようがなくなった構造(=現実)において、最もつらいことは、本人が罪を罪だと認識することだ、といっているのです。


ちなみに、どうしても許されない存在を、許すか許さないか?のキワで揺れ続けた作品で、結局許しちゃうという構造の力学が読み取れる作品で、LDさんは、下記の作品をあげています。



特攻天女 1 (少年チャンピオン・コミックス)





さて、さらにもう一つ前の問題的に戻りましょう。



アカネちゃんは、許されるのですか?と僕が思って、ということです。これ、彼女が、許されるという構造には僕はないと思う。「しかしながら」、自分も含めて、彼女を許して、救いたいと思っている。


なぜか?


答えは、かわいいから。


そのように、脚本は設定されていると僕は思う。


新条 アカネちゃんが男だったら誰も救いたいとは思わないだろう、お前ら?という話です(笑)。というのは再度最初の、LDさんの指摘に戻れば、アカネちゃんは、『電光超人グリッドマン』の藤堂武史/魔王カーンデジファーに当たるんじゃないかな、と考えると、


なぜ、わざわざ、かわいい女の子にキャラクターを変換したの?という意図を考えちゃいますよね。


さて、結論です。僕は、あまり好きになれなかったし、主観評価も低い。けど、このアニメーションは、見事な出来だと評価できると思う。それは、『電光超人グリッドマン』というかこの作品を、アニメーションで作り直すときに、過去の脚本の本質を、どのように料理するか?作り手が吟味して、上記の構造で、人々に支持されるように作り直すという明確な意図をもって作っていて、それが成功しているからだ。もちろん、文学的に、罪と罰の問題、ベジータ問題という「視点で評価」するならば中途半端な作品かもしれないし、僕自身、そこが突き抜けていて、本質に応えていないので、もう一度見る気はない。あまり好きとは言えない。でも、それは、「その視点」からの評価だけにすぎない。そして、『電光超人グリッドマン』の藤堂武史が行った罪のドラマツゥルギーを、内面世界からの脱出を、いいかえれば心のセラピーをめぐる話にして、その場合には、確実に、むさい男だと視聴者に愛されない(笑)ので、愛されるようにキャラクターに魂を吹き込んだこと、、、その魂が、僕が言う形の罪と罰の本質に応えていないとしても、十分に受け手の人に愛されて「救いたい」という気持ちを喚起させた、という点で、この脚本は、完成している。なので、ツイッターで、僕は何となく好意的で、かつたくさんの立花やアカネの尊い絵が描かれていたんだろうと思うのです。


これで、最初に、直感的に僕が思った、なんで、ツイッターに、意味が分からないというのに、好意的な絵がたくさん上がるのだろう?。視聴後が面白かったけれども、何となく釈然としないで、もう一度見る気は起きないのに、アカネちゃんと六花はかわいいなとか素直に思ったのはなぜだろうという、ばらばらで抽象的な疑問に、すべて応えられていると思う。すげぇ、LDさん。


もう少し細かい解説は、ラジオでやっていますので、そちらでー。



物語三昧ラジオ




10.6(土)~スタート!新番組『SSSS.GRIDMAN』放送直前PV!

いま全米で、こんまり(近藤麻理恵)のネットフリックスのリアリティーショーが熱い!

www.youtube.com

最近、めちゃ周りでアメリカ人が話題にしてて、Twitterとかでも日本語でも、全米でガチ大人気だってことが知れ渡ってきたので、見たら、こりゃー面白い!と感心したので、紹介を。まだ全エピソード見れていないのだけれども、ファーストインプレッションが凄い良かったので、まずは紹介を。めちゃくちゃトレンドだと思うので。ちなみに、かなり部分日本語で話してるし(通訳がついてる)、なんというか、日本人的な振る舞いだなーと思うのですが、それがそのまま、アメリカ人がすぐ涙ぐむように溶け込んで、、、これ、たぶん日本人のイメージを、信じられないレベルで上げてると思うよ。時々つぶやいている日本語が字幕に出ても、めっちゃポジティヴで、印象がめちゃくちゃよい。ときめくという翻訳が、Spark Joyって、、、、考えた人天才だと思う。素晴らしいマーケティング、、、というか、これはそういうのじゃないな、本当に意味がよくわかっている言語センス。アメリカのみならず、世界的に評価されて広がりつつあるので(英語の検索数が凄まじい)、これは、追って損はなしと思う。だけでなく、、、、ぼくも、断捨離、物を捨てるのは、とても人生をポジティヴにするなーとしみじみ最近思っていたので、超おすすめです。ネットフリックスの番組作成力の凄さを見た感じです。






finders.me


www.nbcnews.com


news.yahoo.co.jp


人生がときめく片づけの魔法

アメリカのリベラルが嫌われつつあるのはなぜか? ウォーク・アウェイ運動について

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リベラルと民主党から立ち去ろう!――ブランドン・ストラカ

BRANDON STRAKAさんのWalk Away運動の、このYouTubeの映像は、今のアメリカの政治状況を読み解くのに、非常に有用だと思いました。

多様なメッセージを含んでいて、アメリカの民主党批判なのか、左翼自体の批判なのか、それともリベラル批判なのか、はっきりしないぐらい広い範囲をカバーしているんですが、逆に言うと、そのすべてをカバーしている。アメリカ的な文脈でいえば、リベラルとは、フランクリン・ルーズヴェルト大統領のニューディール政策以来の連邦政府大きな政府として機能していく流れなのですが、これに対するアメリカ社会の広範な嫌悪感が、よく表れていると思いました。民主党が、バーニー・サンダースさん的な極左に偏りつつある現在、アメリカの中産階級を軸とする広い範囲の嫌悪を呼びこして、それが結局のところ共和党に利する方向になり、トランプ大統領の勝利と支持に結びついている構造をよくよく示している。民主党が、アイティティ・ポリティクスを継続して、極左が主導する限り、なかなかこの政治構造は変わらないでしょう。そう考えると、前回の中間選挙で上院も共和党で支配したし、次回の大統領選挙も、トランプさんが勝つ可能性は高いなぁ、と感じます。テレビを見ていると、ありえないくらい嫌われてて、批判されているので、不思議な感じがするんですが。民主党側の自滅なんですよね。極左、リベラルのアイティティ・ポリティクスが前面に出る限り、構造が変わらない。

Once upon a time I was a liberal. But liberalism has changed. And I will no longer be a part of an ideology or political party that represents everything that contradicts my values of unity, equal opportunity, personal empowerment, compassion, and love.

So I am walking away.

And I encourage all of you to do the same.

Walk away.

昔々、私はリベラルだった。しかし、リベラル主義は変容した。私は、調和、平等な機会、向上心、思いやり、愛といった私の価値と矛盾するすべてを代表するイデオロギーや政党の一部であることをやめた。私は立ち去る。そして、すべての皆さんに私と同じ行動を取るように勧めたい。立ち去ろう。


http://www.ruthfullyyours.com/2018/07/12/transcript-brandon-straka-walk-away/

私がかつて愛した民主党は、票の獲得と権力維持のために極左と手を結んだ。民主党とリベラルメディアは、不正に生み出した結論を信じ込み、気味の悪いことに彼らだけが社会の悪を退治する方法を知っているのだと決め込んた。左翼は、人種差別を強めることで、米国の人種関連の問題を解決すると決めた。

左翼は、あるグループを攻撃し、侮辱し、非人間的に扱うことで、他のグループの地位を向上させることができると信じている。左翼は、ニュースを伝える際、目的が手段を正当化するのだから、嘘をつき、真実を省略し、事実を歪めることは無限に許されると信じている。

左翼は、認められるべき観点は彼らの観点のみであり、開かれた議論を抑圧/検閲/禁止することは美徳で進歩的だと決めてしまった。民主党は、アイデンティティに基づき人々をグループ化した上で「犠牲者」と「抑圧者」に分けるという有害な思考体系を、なんの疑念もなく喜び勇んで採用した。


togetter.com

僕は、民主党の新世代の一人として、Alexandria Ocasio-Cortezさんを紹介したんですが、この人は、まさにここで言われている民主党極左(the extremist left)にあたる人ですね。極左の台頭のシンボルが、2016年の大統領選挙におけるBernard "Bernie" Sanders(バーモント州選出のアメリカ合衆国上院議員)の登場ですね。二人とも、同じ民主社会主義者を公言しています。ヒラリー・クリントンさんが、まさか負けるわけはないだろうといわれていたのに、トランプさんに負けたのは、予備選挙バーニー・サンダースさんに勝つために、彼の政治意見を取り入れて、中道左派の位置づけから、かなり極左の方に依らなければいけなかったことが、敗因の大きな理由ではないかと僕は思っています。リベラリズムには常に、「どこで線を引くか」という問題があって、その線は恣意的なものなので、そこを告発されると偽善にしか見えなくなってしまう。この偽善者的な部分と、中道でどっちにもよらないという部分が、相乗効果で民主党内に亀裂を増やし、かつトランプさんが取り込んだ普通の中産階級、、、極左やリベラルのアイデンティティ-ポリテクスに飽き飽きしている人々にそっぽを向かせたのではないかと思います。なので、2018年の中間選挙で下院での女性やマイノリティの議員がたくさん誕生したことは、逆を言うと、アイデンティティ・ポリテクスを加速させて、かつ極左民主党がふれるので、ますますトランプさんに負けた構造が強化される可能性が高いと僕は思うのです。このままでいけば、極左の新しい新世代に次回の大統領候補が選ばれる可能性は高く、それは、民主党内では、民主党内部での方向性はまとまるかもしれませんが、そもそも民主党の中道寄りの人々が離れるのが加速してしまう可能性が高い。


courrier.jp


www.youtube.com


synodos.jp

第三に、アイデンティティ・ポリティクスを重視する論者の暴力性が、ときおり指摘される。アイデンティティ・ポリティクスの提唱者やリベラル派は、集団の尊厳や人権など、それ自体としては誰も否定しない価値を掲げ、異論を認めず敵対者を非難・攻撃する人と見なされることがある。

その非難・攻撃というスタイルはじつは暴力的だが、その暴力性に無自覚な人も多い。仮にその暴力性を認識していたとしても、自らは弱者の味方で、正しい規範に依拠していると考えているため、その暴力性を正当化する人もいる。そして、自らに対する批判をリベラルな規範の否定と捉え、糾弾者をさらに批判する。その際には、批判者の発言内容だけではなく、人格や動機も含めた批判がなされることもある。

このような状態は、自らの奉じる価値や規範は絶対視するものの、他者に対する敬意を欠くものと見なされ、非難されている人にはダブルスタンダートに映る。それがリベラルに対する敵意を生み出す要因になっている。

このような背景の下、今日のウォーク・アウェイ運動は発生している。

この部分を見ていて、日本のTwitterでよく起きるトラブルをとても思い出しました。一つは、人権などの本来、リベラリズム的な理想を語る側の方が、信じられない罵りや決めつけをまき散らすので、さすがにそれはどうかなと誰かが反論すると、その人を悪魔化して、正しさの敵だというような攻撃をする。攻撃している人は、自らの正義を信じているかもしれないけれども、こうした態度が、実際には、それを目撃している人の嫌悪呼び起こしていて、意図とは反対のことを引き起こす。戦略的にもとても結果に結びつかないし、同時に保守や右翼側にとても有利な状況を導いてしまう。「良き意図」が必ずしも「良き振る舞い」「マクロ的な良い結果」に結び付かないという好例だと思う。個人的には、「良き意図」というのは、マクロ的にはたいてい、最悪の事態を招くケースが多い気がする。悲しいことだけれども。目の前のことしか見えていないものに、社会は良く変えられない。塩野七生さんの下記の言葉は至言だと思う。


「善意のみで突っ走った人よりも、悪賢く立ちまわった人物のほうが、結局は人間世界にとって良い結果をもたらしたという例は枚挙にいとまがありません」


petronius.hatenablog.com




二年前にトランプが共和党の候補に決まりつつあったころから、民主党支持でありながらヒラリーやバーニーに投票せずにトランプを支持するようになったリベラル達が増えた。以前にも拙ブログにおいて民主党は本当の意味でのリベラル思想からかけ離れてしまったと言って保守派に転向したデイブ・ルービンの話しや、チャドウィック・ムーアの話しで紹介したことがある。

私が今の左翼や民主党支持者を左翼リベラルとか革新派リベラルと言わずに「後退派左翼」と呼ぶようになったのは、今の左翼はおよそリバティー(自由)にも革新にも全く興味がない独裁主義だからである。

現在の左翼たちは徒党を組んで覆面して保守派の講演会を暴力で阻止する。自分と違う意見は徹底的に弾圧する。左翼思想に従わないものは道端で出くわしても、レストランでも、小売店の店先でも大声で罵ったり暴力をふるったりする。これが差別反対とか少数派の人権擁護とか言ってた奴らのすることか?




リベラルが民主党を見放す時、ウォークアウェイ運動に同調するリベラル達 – Scarecrow in the Strawberry Field


この人の「後退派左翼」という表現は、言いえて妙だと思う。大学の授業で、平等には二つあるってのをならったのを思い出す。「結果の平等」と「機会の平等」どっちも大事だけど、あえてどっちらが大事かといえば、もちろん個々の状況で違うのだろうけれども、やはり「機会の平等」なんだろうと思う。公正さ、フェアネスが最後のよりどころにならざるを得ないし、このバランスが失われてどちらかによっては、だめなんだろうと思う。このバランスの力点は、再配分するリソースは限られていて、パイ自体を大きくしないと再分配は機能しなくなることや、結果の平等を求めるとき、何を基準に再分配するかは、都度常に恣意的にならざるを得ないという限界点を認識しながらするかってことなんだろうと思う。この辺の、簡単な答えはなくて、状況によって正しさなんかいくらでも変わりうる恣意さを念頭にしながら、バランスを求める意識がないと、結局最悪の結果しか招かないし、何のかんのいっても、必ず歴史単位でブバックラッシュを招いてしまう。のだなぁ。。。と思う今日この頃。

FULL TRANSCRIPT OF BRANDON STRAKA’S VIDEO

Once upon a time, I was a liberal.

Well, to be honest, less than a year ago, I was still a liberal.

I became a liberal because I felt I’d found a tribe whose values aligned with my own.

I staunchly reject racism of any kind, I reject the marginalization of any human being based off of their gender or sexual orientation. I reject tyrannical group think, I reject a system which allows an ambitious, misinformed, and dogmatic mob to suppress free speech, create false narratives, and apathetically steamroll over the truth.

I reject the acceptance of junk science and superstition to advance ideological agendas.

I reject hate.

These are the reasons why I became a liberal and these are the same reasons why I am now walking away.

For years now, I have watched as the left has devolved into intolerant, inflexible, illogical, hateful, misguided, ill-informed, un-American, hypocritical, menacing, callous, ignorant, narrow-minded, and at times, blatantly fascistic behavior and rhetoric.

Liberalism has been co-opted and absorbed by the very characteristics it claims to fight against. For years now, I’ve watched as people on the left have become anesthetized to their own prejudices and bigotry and the prejudices and bigotry of those around them who echo their values. I have watched these formerly-sensible people, who claim to reject racism, have come to embrace the principles of universally hating and blaming all of society’s problems on all people who have white skin. I have witnessed the irony of advocacy for gender equality morph into blatant hatred and intolerance of men and masculinity. I have seen the once-earnest fight for equality for the LGBT community mutate into an illogical demonization of heteronormativity and the push to vilify and attack our conventional concepts of gender.

These same self-proclaimed victims of intolerance [are] now turning on the gay community that they once attached themselves to advance their agenda, [are] now calling gay people ‘privileged’ and themselves ‘victims’ of injustice. I have watched as the left has allowed themselves to become hypnotized by false narratives and conclusions, perpetuated by social justice warriors who misrepresent and misconstrue facts and evidence and events to confirm their own biases that everyone who does not comply with their prejudicial conclusions and follow their orders is a racist, a bigot, a Nazi, a white supremacist, homophobic, Islamophobic, xenophobic, misogynist, and alt-right extremist. And I’ve watched as they’ve used these heartless and carelessly-assigned labels to intimidate, threaten, bully, silence, attack, un-employ, blacklist, and destroy anybody who dares to fight back.

They’ll come for me and then they’ll come for you.

And worst of all, the Democratic Party and the liberal media has embraced, affirmed, aided, and abetted this cult ideology. In an effort to gain voters and maintain power, the Democratic Party that I once loved has joined forces with the extremist left. The Democratic Party and the liberal media now believe their own ill-gotten conclusions and have ominously decided that they –and only they – know the remedy for society’s ills.

The Left has decided that the solution to problems with race relations in America is more racism. The Left believes that attacking, insulting, and dehumanizing one group of people elevates another. The Left now believes that there are no boundaries when telling lies, omitting the truth, or misrepresenting the facts when telling the news because their end justifies their means. The Left has now decided that its point of view is the only acceptable one and that suppressing, censoring, and banning open debate is virtuous and progressive. The Democratic Party has adopted a deleterious belief system, happily and without skepticism, separating people into groups based off of identity and then organizing them into camps of ‘victims’ and ‘oppressors.’

If you are a person of color, an LGBT person, a woman, or an American immigrant, the Democratic Party wants you to know that you are a victim and destined to stay that way. They will insist that you are a victim doomed to exist within a system that is rigged against you, that you are a victim of systemic oppression, that you are a victim of your circumstances, and that no amount of hard work or motivational action will ever allow you to overcome your victimhood or the privilege of those around you.

This is perhaps the Democratic Party’s greatest and most insidious lie.

But if you are a minority in America today, the left-wing politicians and the liberal media don’t ever want you to ever discover this lie. So they bombard us with stories designed to reinforce this narrative that you are in danger, that you cannot succeed. They manipulate your fears and concerns by telling you that you are disadvantaged, disempowered, and disposable to everyone – except to them. They will tell you that you need them. They will tell you that you are only safe under their supervision. They will promise to liberate you from all that chains you.

And then, they will do absolutely nothing for you.

Once upon a time I was a liberal. But liberalism has changed. And I will no longer be a part of an ideology or political party that represents everything that contradicts my values of unity, equal opportunity, personal empowerment, compassion, and love.

So I am walking away.

And I encourage all of you to do the same.

Walk away.

『revisions リヴィジョンズ』 1-3話 谷口 悟朗監督 主人公の堂嶋大介くんが、『鉄のラインバレル』の早瀬 浩一くんを思い出して、その醜悪さに見てるのがつらい・・・

revisions リヴィジョンズ 1 (ハヤカワ文庫JA)


見はじめた。谷口悟朗さんのということで。何の情報もなく見ているけれども、谷口監督のは見なきゃ!と思い。ちなみにアニメーションのつくり方が実験的なのか、なんか動きが変で、ちょっと見にくい。モーションキャプチャー的な動き?。たぶん、監督が実験かなんかして、新しい方法を試しているのではないかなーと思う。まぁ、ちょっと見にくいけど、手法的にチャレンジができるのは、谷口監督レベルの人でないと、なかなかできないと思うので、これは頑張ってほしいです。


ネットフリックスで見ているので、現在第4話。主人公が、全然感情移入できないで醜悪、、、とまではいわないが、相当「おれおれかまってくん」「思い込みで現実が見えなくなっている」人なので見るのがしんどい。。。。SFとして、めちゃくちゃ面白いので、これがつらい・・・・。確かに中毒的に、先が見たくなる面白さなんだけど、主人公が超絶感情移入できなくて、つらすぎる。。。。


というのは、僕は、「俺が特別だ!」という動機、思いが、反吐を吐くほど嫌いみたいで、『鉄のラインバレル』のアニメをすごく思い出させる。この全能感が、そのまま充足される形で断念がないならば、物語としては、僕が一番許せない類型で、これを谷口監督がどう料理していくのかは、とてもとても見ごたえがある。というか、、、まさか、またラインバレルみたいなことはないよねぇ。。。と、ドキドキする。この後、この醜悪な思い込みの全能感が、断念・・・・叩き潰されて、痛切に自分の独りよがりに気づくという「ひっくり返し」を物語にセットできないと、個人的には、どんな素晴らしくても、醜悪としか言えないんで、、既に3話見てもこのにおいが消えないのは、、、、ちょっとやばいんじゃないか、、、と、あまりに主人公に感情移入できなくて。反逆のルルーシュで、谷口監督が、全能感についてたくさんインタヴューを受けていたのですが、僕はこれがよくわからなかった。もちろんたしかに、主人公のルルーシュの「ナナリー優先具合」は、特に第一期の終わりにとても感情的に納得しにくい決断をさせたので、ああ、ルルーシュというのは、相当こじらせて歪んでいるのだな、というのはLDさんともたくさん議論して分かったのですが、、、、それでも、少なくとも僕には、ルルーシュの独りよがりで「ナナリーを助ける」という思い込みは、ナルシシズムになっているとはいえ、愛せたんですよね。だって、彼の子供時代の親に捨てられた過去の積み上げ、ナナリーがトラウマで目が見えなくなっていることなど、彼がかしくなるには、十分な「積み上げ」があって、納得はできなくとも、でも主人公が基本ラインで愛せたし、感情移入できた。だから、谷口監督がインタヴューで強調するほど、全能感のいやらしさは出てなかったと感じたんです。でもねぇ、、、『revisions リヴィジョンズ』の堂島君は、明らかに、だめだ。共感できるポイントがねぇ。

コードギアス 反逆のルルーシュ volume01 [Blu-ray]

具体的に描写しておくと、堂嶋大介という男の子が、小学生時に誘拐され殺されかけるが、ミロと名乗る女性に助けられて、その時に、「将来、大きな危機が起きるので、その時に仲間を守れるのは、お前の力だけだ!、お前だけだ!」みたいなことを言われるんですね。それ以来、ずっとそれを、信じている。けど、ちょっと、というか信じられないほど、独りよがりに妄想的に、それを信じているんですね。なんというか、こういう「自分が信じている妄想」が、「実際に実現する」という全能感、しかも自分がヒーローという形で、不遇な自分がみんなに認められるというドラマトゥルギーは、万人に愛される物語ではあるんですが、とても注意しなければならないのですが、1)それが、現実からはちょっとありえないという不信感や疑念が本人にまったくないと、だめなんですね。でないと、凄く醜悪になってしまう。というのは、その疑念がないと、2)「みんなを守る」という目的が大事なのか、そうではなくて「自分の妄想が受け入れられて自分が認められる」というエゴイズムが満足されるのが目的か、どっちかわからなくなるからなんですね。なので、見ていればわかるのですが、屋上で生徒が何人も殺されているのに、おれが救った!!!とか、なんでみんなもっと認めないのか?という風に周りにイラつくんですね。これ、見てて、明らかに目的が、自分が「認められること」の、オレオレかまってくんなんですよ。見てて吐き気がした。。。

・・・マクロの設定はともかく、主人公の早瀬君の、醜悪なルサンチマンには、もう見ている最初から反吐が出る。耐えがたい。演出上のものであるとしても、あまりに醜悪で、正直、物語として見るとしても個人的には、我慢が出来ないレベルなので、この後の展開がかなり良くても、駄目だなぁ。まぁ何もできない少年が、いきなり「力」を手に入れて人類を守るヒーローになるというのは、物語の基本類型みたいなもので、これも落ちモノのパターンなんだけれども、それを差し引いても、ちょっと耐えがたい言動だ。たとえ、そういったルサンチマンが激しくても、それでも、好きな女の子を守りたかったとか、何らかのいい点があると、主人公に感情移入できるんだが・・・彼の場合は、基本的に「自分」のみで、うざい。

僕は、たぶん主人公の動機をめぐる評価をしがちな分析をするので、動機があまりにひどいと、許せなくなってしまう傾向があるみたい。もちろん、「そういった視点」だけで評価するべきではないのでしょうが、感情的に、いらいらしていまう(笑)。ここは、僕の主観的に「許せないポイント」みたいなんですよねぇ。主人公の5人の一人、堂嶋大介くんですが・・・いやはや、ほんとに、いらいらする見てて。SF的に、凄い面白いし物語もさすがなので、見れているんですが・・・・・もし、これで、そのまま堂嶋大介が、必要不可欠で、周りに受け入れられていくドラマトゥルギーになったら、許せないなぁ。。。周りの人間は、非常に迷惑に感じていて、イライラしている積み上げをしているので、そうではなく、何か、この「独りよがりの積み上げ」について、カタストロフというか、報いがあって、契約・再契約的に、「自分を見直さざるを得ない」契機がシナリオにインボルブされることを切に祈ります。せっかく面白いだけに、、、。僕は、こういった醜悪な全能感だけが、ストレートに受け入れられるドラマの構成が、売れる、受け入れられるというのは、めずらしくあってはならない、と思うんですよ。そんな市場、そんな受け手であってほしくないし、作り手も、「それが儲かるし受けるよ!」と思わないでほしいと思う。。。物語を語るときに、あまり倫理・道徳を持ち出すのは、ほんとは滑稽だし、物語の力ってそういうものではないと思うんですが・・・・にしても、「これ」を醜悪だと感じないのが世の中のスタンダードや平均値であってほしくないなぁ、、、。いやー僕には珍しく、「倫理的なあるべき姿」が想定されていて、珍しい評価ぽピントなんですが、ほんと、これはやだ。


といいつつ、たぶん4話まで見ると、これがタイムパラドクスを扱った物語で、それぞれ5人に、それぞれの視点があるようなので、すごい面白そうではあるので、現時点で、何とも言えないのですが、驚くほど見てていらだったので(笑)。メモメモです。これがひっくり返ることを祈って。。


petronius.hatenablog.com




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