『国運の分岐点 中小企業改革で再び輝くか、中国の属国になるか』 デービッド アトキンソン (著) 自分のビジネス経験の実感とめちゃくちゃ一致している


評価:★★★★★5つ
(僕的主観:★★★★★5つ)

非常に明快で、且ついつもの冷静な視点から、一歩踏み込んで、政策につながるストーリーになっていて、より伝わった気がする。といか、なんか、すげぇ感動した。そうか、そういう構造だったのか、としみじみ感じたよ。前著、『日本人の勝算: 人口減少×高齢化×資本主義』と同じ主張且つ同じロジックなんですが、力点の置き場所、解決策への力点の置き方が全然違う。興味深かった。というのは、これはアジテーションだと思うのだ。


最低賃金を上げる」ことによって経営者のインセンティヴメカニズムを変えて、産業構造の変革を促進する、というのは同じ主張。


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しかしながら、いままで日本社会が、産業構造を変えなければいけない、効率化しなければならないといいつつ、全然進まなかったのはなぜか?の理由がフォーカスされている。フォーカスというより、アジテーションに近いと思う。よほど、日本の中小企業の経営者の反応に腹を据えかねた(笑)というか、彼らこそがラスボスというのが、反論を受けていく過程で身に染みて分かったんだろう。

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もちろん、労働市場の流動化を目指していたのは、そもそも根本目的である「産業構造を変えること」だったのだが、正社員の既得権益化に守られて結局非正規雇用増加、女性のや移民などの、労働者の所得から差し引く効果しか生まなかったのがこの20年と喝破する。


これは、経営者にインセンティヴメカニズムがないから、というのが旧来の主張。けれども、ここで強調されているのは、日本社会の30人未満の小規模企業の労働者比率の高さ。29.9%は、スペイン27%やギリシャ35%の間。これは1964年の中小企業基本の制定以来、一気に企業者数が増えていることから、政策によって導かれた結果なのがわかる。ちなみにアメリカは11%、ドイツは13%。アメリカ社会の生産性の高さは、労働者の大企業で働く率が極端に高いことからきているというのはカナダ銀行の分析。ここで重要なのは、日本の大企業の問題ではないということ。いやそうはいっていないが、ボリューム的に言って、最優先順位は、日本の中小企業の非効率の差であって、大企業はしょせん社会にインパクトがない。本来ターゲットにすべきは、日本の中小企業の経営者だったのだ、という気づき。


ここ日本の可能性がある。国際人材評価は、世界4位と高いのに、生産性が29位と先進国最下位レベルに一気に落ちる。この説明が、これまで難しかった。通常の国際競争力では、この数字がほぼ一致するのに、日本には乖離がある。いいかえれば、労働者の質は高いのに、非効率的な組織、経営が過半を占めているということ。けど、日本の大企業が、それほどひどいのか?というと、それ以前に、日本社会の産業構造が大企業比率が低いことに注目する。大企業が生産性を改善しても、日本社会広範囲には影響しない。つまり、大企業を批判しても、あまり意味はないんだよね。


人口減少社会において、日本社会の内需が拡大しない中で、企業者数(特に中小企業が)減らないので、1)価格競争に陥る構造、2)経営者の動機付けがないので価格競争のマイナスを労働者に転嫁する、という構造がこの失われた20年に根づいてしまった。いいかえれば、中小企業の経営者、経営者全般のマインドが、安い労働力を搾取して使い捨てることが、コモンセンスとして構造化してしまった。


日本人の勝算: 人口減少×高齢化×資本主義


だから政策的に「最低賃金を上げる」。


それは非効率で生産性向上が見込めない「多すぎる中小企業」を、中堅企業並み(EUアメリカの定義と同じく)にする企業結合を促すこと。大企業は、銀行の数十行が、3行ちょっとに統合されていることなど、企業結合は進んでいる。冷徹な分析だなと思うのは、人口減少によって需要が減る日本社会で、中小企業が価格転嫁をできず、それを労働者のコストでも吸収できないと、「実施できることは何一つない」と見なしてい点。規模を大きくする(=企業結合)以外にほとんど選択肢がないと見なしていること。「頑張ろう!」とか「努力する!」とか、そういうどうでもいいロマン主義は、一切考えていない。とりわけ、日本の中小企業が自助努力で、何とかするという現在の中小企業の経営者の主張は、この20年以上いっさいなにも進展せず、労働者を使い捨てにしてきた事実から、そういう無駄な幻想、期待は一切意味がないと喝破しているのも、さすが。ようは、政府が「最低賃金の上昇という強制」をしなければ、すべて労働者に価格転嫁するだけなのは、過去20年以上の事実なので、全く選択肢としては意味がないというのが、はっきり言われているのが、さすがだなーーと。

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ちなみに、さらに冷徹な分析だな、と思うのは、生産性が「非効率」というのを、日本文化とか日本企業文化などの曖昧で意味不明なものに収斂させず、小規模企業が多すぎて、設備投資が進んでおらず、安い人材を使い捨てにする構造が、他国よりも多い比率の産業構造だからと説明するのは、非常にクリアー。文化とか曖昧なものは、無視する姿勢が、素晴らしい。大企業の生産性が高いのは、単純に設備投資や技術革新を取り入れる余裕があることで、同じ人材に対してかけられる生産性向上投資の比率が上がっている、というのをデータで論証しているのもさすが。これは、僕の20年以上のビジネス経験、日本とアメリカの会社で働き、アジア中をずっと回ってきて、ヨーロッパ企業と交渉してきた経験からも、合致する。大企業の差は、あんまりないと思う。むしろ、会社の規模の差の方が、物凄い差になる。あとは、産業分野。成長率の高いところは、ベンチャーや小さい企業がいっぱい競合するので、当然「小中規模の発想」になる。むしろ変数は、常に「規模の差」なんじゃねぇ、と僕は思う。


というストーリーは、非常に面白かった。これが正しいかどうかは、何とも言えないが、個人的な実感とはとてもあっているので、非常に読みごたえがあった。


それにもう一つアジテーション、、、というより、なるほど、というストーリーが1つ。


一つは、日本の企業保護の体質がなぜ生まれたか?というのを、外資からの乗っ取り、植民地化への恐怖が激しいとしている点。明確に、年次データがあるので、恣意的にそういう構造が政府によって作られたことが明確なのも素晴らしかった。



なので、待ったなしの中小企業の比率が高いのを変えていかなければならないという理屈を、同じ「植民地化の恐怖」に置き換えてつなげているのが、おおと唸った。


もし単純に、中国が怖いとか凄いいうだけならば、それはダメな意味でのアジテーションに堕してしまうのだろうが、これについては、僕は人生で、日本の財政健全化が必要な理由として、一番、なんというか腑に落ちた。なるほど、と唸ったよ。いわれてみれば、単純で、そんな大したことでもないが、強調されると、おおっと唸る。さすがの発想のキレだよ。難しい経済学的理屈よりも、直感、実感的に、とてもリーズナブル。


日本が自然災害大国であり、とりわけ巨大地震に周期的に襲われ、その可能性が最も高いのは高度集積化が進んでいる東京。いったん複合災害に襲われると、国富が凄まじい勢いで吹っ飛ぶ。「だから」その復興予算のために、常に「財政をあるレベルで健全化している必要性」が、ある。これ、物凄い説得的。


また、日本が、複合災害で、復興予算の借り入れが必要に迫られたときに、現在の世界で、それだけの規模の資金援助ができる国家は、中国だけだろう。なので、日本が独自で対応できない部分は、資金を融通する国家に対して依存し、それを通して支配されるリスクが常にある。。。。これ、個人的には、まじでなるほど、、、と思ったよ。


財政を健全化すれば、その分だけ、政府が縮小するので、再分配というか、リベラリズムの貫徹から遠ざかる可能性がある。ケインズ政策のストーリーが、支持されるのは、こうした見地が大きいといつも思う。大きな政府と小さな政府の、道徳的な視点だよね。しかし、大規模自然災害のリスクが極端い社会日本では、それによる「他国からの経済植民地支配」のリスク回避のために、財政のあるレベルの健全化していないとまずい。だから、放漫な大きな政府を無条件には支持できないという構造は、いやはや納得の一言だよ。もちろんレイヤーレベル、いろいろ議論はあるだろうけれども、問題の構造は、クリアーだとおもった。

究極的に、日本が外資乗っ取りを防止して中小企業の保護が進んだ理由が、「全く同じ」というのが素晴らしい。日本社会にある、根柢の恐怖を、アジテーションするのは、リーズナブルだと思う。


ちなみに、僕は、ほんとSFというか物語の脳なので、まったくもって、小川一水さんの小説を思い出しましたよ、これ。まさに、この話だよ(笑)。


復活の地1


復活の地 1 (MFコミックス フラッパーシリーズ)

『青空エール』河原和音著 不器用な人が、才能がない人が、普通の人が前に進んでいくこと

青空エール 19 (マーガレットコミックス)


評価:★★★★★5つ
(僕的主観:★★★★★5つ)


petronius.hatenablog.com



もうまじめに考えていたのは、2011年ですね。ということは、8年近く前。ずっとと好きでたびたび読み返しては読んでいたのですが、既に2016年で完結していたんですね。気づいていなかった。紙の本で盛っていたのを一度全部整理のために捨ててしまったので、止まっていたようです。ちゃんと貢献すべく、電子書籍で全巻買いなおしました。


昨日全巻を一気に読んだのですが、素晴らしい傑作で、まとまっていて、最初から最後まで「小野つばさという才能もなければ経験もない高校生から吹奏楽を始めた子が、成長していく姿を描く」ことにフォーカスしていて、素晴らしかった。やっぱり大傑作だよなーとしみじみ。また、なんというんだろう、山田君が、素晴らしいですよね。なんというか、とっても二人とも、「じれったい」んですよね。そんなに好きあっているなら、、、というかここまでくるともう愛だよね(笑)、もういいじゃんというのを、「じれったく」ステップを踏む。これ「どんくさい」ともいえるんだろうけれども、こういう風に「丁寧に関係性を深堀」しているからこそ愛に昇華するんだろうなぁ、とみててほんわかしました。ただ、やっぱり、「こんなきれいな恋愛」が正しく進むのは、もちろん、大きくは二人の誠実さなんですが、そこにちょっかい出す邪悪な人が誰もいなかっただけ、という気もするので、僕がもし友人A とかの立場でそばにいたら、もっと前絵に勧めよーーーーと、じれったくいろいろ動きそうだなとかいろいろ思いました。



さて、これ以下は、だいぶマイナスというかネガティヴな話をするんですが、『青空エール』は見事にドラマトゥルギーが本質に届いて完結している作品なので、この作品自体に対して批評ではないんですよ。それに、つばさと山田君たちの人間性や作者の人間理解も、僕は素晴らしいと思うので、、、なんというか、ほんとうは、『青空エール』の話ではないんです。でも、逆に素晴らしすぎて、自分の中の様々なテーマを喚起させたので、メモとして書いている感じです。、、、ちょっといいわけ。




さて、一気に見ると、彼女の行動原理、特に苦しさにぶつかった時のブレイクスルーの方法が、すべて同じ事に気づく。



1)とにかく「才能がなく」ても「あこがれ」を目指して、しつこく執着し続ける


2)嫉妬やいじめには、すべて自分の赤裸々な思いを相手にぶつけることで解決


3)「才能がない」こと、「感情的な問題」には、すべて自分の極限の努力を見せつけることでねじ伏せる


こんな感じ。ええと、先に言っておくと、僕は、つばさの「どんくさいけど、ひたすら目標をぶれずにこだわり抜いて、頑張る」という姿勢は、とても素敵だし、なによりも、報われる最終巻あたりは号泣してつけていました。


しかし、単純に「没入している」だけで、よかった!というだけではなく、もう少し「自分自身の客観性」を入れて見てみたいな、と思ってきました。これは、物語の評価と別の部分で、「僕という個人が見た時にこの類型や翼や山田君をどう思うか?」という日記というかエッセイみたいなもの。なので、評価は、★5で客観的にも、主観的にも最高の傑作です。「そのうえで」あんまり読み返したので、「自分自身」をつけ足したくなって、これを書いています。


僕は、これを見続けているときに、いくつかの作品を強烈に思い出しました。ひとつは、ちばあきおさんの『キャプテン』、『少女ファイト』『アニメタ!』それに、『アオアシ』です。


キャプテン 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)


少女ファイト(1) (イブニングコミックス)


■俺の背中を見続けろという解決法でいいのか?

『キャプテン』を凄く連想したのは、つばさの部活で起きる、極限の努力できる人間への嫉妬、無能な人間への踏みつけ、、、、部活ものではよくある問題ですが、たぶん人間世界の「最もよく起きるどうにもならない」、人生や仲間や、様々なものをぶち壊すきっかけになるもの。これに「どう対処」するかというと、すべて、


1)自分自身の弱さも強さもさらけ出す全裸作戦


2)1)の思いを正当化できるほどの極限の努力


こういう構造で、相手を納得させたり、感情のカタルシスを得ています。分析的に言うと(笑)。小野つばさというキャラクターが、「そういうキャラクター」として嫌味なく感じられるからこそ、このドラマトゥルギーのエピソードに、胸が熱くなります。


が、しかし、僕は何度も同じ方法を行うつばさに、、一気に1日で全巻読み直したがゆえに、違和感を感じました。


これって、あまりにどんくさくないか?


これって、結果的に物語だから成功しているけど、いつもこんなにうまくいかないんじゃないか?


これって、「頑張る」という極限の努力を正当化して、パワハラの温床にならないか?=部活ものとしては、ガチ勢側過ぎて、これだけを称揚できないんじゃないか?


これって、日本のいじめとパワハラを肯定してしまう側に組してしまわないか?



とかとか思ったのです。えっとね、つばさ自身が、苦しみ抜いて歩んだ道筋で、それはドラマとして成り立っているし、丁寧に読むと、気持ちにシンクロして全く違和感はないので、物語としては、完成されていて、そこは批判の余地はないと思うんですよ。


でもね、、、、僕は、何か違和感があって、、、、山田君とつばさちゃん、、、、、あまりに、「愚直すぎないか?」と思うんですよね。


というのは、僕はもっと政治的に動くし、同じ目標を選ぶにしても、もっと立ち回りを考えるだろうし、なによりも、人間としてかなり腐っている先輩方を愚直に、受け入れて、包摂して、すべてに対して真剣に「向き合っていたら」ら、普通は心が壊れて、死んでしまうし、部活もやめてしまうと思うのです。だから、どこかで、線引きはいると思うんです。でも、つばさちゃんは、そんなことを考えられないくらい、猪突猛進です。



正直言ってね、つばさちゃんの魅力は、「そこ」なんです。



「選択肢」とか「得か損」とか「長中期を見通して」みたいな頭の回転が速い真似はできない。だから、「こつこつ積み上げる」そしてその圧倒的な努力を見せつけて、他を制圧する(笑)。でも、これって、あやうい生きかたじゃないかって、思うんですよ。山田君と、支えあえる関係になったけれども、これだけ不器用なもの同士だと、何がきっかけで「マイナスのスパイラル」に入るかわからないと思うんですよ。



正直ね、、、、僕が嫉妬に狂った人間のくず的な先輩とかだったりしたら、「つばさちゃんの人生をめちゃくちゃにする」という方法論を、簡単にいくつも思い浮かべちゃうんですよね。。。。彼女は、それを乗り越える精神力があるので、物理的にできない方法を、いくつも思いついちゃう、、、。世の中には、それくらい心が壊れて、腐った他者というのは、ゴロゴロいます。


そして、「そこまでやられた」ら、山田君とつばさのような愚直なタイプには、対処のしようがない。


・・・・えっとね、、、、どう思ったかというと、「この空間にもし自分がいたら」と思うんですよ。


もしくは、もしつばさが好きになった相手とか、周りにいる友人が、「もっともっと全体を見通す視野を持っていて」かつ「つばさとの関係が深かったら」、、、、きっと違う物語が始まる可能性が高いって。


もっと、もっと、違うルートがあるような気がしてならないんですよ。



やっぱり、僕が持っている世界巻(現実をどうとらえるか)という視点からすると、あまりに「世界に、やり方に、心に余裕がない」感じがしちゃうんですよ。これは、吹奏楽の古豪で、リソースが少なく、才能もないつばさの物語なので、「世界が端的に過酷に残酷」になってしまうのは仕方がないのですが、「世界はもっと、柔らかくややこしい」だろうという思いがあるのです。



■才能がない地点から始めていると、物語は結局のところ大きなところにはいかない


それと、これもつばさの物語は、才能がないところから、成長していくビルドゥングスロマンなので、批判としては、意味がないと思うのです。なので、これは、僕の思い込みというか、僕の世界のとらえ方。


やっぱり、全体を見ると、「小野つばさ」というこの達成したものは何か、といえば、「やる気」を吹奏楽部にもたらしたことに尽きると思うんです。「才能がない」のに、すべてをかけて、戦ったからこそ、他の人たちに感染させることができた。


でも、、、、やっぱりスタート地点が低すぎたこと、本人が「自信がない(指摘されていますね)」がゆえに、全体の目標値の設定が、視野が、狭い。


えっとどういうことかというと、最後まで見て、つばさの技術は、「しょせん普通になった」だけといえるし、彼女の結果を無視して身を捨てて頑張るという「自己検診的な姿勢」というのは、トランペットチームのみで、完結していて、吹奏楽部全部を巻き込んでいるシーンが弱い。



一言でいうと、彼女がもっと「適切な広い視野をもって」、「最初からもう少し最低限の技術と経験があった」ならば、その極限の努力を使って、「もっともっと遠いところまで行けたんじゃないか」と思うんですよね。



これって、しょせん、凡人が部活をやり切って、人生を燃焼させた、という物語にすぎない、、、、と。それはそれで素晴らしいが、物語として何も特別なことは起きていない。



■同じ「極限の努力」を才能と経験と覚悟がある人がやったらどうなるのだろう?


さて、こんなことを思ったのは、「日本の部活もの」って、みんなこれだよな、と批判的に感じたからなんです。


「経験も能力もない主人公」が、「極限の努力できるという能力」で自分と周りを変えていき、命を燃やし尽くして、全国(=日本一)に挑む


スラムダンクでも、キャプテン翼でも、最近のすべての作品でさえも、構造が基本的には、このドラマトゥルギーの再生産。もちろんじわじわ、変っているし、さまざまな類型の答えが成果としてはあるので、単純ではないですが、でも、王道的に、ここにポイントがある。


これ、昭和的な価値観だよな、と思うのです。僕的な言葉でいうと、日本的、もしくは、高度成長期的。何もない凡人が頑張ることに至上の価値を見出す物語。


ここで思い出したのが、『アオアシ』です。


アオアシ(16) (ビッグコミックス)



この作品、いろんな意味で、とんでもない作品だと思っているのですが、ここで指摘したい論点は1つです。



アオアシ』が、「部活もの」と「ジュニアーユース」の構造ちゃんと描いていること。主人公が、ジュニアユースの「選ばれたものたち」の世界で戦うという、ほぼ初めてのスポーツものの設定。



えっと、これサッカーの現実だろうと思うんですよ。「高校の部活でやる」というのと「ユースでプロを目指して選抜された人間のみでやる」というのは、まったく「目指しているものが異なる」ということを。


かくて、『シャカリキ』で曽田将人さんが、自転車競技を描いたとき。それ以降の『昴』なども、すべては天才を描くという物語でした。けれど、「天才を描くと」、感情移入できなくなって読者がついてこれなくなるという問題点から、常に王道は、部活に回帰して、「才能がない主人公」が成長していくという類型になりました。

[まとめ買い] シャカリキ!〔ワイド〕(ビッグコミックスワイド)


この辺りの最前線を見事に矛盾なく描いたという意味で、「部活ものの王道である」にもかかわらず「能力のない主人公が周りを巻き込んで成長する」という作品は、BE BLUEですね。これ、ユースで日本代表に簡単に行けるルートに乗っていた天才少年がたどる道筋が、、、凄いです。僕、読みなおしても毎回号泣します。


BE BLUES!?青になれ?(1) (少年サンデーコミックス)



えっと、『アオアシ』に戻ると、高校サッカーの現実は、「部活」と「ユース」の総当たり戦が公式の構造になっていて、「この違い」というのを、物語でさらっとですが、描かれているんですよね。サッカーをやる「目的が」全然違うの。なので、目指すものが全く違う。人生も、あり方も、人間関係も、すべて違う。


「そのあまりの違いを抱えた多様性」の中で、総当たり戦をするんです。



ぞくぞくします。



でも、世界って、現実って、こういう多様性、、、、「何でもありでわけわからん過ぎる」もんなんだろと思うんですよね。



さっきのつばさの視野の狭さという話は、「白翔という古豪の吹奏楽部が全国優勝する」というのと「才能がない自分が成長する」という古典的な成長物語の日本的なパターンから、スコープが全く抜けていないなぁ、と感じたことなんです。



いや、それは、つばさの『青空エール』のテーマと関係ないから、と言ってしまえば、そのとおりなんで、これは、『青空エール』に対する感想というよりは、僕の「マンガ読み」としての全体からのふと思いついた戯言です。


河合さんの『帯ぎゅ』もそうですが、『シャカリキ』もそう、サッカーもそうですが、「日本の部活の世界」「能力がない地点から始めるだけの戦い」以外の、異なるバトルをしている人が、ルールが、たくさんあるよ、というのを、常に見ていない、、、そういうのが「わかっていてほしい」と常に思うのです。子供たちには。僕は、僕のできる限り自分の子供と部下とか後輩とか、後続の世代の人々に、「僕と同じ低いスタート地点」から頑張ってほしくない。そう思うのでです、、、、もちろん、物事には「才能のあるなし」があるので、情報があっても、才能がなければ、たいていはどうにもならないんですが、、、、、、せめて「視野の広さ」だけは、、、、。と思うのです。なぜならば、「才能があるなし」なんて、最初はほとんどわからいでしょう。それに、「才能があるから」、物事を始めたり継続したりするわけじゃないと思うんですよ。

はしっこアンサンブル(1) (アフタヌーンコミックス)


これなんかの視点は、僕は凄い良かった。工業高校が舞台にされている合唱部の話ですが、「親がそもそも片親」であったり、親がいなかったり、、、普通にサラリーマンをやれてる親なんかほとんどないのが、作中でほぼ全員の前提で話されているんですよね。いいかえれば、「普通?の中産階級のスタート地点にすら立てていない」。もっといいかえれば、ハンデがあるような低いところから、物事を始めなければな他ない設定を組み込んでいるんです。こういう設定にすると、トラウマとかの話になりやすいんだけど、そこは『げんしけん』の作者。その辺をうまく描きつつも、さらっと、世界の「てきとーさ」を、いい感じに描けている。


物語をリードする男の子は、どうしてまだ分かりませんが、合唱は、物凄い知見があるんです。こういうの見ると、「知識は力」だなと思うんです。彼には、もし本気の情熱を使ったら、「どこまで行けるか」の技術的な、世界観の広さが既に、、、、これほど恵まれていない、底辺のスタート地点でも、既にあるんです。彼らが極限の努力をする時には、「最初から合唱の世界のテクニカルな、技術などの最前線を知っ営る」うえで戦略を立てると思うんですよ。「知識がある」というのはそういうこと。


そして、知識を使って考え抜くポイントは常に、「すでに生まれてしまっている絶望的な格差」を、いかに「ひっくりかえすか」です。


さっきのね、、、、『青空エール』の世界にもし自分がいたら、、、と思うのは、つばさのそばに、もっともっと、全体像を教える人が、、、、もっと端的に言ってしまえば、普通の恵まれたサラリーマン家庭なので、もっと協力的であれば、もっと視野が広ければ、、、、もっともっと前に行けたんじゃないか、と思ってしまうんですよね。そうなると、違う物語になってしまうだろうけれども。つばさちゃんぐらいの意欲があれば、モチヴェーションと根性があれば、物凄いところまで行けるんじゃないのか?っておもちゃうんですよ。才能を、ひっくり返す、「からめて」やチート技は、このテキトーで多様な世界には、色々あると思うのです。命をかけるるような根性があれば、「知識を武器の最初から戦略を立てる」ことによって、スタート地点が低くてもゲームに勝てること「考える種」があってもいいのじゃないか。そうんなことを思いました。


また、合唱の世界で、例えば「世界」って何だろう?


glee/グリー シーズン1 <SEASONSコンパクト・ボックス> [DVD]


Gleeみたいなものかな?。これは、アメリカの中で完結している、アメリカの部活ものか、、、、。ほかの国は?歴史は?とかとか、、、、せっかくだから、もっと広く深く、色々や視野が欲しい、と思うのです。



ですです。

『7つの魔剣が支配する』 宇野朴人 えすのサカエ やっぱりサムライ系ヒロインの描写としては、これ以上ないですよねぇ。

七つの魔剣が支配する (電撃文庫)


新刊とコミカライズが出た、うれしい!。


Wikiに、

平坂読は本作のヒロイン、ナナオをサムライ系ヒロインのひとつの到達点と評した


とあるんですが、これうんうんとうなずいてしまいますね。何がって1巻の主人公のオリバーと剣で対峙するシーン。これ、サムライ系ヒロイン(笑)って何なんだよ、と突っ込みたくなりますが、こういう類型厳然とありますよね。その類型が一番輝く時って、「このシーン」ですよね。


「このシーン」とは、『とある飛空士への誓約』で、イリア・クライシュミットと坂上清顕のエピソードをを凄く思い出すんだよね。




何か到達すべき目標に対して「すでに命をささげてしまった」覚悟が定まっている人との関係って、「命を懸けて殺しあう」ってのが、「恋が最も成就する瞬間」になってしまうんだよね(苦笑)。男女関係なしですが、相手が、女の子でヒロインになると、このドラマトゥルギーが動き出してしまう。


男の子が、本当の本当にその女の子を愛していればいるほど、「命を懸けて殺しあう」というライバル関係の最終地点、言い換えれば、どちらかが死ぬ時までいかないと、「その女の子を本当の意味で愛したことにはならない」という、複雑怪奇な構造。


言葉にすると意味不明だけど、ナナオとオリバーが、剣で対峙した時に、このドラマトゥルギーが、一瞬ですべて凝縮されている。


とある飛空士への誓約』は素晴らしく泣ける作品で、このドラマトゥルギーが、イリアと清顕で、ライトノベル7巻分にわたって展開されるんだけど、それが、ほぼ初対面のワンシーンで凝縮されている。


到達点と評されるのは、非常にわかる。まだ1巻の最初なのに(笑)


良い作品です。

とある飛空士への誓約1 ガガガ文庫 とある飛空士への誓約

『アニメタ!』花村ヤソ著 魂を削りながらも憧れに近づいていくことの美しさと残酷さ

アニメタ!(1) (モーニングコミックス)

評価:未評価
(僕的主観:★★★★★5つ)


8月に京都アニメーションの件でなんだか、打ちのめされてしまって、、、、まぁ実際には僕に何の関係もないことなんですが、才能がある人たちの未来が不条理に閉じられたのが、あまりに衝撃だったんだろうと思うのです。不条理は常に、あるので気にしてたら人生生きていけないのでしょうが、あれは、たぶん僕自身がアニメーションが大好きだから、深く心をえぐったんですよね。今やっと、何となく、そのことを考えずにすむようになりましたが、1か月くらいは、なんかいつも頭の片隅にあって、考えるだけで泣けてしんどかったです。あんまり感情が高ぶると、それについて話したりできなくなりますよねぇ。。。

それで、なんとなく思い出して、水島努監督の『SHIROBAKO』を見直したんです。当時、何も考えたくなくて、何か受け身でアニメを見ようと新作をいくつも見たんですが、1話目で「なかなか入れなくかった」んです。いま思うと、やはり感情的にフックがかかりにくくても、受け身でなくて色々「愉しもう」という姿勢を見せなくても、「一気に引き込まれる」というのは、物凄い演出レベルなんだよなぁ、としみじみ思いました。ようは、『SHIROBAKO』は、傑作です、というのが言いたいんです。テーマ性や時代性、自分の感情のフックとか、そういうのに左右されにくい水準を超えていい物語って、要は「残っていく作品」だと思うんですよね。

SHIROBAKO Blu-ray プレミアムBOX vol.1(初回仕様版)

で、『SHIROBAKO』を見直している時に、ふと違和感というか、差異感ですかねぇ。そういうのを感じたんです。あれ、アニメーション制作の具体的プロセスをだいぶわかっている前提で物語が見れるな、と。『アニメタ!』もそうですし、僕は見れてなくて悔しいのですが最近だとNHK連続ドラマの『なつぞら』とか、8月に日本に行ったときに高畑勲展を友人と見に行ったりして、なんというか、業界自体に仕事としては特に興味があるわけでもないし、知らないのに、「なんとなく全体のプロセス」がわかぅている感じがあって、これって、こういう物語がたくさん世に出て、「だいたいこんな感じ」というのが共有されているからなんだろうと思うんですね。なので、このテーマは、どんどんいろいろ深堀したり、様々なテーマに展開できて、いやー題材としていいものなんだなーとしみじみしています。


で、花村ヤソさん。僕この『アニメタ!』凄い好きで、何度も何度も読み返しているんですが、なんだろう、『3月のライオン』『青空エール』を思い出したんですね、って、その時の記事を検索したら、下記のこと書いている。なんというかテーマをしつこく追っているんだなー自分、と感心する(笑)。

petronius.hatenablog.com

petronius.hatenablog.com

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ちなみに、あとがきで花村ヤソさんと羽海野チカさんが知り合いというのを見て、ああ、そうだろうな、これだけテイスト(世界観)と似ていると、好ましいだろうなとしみじみ思いました。えっとね、偶然見た『王立少女パンナコッタ』というアニメに憧れて真田幸という主人公の女の子がアニメーターになって行くという話なんですよ。これがね、もう素晴らしくて。周りが見えない夢中、夢の中にいるような「好きなものになりたい!」という盲目的な成長へのあこがれが、とても真摯に胸を打つんですよ。そして、そういう「成長を目指す生き方」「才能によって選別される」過酷さが、これでもか、これでもかと殴りつけられるように描かれる。


これ長月達平さんの『Re:ゼロから始める異世界生活』を最初に見た時に、「こんなものは見ていてつらすぎるんで売れない!面白くない!」という意見ばかり聞いたんですよ、周りに。えっとね、これは少し背景の説明が要る議論なんですが、、、小説家になろうのサイトで、リゼロが連載はじまったのは、2012年です。2013年ぐらいに、僕はこれを絶賛していますが、それはですね、なろうのフォーマットというか、2010年代の大前提が「苦しい自己の告発・成長しなければならい、戦わなければいけない」という鬱展開は全く見たくない、でした。これは、異世界転生というテーマが、「自分が変わらなくても」「異世界(=マクロの環境)が変われば幸せになれる、成長を努力できる」という背景があって、いいかえれば、現実の世界では「自分ではなくて世界の方が変わらなければ」努力しても自分でどうにかできない!という自己責任論に対する痛烈なアンチテーゼでした。なので、べたな形でのビルドゥングスロマン・成長物語は、当たらない、売れないというという言説がメインにありました。これは、アニメやライトノベルを見る層が、自分自身を鍛えるという視点を持てないくらい弱くなっているという議論の裏表でもあったと思います。


2010年代の時代的な文脈が、「努力してもどうにもならない」という先行世代や価値観に対しての痛烈な批判として機能していたこと自体は、おおむね妥当だと思っていました。けど、僕は一貫して、だからと言って王道の成長物語の物語る系が消えたわけでもないし、またその背景としての「成長したいという意欲」自体が中長期的に消えたわけではないと思っていました。という言いまくっていました(笑)。ようはね、文脈的な同時代性って、5-10年ぐらいでどんどん変わって、しかも1周して元に戻る(=同じではない)の繰り返しをえがくので、「努力してもどうにもならない」という文脈は、団塊の世代からそのジュニア(僕の世代ですね)が死に絶えるか、社会での比率が変われば、消えるなと思っていました。若い世代が古い世代に復讐を果たす前に、寿命が来て死んじゃうので(笑)。また、「異世界転生して」いいかえれば「マクロの環境を無理やり変えて」までも、実は、人間というのは、成長したいもの、動機を持ちたいものなんだ、と思うんですよね。それが「社会環境的に捻じ曲げられている」時代の構造に対しての告発であって、1)時代の現実自体が実際に変わってしまえば、2)物語の中での可能性が追及されつくすと、ちゃんと前に進むというか、らせんの円を描いて、「似たようなところへ回帰する(ずれているので同じものではない)」というのを、これだけ長く生きていると何度も見てきたんですよね。


だから、「ほんとうの傑作」であれば、、、、いやこの言い方は違いますね、その物語が「ちゃんとその物語のもつドラマトゥルギーの本質に到達していれば」、同時代性の文脈なんか関係なくて、素晴らしいものになるんですよ。特に、同時代性の文脈は、「同時代性の文脈に依存しすぎる」ので、時代を過ぎ去ると、いまいち、何が言いたいのかわからなくなっていくんですよね。ちなみに「それが悪い」なんて、僕はつゆほども思いません。1)ひとつには、僕らの癒しに、楽しみに、幸せに資することこそが物語じゃないか!と思うので、同時代のテーマを結晶化して描くのは、むしろそれこそ正しい道!だと思います。2)もう一つには、同時代性のテーマを、こまごまと追及していくと、「その物語類型の持つポテンシャル(潜在性)」が様々に展開されて、ある種のパターンや、そのテーマの持つ具体的な展開力が、具体的に示されます。そうすると、「もう一度一周して」「古典的なテーマに戻っても」その展開力が、具体性がけた違いにレベルが上がるのです。ドラクエの的な世界観が、なろうの「異世界転生」や『まおゆう』の「技術による世界のブレイクスルー」など、さまざまなフォーマット連鎖的に生み出して、物語の「原初的な問い」への「答えの可能性を物凄い広さに拡張してきた」ようにです。



話がずれすぎてる(笑)。花村ヤソさんの『アニメタ!』なんですが、2015年連載開始だったはずなので、これ人気なかっただろうな(笑)、と思うんですよ。2017年にツイートで反響なければ打ち切られていた、というのは、そうだろうなーとしみじみ思います。けれども、僕、この「魂を削りながらも憧れに近づいていく」感じって、『三月のライオン』的ななんというか、このテーマの根源に到達している「何か」を感じるんですよね。あ、もうこれ、答えだな、、、「魂を削りながらも憧れに近づいていく」ってことは、物凄く残酷で苦しいし、途中で死屍累々の屍をさらすけど、でも美しいよね、というお話。


成長するには「死ぬ気で頑張る」という条件が常に必要、、、とすると、「実際に死んでしまう!(それは悪いことだ!)」という告発をよく受けるんですよね。僕も、成長しようと思うと、命削らないとできないなぁ、、、確かに「死ぬ気で」というのは、人を殺してしまう可能性があるから、ポリティカルコレクトネス的にもいってはいけないなぁ、、と思っていたんですが、この話をするたびにLDさんより「なんで死んじゃいけないんですか?」と不思議な顔されて聞かれるんですよね。この意味は「死なないように成長する」なんて言う条件をつける必要はないでしょ、という意味。えっと、つまり「成長」と「命を削る」というのは、セットなんだ、という前提がある。そして「命を削る」のが嫌ならば、「成長しなければいい」という話です。命を削らないで、成長しようというような都合のいいことは、成り立たないという認識なんですね。いやなら、成長しないだけ。という身もふたもない話。。。まぁ極論でいるいろな前提条件が付きますが、最近、これ「なるほど」と腑に説いてきたんですよ。身もふたもなく言うと、成長したいなら死ぬ気で踏ん張るしかない。もし死にたくなかったらがんばらないでください。成長はできないけど。という公式。ちなみに、目標に向かって、極限の努力をしていけば、途中で夢破れて死んでしまう確率は、物凄いパーセンテージなので、、、、というか、9割は死んじゃう(笑)ぐらいのイメージですねぇ。だからこそ、尊く、残酷なほど美しい。成長したい人、憧れに到達したい人は、、、、視野狭窄があるんですね。「周りが見えていない」盲目感がある。これは、いつ死んじゃうかわからない、才能がなかったら、そこで「すべてが消え去る」というゼロサムゲームの中に生きている人で、物凄い残酷で怖い世界なんですね。でも、そのかわり世界はキラキラしている。なぜキラキラしているかは、分かってきました。「その他の余計なものを見ていない」から、目的に収斂していてシャープなんですね、空気が。逆に言うと、目標がなかったり、成長していないと、「周りの余計なもの、、、、ここでいうのは可能性」がたくさん見えすぎて、世界が濁るんですよ。身体的にはこっちの方が楽で余裕があるんだけど、心はキラキラ感がない。でも、これって、比例しているんですよね。都合よい、公式はない。美しいけど、残酷というのはそういう意味なんですよ。


これ、成長についての今まで考えてきたこととと、ロジカルに整合すると思うんですよ。日本社会の成長否定の問題点は、ランキングトーナメント方式の「相手に勝つ」「勝ち抜いて、敗者をつぶす」という思考がだめだったいっていたんですよね。それと、終わりが見えないので「強さのインフレ」が起きるので、際限のない自動機械みたいになる。これらの問題に対して、「好きなことをしよう」という答えを出してきたわけです。ようは、「勝つこと」という見返りを求めると、際限がなくなってしまうので、「終わりがなくとも」「報われる確率が低くても」継続できることを、探そうという道筋になったんですね。


でも、、、

スタート地点が遅いところからビルドゥングスロマン(=自己成長を描く物語)の
王道ともいえるエピソードの連発なんだが、、、、ふつうは、もっと、万能感、全能感あふれて描くか、もしくは何らかの才能があるという設定で描くものなんだけれども、この作品には、それが一切ない。はっきりと、スタート地点が遅い人間が、いかにだめなのか、ということをこれでもかっと繰り返し繰り返しつきつけられる。はっきりいって読んでいて、いじめ???これっていじめなの???ってくらい、主人公の女の子にとって苦難しかおこらない(笑)。もちろん、いじめではなく、これは単に、「事実が主張されているだけ」というところが、さらに切なく苦しい。けど、、、


中略


だから落差がある事にぎりぎりまで追求することで発生する「視野狭窄的な修羅場感覚」というのは、物事を成そうとする万人に訪れる苦しみのプロセスなので、すごく共感しやすいものであるということも言えます。



さて、この「落差があることにチャレンジし続ける」というのは、絶え間なくこの「苦しみのプロセス」を一身に浴び続けるという地獄の道を歩むことになります。『青空エール』のつばさが歩んでいる道は、これです。ビルドゥングスルロマン・・・言い換えれば自己実現や自己成長なんて、苦しいだけなんですよ(笑)。だって、自己否定の連続と、現実の厳しさの洗礼を浴び続けることなんだもの。


petronius.hatenablog.com


青空エール 19 (マーガレットコミックス)


経験と才能の圧倒的な差をひっくり返す方法がるのか?、それがスタート地点の遅い素人集団に可能かどうか?


帯をギュッとね!(1) (少年サンデーコミックス)



とかとか、ビルドゥングスロマン(成長物語)については、いろいろ考えてきたんですが、『アニメタ!』ってまだ話が進んでいないので、「類型に対する答え」が何かあるというわけじゃないんです。終わってみたとこれはわからないでしょうが、、、、



でもね、、ここまで長々ダラダラ書いてきて何なんですが、、、、、そんな「外からの視点」とかどうでもいいくらい、好きなんですよ、この作品(笑)。


真田幸という主人公の女の子が、大好きなの。


ここに出てくるアニメという仕事に情熱をかけている人々が、とても素敵なの。



なぜならば、一生懸命生きているから。



「才能によって選別される」残酷さ、仕事の現実によって打ちのめされる様、たぶんアニメーターの現場って、アニメにかかわる仕事って、、、、どんな仕事でもそうかもしれないけれども、たぶんやりがいだけでは支えられないくらい過酷で残酷で悲惨なんだろうと思うんですよ。ああこれ、新世界系なのかも、、、、いや、そうじゃないな、、、成長を軸とした王道の物語を「普通に際立たせる」には、「現実の厳しさ、過酷さ、残酷さ」を丁寧に描けばいい。普通の現実の世界で生きるというのは、とても大変なことなんだろうと思うのです。ましてやその世界で、何らかの目的や憧れを持ってしまえば、さらに才能による選別など、、、、そもそも生きて到達できる確率なんかほとんどない道を歩まなければなりません。


でも、じゃあ、動機なんて持たなくてもいい、死ぬのは怖いから成長しなくていいといっても、それはあまり意味を持たないと思うのです。だって、人間は、あこがれを持つ生き物だから。人間、と一般化してもいいと思いますが、目的や成長なくして現実の無味乾燥さに耐えられない生き物だと思うのですよ。もちろん、濃淡はあるでしょう。強い目的意識なくても生きられる人もいれば、周りがほとんど見えなくなるような「あこがれだけに駆動されて」生きる人もいるでしょう。


でも、自分が主人公じゃないかどうか、なんてわかりません。えっと、物語の主人公であることが「わかっていれ」ば、それはすなわち、最終的に「成功できる」保証があるようなものです。たいていは。でも、「未来がわからない」「保証がない」というのが現実の本質です。自分がモブのわき役なのか主人公なのか、わかりません。ましてや、いまは物語性を切断する、、、、突然死で、物語の主人公だと思っていたのに、何も報われずにみんな死んでしまうなんて言う物語だって多いです。


そういう、規模しい現実の中で、「それでもなお」「そんなことは関係なし」に、「あこがれに出会ってしまった」ら、幸せなことだろうと思うのです。確率的には、ほとんど討ち死に(笑)して野垂れ死ぬのが普通だとしても。


なんで成長物語が、物語の王道になるかといえば、、、、やっぱり、ほぼ報われずに死ぬのが現実であっても、やっぱり、できれば「あこがれと目的をもって」生きていく方が、人として幸せだろうし、それ以外にどのみち無味簡素な現実を生きる理由って、そんなにないよね。だったら、やっぱり成長を目指していきたいじゃないか、、、というのが、多くの人に支持されるからだろうと思うのです。


富士結衣子という動画マンの話が、僕は胸にくるんですが、、、、世は自分が望む部分で才能がなかったんですよね。でも、それでもあきらめきれない、、、けれども、確実に才能も動機もない、、、自分が望まないところでは生き延びられるし、必要とされもする、、、、というような、なんというか、微妙にシンプルではない状況で、どうやって生きるのが正しいのかよくわからない中で、ギリギリ生きている。でも、、、人生ってそんなもんだよね。


真田幸にしても、なんというか、能力なかったら死んでもかまわない、という感じで試され続けているじゃないでか。あれって、普通に考えたら、ウルトラブラック企業ですよね。あといじめとかんがえてもいい。


でも、そういう残酷な環境で、それでもぎりぎり踏みとどまっている現実を描くわけじゃないですか。


それって、、、そういう人々がおり重なって、世界は編みあがっている。というか、そんな俯瞰した言い方ではなく、なんというか、、、、うーんうまい、シンプルな言葉でまだ言えない。。。でも、野心的な人もいれば、憧れに行動される人も、ひねくれる人も、死んでしまう人も、おかしくなる人も、さまざまなものが折り重なっていて、世界は、物語は進むもので、、、そういうのなんだか、空気をキラキラ光って見せてくれる気がするんですよね。


少なくとも、僕は、『アニメタ!』を読んでいて、そういう気持ちになる。『3月のライオン』も『青空エール』も同じように感じる。


うーん、まだ言葉にならない、、、でも、なんか同じものを感じるんですよ。


まぁ、とにかく、好きってことです。さあ、みんな読もう!(笑)



アニメタ!(3) (モーニングコミックス)

『映画大好きポンポさん』 杉谷 庄吾【人間プラモ】著 肩書が欲しいだけのワナビーを超えて、それそのものを愛すること

映画大好きポンポさん2 (MFC ジーンピクシブシリーズ)

評価:★★★★★5つ
(僕的主観:★★★★★5つ)

確か哲学さんにおすすめされたもの。結構話題になっている上に、アニメ化するという話なので、知っいる人は知っていると思うのですが、これ、傑作です。映画への愛溢れて、素晴らしい。もともとは、映画紹介のための、よくある小作品という設定だと思えるんですが、作者の力量と物語の力が、どんどん膨らんで大きくなった感じの、めずらしい作品。とりわけ、きれいにビルドゥングスロマン(成長物語)としてまとまっているものよりも、2巻が、僕は好き。★5は、誰が読んでも面白いうえに、何かのプラスアルファがある!という僕的評価で、物語が終わっていないのに、文句なしで5つ出るのは、読んでほしい!という表れなので、ぜひ読んで!。という気持ちです。作者さん、大した才能だぜ!。スピンオフの作品読んで、素晴らしいので、この人、物語を作る才能があるんだろうと思う。


あんまり考察書いていると読みにくいうえに、記事の数書かなくなってしまうので、個人用読書メモみたいな感じで。今日は短く。


2巻が素晴らしい。ジーンくんの、創作の狂気、クリエイターの性を、ガツンと示してくれるところが、たまらない。それに、追い詰められたジーンくんが、創作においてブレイクスルーするさまの具体的な手法、道筋が、胸にグッとくる。彼は、映画が好きなだけのヲタクで、華麗な才能も、天才性もない。けれども、愚直に、「繰り返す」ことだけはできる。そして、富や名声や「監督である」ことよりも、「自分の好きな誇らしいものを捜索する」という情熱が、はっきりと勝っている。美しいな、と思う。なんでこれに感動するかというと、ジーンくんの映画への情熱が、「ワナビー(何かになることだけが目的)」で「ない」ことがはっきり示されているからだと思う。ともすれば、ビルドゥングスロマン(成長物語」というのは、憧れたものに「なれた!」(1巻はまさにそうだよね)というサクセスストーリーを描くので、その人(主人公)が、ワナビーなだけの陳腐なやつなのか、肩書を超えて「それそのものをが好き」なのかが区別がつかなくなってしまう。けど、2巻の話は、それの枠組みをぶっ壊す話なので、えがった。



『映画大好きポンポさん』2巻発売 アニメ映像TVCM 【MFCジーンピクシブシリーズ】


全部いいですよ、買いましょう!。それぞれで紹介されている映画を見直したり、見て見たくなって、うずうずします。


映画大好きフランちゃん NYALLYWOOD STUDIOS SERIES

『私の百合はお仕事です!』未幡著 百合分というよりは、疑似姉妹制度に憧れがあるのかもなーと思った。

私の百合はお仕事です!: 1 (百合姫コミックス)

評価:未評価
(僕的主観:★★★★4つ)

仲谷鳰さんの『やがて君になる』が、そろそろ電撃で最終回ですね。ペトロニウス的には、百合分が足りなくて、最近どうしようと悶々としていたのですが、未幡さんの『私の百合はお仕事です!』を見つけて、尊い気持ちになっています。てれびん君に、おすすめされたんだっけかな?。ふと振り返って、今野緒雪さんの『マリア様がみてる』と『やがて君になる』、『ななしのアステリズム』、『桜Trick』とか、いろいろあるけれども、自分の中で、一番見たいのは、やっぱり『マリア様がみてる』の「スール」制度なんだよなぁ、としみじみ思う。いといろ在り方はいじっているけれども、シュヴェスター(疑似姉妹制度みたいなもんかなぁ)がいい味を出しているよなーってしみじみ思う。たぶん、男女関係なく先輩後輩に、ある種あこがれが凄くあるんだろうと思う。日本社会では、パワハラ著いじめの温床にしかならねーなという現実は見えつつも(笑)。とはい、まだ5巻で途中ですが、この辺りに挙げたものが好きな人は、とても尊い気持ちになるので、おすすめです。哲学さんにおすすめされて『かげきしょうじょ!!』もめちゃいいんだけど、こっちはやっぱり面白さのコアが、『ガラスの仮面』的な成長の物語なので、そっちに軸足があるので、面白さのコアが少し違うかなー。最近『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』『色づく世界の明日から』とかの青春がキラキラしている系を見ていたり考えていたので、そっちのテイストとだなぁと思う。このへんは、「もう来ない夏休み」みたいなもので、キラキラする学生時代の青春が全く経験がないので、見ていると、とてもと尊い気持ちになって、こういうありえたかも、の世界にぐっときます。こういうのを吐き捨てて嫌いにならなくて、尊く見れるのは、悪くない大人になれたなーとほのぼのする、アラフィフのおっさんです。


かげきしょうじょ!! 1 (花とゆめコミックス)


ちなみに『かげきしょうじょ!!』めちゃおすすめだよ!今度哲学さんとラジオやろうよ!といっているくらい、はまっています。そういえば、最近、風邪ひいて(家族全員ぐるっと回ってる)咳が止まらず、何かをこつこつやったり、勉強したりする気力が失われた結果、kindleに黙々と課金して、意外に最終巻迄一気通貫で見ていないものとかをこつこつ見ています。量を追いもとめているのと、最新話まで追い付いた後、待っているうちに忘れてしまって追いつけなくなったりするのが結構ある。『マリア様がみてる』35巻で「祐巳・祥子編」が終わっているんだね、、、これ追えていなかった。これは、いかねば。いやーなんというか、いつも無様をさらしているよ。でも、こうやって立ち止まったというか、もう疲労して何も考えれねーというようなときは、振り返って、好きなことに耽溺するのはいい機会かも、と思う。


えっと、白木陽芽と矢野美月の二人の話かなと思っていたんですが、3巻以降からぐっと、知花純加と間宮果乃子の二人の話にフォーカスされて、やっぱり群像劇とまで言は行かないけれども、複数人に魅力が出てくると、関係性がぐっと複雑になっていっていいよね。陽芽ちゃんと、周りの承認というか、外づらばかり気にしている小者的(笑)に思えたんですが、矢野さんにしても、果乃子ちゃんにしても、ほとんど意識せずに口説き落としていますよね(笑)。いやーこの子、大物だわ。結局ねぇ、他人の評価だけを気にしているようなアダルトチルドレン的な振る舞いしてても、なんというか器って、でちゃうんだよなーってしみじみ思います。この子は、核心というか、ある種の心の強さの上で、それを選んでいるので、色々なことがあろうとも、結局乗り越えられるだけの心の強さがあるんだろうと思うんですよね。だから、その本質の部分を見ちゃうと、空気を吸うように回りが口説き落とされちゃう。あーなんか『放浪息子』のにとり君を思い出す。彼は、それが極まったキャラですけどね。空気を吸うように、次々に美少女を口説き落とす女に子になりたい女装の少年(苦笑)。
放浪息子 1 [Blu-ray]

いや話がずれたけど、なんというか、最初から、どのみち他人中理解される必要ないとかこじらせておきながら、次々に、矢野さん果乃子ちゃんを毒牙にかけちゃうのは、本質的に、彼女が陽性で、健康な子だからだよね。これ、普段とのギャップ見せられたら、たまんないだろうなーと思うよ(笑)。うーむ、ええ子だ。『彼氏彼女の事情』のゆきのんを思い出すけど、性根が正しい子は、何をしても救われちゃうというか、苦しいことを乗り越えるんだよね、自分の力で。逆を言うと、性根というか根本にマイナスを抱えていると、なかなか壁を乗り越えられない。。。厳しいのう。まぁ、それも人生なんだろうけど。果乃子ちゃんとか、だいぶやばい人だと思うんだけど、、、、純加みたいな人に出会えるかどうかってのも大きいよなーと思う。出会えたのも、一歩踏み込めるのも、ストーカーのように陽芽につきまとっていたからで、、、何がきっかけで人生変わるか、分からないよなぁ、としみじみ。


なんだろうなーーーうーむ、相手の心に接触できるとでもいおうか、こういうの尊いというかいいよなーとしみじみ思う。だって、50年近く生きてても、そういう出来事って、本当に少ない。ましてや、学生時代は皆無(ふつうは逆なんだろうけど)だったしなー。社会人になったり、年齢を経ると、こういう赤裸々に河原での殴り合い的なことって、出会えなくなると思うんだよねー。失うものが大きすぎて、こんな赤裸々にしゃべったり、行動できない。青春っていいよねー。ふと、自分の子供たちの会話を見ていると、こういうのを垣間見れるときがあって、ニマニマしてしまう。若いっていいよねー。自分は若い時いい思い出がないので、若くなりたいとか全く思わないけど、青春の世界でいろいろ幸せそうに(しんどいとは思うけど)しているのを眺めるのは、幸せだなーとしみじみ。いや、思考がおっさんだ苦笑。


私の百合はお仕事です!: 5【カラーイラスト特典付】 (百合姫コミックス)

『プリンセス・プリンシパル』 (Princess Principal) 2017 橘正紀監督 シャーロット王女が、革命がおこるほどの矛盾を抱えるアルビオン王国をどう変えるかが見てみたい

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評価:★★★☆3つ半
(僕的主観:★★★☆3つ半)


■アニメを何の基準で選ぶか

いつものごとく風邪ひいて弱っているので、ずっとアニメ見たり漫画見たりして、何とかつらい日々をやり過ごしています。ちなみに、めちゃくちゃネタバレなんで、ネタバレ気にする人は、読まないでください。

これ銀鷹さんとレスター伯爵に紹介されて、最初だけ見てて見れてなかったんだけど、アマゾンプライムになっていたので、一気に見てみる。いまいくつか一気にアニメを見ようとしていると、1)「見るに堪えない演出」のものと、2)「水準を超えてはいるけど。。。。」と、3)「観はじめたら逃げられない」の3つくらいに、物語って分けられるんだよなーとしみじみ思う。1)になるのは、けっこう珍しくて、たいていは、2)-3)の間ぐらいになると思う。なので「その中で」何を選ぶかって、難しいよなーと思う。だって、FGO(ゲームね)でも、映画でも、旅行でも、選択肢は多様にあって、そのなかでわざわざ、というのは、いつも難しい。まぁ、最後は、やっぱり友達に紹介されたというのとタイミングだけだなぁ、とは思う。とても難しいのは、「意義ある視聴」とでもいおうか、批評というか文脈を見るには、ほんとうは、すでに価値が認められた過去の作品を(見ていないのが山ほどある)こつこつ見るべきで、その情報は物語マインドマップでも何でもあるので、そこに行くべきだとは思うんですが、新しいのや自分の癒しのためだけに見るものがないと、それはそれで、苦しくなってしまうんだよなぇ。けれども、「新しくて話題になっているもの」と「自分の好きな癒し」のものばかり見ていると、世界観がアップデートされないというか、どんどんただ単に「強度が上がる」のを求めるだけで、飽きてしまって、最終的には自分の感性を磨滅させる気がするんですよね。なので、それなりの比率を、意識してふらないとダメなんだけど、、、というお話。時間が足りないというよりは、「エネルギー」が足りないって感じがする。というのは、見る時間をひねり出そうとすることは、いくらでもできると思うんだよね、、、、仕事で追い詰められている時ほど、コツコツ膨大な量を見てたりするんで、、、。いかに「新しいこと(見ていないタイプにトライする)」「古典を勉強しなおすこと」みたいな、自分にとって安楽なコンフォートゾーンから出ることが、人間にとって、常に難しいかというお話。


■スパイもののエピソードで構成するか、全体を統合する軸を置くかどうか?

という中で、ちなみにいうと、こういうスパイもの系は、僕はあまり好きではないです。この作品は『カウボーイビバップ』とか『ルパン三世』とか、あれらは、僕の好みとかぶっ飛んで、傑作ですが、各1話毎に完結するような演出をするものは、好みじゃないんです。なんというか、個々のエピソードが、大きな幹ににドラマトゥルギーに接続していくダイナミズム見たいのを見たいという思いがとても強い。とりわけ、アニメの1-2クール(12-24話)くらいのもので、SFチックで、大きなテーマを持つものが、僕は凄い好み。それと、凄い外れるんですよね。


ただね、これ全部見終わって、やっぱり、「そこが見たかった!」と思うのは、最終の数話半だよね。この作品、背景の政治構造を、これでもかって考えていて、それが各エピソードに奥行きを与えている。スチームパンク的って言われそうな感じだよね。この構造でマクロの大きなテーマって、アルビオン王国とアルビオン共和国の、革命が起き程の国としての矛盾を「どう解決するか」になるだろうし、その場合、メインキャラクターに、アンジェとシャーロット王城がいる限り、


第2話でシャーロット王女がいった「女王になってこの国を変える」という言葉


これが、すべてだと思うんだよね。さらに言えば、どうやって、それをなすか、という話。


けれども、スパイのエピソードで各独立した演出にしているので、「具体的にどんな矛盾を」「どのような手段で解決するか」が描かれていない。というか炙り出されていないし、メインターゲットで演出していない。理由は、たぶん監督が12話では、これをやり切れないとぶった切ったんじゃないかと思うんですよね。でも、僕は「そここそ」が見たいし、その軸があるからこそ、あきらめずに、ずっと待ってて見た感じ。その続き?が、映画でされるようなので、そのあたりは、よかった、とほっとしている。この物語の構造ならば、まさに「それ」が見たいんだよ、と思うので。アイテムについては、いろいろある。ケイバーライトという物質の独占が問題なわけであって、これをどうするのか?という、本来は、その「何が解決されるべきか」という「問題の構造」が明らかになっていれば、それを軸に各国のスパイ合戦の重みが出てくるわけで、、、そこまで明示的ではないので、この辺は惜しいなぁ、と少し思う。


とはいえ、映像、演出、全体の軸を期待させる脚本構造、誰にでもすすめられる!というには、もうひとひねり欲しいけれども、アニメファンならば見て損はなしで気のいい作品です。




「プリンセス・プリンシパル Crown Handler」第1章 特報

『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』2018 増井壮一監督 学校空間における友達との「同調圧力」に対する恐怖がめちゃ感じる

青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない 1(完全生産限定版) [Blu-ray]


評価:★★★★4つ-
(僕的主観:★★★★4つ+)

2019年8月末。レスター伯爵におすすめされていて、ずっと、積まれていたこれ。風邪ひいてしまって、毎日のルーティンができる気力がない時に、一気に見てしまうのは毎度のこと。1日で全部見ました。えがった。「よかった」というのは、人それぞれで、けっこうテキトーな言葉なんですが、かといって「言葉でにできるところ」や「気になったところ」というのは、部分なので、どこに注目するかというのは、なやましいところなんですが・・・・・全体的に「良かった」という感想の基礎に、ずっと「この作品はいつからいつまでに描かれた作品なのだろうか?」ということととそれに関連して「このテーマというのは、2010年代通してとても注目されていたやつだよなぁ」というちょっと古さというか、少し以前のテーマのイメージを感じていました。ちなみに僕は、アニメ一期と小説が6巻まで、しか見ていません。映画まだ見れていない。。。


■学校空間における友達との「同調圧力」に対する恐怖というテーマ


えっと、何を言っているかわからないと思いますが、、、整理すると、著者の鴨志田一さんは、2014年から現在2019年9月で既刊9巻まで出ていますね。えっとね、アニメを一気に見ている時に、この作品世界の大前提でずっと、思っていたのは、、、、



学校に通うって、空気を読むって、なんて怖いことなんだろうということでした。



作品世界でのすべての人の悩みが、学校空間における、友達との「同調圧力」に対する恐怖です。この作品のSFというか「物語の種」になっているのは、思春期症候群という現象?、病気?ですが、これの原因が、梓川咲太、桜島麻衣、古賀朋絵、双葉理央、梓川花楓、最初のテーマは、これでもかって「学校の友達関係で空気を読む読まない」という話が脅迫観念で語られているのがわかる。

青春ブタ野郎はプチデビル後輩の夢を見ない 『青春ブタ野郎』シリーズ (電撃文庫)


特に、古賀朋絵の2巻の『青春ブタ野郎はプチデビル後輩の夢を見ない』は、なんというか、大前提として、学校生活における「友達関係で空気を読まないといじめぬかれる」という「大前提」が、なんというか、告発も疑いもなく「所与のもの」として、当たり前のものとして批判もなしにあるところは、けっこうぞーっとした。アニメは、とてもきれいに完結していて、妹のかえでのテーマが、アニメには一本筋がとおっているのですが、かえでのテーマには、いじめですよね。いじめで、精神をぼろぼろにされて、ひきこもった話。これに兄貴の咲太(この物語の視点の基礎)が影響受けている、兄貴の、、、言い換えれば家族に対する影響の話にもなっているところが、アニメのまとめ方はいいなーとしみじみ思うんですが、、、、これ、かえでちゃんはめちゃかわいいし、兄貴の咲太くんがめちゃいいやつなので、素敵な物語、ライトのノベル風に、になっているけど、客観的事実を考えるぞ、ぞーっとするほどひどい話ですよ。学校空間の同調圧力によるいじめが、極端に進むとどこまで行って、本人と家族をどれほどまでに追い詰めるかを、すべて描いているんですもん。これ、物語だから「どこかで解決するだろう」という期待があるからいいけど、これ「実際にあったら(もちろん世の中にはあふれている話)」とんでもない地獄ですよ。家庭崩壊、本人の人生崩壊の物語ですから。。。そして、それはどこにでもある普通の光景ですよ、日本では、、、、。


自分に引きつけて考えると、毎日、ほんと神様?かなんかわからんけど感謝したいな、としみじみ思うのは、いまんところ、うちの子供たちは、そういうやばい出来事は起きていないってことですよ。僕も父の転勤で苦労したけど、たいへんだったの北海道から東京のくらいなもんだけど、うちのちびたちは、日本の中だけでなく、アメリカと行ったり来たりしてるし、、、。子供を育てて思うのは、「他人はどうにもならない」ってことです。自分ですら、仕事でちゃんと生きていけるのか、とイライラするけど、それは「最後は自分が破滅でも何でも受け入れる」覚悟を持てば何とかなります。でも、家族は、特に子供は、どうにもならない。でも、頭くるったやつがクラスメイトのなるとか、「空気」とか、もうどうしていいのか、さっぱりわからない。しかも「自分じゃない」出来事は、手助けするにしても限度がある、、、、どこかで、本人が戦うしかないんだけれども、どんな狂った出来事にあるかどうかは、もうすべて運だよな、、、としか思えない。でもそれによって、引きこもったりしたら、家庭崩壊ですよね。。。。生きていると闇がぽっかり穴をあけていて、いつそこに落ちるかわからない、、、そう思うと、生きるのが怖くなります。ちなみに、うちの息子は、かなりのコミュニケーション強者で、スクールカースト上層部の人っつぽいで、、、なんで、こんな子に育ったのか意味不明なんですが(やっぱサッカーとかチームスポーツ好きだと、こんなふうになるのかなぁ、、、としみじみします)、、、そんな彼でも、常に、空気は意識しているようなので、まぁ恵まれている立場にいたからといって、「楽なわけじゃない」というのは、どこも変わらんなとしみじみ思います。しかも、アメリカの学校でも日本の学校でも、どっちでも、まったく「空気読む」なんてどこもある話で変わらないよ、としみじみ語っていますから、うちの息子。うちの息子曰く、英語できない人が、ただ単に空気読めないだけで、できるようになると、めちゃくちゃ「読まないとやばい」空気あるよ、とのこと。


ちなみに、この話は、鴻上尚史(こうかみ しょうじ)さんのこのコラムを凄く思い出します。いつも。鴻上さん、素晴らしい世界観というか世界観で、いつもグッときます。でも、この視点は、日本の視点だよなぁ、としみじみ思います。


dot.asahi.com



話が自分日記みたいになったんですけど、戻すと、2010年代の、この10年間ぐらいのライトノベルを主軸とした物語のテーマとしてこの学校空間の地獄をどう抜け出るのか?というテーマが、ずっと生きているよな、と僕が考えていることとリンクするんですよね。で、このテーマのパラフレーズというか、さまざまな同工異曲というか、こうした時代の問題意識に対して、様々なサブテーマが展開して、その系を追い詰めて生きていると思うんです。そして、ライトノベルが、日本のエンターテイメントの主軸であった時に、この問題意識はだいぶ、様々な結論に到達していているな、と。問題が解決したわけでも、解決の処方性ができたわけでもないんですが(笑)、認識は前に進んだし、時代の主要テーマは、既に「そこ」にはないなーと。新海誠監督の『天気の子』もそうでしたが、セカイ系の結論に、物語として、到達している。そういう作品が多いので、この1900年代後半くらいからの25年くらいかなぁ、のテーマはだいぶ終わりを告げている感じがするんですよねぇ。


『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』8‐9巻 渡航著 自意識の強い人が、日本的学校空間から脱出、サバイバルする時の類型とは? - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために


ええと、まだまとまっていないけどメモ的に


1)恋人がいるよりも友達がほしい
結局、恋人や友達がいたところで、「自分」が何をしたいからわからないと充実は訪れない

2)友達というのは同調圧力の奴隷ではない
「ほんとうの友達」という虚偽問題~ぼっちであっても、いやむしろぼっち(=自分がやりたいことを知る)であることなしに「ほんとうの友達」はできない。だからぼっちと非ぼっちの対立構造を意識すると、人生が地獄になりやすい。

3)リア充と非リア充の対立は思い込み、どっちもしんどいのには変わらない
  非リア充が敵だと思ったら負ける。むしろより大きな問題を解決する同盟者だと思わないといけない。モテと非モテの構造対立も同じ。リア充爆発しろと叫ぶとき、自分の人生が詰んでいます。敵ではなく同盟者だと考えないとダメ。
  
4)スクールカーストの構造に永遠に閉じ込められる恐怖感
どうやったら、そこから抜け出ることができるの?~いつまでも同じ時間が続くかないことを認識しないと人生詰む。解決方法は、卒業。もしくは、学校空間以外での関係性や目的を作ること。ちなみに、日本的学校空間が、同調圧力の地獄であるのは、構造的問題なので、変えようがない。

5)自意識の、ナルシシズムの地獄から抜け出すにはどうすればいいのか?
偶然の連鎖がそこにはあるが、しかし「何か!」がありそう。まだそれが見つけ切れていない。しかし、「自分が変わることなし」に、「世界」が変わるというのが重要なポイント。自分が変わらないのに、結果(取り巻く世界が変わる)が変わるという意識は、小説家になろう異世界転生テーマと一致する2010年代の文脈的テーマ。
 

僕は友達が少ない』『ココロコネクト』『俺の妹がこんなにかわいいわけがない』『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い』 で、ずっと考えてきたことでした。


それぞれに、様々な具体的な処方箋、認識の展開がなされています。


なので、ずっとこれを追ってきて、2019年現在のペトロニウスとしては、この学校空間の地獄からどう抜け出すか問題は、なんというか、最前線じゃないなーという感じがしていたんですよね。最前線だったのは、2010年代の前半。もちろん、さっき話したように、日本的同調圧力の地獄、学校空間でそれが何億倍(苦笑)にも増幅されるという日本社会の構造がなくなったわけではないので、この問題が消えてなくなったわけではありません。けれども、エンターテイメントの、時代的に誰もが、「それが最前線のテーマだよね」という認識は、なくなっている気がします。なので、青春ブタ野郎のテーマが、ちょっと古いな、と感じたんです。けど、これが2014年であれば、最前線の問いですよね。なので、いつの時代なのかな?と思ったんです。


で、時代依存の文脈的なテーマの展開は、メディアミックスでは、5年くらいのずれが常にあるし、ある文脈的なテーマが終わったからこそ「大きく表に出てくる」ということはよくあるので、これもそういうものなのかなぁ、と思いいました。



■具体的な風景とノスタルジーを喚起する青春時代の思い出は、どこからくるのだろうか?


という文脈の話は、いったんおいておいて、、、まだ小説を読み切っていないので。



これ、レスター伯爵が好きだ、と聞いていて、きっと、面白いんだろうなーーーというのと、きっと「青春ものとしてキラキラしているんだろうなー」という予感がありました。Twitterで、savaさんが聖地巡礼をしているのを見て、僕も、神奈川周辺には住んでいたことがあるので、なんかいろいろ刺激されたので、今回アニメを見たというのがあります。見るものが多すぎるので、やっぱりタイミングと、友人に紹介されるというのが、大きなトリガーになりますよね。



えっと、上の「文脈の分析」見たいのは、なんというか批評家スタンスなんですよね、なんか「見つけよう」とか「自分の持っているテーマに引きつけよう」とかしていること。それはそれで、面白いし、様々な他の作品との関連性や、物語の構造をどういう「そうとして理解して」何をテーマに、何に応えようとしているのか、とかそういう「分解、分析」が、言い換えればしゃべるのができるようになるので、それはそれで楽しい。いつも思うのは、そういう風に「分解しよう」とか「テーマを見出そう」とかすると、自分が感じたことを捻じ曲げて見ないようになったり、テーマ(自分の思い込み)を補強するため「だけ」に物語を見るようになってしまうので、それはだめだなぁ、といつも分離しておこうと意識している。批評家スタンスの罠だと思っているんですよねぇ。あと、「語るに足るべきこと」や「現在のアドホックな現象や主張」に無理やり合わせるようになると、なんだか、バランスが悪くなりやすいんですよねぇ。自分の持っているテーマが、既に古いかも、とか、間違っているかも?という、意識なしに作品を見ないとだめだよなぁといつも思う。文脈とか問題意識って、数年すると、構造の根本から前提が変わって、まったく反対になったりするので、そういう意識がないと、世界にとてもおいていかれる。


えっと、まぁ、背景はいいとして、、、、


petronius.hatenablog.com


色づく世界の明日から Blu-ray BOX 1


なんというのかなぁ、、、『色づく世界の明日から』を見た時と同じような感慨があるんですよねぇ。


あと、友人のレスター伯爵と話していると、いつも彼の田舎の、学生時代の青春と友達の話に、話が到達するんですよね。彼が、「そこ」に支えられて生きているのが凄くわかる。そこが原点であるのも。その時の日常が、彼にとってとても大切なことも。そして、同時に、僕には、そういった「青春の思い出」が何一つないんですよねぇ。うらやましくて、時々、めちゃ妬ける。。。少なくとも、憧憬やノスタルジーを持つような青春は僕にはありません。ひたすら、つらいだけの学生時代で、二度と戻りたいとも思えなし、それが人生の支えになったこともありません。あ、、、「二度とああはならない」という激しい動機はあります(笑)。学校空間というのは、僕には、一言で言って地獄以外の何物でもなく、しかも友達も一人もいませんし、いまに至るまで一人も残っていません(笑)。家族の関係も最悪でしたし、とにかく、早くこの地獄が終わらないか、毎日、遠い目をして空を眺めるか本を読む子供でした。なので、こういう物語を観たり、キラキラした地元の、、、子供時代の思い出を持つ人が全く理解できないんですよね。なので、ある種、ファンタジー(現実にはあり得ないもの)として、楽しんでいる感じがとてもします。でも、そんな僕にも、一つだけ青春というか、凄く大事な風景があって、それって、鎌倉とか神奈川のあの辺の風景なんですよねぇ。というのは、奥さんがまだ恋人だったころ、時々デートしたことが、忘れられないようなんですね。あと、新婚の頃、二人で関内にも住んでいたし。あ、、、書いてて分かった、、、僕は、たぶん、友達に全く期待していないんだ(笑)。。。少なくとも、学生時代に友達やそういうものが、何か幸せな自分に結びつくとは、全く信じていなかったし、そんなかけらもなかった。僕が、友達ができた!と思うのは、30も半ばすぎて、、、こうしたオタク友達ができてからであって、なので、僕にとって、「幸せになること」は、「好きな女の子と出会うこと」以外のなにものでもないんだなぁ、、、。うーむ、、、そかぁ、、、僕にとって青春時代の「ノスタルジーを喚起する風景」というのは、大学時代や社会人の最初の頃の奥さんと恋人だった時のデートの記憶だけなんだなぁ、、、。これ、ちょっと発見かも。なので、学園日常ものに全く共感がないんだ。。。ちなみに、『色づく世界の明日から』や『天空のエスカフローネ』が、胸に響くのは、自分がものすごく深く愛した女の子に、「二度と会えなかったら」という喪失のテーマがあるからなんだろうと思う。自分にそんなことあったら、どうなるかと、寒気するんだろうと思うんですよね、、、、。うーん、ちょっと自己発見。僕にとって、救済って、好きな女の子と出会って結ばれることなんだな、、、。あと、たぶん、僕にとって「楽園の日常」というのは、仲のいい友達と戯れることではなくて、好きな女の子との思い出なんだろうねぇ。しかも、僕は、その人と結婚しているから、基本的に青春やノスタルジーが奥さんとの思い出とリンクしている。。。これは、物事を見るときに、物凄いバイアスになっているなぁ、、、いま気づいたけど。。。よく考えると、奥さんとの思い出深いデートって、全部、横浜か鎌倉だ、、、。あ、あと、遠距離恋愛してた名古屋だ。。うぉっ、そうか、、、宮原るりさんの『みそララ』がめちゃグッとくるのは、あれ、名古屋の駅前だ、舞台、、、。なんか、めちゃ気づきだった。。。まぁ、すみません、読んでいる人にはどうでもいい話ですねぇ、、、(苦笑)。


でも、これ、物語に「何を期待しているか?」というのの個人によって、かなり分かれてしまうってのの理由をよく示している具体例だと思う。


えっと、なんというのかなぁ、、、、住んでいる土地って、僕、あまり興味ないんですよね。子供の頃からよく転勤してたし、社会人になってからは、さらに転勤激しくて、まじで世界中どこに住むか、ってなんか、もうどうでもよくなってしまって。仕事の都合、妻の都合、子供都合で、別にどこでも行けばいいじゃん、という思いがある。自分が、アメリカのめちゃ広い家にも、日本のうさぎ小屋的マンションで、子供に部屋をあげたら自分にプライヴェートの空間がないとかの状況とかでも、どっちでもほとんど気にしない。そういう意味では、こだわりがほとんどない。あと、どこに住んでも、そこが幸せで好きになってしまうので、さらにこだわりがない。まぁ、人間動物だし、慣れるでしょ、的なイメージがある。だからこそ、というのはあるけど、「ノスタルジーを喚起するような故郷が欲しい」的なないものねだりも同時にあるんですよね。けど、そもそも、あんまり土地にこだわりがないので、そういう気持ちを喚起する「差異」がよくわからない。この辺りの「故郷が欲しい」という意識と「グローバルシティズンとしてどこへでもいく」という意識は密接だし、たぶんこれから重要な社会問題のテーマになっていくんじゃないかと僕は思っています。というのは、「住む場所に縛られている人」と「縛られない人」の対立、新興住宅地や都市化による住民(や移民)の流入がもたらす、新旧住民の絆の破壊は、これからのまさに最前線のテーマだろうと思うので。

petronius.hatenablog.com


あっと、話がマクロにいってしまった。えっとね、要は自分には「故郷の風景がない」ということがいいたいんですね。まぁ、まだ自分には地元があるほうだと思いますよ。それなりに長く縛られて住んでいた場所がありますから。けど、もう数年もすると、人生で一番長く住んだところは、アメリカのカリフォルニアになるんじゃないでしょうか、、、。思い入れ、がないんですよね。東京の風景にも思い入れがなかったです。けど、、、最近、自分の住んでいた東京の西郊外や東京の風景が、とても内面化するというか、美しいなと思うようになってきたんですよね。それって、エルフェンリートの鎌倉の風景であったり、細田守監督などの中央線沿線の風景だったり、新海誠監督の新宿の風景だったり、岩井俊二監督の桜の風景だったり、、、たぶん、自分の現実が、3次元と2次元の重なり合いにある世代なんだろうと思うんですよね、僕らは。3次元の故郷にそれほど縛られていない。でも実際は目にしているけど思い入れがなかった、、、んですが、それが、物語の中で描かれて、かつ強化されているんですね。新海誠岩井俊二監督が典型ですが、きれいじゃないですか、彼らのフィルターにかかった東京や日本は。ノスタルジーって、こういう風にも生まれてくるんだなぁ、としみじみ思いました。あ、これって聖地巡礼の議論ですね。そういうのと同じような、ものがある。『色づく世界の明日から』とか、素晴らしかったんですが、、、、僕の中でこのノスタルジー効果がいまいち生まれなかったんですね。制服とか、日本の高校の生活のノスタルジーは喚起されますが、、、、けど、『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』は、案の定というか、めちゃくちゃ胸にしみてきて、これって、自分の人生の中に重なる風景があるかどうかなのかもしれないなーと思いました。細田守監督の作品とかも、東京の西郊外のシーンが、もう胸にしみて沁みて。。。


うーむ、関係ない話になってしまった。



いま小説読んでいるので、たぶん、、、続く。