憧れをベースに成長する時の姿勢〜他者の内的豊饒さに敏感になれれば・・・


いや、個人的な片思いなんだけどさ
http://d.hatena.ne.jp/sutatin/20080527/1211846713
文字の洪水に溺れながら

人間誉められて、悪い気がする人はいません(笑)。素直にありがとう。ちなみに、これって僕が言う、何かを学ぶ時、成長するときには強烈な憧れの志向性と内的感情をベースにしないと継続しない、というものと同じことなので、まぁー自分に何が死の価値があるかは不明ですが、自分が好きなものには、猪突猛進で、憧れが消えるまで(本物ならば生涯消えないし、偽物であったり自分の動機とはずれていればおのずと離れていきます)常に突入突入です。


ちなみに、何度も記事に書いているけれども、自分が憧れている人に対して奴隷(普通の人間以下)であるという自覚、、、これいいかた悪いなーーー(苦笑)、いつものリアル僕のセリフなんですが、、、ようは、相手に対してメリットを渡して相互間享受ができない状況にあるという自覚がある時には、常に物凄い謙虚な姿勢(=奴隷・下僕モード)をつらぬいて、スキスキ攻勢をリアルに表わしまくることが重要です。もちろん、返すモノがないのならば、気持ちで返せ!というともいっているあれです。人間、誉められて悪い気がする人はいません。人間なんてナルシシズムとhard-noseな生き物なんで、おだてられまくると、すぐうれしくなるものなんですよ。万人がそうです。間違いなく。それは認知、存在の容認ですから。他者から認められるほどうれしいことはないんです。


あっと、ちなみによく陥るわなは、自分がこれほどスキスキいっているんのに相手がまったく歯牙にもかけてくれない・・・なんて思ってはいけません。それは相手と自分を対等に見ているセリフで、そういうバカは一生成長できません。相手よりも自分が奴隷状態にある時は、成長するのは「常に自分自身と自分自身の行動だけ」であって、相手になにかしてもらう・・・軽く声をかけてもらうことすら、泣くような感動ととらえなければなりません(笑)。ちょっと極端ですが、見返りをすぐ要求する人がおおいうような気がするのです。人間は現実の局面局面では、対等でも平等でもない、というリアルがわかっていない人が多すぎると思う。ちなみに、これは憧れの対象が、とても会えないような身分や立場の人だったり、歴史上や書物の中の人だったりした時を考えればよくわかると思います。普通はそういう方が多いです。僕は、理念としてのシンボルと、現実のロールモデル分けていつも考えています。




ちなみに、誉める・おだてるのも、誠実さ&スキルが重要。




ここをみんな間違えるのですが、「何を認めてほしいか?」は個人ごとに千差万別。てきとーなおべんちゃらは、120%確実に見抜かれます。相手を認めるには具体性が必要です。


「あなたのこの意見・行動は、僕なりに解釈するとこういう意味で、それは僕の素晴らしいと思う〜の価値観と一致していて、、、だからこそ尊敬しています!・・・だから、小さいことですが、僕はあなたの意見を受けてこういうことを実行しました!」


というような、詳細で具体性がある言葉・行動で、毎回報告されて、それがちゃんとその個人が重要と思っているものとずれていないことがないかぎり、相互認証はされません。的外れなほめは、相手の侮蔑と軽蔑を買うだけです。また、自分という存在に敬意を払って追いつきたい!といっていからには、毎回会う時にサプライズがあって、成長していることを見せないと、、、なんだ自分の与えている影響はこの程度か、、この程度の小物にまとわりつかれる俺ってダメな人間だな、、とさらに相手の落胆を生みます。


また、仮に一度でも憧れの姿勢を見せるのならば、自分が学ぼうと思った人への礼儀礼節を、時間的経過も含めて維持しないと、いけません。それは誠実さを疑われる行為だから。ぶっちゃけ多少時間がたって、アレーこいつたいしたことねーわ(笑)、と思っても、礼節は続けるという意味です。それは、まず自分が相手の小ささを見抜けなかった眼力が低いことをわざわざ周りに知らしめる必要はないことに始まり、このパターンの人間関係を繰り返すときに悪しき慣例となって自分の心を汚すからです。一度でも信じた人間に対して、少なくとも礼節だけは(馬鹿にしていても外には絶対に出さない)貫くのが肝要。

あっ、それと、誉めるのは、①ストレートと②変化球があって、①ストレートは本人に直接言う方式で、②変化球は、本人がいないところでこそ誉めまくる(=必ず回りまわって耳に届きます、悪口もね!!)。というのがあります。実際は、②の方が、物凄く価値があります。コミュニケーション戦略としてね。


いや、これは僕に対してやれ、というのではなく、新しい職場にはいったり、自分が凄い!という人に対する姿勢です。なんというか、僕が普段考えている理念型みたいなものです。僕も常にこういう姿勢で、世界に臨んでいます。



誇りを持つことはぜんぜん問題ないんです、むしろそういう人からこそ色々な面白い体験とか情報がいただけます、でもそれだけにしか誇りを持っていない、いやもてない人は本当の意味のプロなんかじゃなくてただの自己満足に終わっていることが多いんです。だからあまり魅力も感じない。でもだからといってそういうことを指摘でもすると、とたんに険悪な雰囲気になってしまう。うーん、ジレンマ・・・。



ちなみに、こういう指摘で険悪になるのは、相当きみの話のもって行き方が下手で、かつ相手の内的豊饒さを見抜けない頭の悪さか(こっちの可能性が高いよ)、もしくはは話にすら値しない相手なので、そういうやつはさっさと切り捨てましょう(笑)。


ちなみに、全方位で成長したいのならば、すべての人間は語るに足る内的豊饒さが必ずあるはずという、万人平等的な意志で世界にのぞまないと、確実に、ナルシシズムの檻にとらわれます。自分には思ってもみなかった視点で、他者は生きているものですから。そういうものへ、価値のリベラルな意思がなければ、必ず独善に陥るものです。


見たところ、まだ社会人にすらなっていないようなので、人がどれほど苦しんで普通の生活をしているかとか、当たり前の生活をしながら、ビジネス以外のものにコミットすることがどれほど不可能に近いほど難しことなのか・・・・そういう生きること、当たり前の社会人として責務を見事になすことの本質的な困難さを知らずに、こいつらわかってねーわ的なことはおもってはいけません。いや、何かしらあるはずだ!という姿勢は常に必要です。






・・・これって、アドバイスというよりも、自分に対する戒めだなーーー(笑)。つーか、なんでおれって、こうすぐ説教臭くなるんだろうなー。なにさまなほどの駆け出しのくせに…。


備考


ちなみにふと思うが、ビジネスビジネスを騒ぎ立てる奴らが僕は嫌いなのは、そういう奴に限って家庭を妻を犠牲にしていることに鈍感な屑が多いからなんだよな。ビジネスと家庭なんて本当は両立しないんだよ。どっちも凄まじいシゴト量なんだから。その本質的不可能さに対するある種の圧倒的な謙虚感がなくして、両立なんて本当はムリなんだ。だから平気で家庭に負を押し付ける。そういうのは、美しくないし、カッコよくない・・・。僕だって、それが難しいと思って日々苦しんでますよ…。なかなか難しいのだよ、そういうのは。相当意識しても、難しいものなのだよ。