あなたは、誰かの背中を追いかけたことがありますか?


ふと思う。

カミナについて考えていると、誰もが、「あいつは生き残ったらダメなやつだったはずだ!」と、いいます。

そして、それは、論理的には、僕も正しいと思う。原作者の意図もそういう部分が透けて見える。

でも、言われるたびに、なぜか、「なにかが違う!」と僕の中で叫ぶ声があります。

いや、事実をつなぎ合わせると、たぶんそうなんだと思うんですよ、「論理的に」は。

だけど、そういう評価を、どうしても認めたくないし、カミナをバカにするやつを見ると、たまらなく怒りがわいてきます。


なぜなんだろう?、と不思議に最近考え続けています。


頭では、それなりに納得できるのですが、心が納得出来ないんです。


論理的に説明できないので、人のいうのははばかられるし、、、つまりそれは僕の思い込みか、僕の中の僕個人の倫理にすぎないのではないか?という疑問が生まれてしまうからです。

他人にある程度後半に共感を得ようとすれば、論理的たらざるを得ません。



けど、うまい説明の言葉がまだ見つからないんです。


ただ、、、ふと思うと、僕は、もし彼を否定する人が目の前にいたら、こう聞いてみたい?



「あなたは、誰かの背中を追いかけたことがありますか?」と。




僕は、よくロールモデルという言葉を言います。それは、抽象的な理想や概念では、人はとても動きにくく、人が真に動機が燃え上がり感染する時には、



「なにか凄い奴に出会った!」



という、「衝撃」や「オーラみたいなもの」だけだったりします。




けれども、人間という存在は、「自分の等身大の目線」と「過去の経験」からしか世界をなかなか実感できません。


だから、「自分よりはるか高いところにある視点」というものは、「低い視点」からは絶対に理解できません。


つまり、自分が「高み」に成長するチャンスに出会っても、その高みにいる人を見ても、人は理解できないのです。


けれども、「中身なんか何もわかっちゃいない」のに、巨大な衝撃を受けて、自分の人生が回転してひっくり返ってしまう時が、人生には時々あります。



そういうものは、たいていが、自分が「こうなりたい!」とか「何だかわからないけど凄い!」と、「思い込む」相手がいる時だけのように僕は思います。


そういう、自分の存在を、どこかで超越してしまうようなものを「見せてくれる人」が僕のいうロールモデルというやつです。


他人を動機づけられないロールモデルには意味はないからです。


けど、僕の人生でも、なかなかに不思議なのですが、「この人は凄い!」と思って、憧れて、死ぬ気で突いていった結果、実はそれほど大したことがなくて、、、、僕がはるかにその人を遙かに追い抜いてしまうことが時々あります。


シゴトで、僕が「親分」と呼ぶ最初に仕えた、心から尊敬する上司は、はっきり云えば、もう僕とは天地の差があります。・・・・それが言い過ぎでも、ある種の男気を貫くために、しょせん経営者レベルの人材になれなかった部分もあり、最高の営業部長ではありますが、経営では器が小さかった、と言わざるを得ません。


そして、同い年の時には、全く違うレベルまで僕は到達すると思います。



・・・・・けれど、僕はその上司の背中に憧れた、あの「絶対的な存在感への畏怖と憧れ」は、今でも忘れられません。



僕は、実は、その恐怖の大魔王のような上司に、あなたは天才的な営業マンだが、経営の視点がないから、上には行けない!といいきったことがあります。…精確にいうと、努力する(=男気を曲げて、より大きな世界に踏み出す)ことを放棄して、ある「価値観」の世界に留まったのですが、、、僕はいまでも、その時も、「それは逃げではないですか?」と思っています。



シモンが、カミナに思っていた気持ちも同じようなものだったのではないか?と思うんです。



なのに、僕は、その「一度心底あこがれた背中」は、いまでも僕の中の絶対的な幻想として、誇り高くそびえており、立場的には圧倒的な差がついた今でさえ、、、、彼は子会社ですが、僕は会社の中枢にいます・・・・その人を、誇らしい師匠として、深く深く尊敬しています。



・・・・なんとなく、意味わかるでしょうか?



僕は、論理的には、その上司を、極端に言うと「小粒の無能な人間」と断じているのです。それも会った最初の時から。



でも、その人は、僕には憧れを抱かせるだけの、絶対的な存在として、胸に屹立しているのです。



それは、ビジネスライクな合理性の世界で、魂を使ったシゴトのやり方をする人だったからです。



そう、合理性の極まったビジネスの世界にあっても、常に主人は人間の心や思い込みだ!ということを僕に教えてくれた、最高の師匠だったからです。



その一点をもって、僕は、永遠に彼を、師匠の呼び続けて敬うでしょう。



その「一点」は、たとえどんな環境にいても、「それこそがビジネスマンに最もやりにくい」重要な真理だったからです。ビジネスの武器は、すべて論理です。そして、論理は、可能性の否定に一番の効果を発揮してしまい、新し世界へ飛躍する、もしくは自分や今あるものをぶち壊す蛮勇さを失わせてしまいます。

基本的に、真の経営者、指導者は、物事を壊す、イノベーティブする「蛮勇」とそれを支える徹底した論理性と数字という、両立しがたいものを同時に両立するからこそ、真の経営者と呼ばれるのだと思います。人を指導するということは、そういうことができないといけない。僕の上司は、このバランスを追及し損ねているという部分で、惜しいかな、器が小さかった、としか言いようがない。もちろん、通常のビジネスマンレベルをはるかに超える論理性と数字へのこだわりのある人だったので、、、、彼が率いていたビジネスが、外資に売却されるというような極端なことがなければ、きっと経営者になりあがったとは思います…が、命をかけて構築した彼のビジネスは、非本流ということで売却されてしまい、、、、彼には、数字を支えるだけの組織や部下なしに、蛮勇と男気だけで、戦うしかなくなってしまっていました・・・・


そして、そのある種の「わがまま」と「蛮勇さ」のために、彼には上層部から嫌われてしまいました。


まさに、革命がなった後のヘタレカミナです。。。。


うまく説明できないのですが、論理的には、僕はその人を、器の小さい人だと分析してしまいます。全盛期の彼の部下だった時ですらそう直接反論していたし、いまなんかまさに、事実として差がついています。


・・・・でもでも、その人を僕は、物凄く尊敬していて、敬っているんですよ。


自分でも論理的には理解できない。


心が、そう叫ぶんです。


あの時、、あの状況で、二人の中にあった「なにか」が、それほど尊いものに見えるんですよ。


この気持ちは、たぶん生涯消えないでしょう。



・・・そして、彼よりもはるかに高い実力と器を得て、組織と世界を変えて、あの時、上司が見せてくれた「なにか」を実現して世界に示してやりたい!と僕はいつも心に誓っています。


その上司は、男気を貫いて、ドンキホーテのような行動をする人でした。

僕は逆です。過剰に論理的。

・・・・僕は、自分の男気を放棄してでも、過剰に論理的になり・・・・経営の視点でものを見て現場を切り捨て・・・・彼と逆の行為を、徹底的に貫きながら、、、、彼が夢見た生き方とビジネスのやり方、何万人、何兆円というビジネスの器で実現させたいのです。


シモンや革命政権のメンツが、カミナに抱いていた思いとは、そういうものだったのだと思います。


そういう、最初のイグニッションを与えてくれること、そんな火花と燃料であれた、一時期の時間を共に過ごしたことの価値が、「その後の凋落」ぐらいで消え去るのだろうか?って僕は思うのです。

だから、もう一度僕は問いたい。


「あなたは、誰かの背中を追いかけたことがありますか?」と。


もし、追いかけた経験があるのならば、きっと、その出会いに、その時の思いを嘘にしないため、絶対にその「追いかけた背中」をバカにすることはないでしょう。そして、その人がどんなに凋落しても、きっと忘れられないはずです。否定できないのです。それは、ハートが。たとえ関係なくなっても、口では言えなくなってさえ、その人への深い敬意が、胸に残り続けるものなのです。

誰かの背中に憧れる、というのはそういうものなんです。




・・・・・なんというか、オレの兄貴をバカにするなっ!!!



って思うんですよ(笑)。他人にバカにされるのは許せないんです(笑)



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