『私の百合はお仕事です!』未幡著 百合分というよりは、疑似姉妹制度に憧れがあるのかもなーと思った。

私の百合はお仕事です!: 1 (百合姫コミックス)

評価:未評価
(僕的主観:★★★★4つ)

仲谷鳰さんの『やがて君になる』が、そろそろ電撃で最終回ですね。ペトロニウス的には、百合分が足りなくて、最近どうしようと悶々としていたのですが、未幡さんの『私の百合はお仕事です!』を見つけて、尊い気持ちになっています。てれびん君に、おすすめされたんだっけかな?。ふと振り返って、今野緒雪さんの『マリア様がみてる』と『やがて君になる』、『ななしのアステリズム』、『桜Trick』とか、いろいろあるけれども、自分の中で、一番見たいのは、やっぱり『マリア様がみてる』の「スール」制度なんだよなぁ、としみじみ思う。いといろ在り方はいじっているけれども、シュヴェスター(疑似姉妹制度みたいなもんかなぁ)がいい味を出しているよなーってしみじみ思う。たぶん、男女関係なく先輩後輩に、ある種あこがれが凄くあるんだろうと思う。日本社会では、パワハラ著いじめの温床にしかならねーなという現実は見えつつも(笑)。とはい、まだ5巻で途中ですが、この辺りに挙げたものが好きな人は、とても尊い気持ちになるので、おすすめです。哲学さんにおすすめされて『かげきしょうじょ!!』もめちゃいいんだけど、こっちはやっぱり面白さのコアが、『ガラスの仮面』的な成長の物語なので、そっちに軸足があるので、面白さのコアが少し違うかなー。最近『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』『色づく世界の明日から』とかの青春がキラキラしている系を見ていたり考えていたので、そっちのテイストとだなぁと思う。このへんは、「もう来ない夏休み」みたいなもので、キラキラする学生時代の青春が全く経験がないので、見ていると、とてもと尊い気持ちになって、こういうありえたかも、の世界にぐっときます。こういうのを吐き捨てて嫌いにならなくて、尊く見れるのは、悪くない大人になれたなーとほのぼのする、アラフィフのおっさんです。


かげきしょうじょ!! 1 (花とゆめコミックス)


ちなみに『かげきしょうじょ!!』めちゃおすすめだよ!今度哲学さんとラジオやろうよ!といっているくらい、はまっています。そういえば、最近、風邪ひいて(家族全員ぐるっと回ってる)咳が止まらず、何かをこつこつやったり、勉強したりする気力が失われた結果、kindleに黙々と課金して、意外に最終巻迄一気通貫で見ていないものとかをこつこつ見ています。量を追いもとめているのと、最新話まで追い付いた後、待っているうちに忘れてしまって追いつけなくなったりするのが結構ある。『マリア様がみてる』35巻で「祐巳・祥子編」が終わっているんだね、、、これ追えていなかった。これは、いかねば。いやーなんというか、いつも無様をさらしているよ。でも、こうやって立ち止まったというか、もう疲労して何も考えれねーというようなときは、振り返って、好きなことに耽溺するのはいい機会かも、と思う。


えっと、白木陽芽と矢野美月の二人の話かなと思っていたんですが、3巻以降からぐっと、知花純加と間宮果乃子の二人の話にフォーカスされて、やっぱり群像劇とまで言は行かないけれども、複数人に魅力が出てくると、関係性がぐっと複雑になっていっていいよね。陽芽ちゃんと、周りの承認というか、外づらばかり気にしている小者的(笑)に思えたんですが、矢野さんにしても、果乃子ちゃんにしても、ほとんど意識せずに口説き落としていますよね(笑)。いやーこの子、大物だわ。結局ねぇ、他人の評価だけを気にしているようなアダルトチルドレン的な振る舞いしてても、なんというか器って、でちゃうんだよなーってしみじみ思います。この子は、核心というか、ある種の心の強さの上で、それを選んでいるので、色々なことがあろうとも、結局乗り越えられるだけの心の強さがあるんだろうと思うんですよね。だから、その本質の部分を見ちゃうと、空気を吸うように回りが口説き落とされちゃう。あーなんか『放浪息子』のにとり君を思い出す。彼は、それが極まったキャラですけどね。空気を吸うように、次々に美少女を口説き落とす女に子になりたい女装の少年(苦笑)。
放浪息子 1 [Blu-ray]

いや話がずれたけど、なんというか、最初から、どのみち他人中理解される必要ないとかこじらせておきながら、次々に、矢野さん果乃子ちゃんを毒牙にかけちゃうのは、本質的に、彼女が陽性で、健康な子だからだよね。これ、普段とのギャップ見せられたら、たまんないだろうなーと思うよ(笑)。うーむ、ええ子だ。『彼氏彼女の事情』のゆきのんを思い出すけど、性根が正しい子は、何をしても救われちゃうというか、苦しいことを乗り越えるんだよね、自分の力で。逆を言うと、性根というか根本にマイナスを抱えていると、なかなか壁を乗り越えられない。。。厳しいのう。まぁ、それも人生なんだろうけど。果乃子ちゃんとか、だいぶやばい人だと思うんだけど、、、、純加みたいな人に出会えるかどうかってのも大きいよなーと思う。出会えたのも、一歩踏み込めるのも、ストーカーのように陽芽につきまとっていたからで、、、何がきっかけで人生変わるか、分からないよなぁ、としみじみ。


なんだろうなーーーうーむ、相手の心に接触できるとでもいおうか、こういうの尊いというかいいよなーとしみじみ思う。だって、50年近く生きてても、そういう出来事って、本当に少ない。ましてや、学生時代は皆無(ふつうは逆なんだろうけど)だったしなー。社会人になったり、年齢を経ると、こういう赤裸々に河原での殴り合い的なことって、出会えなくなると思うんだよねー。失うものが大きすぎて、こんな赤裸々にしゃべったり、行動できない。青春っていいよねー。ふと、自分の子供たちの会話を見ていると、こういうのを垣間見れるときがあって、ニマニマしてしまう。若いっていいよねー。自分は若い時いい思い出がないので、若くなりたいとか全く思わないけど、青春の世界でいろいろ幸せそうに(しんどいとは思うけど)しているのを眺めるのは、幸せだなーとしみじみ。いや、思考がおっさんだ苦笑。


私の百合はお仕事です!: 5【カラーイラスト特典付】 (百合姫コミックス)

『プリンセス・プリンシパル』 (Princess Principal) 2017 橘正紀監督 シャーロット王女が、革命がおこるほどの矛盾を抱えるアルビオン王国をどう変えるかが見てみたい

プリンセス・プリンシパル I (特装限定版) [Blu-ray]


評価:★★★☆3つ半
(僕的主観:★★★☆3つ半)


■アニメを何の基準で選ぶか

いつものごとく風邪ひいて弱っているので、ずっとアニメ見たり漫画見たりして、何とかつらい日々をやり過ごしています。ちなみに、めちゃくちゃネタバレなんで、ネタバレ気にする人は、読まないでください。

これ銀鷹さんとレスター伯爵に紹介されて、最初だけ見てて見れてなかったんだけど、アマゾンプライムになっていたので、一気に見てみる。いまいくつか一気にアニメを見ようとしていると、1)「見るに堪えない演出」のものと、2)「水準を超えてはいるけど。。。。」と、3)「観はじめたら逃げられない」の3つくらいに、物語って分けられるんだよなーとしみじみ思う。1)になるのは、けっこう珍しくて、たいていは、2)-3)の間ぐらいになると思う。なので「その中で」何を選ぶかって、難しいよなーと思う。だって、FGO(ゲームね)でも、映画でも、旅行でも、選択肢は多様にあって、そのなかでわざわざ、というのは、いつも難しい。まぁ、最後は、やっぱり友達に紹介されたというのとタイミングだけだなぁ、とは思う。とても難しいのは、「意義ある視聴」とでもいおうか、批評というか文脈を見るには、ほんとうは、すでに価値が認められた過去の作品を(見ていないのが山ほどある)こつこつ見るべきで、その情報は物語マインドマップでも何でもあるので、そこに行くべきだとは思うんですが、新しいのや自分の癒しのためだけに見るものがないと、それはそれで、苦しくなってしまうんだよなぇ。けれども、「新しくて話題になっているもの」と「自分の好きな癒し」のものばかり見ていると、世界観がアップデートされないというか、どんどんただ単に「強度が上がる」のを求めるだけで、飽きてしまって、最終的には自分の感性を磨滅させる気がするんですよね。なので、それなりの比率を、意識してふらないとダメなんだけど、、、というお話。時間が足りないというよりは、「エネルギー」が足りないって感じがする。というのは、見る時間をひねり出そうとすることは、いくらでもできると思うんだよね、、、、仕事で追い詰められている時ほど、コツコツ膨大な量を見てたりするんで、、、。いかに「新しいこと(見ていないタイプにトライする)」「古典を勉強しなおすこと」みたいな、自分にとって安楽なコンフォートゾーンから出ることが、人間にとって、常に難しいかというお話。


■スパイもののエピソードで構成するか、全体を統合する軸を置くかどうか?

という中で、ちなみにいうと、こういうスパイもの系は、僕はあまり好きではないです。この作品は『カウボーイビバップ』とか『ルパン三世』とか、あれらは、僕の好みとかぶっ飛んで、傑作ですが、各1話毎に完結するような演出をするものは、好みじゃないんです。なんというか、個々のエピソードが、大きな幹ににドラマトゥルギーに接続していくダイナミズム見たいのを見たいという思いがとても強い。とりわけ、アニメの1-2クール(12-24話)くらいのもので、SFチックで、大きなテーマを持つものが、僕は凄い好み。それと、凄い外れるんですよね。


ただね、これ全部見終わって、やっぱり、「そこが見たかった!」と思うのは、最終の数話半だよね。この作品、背景の政治構造を、これでもかって考えていて、それが各エピソードに奥行きを与えている。スチームパンク的って言われそうな感じだよね。この構造でマクロの大きなテーマって、アルビオン王国とアルビオン共和国の、革命が起き程の国としての矛盾を「どう解決するか」になるだろうし、その場合、メインキャラクターに、アンジェとシャーロット王城がいる限り、


第2話でシャーロット王女がいった「女王になってこの国を変える」という言葉


これが、すべてだと思うんだよね。さらに言えば、どうやって、それをなすか、という話。


けれども、スパイのエピソードで各独立した演出にしているので、「具体的にどんな矛盾を」「どのような手段で解決するか」が描かれていない。というか炙り出されていないし、メインターゲットで演出していない。理由は、たぶん監督が12話では、これをやり切れないとぶった切ったんじゃないかと思うんですよね。でも、僕は「そここそ」が見たいし、その軸があるからこそ、あきらめずに、ずっと待ってて見た感じ。その続き?が、映画でされるようなので、そのあたりは、よかった、とほっとしている。この物語の構造ならば、まさに「それ」が見たいんだよ、と思うので。アイテムについては、いろいろある。ケイバーライトという物質の独占が問題なわけであって、これをどうするのか?という、本来は、その「何が解決されるべきか」という「問題の構造」が明らかになっていれば、それを軸に各国のスパイ合戦の重みが出てくるわけで、、、そこまで明示的ではないので、この辺は惜しいなぁ、と少し思う。


とはいえ、映像、演出、全体の軸を期待させる脚本構造、誰にでもすすめられる!というには、もうひとひねり欲しいけれども、アニメファンならば見て損はなしで気のいい作品です。




「プリンセス・プリンシパル Crown Handler」第1章 特報

『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』2018 増井壮一監督 学校空間における友達との「同調圧力」に対する恐怖がめちゃ感じる

青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない 1(完全生産限定版) [Blu-ray]


評価:★★★★4つ-
(僕的主観:★★★★4つ+)

2019年8月末。レスター伯爵におすすめされていて、ずっと、積まれていたこれ。風邪ひいてしまって、毎日のルーティンができる気力がない時に、一気に見てしまうのは毎度のこと。1日で全部見ました。えがった。「よかった」というのは、人それぞれで、けっこうテキトーな言葉なんですが、かといって「言葉でにできるところ」や「気になったところ」というのは、部分なので、どこに注目するかというのは、なやましいところなんですが・・・・・全体的に「良かった」という感想の基礎に、ずっと「この作品はいつからいつまでに描かれた作品なのだろうか?」ということととそれに関連して「このテーマというのは、2010年代通してとても注目されていたやつだよなぁ」というちょっと古さというか、少し以前のテーマのイメージを感じていました。ちなみに僕は、アニメ一期と小説が6巻まで、しか見ていません。映画まだ見れていない。。。


■学校空間における友達との「同調圧力」に対する恐怖というテーマ


えっと、何を言っているかわからないと思いますが、、、整理すると、著者の鴨志田一さんは、2014年から現在2019年9月で既刊9巻まで出ていますね。えっとね、アニメを一気に見ている時に、この作品世界の大前提でずっと、思っていたのは、、、、



学校に通うって、空気を読むって、なんて怖いことなんだろうということでした。



作品世界でのすべての人の悩みが、学校空間における、友達との「同調圧力」に対する恐怖です。この作品のSFというか「物語の種」になっているのは、思春期症候群という現象?、病気?ですが、これの原因が、梓川咲太、桜島麻衣、古賀朋絵、双葉理央、梓川花楓、最初のテーマは、これでもかって「学校の友達関係で空気を読む読まない」という話が脅迫観念で語られているのがわかる。

青春ブタ野郎はプチデビル後輩の夢を見ない 『青春ブタ野郎』シリーズ (電撃文庫)


特に、古賀朋絵の2巻の『青春ブタ野郎はプチデビル後輩の夢を見ない』は、なんというか、大前提として、学校生活における「友達関係で空気を読まないといじめぬかれる」という「大前提」が、なんというか、告発も疑いもなく「所与のもの」として、当たり前のものとして批判もなしにあるところは、けっこうぞーっとした。アニメは、とてもきれいに完結していて、妹のかえでのテーマが、アニメには一本筋がとおっているのですが、かえでのテーマには、いじめですよね。いじめで、精神をぼろぼろにされて、ひきこもった話。これに兄貴の咲太(この物語の視点の基礎)が影響受けている、兄貴の、、、言い換えれば家族に対する影響の話にもなっているところが、アニメのまとめ方はいいなーとしみじみ思うんですが、、、、これ、かえでちゃんはめちゃかわいいし、兄貴の咲太くんがめちゃいいやつなので、素敵な物語、ライトのノベル風に、になっているけど、客観的事実を考えるぞ、ぞーっとするほどひどい話ですよ。学校空間の同調圧力によるいじめが、極端に進むとどこまで行って、本人と家族をどれほどまでに追い詰めるかを、すべて描いているんですもん。これ、物語だから「どこかで解決するだろう」という期待があるからいいけど、これ「実際にあったら(もちろん世の中にはあふれている話)」とんでもない地獄ですよ。家庭崩壊、本人の人生崩壊の物語ですから。。。そして、それはどこにでもある普通の光景ですよ、日本では、、、、。


自分に引きつけて考えると、毎日、ほんと神様?かなんかわからんけど感謝したいな、としみじみ思うのは、いまんところ、うちの子供たちは、そういうやばい出来事は起きていないってことですよ。僕も父の転勤で苦労したけど、たいへんだったの北海道から東京のくらいなもんだけど、うちのちびたちは、日本の中だけでなく、アメリカと行ったり来たりしてるし、、、。子供を育てて思うのは、「他人はどうにもならない」ってことです。自分ですら、仕事でちゃんと生きていけるのか、とイライラするけど、それは「最後は自分が破滅でも何でも受け入れる」覚悟を持てば何とかなります。でも、家族は、特に子供は、どうにもならない。でも、頭くるったやつがクラスメイトのなるとか、「空気」とか、もうどうしていいのか、さっぱりわからない。しかも「自分じゃない」出来事は、手助けするにしても限度がある、、、、どこかで、本人が戦うしかないんだけれども、どんな狂った出来事にあるかどうかは、もうすべて運だよな、、、としか思えない。でもそれによって、引きこもったりしたら、家庭崩壊ですよね。。。。生きていると闇がぽっかり穴をあけていて、いつそこに落ちるかわからない、、、そう思うと、生きるのが怖くなります。ちなみに、うちの息子は、かなりのコミュニケーション強者で、スクールカースト上層部の人っつぽいで、、、なんで、こんな子に育ったのか意味不明なんですが(やっぱサッカーとかチームスポーツ好きだと、こんなふうになるのかなぁ、、、としみじみします)、、、そんな彼でも、常に、空気は意識しているようなので、まぁ恵まれている立場にいたからといって、「楽なわけじゃない」というのは、どこも変わらんなとしみじみ思います。しかも、アメリカの学校でも日本の学校でも、どっちでも、まったく「空気読む」なんてどこもある話で変わらないよ、としみじみ語っていますから、うちの息子。うちの息子曰く、英語できない人が、ただ単に空気読めないだけで、できるようになると、めちゃくちゃ「読まないとやばい」空気あるよ、とのこと。


ちなみに、この話は、鴻上尚史(こうかみ しょうじ)さんのこのコラムを凄く思い出します。いつも。鴻上さん、素晴らしい世界観というか世界観で、いつもグッときます。でも、この視点は、日本の視点だよなぁ、としみじみ思います。


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話が自分日記みたいになったんですけど、戻すと、2010年代の、この10年間ぐらいのライトノベルを主軸とした物語のテーマとしてこの学校空間の地獄をどう抜け出るのか?というテーマが、ずっと生きているよな、と僕が考えていることとリンクするんですよね。で、このテーマのパラフレーズというか、さまざまな同工異曲というか、こうした時代の問題意識に対して、様々なサブテーマが展開して、その系を追い詰めて生きていると思うんです。そして、ライトノベルが、日本のエンターテイメントの主軸であった時に、この問題意識はだいぶ、様々な結論に到達していているな、と。問題が解決したわけでも、解決の処方性ができたわけでもないんですが(笑)、認識は前に進んだし、時代の主要テーマは、既に「そこ」にはないなーと。新海誠監督の『天気の子』もそうでしたが、セカイ系の結論に、物語として、到達している。そういう作品が多いので、この1900年代後半くらいからの25年くらいかなぁ、のテーマはだいぶ終わりを告げている感じがするんですよねぇ。


『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』8‐9巻 渡航著 自意識の強い人が、日本的学校空間から脱出、サバイバルする時の類型とは? - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために


ええと、まだまとまっていないけどメモ的に


1)恋人がいるよりも友達がほしい
結局、恋人や友達がいたところで、「自分」が何をしたいからわからないと充実は訪れない

2)友達というのは同調圧力の奴隷ではない
「ほんとうの友達」という虚偽問題~ぼっちであっても、いやむしろぼっち(=自分がやりたいことを知る)であることなしに「ほんとうの友達」はできない。だからぼっちと非ぼっちの対立構造を意識すると、人生が地獄になりやすい。

3)リア充と非リア充の対立は思い込み、どっちもしんどいのには変わらない
  非リア充が敵だと思ったら負ける。むしろより大きな問題を解決する同盟者だと思わないといけない。モテと非モテの構造対立も同じ。リア充爆発しろと叫ぶとき、自分の人生が詰んでいます。敵ではなく同盟者だと考えないとダメ。
  
4)スクールカーストの構造に永遠に閉じ込められる恐怖感
どうやったら、そこから抜け出ることができるの?~いつまでも同じ時間が続くかないことを認識しないと人生詰む。解決方法は、卒業。もしくは、学校空間以外での関係性や目的を作ること。ちなみに、日本的学校空間が、同調圧力の地獄であるのは、構造的問題なので、変えようがない。

5)自意識の、ナルシシズムの地獄から抜け出すにはどうすればいいのか?
偶然の連鎖がそこにはあるが、しかし「何か!」がありそう。まだそれが見つけ切れていない。しかし、「自分が変わることなし」に、「世界」が変わるというのが重要なポイント。自分が変わらないのに、結果(取り巻く世界が変わる)が変わるという意識は、小説家になろう異世界転生テーマと一致する2010年代の文脈的テーマ。
 

僕は友達が少ない』『ココロコネクト』『俺の妹がこんなにかわいいわけがない』『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い』 で、ずっと考えてきたことでした。


それぞれに、様々な具体的な処方箋、認識の展開がなされています。


なので、ずっとこれを追ってきて、2019年現在のペトロニウスとしては、この学校空間の地獄からどう抜け出すか問題は、なんというか、最前線じゃないなーという感じがしていたんですよね。最前線だったのは、2010年代の前半。もちろん、さっき話したように、日本的同調圧力の地獄、学校空間でそれが何億倍(苦笑)にも増幅されるという日本社会の構造がなくなったわけではないので、この問題が消えてなくなったわけではありません。けれども、エンターテイメントの、時代的に誰もが、「それが最前線のテーマだよね」という認識は、なくなっている気がします。なので、青春ブタ野郎のテーマが、ちょっと古いな、と感じたんです。けど、これが2014年であれば、最前線の問いですよね。なので、いつの時代なのかな?と思ったんです。


で、時代依存の文脈的なテーマの展開は、メディアミックスでは、5年くらいのずれが常にあるし、ある文脈的なテーマが終わったからこそ「大きく表に出てくる」ということはよくあるので、これもそういうものなのかなぁ、と思いいました。



■具体的な風景とノスタルジーを喚起する青春時代の思い出は、どこからくるのだろうか?


という文脈の話は、いったんおいておいて、、、まだ小説を読み切っていないので。



これ、レスター伯爵が好きだ、と聞いていて、きっと、面白いんだろうなーーーというのと、きっと「青春ものとしてキラキラしているんだろうなー」という予感がありました。Twitterで、savaさんが聖地巡礼をしているのを見て、僕も、神奈川周辺には住んでいたことがあるので、なんかいろいろ刺激されたので、今回アニメを見たというのがあります。見るものが多すぎるので、やっぱりタイミングと、友人に紹介されるというのが、大きなトリガーになりますよね。



えっと、上の「文脈の分析」見たいのは、なんというか批評家スタンスなんですよね、なんか「見つけよう」とか「自分の持っているテーマに引きつけよう」とかしていること。それはそれで、面白いし、様々な他の作品との関連性や、物語の構造をどういう「そうとして理解して」何をテーマに、何に応えようとしているのか、とかそういう「分解、分析」が、言い換えればしゃべるのができるようになるので、それはそれで楽しい。いつも思うのは、そういう風に「分解しよう」とか「テーマを見出そう」とかすると、自分が感じたことを捻じ曲げて見ないようになったり、テーマ(自分の思い込み)を補強するため「だけ」に物語を見るようになってしまうので、それはだめだなぁ、といつも分離しておこうと意識している。批評家スタンスの罠だと思っているんですよねぇ。あと、「語るに足るべきこと」や「現在のアドホックな現象や主張」に無理やり合わせるようになると、なんだか、バランスが悪くなりやすいんですよねぇ。自分の持っているテーマが、既に古いかも、とか、間違っているかも?という、意識なしに作品を見ないとだめだよなぁといつも思う。文脈とか問題意識って、数年すると、構造の根本から前提が変わって、まったく反対になったりするので、そういう意識がないと、世界にとてもおいていかれる。


えっと、まぁ、背景はいいとして、、、、


petronius.hatenablog.com


色づく世界の明日から Blu-ray BOX 1


なんというのかなぁ、、、『色づく世界の明日から』を見た時と同じような感慨があるんですよねぇ。


あと、友人のレスター伯爵と話していると、いつも彼の田舎の、学生時代の青春と友達の話に、話が到達するんですよね。彼が、「そこ」に支えられて生きているのが凄くわかる。そこが原点であるのも。その時の日常が、彼にとってとても大切なことも。そして、同時に、僕には、そういった「青春の思い出」が何一つないんですよねぇ。うらやましくて、時々、めちゃ妬ける。。。少なくとも、憧憬やノスタルジーを持つような青春は僕にはありません。ひたすら、つらいだけの学生時代で、二度と戻りたいとも思えなし、それが人生の支えになったこともありません。あ、、、「二度とああはならない」という激しい動機はあります(笑)。学校空間というのは、僕には、一言で言って地獄以外の何物でもなく、しかも友達も一人もいませんし、いまに至るまで一人も残っていません(笑)。家族の関係も最悪でしたし、とにかく、早くこの地獄が終わらないか、毎日、遠い目をして空を眺めるか本を読む子供でした。なので、こういう物語を観たり、キラキラした地元の、、、子供時代の思い出を持つ人が全く理解できないんですよね。なので、ある種、ファンタジー(現実にはあり得ないもの)として、楽しんでいる感じがとてもします。でも、そんな僕にも、一つだけ青春というか、凄く大事な風景があって、それって、鎌倉とか神奈川のあの辺の風景なんですよねぇ。というのは、奥さんがまだ恋人だったころ、時々デートしたことが、忘れられないようなんですね。あと、新婚の頃、二人で関内にも住んでいたし。あ、、、書いてて分かった、、、僕は、たぶん、友達に全く期待していないんだ(笑)。。。少なくとも、学生時代に友達やそういうものが、何か幸せな自分に結びつくとは、全く信じていなかったし、そんなかけらもなかった。僕が、友達ができた!と思うのは、30も半ばすぎて、、、こうしたオタク友達ができてからであって、なので、僕にとって、「幸せになること」は、「好きな女の子と出会うこと」以外のなにものでもないんだなぁ、、、。うーむ、、、そかぁ、、、僕にとって青春時代の「ノスタルジーを喚起する風景」というのは、大学時代や社会人の最初の頃の奥さんと恋人だった時のデートの記憶だけなんだなぁ、、、。これ、ちょっと発見かも。なので、学園日常ものに全く共感がないんだ。。。ちなみに、『色づく世界の明日から』や『天空のエスカフローネ』が、胸に響くのは、自分がものすごく深く愛した女の子に、「二度と会えなかったら」という喪失のテーマがあるからなんだろうと思う。自分にそんなことあったら、どうなるかと、寒気するんだろうと思うんですよね、、、、。うーん、ちょっと自己発見。僕にとって、救済って、好きな女の子と出会って結ばれることなんだな、、、。あと、たぶん、僕にとって「楽園の日常」というのは、仲のいい友達と戯れることではなくて、好きな女の子との思い出なんだろうねぇ。しかも、僕は、その人と結婚しているから、基本的に青春やノスタルジーが奥さんとの思い出とリンクしている。。。これは、物事を見るときに、物凄いバイアスになっているなぁ、、、いま気づいたけど。。。よく考えると、奥さんとの思い出深いデートって、全部、横浜か鎌倉だ、、、。あ、あと、遠距離恋愛してた名古屋だ。。うぉっ、そうか、、、宮原るりさんの『みそララ』がめちゃグッとくるのは、あれ、名古屋の駅前だ、舞台、、、。なんか、めちゃ気づきだった。。。まぁ、すみません、読んでいる人にはどうでもいい話ですねぇ、、、(苦笑)。


でも、これ、物語に「何を期待しているか?」というのの個人によって、かなり分かれてしまうってのの理由をよく示している具体例だと思う。


えっと、なんというのかなぁ、、、、住んでいる土地って、僕、あまり興味ないんですよね。子供の頃からよく転勤してたし、社会人になってからは、さらに転勤激しくて、まじで世界中どこに住むか、ってなんか、もうどうでもよくなってしまって。仕事の都合、妻の都合、子供都合で、別にどこでも行けばいいじゃん、という思いがある。自分が、アメリカのめちゃ広い家にも、日本のうさぎ小屋的マンションで、子供に部屋をあげたら自分にプライヴェートの空間がないとかの状況とかでも、どっちでもほとんど気にしない。そういう意味では、こだわりがほとんどない。あと、どこに住んでも、そこが幸せで好きになってしまうので、さらにこだわりがない。まぁ、人間動物だし、慣れるでしょ、的なイメージがある。だからこそ、というのはあるけど、「ノスタルジーを喚起するような故郷が欲しい」的なないものねだりも同時にあるんですよね。けど、そもそも、あんまり土地にこだわりがないので、そういう気持ちを喚起する「差異」がよくわからない。この辺りの「故郷が欲しい」という意識と「グローバルシティズンとしてどこへでもいく」という意識は密接だし、たぶんこれから重要な社会問題のテーマになっていくんじゃないかと僕は思っています。というのは、「住む場所に縛られている人」と「縛られない人」の対立、新興住宅地や都市化による住民(や移民)の流入がもたらす、新旧住民の絆の破壊は、これからのまさに最前線のテーマだろうと思うので。

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あっと、話がマクロにいってしまった。えっとね、要は自分には「故郷の風景がない」ということがいいたいんですね。まぁ、まだ自分には地元があるほうだと思いますよ。それなりに長く縛られて住んでいた場所がありますから。けど、もう数年もすると、人生で一番長く住んだところは、アメリカのカリフォルニアになるんじゃないでしょうか、、、。思い入れ、がないんですよね。東京の風景にも思い入れがなかったです。けど、、、最近、自分の住んでいた東京の西郊外や東京の風景が、とても内面化するというか、美しいなと思うようになってきたんですよね。それって、エルフェンリートの鎌倉の風景であったり、細田守監督などの中央線沿線の風景だったり、新海誠監督の新宿の風景だったり、岩井俊二監督の桜の風景だったり、、、たぶん、自分の現実が、3次元と2次元の重なり合いにある世代なんだろうと思うんですよね、僕らは。3次元の故郷にそれほど縛られていない。でも実際は目にしているけど思い入れがなかった、、、んですが、それが、物語の中で描かれて、かつ強化されているんですね。新海誠岩井俊二監督が典型ですが、きれいじゃないですか、彼らのフィルターにかかった東京や日本は。ノスタルジーって、こういう風にも生まれてくるんだなぁ、としみじみ思いました。あ、これって聖地巡礼の議論ですね。そういうのと同じような、ものがある。『色づく世界の明日から』とか、素晴らしかったんですが、、、、僕の中でこのノスタルジー効果がいまいち生まれなかったんですね。制服とか、日本の高校の生活のノスタルジーは喚起されますが、、、、けど、『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』は、案の定というか、めちゃくちゃ胸にしみてきて、これって、自分の人生の中に重なる風景があるかどうかなのかもしれないなーと思いました。細田守監督の作品とかも、東京の西郊外のシーンが、もう胸にしみて沁みて。。。


うーむ、関係ない話になってしまった。



いま小説読んでいるので、たぶん、、、続く。

『Knock Down the House』2019 Rachel Lears監督 アメリカの最前線を伝えるAOC(アレクサンドリア・オカシオ=コルテス)のサクセスストーリー

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評価:★★★★4つ
(僕的主観:★★★★4つ)


2019-10-04【物語三昧 :Vol.41】『Knock Down the House』2019 Rachel Lears監督 アメリカの最前線を伝えるAOCのサクセスストーリー-46




2019年8月28日に、これを書いている。偶然、ネットフリックスで見つけて。アマゾンプライムで『This Is Football』を見つけたときにも思ったけれども、昔よりも、ドキュメンタリーがうまく見つけやすくなっているし、良質なものが多い気がする。Occupy Wall Street、We are the 99%、ヒラリークリントンを追い詰めた2016年の大統領選民主党予備選のバーニー・サンダースの躍進、民主社会主義(democratic socialism)という米国では毛嫌いされる共産主義の匂いのする政策や理念の浸透、民主党の左への偏り、極左の躍進、これらの雰囲気の果てに、、、、にもかかわらず、2017年に米国では第45代ドナルドトランプ大統領が登場している。僕は、2013年から米国に住んでいるので、第二期オバマ政権末期からのこの米国の雰囲気を肌で感じているのですが、ずっとトランプさんの支持は根強いな、陰りが見えないなと、2019年の8月の現在感じます。なのに同時に、民主党の左への傾斜が止まらないのも肌で感じるのです。2018年の中間選挙の結果が、まさにこの不思議な感じを裏付けていると思います。民主党が下院を奪還するも、上院は共和党過半数を確保。

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とはいえ、もし共和党に、ドナルド・トランプ大統領に勝つのならば、論理的にマイノリティ、女性、そして左右の対立ではなく(実際は極左だろうが)貧富の差の分断を意識した人が、民主党側のリーダーになっていく構図は容易に予測できる。なので、

The day after Donald Trump's election, Rachel Lears began working on her new documentary film.[8] She reached out to organizations such as Brand New Congress and Justice Democrats to find "charismatic female candidates who weren't career politicians, but had become newly galvanized to represent their communities."[8] The search led her to four female candidates: Alexandria Ocasio-Cortez of New York, Amy Vilela of Nevada, Cori Bush of Missouri, and Paula Jean Swearengin of West Virginia.[8] Lears raised $28,111 for the project through Kickstarter.[8]

Knock Down the House - Wikipedia

wikiにこうありますが、監督のRachel Learsが、"charismatic female candidates who weren't career politicians, but had become newly galvanized to represent their communities."を探したて、Alexandria Ocasio-Cortez、Amy Vilela、Cori Bush、Paula Jean Swearenginの4人を追い始めたというのは、さすがの視点だと思いました。こういうのドキュメンタリー作家の凄さだなと思います。


そして、その果てに、いまでは、民主党の左派の顔ともいえるAOC(アレクサンドリア・オカシオ=コルテス: Alexandria Ocasio-Cortez)のサクセスストーリーに仕上がっている。最後のシーンで、NY14区の民主党予備選で重鎮のジョー・クローリーを倒すシーンは、全米中にものすごい勢いで放送されたので、知っていたが、「それまでの過程」を映像でちゃんと見せられると、感慨深い。とくに、追跡している4人のうち3人は、現職に全く歯が立たず、実際のところ、現職の既得権益をひっくり返すことが、どれだけ不可能に近い困難なのかが、これでもかと描かれている。それが故に、この中間選挙での下院の女性議員、マイノリティの躍進が、どれだけすさまじいことだったのか、それだけの草の根のエネルギーが動いたのかが、これでもかと伝わってくる。


そして、AOCの見事なサクセスストーリーと、民主党左派のリベラルの運動がこれだけ激しく深く広がりを持ちながら、トランプ大統領の支持率や安定が揺らいでいない(少なくとも僕はそう思うし、44%あったら大統領選挙で勝った時の数字と遜色ないと思う)というのも、ほんとうに興味深いことだと思う。矛盾することが、同時に起きるのが世界なのだなぁ、と思う。アメリカの分裂ぶりの凄さに、感嘆すると思います。




Knock Down The House | Official Trailer | Netflix


閑話休題




ちなみに、ドキュメンタリーは、今を感じるのに素晴らしい機能を果たすと思う。ので、めちゃくちゃ感動した下記のやつもメモでというか紹介。素晴らしいですよ。



This is Football - Official Trailer | Prime Video


2019-8-6【物語三昧 :Vol.37】『THIS IS FOOTBALL』2019年の今の地球を俯瞰するドキュメンタリー-41

『天気の子(Weathering With You)』(2019日本)新海誠監督 セカイ系の最終回としての天気の子~世界よりも好きな人を選ぼう!


2019-8-25【物語三昧 :Vol.39】『天気の子』新海誠監督 セカイ系の物語の最終回として-44

評価:★★★★★星5
(僕的主観:★★★★★5つ)

先日、8月にコミケで同人誌(マインドマップで語る物語の物語の4巻と5巻)を発売したので、日本に夏休みで帰ってきました。その時に、これはいかにゃーならんだろうと、見てきました。なんとか時間をひねり出して、自分で見に行くのと、子供と一緒に見に行くのができてよかったです。奥さんも見に行けたみたいなので、だいぶ売り上げに貢献したかな、うちの家族(笑)。見た直後のおおざっぱな感想は、物語三昧チャネルの方で、やりましたので、こちらを見ていただければ。

まだ全体の位置づけとかはっきり自分の中で定まっているわけじゃないんですが、とにかく、面白かった。批評的な分析の視点よりも、やっぱり、自分がどういう風に「感じるか」がまずは大事だし、それこそが、同時代性にみんなで盛り上がるという部分の良さだなので、まずは素直に、自分の感想を考えてみました。

まぁこれって、明らかにセカイ系の物語の同じ問いを、これでもかってくらい新海誠さんの作家性で作りあげているので、究極は、


世界と好きな女の子とどっちが大事なの?


という問いだと思うんですよ。もっと具体的に言えば、陽菜を助けたいと思うかどうか?って話。監督がほんとはどう考えているかはもちろんわからないですが、そもそも作家性の文脈でも、『ほしのこえ』から考えれば、そうとるのが論理的だよね。


でね、理屈とか、背景とか、いろんなことは抜きにして、感情的に「そりゃ助けるでしょう(男の子が観察者でいるのはだめだよ)」「助かって当然じゃないか(=世界の責任を背負うとかおかしい)」と言い切れるし、少なくとも僕は感じました。ああ、「今の時代にマッチした話なんだ」と感動しました。そして、自分が、ちゃんと、それに感情的に納得というか感得できているんのは、ちょっとうれしい。ちなみに、いまの若者がどう考えるか?は、少なくともうちの子供たちは、めちゃ猛烈に感動してたんで(笑)、僕は、なんというか正しい時に出た物語なんだろうなーと思っています。というのは、なんというか、新海誠さんの作品って、作家性が強すぎて、時代との関連とかでいろいろ批評するのを受け付けない気がするんですよね。そういう問題じゃなくて、おれはこれがやりたいんだ!という感じが常にする。なので、時代との関連が自分的にはよくわからなかったんです。この作品もやっぱり、言葉にうまくできない感じがするんだけど、、、でも、なのでまずは「感じて見たかった」というのがあって、リアルタイムで日本で見れてよかったと心底思います。なかなか日本帰れないので。


えっと、話を戻すと、LDさんが「セカイ系の最終回」という言い方をしていたんですが、まだアズキアライアカデミアメンバーとは話していないので、それがどういう意味かは分からないのですが、僕的な文脈でも、まさにそうだよなと思いました。ちなみに、次のラジオでは、『天気の子』かな、と思います。


で、自分の話に戻ると、僕は、Youtubeでも言及しましたが、ちょっと自分の中のマッチョイズムな思い込みがあったなと、その発見(自分の中で)におおーと唸っているのですが、


好きな女の子を救うためには、


世界を救わないと、女の子を救えない、


という思い込みがあったんだなって思ったんですよね。まぁ、セカイ系の典型的な構造ですが、ある意味論理的だとは思うんですよ。人を救済しようとしたら、その背景まで救済できないと、どうにもならない、というのは。ここで具体的に落とし込んでみれば、陽菜ちゃんを救おうと思ったら、何が一番重要かっていうと、、、、、金ですよ!(苦笑)。未成年には、もう救いようがないんですよ。ようは、彼女のすべてを守るためには、その責任をとれなきゃ話にならない。この話をする時、いつも『ハチミツとクローバー』の話を僕はするんですよね。何かに苦しんでいる大切な人を救おうと思ったら貯金(笑)がないとダメだ、、、って話。


これとても具体的な話ですが、物語的にも、好きな子をまるごと救おうと思うと、例えばその弟とか、すべて面倒見れなきゃダメじゃないですか。


、、、という思い込みというかマッチョイズムが自分にはあったんだなぁ、、、と。ようはね、帆高くん、何もできないじゃないですか。実際、何もできないんですよ、金と権力がないと(笑)。


でも、それでも、無理でも、間違っていても、自分の好きな人を守りたい!と叫んで、思って、何が悪いって。


実際、「具体的、物理的、現実的に救えなければ」、全部ファンタジーだ無責任だ、といってしまえば、それは凄い正論なんですよね。正論過ぎて、マッチョイズムに思えるって、自分ですごい感じたんですよ。だって、僕らが生きている厳しい世界では、そんな正論で、どうにもならないじゃないですか。具体的に救える力がなかったら、何も言うなって、そんなこといったら、何にもできなくなってしまう。



ああ、これは、新海誠監督の、若者への、次世代の子供たちへのメッセージだなって思いました。これ、大人には、違和感がある脚本構成なんですが、子供に、間違っていても、正しくなくても、好きな人、大事な人のためを思う原点をあきらめるな、という感情を伝えるためには、完璧なシナリオなんですよ。むしろ大人が、それは無理だと、と違和感を感じるところからの飛躍がないとダメなんだろうと思う。



間違っていても、その気持ちが本当ならば、叫んで行動に移せばいいじゃないか!って。



それがものすごい説得力を持って、感じたのは、エピローグというか、だいぶ水に沈んでしまった東京の「日常の風景」が丁寧に描かれているところです。この世界が滅びてしまった風景って、押井守さんとか、いろんな人がずっと描いてきているじゃないですか。でも、僕には、何となく、とてもマイナスかつ否定的なものに感じたんですよね。「ちゃんと世界を救えなかったから」「正しい決断や成長をできなかったから」だから、「こんなふうに世界は滅びてしまいました」みたいな。でも、脱英雄譚の話ですが、そんなのを一人の少年や少女(勇者やヒロイン)に押しつけるの卑怯じゃない?というのも、もう凄くみんな実感しているんだと思うんですよ。


世界がめちゃくちゃになっても、それって、天災であって、「それでも日常は続いていく」のであって、それをおれが、僕が、あなたが、私が、責任をとる必要はないんだ!、ってすごい言われているような気がしたんですよね。


セカイ系の類型って、大きな文脈として、本来を世界を救う(竜退治をする)男の子が善悪の問題(何が正しいか)に疲れ果てて、無気力になってしまったので、すべてそれを女の子に押しつけたという構造なんだと思うんですが、、、、じゃあ女の子がヒーローに勇者になればいいのかというと、それは一つの系なんですが、それでも「世界の責任を個人に押しつけている」構造は変わらないんだよなって。


これからの時代を生きる人々に、そんな難しいことを背負わなくてもいいよ、と言っている気がしたんですよね。だって、東京が沈没したって、世界がどう変わったて、その世界で、人は生きていかなきゃならない。そこに個人の意思なんざ、ちっぽけすぎて、意味をなさない。


唯一意味を成す、大事なことって、好きな人のために、大事な人のために、なりふり構わず動けたかってことだけだと思うんだよね。少なくとも、僕はうちの息子に、娘に、世界の責任を考えるような感情ののらないマクロのことで悩む暇があったら、大事な人のために動ける人であってほしいと思う。もちろん、マクロの責任なんか、無視しろと言っているわけじゃなくて、、、、まずは「原点はどこにあるか」「最も大事なことはどこにあるか」を確認しなかったらだめだろう、と。


最後に、陽菜ちゃんが祈っているシーンがあるんだけど、何を祈っているの?って、色々なところで話されていたけど、、、僕は、帆高に会いたいって、祈っててほしいんですよね。きっと、半分は、世界のためにも祈っているとは思うんですよ。そういう子だと思うので。でも、そんな責任を、感じるのはおかしいと思うんですよね。大事なのは、世界が、セカイが壊れたって、一緒に生きたい人がいるかどうかってことだよって話は、動機をめぐる原点だと思うんですよ。あの二人が、その後、結婚できなかったり、分かれたりしても(笑)、僕は、「そういう気持ち」を持てたかどうか、で世界の鮮やかさは全く違うと思うんですよね。少なくとも、そう思って生きてほしい、そう思うのが、人としていいことだって、思いましたよ、この作品を見て。


という、キラキラしたポジティブ感が、水に沈んでしまった大災害の後の映像でガチに語りかけてくるようで、、、、僕は、あの映像の美しさに、打ちのめされてしまいました。


この映像をもって、僕は、セカイ系に対する一つの明確な答えを出した感じがしました。なので、僕の言葉での「セカイ系の最終回」というのは、世界を救うより、まず大事な人を選ぼう!そこからスタートしなきゃいけない!、そして、セカイの、世界の責任を一人でしょい込もうとするな!、時には、世界よりも大事なものがミクロの世界には、自分の気持ちの中にはあるんだってことを忘れるな、ということを言っているように感じました。


僕の感想でした。

続いてサブタイトルとなった「Weathering With You」について、新海は「『Weather』という気象を表す言葉を使いたくて。これには嵐とか風雪とか、何か困難を乗り越えるという意味も含まれるんです。映画は何か大きなものを乗り越える物語でもあるので付けました」と語った。

https://natalie.mu/eiga/news/312098


ちなみに英語のサブタイトル、Weathering With Youの意味は「困難をあなたとともに乗り越える」です。


世界を壊すような天災のその後、あなたと共に生きていきたい、という意味に感じて、僕はグッときました。


以上


以下は、自分がこの感動を将来思い出すための、メモメモです。

【合本版】イリヤの空、UFOの夏 全4巻 (電撃文庫)


セカイ系の本質は、「男の子が観察者になってしまう」「世界の謎も解かないし、竜退治もしないし、女の子を救いもしない」という無気力と、その不可能性の部分にあるので、この辺は、上記の作品や、『最終兵器彼女』を見たいところです。

最終兵器彼女(1) (ビッグコミックス)

あっちなみにセカイ系という言葉は、地雷ワードで、みんなそれぞれの思いの定義があるので、あんまり定義とか考えないで、ざっくりイメージで考えてください(笑)。どういう風に考えているかは、マインドマップの新刊を見てもらえれば(笑)。

booth.pm


■参考記事

gigir.hatenablog.com

ちなみに、GiGiさんのここ記事良かった。

その後やって、アズキアライアカデミアのラジオ。


Academia/天気の子 2019/09/01

宣伝・既刊及び4-5新刊の在庫できました。

既刊とこの2019年夏コミの新刊(4-5巻)の在庫できました。宣伝です。買ってもらえると、何とか在庫作れるぐらいで回しているので、ぜひとも買ってもらえると嬉しいです。つーか、凄い勢いでボリュームが増えていって(笑)、1巻との厚さの違いを考える、、、、(苦笑)。値段変えてないですが、ボリュームは数倍になっていると思います。なんか、増えちゃうんですよねぇ。。。コスト増えちゃってしんどいのですが、まぁ、勢いで出しているので、行くしかな、と。ただ消費するだけでなく、作る側に回ると、こんなにも世界が違うのだ、と感心します。アラフィフになっても、新しいをもの学び感じれるのは、とても幸せなことです。

azukiarai.booth.pm


ちなみに、講演会オフ会でLDさんが説明しましたが、表紙や章の図像には、すべて細かい意味があります。この時代の僕らが「群」でとらえた物語群にどういう特徴があったと理解しているかが、絵で見てすべて読み取れるように作っています。そういった図像情報から、いろいろ読み取ってもらえると、さらにうれしいです。たとえば、6章のセカイ系の台頭のやつで、男の子と女の子が、違う世界に生きているのがわかりますかね?。これ、男の子が、異なる世界で女の子が世界を救うために命を懸けて戦っていることに、まった気づいていないで、生きていることを示しています。しかし背後を見ると、、、、などなど、、、、と、想像を膨らませていただければ、僕らがこの図像に何を込めているのかが、楽しめると思います。

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物語の物語

冬コミも申し込みました。これで受かれば、6-7巻、脱英雄譚と新世界系で、2年前の当初計画案通りでいったんシリーズ完結します。頭おかしいスケジュールでした(まだ終わっていないけど)。がんばります。

『ブレイキング・バッド(Breaking Bad)』シーズン5 USA 2008-2013 Vince Gilligan監督  才能によって善悪の彼岸を超える時

ソフトシェル ブレイキング・バッド ファイナル・シーズン  BOX(4枚組) [DVD]


評価:★★★★★5つ+αマスターピース
(僕的主観:★★★★★5つ+αマスターピース



2019-8-7【物語三昧 :Vol.5-4】『ブレイキング・バッド(Breaking Bad)』シーズン5 USA 2008-2013 才能によって善悪の彼岸を超える時-42


全5シーズン、62話。

この作品が言いたかったことは何であろう。僕は、さまざまな視点はあるにせよ、この作品の最終的に言いたかったことは、やはりウォルター・ホワイトが、何のためにこの犯罪を犯したかということに対しての答えだろうと思う。「チップス先生をスカーフェイスに変える」という前提を、製作陣は想定しているが、この設定が紡いだ結論は。


一人の男の自己実現を描いた話だろうと思うのだ。決して、僕は、ウォルターが、極悪人だったわけでもなく、本質が悪だとも思わない。最終的に、彼は疑問の余地がない邪悪というか、純粋に悪ともいえるような存在になっている。けれども、「最初からそうだった」とか「本質的に彼がそういう人間だ」というのは全くのミスリードな評価だとおもう。


この作品は最後の最後にウォルターが、


「すべては自分のためにやった」(ずっと家族のためと言い訳が彼を支えていた)


「充実していた(I was alive)」(追い詰められてしかたなく悪に手を染めた)


ということを表明するところに、見事な新しさと、そして自己実現、悪人としてのピカレスクロマンを自滅ではなく、成長物語として描いたところにその本質があると思うのだ。実際のところ何度も繰り返される「私がした事は、全て家族のためだ。」という表明。これがすべて否定されるシーンの切なさは圧巻です。


そして、「このセリフ」からすべてを逆算して物語を見返すと、彼が「どのように変わっていったのか」、その変化が、成長が「どこに行きつくものだったのか」ということを、指示してしている。もう少しうまくいいかえれば、アメリカのドラマにしては、シーズン5と短くまとまっており、かつ明らかに、最初からこの「一点」に向かって、すべてが収束していくという完成度を見ることができる。「ここ」にすべてが収束していく、最終シーズンの60話『オジマンディアス(Ozymandias)』への緊張感の盛り上がりは、アメリカのドラマ史上最高のものだったと僕も思う。また、さらに凄いな、と思うのは、61話『ニューハンプシャー(Granite State)』62話『フェリーナ(Felina)』と、後日談というわけではないですが、「その後」がじっくり描かれるところも、本当に裏切らない。


僕はアメリカの批評では「去勢された」と表現されるウォルターが、もともと悪人だったとは思わない。エピソード1-3の彼は、本当に「すべて家族のため」だったのが、状況に流されて、どんどん追いつめられる様が描かれている。だけれども、この作品が、そして、ウォルターが、これまでのアメリカのどの物語とも違うのは、「善人で去勢された冴えない教師」が、「自分に才能に気づき」、その才能に基づいて、力をふるうようになっていく、、、これは定番のヒーロー物語だろうと思うのだが、その力をふるうのが正義ではなく、悪であり犯罪だったというところだと思うのです。彼が圧倒的な「悪人として、犯罪者としての才能」に恵まれていたところを、追い詰められ、自覚して、才能を開花させ、ついには、アメリカ犯罪史上最高の悪役といわれるようなラスボス中のラスボスであるグスタボ・"ガス"・フリング(シーズン4)を倒すに至るサクセスストーリーは、見る者を圧倒します。


そして、そのサクセスストーリーが、美しく、見事なビルドゥングスルロマンとなっていればいるほど、それは同時に「彼が悪に堕ちて染まっていく」ものであるという二重構造を示し、を感じさせるところに、この作品の凄み、新しさがあると思うのです。


そして、シーズン5は、いってみれば、なんというか、スターウォーズのエピソード1-3のように、主人公が闇に落ちていくプロセスの総決算を見せる、とても苦しくきつい話です。本来は人気が出るはずがないような、「落ちていく様」にたくさんのアメリカ人が、共感し、熱狂したところに、アメリカ社会のエンターテイメントや物語への成熟度合いが感じられると僕は思います。『スーパーマン』みたいなシンプルで古典的なアメリカンヒーロー「ただの正義の味方」では納得できない、深い成熟があると思います。

また、シーズン5は、そうでなくとも、「落ちていく様」を見せるくらい話な上に、もうラスボス(グスタボ・"ガス"・フリング)は、倒されてしまった後の物語です。もう、小物しか残っていない。というか、残った悪人たちは、ガスほどの器も、動機も、凄みもない小悪党たちです。リディア・ロダルテ・クエールが、言ってみれば、シーズン5の倒すべき敵ということになると思うのですが、彼女の、最初に登場した時からの小物感はいっそすがすがしいほど、ダメな人です。彼女が、他の関係者をすべて殺そうとするのも、ひたすら臆病さと保身のためだし、しかもそれは冷静さというよりはヒステリーであり、自分が手を汚すことや、自分が泥をかぶる覚悟がないさまが、これでもかと繰り返されます。このあたりのエピソードの積み上げも、僕は全く新しい!と感心しました。通常は、倒すべきラスボスの器問題といって、倒すべき敵が強ければ強いほど、物語は面白くなるのですが、もちろん弱ければ弱いほど、しょぼく物語が鳴るというのが通常のシナリオ構造なんです。なので、「強さのインフレ」という構造的弱点が起きて、ドラゴンボールやジャンプでは定番の、うんざりするような次から次へと、さらに強い奴が、、、と表れて破綻します。が、ここでは反対のことを、わざわざ演出している。トッド・アルキストの叔父のギャングリーダーにしても、明らかな考えなしの小悪党なのが、見ていて随所に描かれています。ガスの器と比較すれば、これらが物語に登場するにしてもしょぼい話です。しかしながら、だからこそ、シーズン5は、素晴らしい物語になっている。それは、既に、もうこの世界のラスボスであり最大の悪党は、ウォルターであることが、シーズン4の終わりにわかってしまっているのです。ということは、倒すべき敵、、、ドラマトゥルギーは、ウォルターの自覚なんです。えっと、ようは、シーズン4までは、「より強い敵を倒す」物語だったんですが、シーズン5は、「希代の大悪党が自分自身の自覚を持つ」物語なんです。だから、「自分のために行い、自分の才能をふるえる様が楽しくて仕方なかった」という告白こそが、このシーズンのドラマトゥルギーの収束点になるわけです。


そして、既に、もう彼が、「救われることがないだけの悪に手を染めてしまった」ことは、観客のだれもが知っています。


だからこそ、最後は、どのように落とし前を彼がつけるのかが、物語のエンドポイントになるのは、わかりきっています。彼は「自分の才能を十全に開花させるという喜び」を得るために、それまで持っていた大事なものをすべて裏切っているのですから。彼は自分の才能を開花させ、その力をふるう喜び(自己実現)を最後まで伸ばしきることで、生を充実させたのです。しかし、それは同時に、だれ一人、彼との思いを共有することがない、孤独の地獄に彼を連れていくことになります。・・・そして、それでも彼は言います。「楽しかった」と。彼は、ウォルターは、それを「選んだ」のです。


50話:51歳/Fifty-Oneで、じわじわと、スカイラーとの仲が崩壊しているがわかるんだけれども、スカイラーが、子供たちを家におきたくないと言い出すときに、口論が面白かった。これ、パワハラ上司との、できない部下との会話なんだよね。「具体的にはどうするのか?」と追い詰める。こういう時に、人間としての強さ、という格の違いがあらわになるなぁ、と思う。ようは、スカイラーは、自分の為した罪を受け入れる覚悟が持てなくて、壊れていっているのだ。シーズン1-2のウォルターそのもの。ここは難しい問題だ、と思う。人を殺すような、これまでの世界と違う世界に行きながら、それでも自分を取り戻して自分を正当化できるのは、大したものであろうともう。普通の世界で粋がっている多くの人は、「普通の世界」というルールの中だけで、いきがれる臆病者だからだ。でも、じゃあ、それが悪いことなのか?と言えば、臆病者が正しいという風な、ルールを作ってきたのが、現代の社会なんだろう。ウォルターは、「この善悪の次元」に逃げるのではなく、それを超えて、「力の次元」に才能で足を踏み入れた。その違いが、ここでははっきり分かれているのが興味深かった。




シーズン5エピソード14、いわゆる神回「オジマンディアス」


www.youtube.com


詩「Ozymandias」は、イギリスの詩人パーシー・ビッシュ・シェリー(Percy Bysshe Shelley)(1792-1822)

古代の国エジプトから来た旅人はいう
胴体のない巨大な石の足が二本
砂漠の中に立っている その近くには
半ば砂にうずもれた首がころがり

顔をしかめ 唇をゆがめ 高慢に嘲笑している
これを彫った彫師たちにはよく見えていたのだ
それらの表情は命のない石に刻み込まれ
本人が滅びた後も生き続けているのだ

台座には記されている
「我が名はオジマンディアス 王の中の王
全能の神よ我が業をみよ そして絶望せよ」

ほかには何も残っていない
この巨大な遺跡のまわりには
果てしない砂漠が広がっているだけだ

I met a traveller from an antique land
Who said: “Two vast and trunkless legs of stone
Stand in the desert. Near them, on the sand,
Half sunk, a shattered visage lies, whose frown,
And wrinkled lip, and sneer of cold command,
Tell that its sculptor well those passions read
Which yet survive, stamped on these lifeless things,
The hand that mocked them and the heart that fed:
And on the pedestal these words appear:
‘My name is Ozymandias, king of kings:
Look on my works, ye Mighty, and despair!’
Nothing beside remains. Round the decay
Of that colossal wreck, boundless and bare
The lone and level sands stretch far away.”


この詩をどう解釈すべきでしょうか?


オジマンディアス。当時の超大国エジプトの王の中の王とうたわれたラムセス二世。


明らかにその「孤独」を歌った歌です。


いやはや、Vince Gilligan、さすがだよ、と唸りました。


ちなみに、もともとスカーフェイスなどのピカレスクロマンもの視点で、僕はシーズン4を評価しましたが、ブレイキングバッドが、この「悪人の自己実現」について、到達点を示していると思います。スカーフェイスが典型的ですが、悪党のもともとの動機は、「伸し上がること」であり、それをわかりやすく示すのは、酒、ドラッグ、タバコ、女などとにかくお金を使いまくる金ぴかの生活です。もちろん、そういうのを最初は端的に望んでいたのでしょうが、「そこ」に到達すると犯罪者モノのは、どんどん気が変になって、意味不明の行動になる。それは要は彼が目指していたものは「その先」にある、自分の才能が世の中に認められることであるからです。認められるだけでなく、「純粋に才能をこの世界に行使すること」です。端的に言えば、スカーフェイスの場合は、家族に認められるという部分が、つまりは、妹との関係なのですが、主人公が成功するにしたがって妹の人生が壊れていき、最後は死んでしまうのは、彼の望みが受け入れられないさまを示しています。そうやってすべてに絶望して、破滅に向かっていくというのが、ピカレスクロマンの醍醐味なのですが・・・・・僕はこれを見ると、一つ不足するものがある、と思っていました。それは、「自覚」です。何のために悪を為すか?と言えば、悪をの為したいからではありません。これらの喜びは、理由や動機はどうあれ、「力を、才能をこの世界に示すことそのもの」なのですから。彼らは、正しい形でのビルドゥングスロマン(成長物語)を通して、自己実現がしたかったのであり、その才能と舞台が、犯罪だったというだけです。しかし、「そうだった」ために、既に破滅の道しか、残されていません。そもそも、受け入れてもらえたい母親や妹を裏切るような構造になっていれば、それは正しい道へは至りません。しかし、、、、それでもなお、自分が大事なものを裏切っても、「自分の才能を世に示す」ことをしたかった、それが達成されること、自分自身の「力をふるうことの喜び」を感じたかった!、何と引き換えにしても!(家族を殺してでも!)という「自覚」がなければ、僕は、本当の悪の才能としては、甘い、と思っていました。ここまで言葉になっていたありませんが、ウォルターの生きざまを見て、見事!!と思ったのは、彼の自覚が、ここに到達していたからです。それは、孤独と引き換えに、善悪の彼岸を超えた「力の次元にいたること」。


この結論に対して、さらに二点みたい。



■状況に流されるだけのジェッシーは汚れない
アメリカ社会の置かれている状況、、、どうにもならない負の連鎖の中で、もうそこから、どんなことをしてでも抜け出そうとするもがきへの共感


実は、共感することができない「純粋な悪」として自信を純化していき、すべてを裏切っていくウォルターに対比する構造として、ジェッシーがいます。この二人にの構造、対比、対立がずっとこの物語を締めることになります。


というのは、僕の言葉でいうと「状況に関わる」ことについて、この二人は対極の反応を示すからです。


「状況に関わる」、、、言い換えれば「状況を自分を主体的判断によって変化させる(=現実を支配する)」ということは、主体的な人間の前提条件でもあります。しかしながら、実は、それはほとんど不可能ともいえるほど難しい。その中で、どのレベルで、起きてしまった現実を受け入れ、世界の不可避は変化を受容して認めていくかというのが、人間の在り方を決めます。もし、シーズン3で、ウォルターが、ジェシーの恋人を見殺しにすることがなければ、彼は、あそこまで堕ちて悪に純化していくことはなかったかもしれません。けれども、「彼は状況支配する」ことを、望んだ。自分の「能力によって現状の困難を打開する!」ということを主体的に選んだのです。そのためには、殺人も辞さず。


この現実を支配する!という発想を、マチョイズムやマスキュリン(masculine)などの「男らしさ」と結びついていることはよく指摘されますが、それ以上に、マクロの社会状況が、コントローラブな度合いに差があるように僕は思っています。社会がコントローラブルな状況ならば、すべて自己責任でいいし、すべて個人の責任です。けれども、往々にして、社会は、個人ではどうしようもない構造や出来事であふれています。この度合いで、物事は、全然変わってしまうと思うのです。

petronius.hatenablog.com


Hell or High Water (2016) Scene: "I've been poor my whole life..."

2008年からこの物語は放送されていますが、これが日本でいうリーマンショックの年であり、その後不況で転げ落ちていくスタート地点でもあります。また、2013-2016年は、オバマ政権の第二期で、理想的で高潔なリーダーが何もできずに、国がスタックして理想が実現しない失望の年でした。また、レーガノミクスから始まった、新自由主義的な政策とグローバリズムの行き着く先として、中産階級がどんどん衰退して苦しくなっていくことに、一切歯止めがかからないことが、はっきりとした時代でした。


こうした背景の中での絶望が、アメリカをして、トランプ大統領を選ぶことに結実しました。


ラストベルトを支持基盤とした広範な中産階級の支持は、あきらかに、衰退し、解体されていく中産階級の叫びであったことは、現在(2019年)ではわかっています。国は分断され、どうにもならない状況が続いています。こうした、「どうにもならない負の連鎖から抜け出れない地獄」を脱出する手段として、極端なこと、「これまでとは違うこと」、また理想はまったく信じられなくなったこと(オバマ政権は手も足も出なかった)、などのを求める切実さ。「コントローラブル」ではない感覚の、深い絶望が背景にあるのは、明白です。


『ブレイキング・バッド(Breaking Bad)』シーズン3 USA 2008-2013 Vince Gilligan監督 2008-2013年のアメリカは、正しくあろうとあがくことで怪物になり下がっていく自分たちの虚無を見つめたのかもしれない - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために



この2点が重ならないと、アメリカの2008-2013の当時に置かれていた背景が見えてこない気がします。



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さて、やっとこさ、シーズン5すべての解説を終えました。物語自体の分析もそうですが、それ以上に、このような暗い物語が、アメリカで絶賛されてた背景や、なぜ主人公がいきなり人生に絶望してしまうかなどは、アメリカの社会の肌感覚を理解しようとしないと、なかなかわからないと思うのですが、そのあたりが、少しでも理解する、感得するのに役に立ったら幸いです。


■過去の記事履歴

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8月17日開催のオフ会イベント〈第一回アズキアライアカデミア〉の参加者募集


宣伝するパワーがないので、とりあえず告知!。

もう結構恒例だけど、アズキアライアカデミア、としてリブランディングしてからは、第一回目!、たぶん、来年はないと思われる(僕が帰国しないと思うので。。。。)