『磯崎新の「都庁」〜戦後日本最大のコンペ』平松剛著 「東京」を巡る物語〜東京の縦と横をシンプルに描く良書(1)

磯崎新の「都庁」―戦後日本最大のコンペ磯崎新の「都庁」―戦後日本最大のコンペ
平松 剛

文藝春秋 2008-06
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評価:★★★★★5星つ
(僕的主観:★★★★★5つ)



■「東京」を巡る物語1〜東京の縦と横をシンプルに描く良書

厚い、字が細かいし小さい・・・・と、手に取った時から少し、読むのに躊躇した。こういう分厚い本は、無駄に説明が多く、資料を読み込んだが故に血となり肉となっていない無味乾燥な文字の羅列が、多くなりがちなものだ。光の教会 安藤忠雄の現場』の素晴らしい読書体験で、名前こそ深く印象に残っていたが、もうそれから7年近くもたっている。最近、仕事も忙しく「受け身で気持ちを癒してくれる」マンガやアニメなどに、自分の娯楽時間を使用することが多かったという落差も重なって、読むのが躊躇していた。が、そんな躊躇は、ぶっ飛んだ。いや、素晴らし本だ。これ、相当記事書くと思います(笑)。とりあえずゆっくりメモ取りながら書いているので、まずは(1)を。ぜひ、読むべき本ですよ、これは。というか、平松剛建築サーガみたいなシリーズ感覚で、『光の協会』と併せて読むといいかもですね。

光の教会―安藤忠雄の現場光の教会―安藤忠雄の現場
平松 剛

建築資料研究社 2000-12
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全体を貫く問題意識とイメージが、シンプルにしっかりとした骨格を形成している。だから、物凄くわかりやすい。それを一言でそれを表すと、「東京という物語」を描ききった作品だ。また綿密な取材を通してであろう、小説風の一人称形式で語る語り口のため、まるで小説のようにサクサク読める。この手の本は、必ずしも学術書ではないので、新書に近い機能(=多くの人のその世界を広めていく)を持つのだから、サクサク読めるということは、その語り口も含め非常に大事なことだ。物凄くわかりやすい、と僕は思いました。


時代としては、戦前から1980年代迄を、3人の建築家のキャリアを軸に描いている。いや、もちろんメインは、磯崎新の幻の終わった戦後最大の大規模建築コンペでの都庁の低層案が主軸なのだが、でもね、「これ」を描こうとうすると、東京という都市そのものの歴史を、縦(その古き帝都の香り)から横(80年代の鈴木俊一都知事の君臨した都政の複雑な権力構造)を立体的に浮かび上がらせないと、そもそも本を書く意義がなくなってしまう。磯崎荒が都庁に挑もうということは、磯崎新が「その決断をした」ことつまびらかにするために、個人史から彼に影響を与えた東京帝国大学東京大学の日本の建築の歴史そのものを説明しないと、説明したことにならないからです。これ一冊で、建築と東京のことが凄く深く理解できます。


さて、日本を代表する3名の建築家の師弟関係を見てみましょう。これは、縦の基軸ですね。



0)ル・コルビジェ


1)前川國夫


2)丹下健三


3)磯崎新


この3人は、すべて東京帝国大学(もしくは東京大学建築学科卒の師弟関係にあります。その上、闘将・前川國夫は、1928年に東京帝国大学を卒業後、そのままパリへ赴き、あのル・コルビジェのもとで修業を積んだ、、、といえば、まるで全世界に繋がる近代建築の歴史を紐解いているようなものです。

この一冊で、近代建築の流れがかなり良くわかるし、ないよりも建築家という職業が、どんなことをやっているのか、その最高の部分(と同時に足元まで透徹した泥くさい部分も含めて)を知ることができます。建築家志望や、それに関わる人にとっては、とても素晴らしい紹介本になると思うし、興味本位の人にとっても、われわれの住む「東京という土地」がどのようにデザインされているのか?ということが、その意思決定の権力のプロセスまで含めて、物語のようにワクワク読めて理解できるのだから、こんな一石二鳥の本はありません。


ちなみに、建築とは権力です。


巨大近代建築は、それを設計し施工することによって、人々の人生や行動の仕方をすべて支配してしまう、最も恐ろしい暴力装置です。これの生まれ出ずる仕組みを描く物語(=プロセス)を、現場(の記録)を、知っていて損はない、と僕は思います。

養老天命反転地』 荒川修作+マドリン・ギンズ 身体を通して感じる空間
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080424/p2



ル・コルビュジエ(Le Corbusier、1887年10月6日 - 1965年8月27日)はスイスで生まれ、フランスで主に活躍した建築家。本名はシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ(Charles-Edouard Jeanneret)。フランク・ロイド・ライトミース・ファン・デル・ローエと共に近代建築の三大巨匠と呼ばれる(ヴァルター・グロピウスを加えて四大巨匠とすることもある)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%93%E3%83%A5%E3%82%B8%E3%82%A8

Le Corbusier
From Wikipedia, the free encyclopedia
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Charles-Edouard Jeanneret-Gris
Le Corbusier


Personal information
Name Charles-Edouard Jeanneret-Gris
Le Corbusier
Nationality Swiss / French
Birth date October 6, 1887(1887-10-06)
Birth place La Chaux-de-Fonds, Switzerland
Date of death August 27, 1965 (aged 77)
Place of death Roquebrune-Cap-Martin, France
Work
Significant buildings Villa Savoye
Charles-Edouard Jeanneret-Gris, who chose to be known as Le Corbusier (October 6, 1887 ? August 27, 1965), was a Swiss-born architect, designer, urbanist, writer and also painter, who is famous for his contributions to what now is called Modern architecture. In his 30s he became a French citizen.

He was a pioneer in studies of modern high design and was dedicated to providing better living conditions for the residents of crowded cities. His career spanned five decades, with his buildings constructed throughout central Europe, India, Russia, and one each in North and South America. He was also an urban planner, painter, sculptor, writer, and modern furniture designer.
http://en.wikipedia.org/wiki/Le_Corbusier






■「東京」を巡る物語2〜「歴史という物語」と「自分という物語の接続」


「東京という物語」という概念は、実は僕はずっと考えている概念なのですが、この物語の馥郁たる香りの素晴らしさを感じるには、実はちょっと複雑なことを説明・理解しなければなりません。僕のブログではずっと書いてきていることなので、よく読んでくれている人はわかると思うのですが、何かを深く体感するためには、修行というか努力が要ります。とりわけ抽象度の高い複雑な概念を体に染み込ませて、まるで空気のように「目に見えるすべてものをその解釈の枠組みで体感できる」ようになるためには、かなりの継続的な努力が要ります。仕事でもないのに趣味でこれをやるのは、結構努力と根気が必要なものです。


さて、「東京という物語」を体感するためには、僕が以前書いた「縦軸の歴史の継続性の自覚」というものを抽象的に理解して、実践して、その果てに、体感があるものです。この説明の対象者は、そうですね・・・特に郊外化が進展して歴史性から完全に「根切り*1された1970年代以降に生まれている人に対して有効な説明です。

そして縦軸とは? 歴史感覚の継続性があるかどうか?です。これが、ほとんどの作品・物語、学説はないんです。実際は、1940年代に日本の革新官僚の手によって作り出された制度というのが、戦後も継続していて、実は戦前の日本と戦後日本は、まったく本質自体は変わっていないことに、日本人が非常に無自覚なことです。この学説は非常に有名すぎて、もう例を挙げるのもめんどくさいです(笑)。なんで、そんな歴史の継続性に対して無自覚か? 。これは1945年以降の戦後民主主義思想とかアメリカによる洗脳とか、まぁいろいろ理由はあるが、とにかく日本社会自体が、1945年を境に全てが変わってしまった、と幻想を抱きたがっている部分にある。これは、たぶんそれ以前の価値観と国家民族としての世界戦略とそれ以後があまりに変化しているために、どうしてもそう信じ込んでしまうのだろう。また、戦前の経済構造に関する理想が究極に完成したのは、ニューディーラー(ほぼ隠れ共産主義?)の米国GHQ米国占領軍によってという(笑)エラクひねくれたねじれがあることからも来ていると思う。


物語を評価する時の時間軸として過去〜日本社会を描くとき
http://ameblo.jp/petronius/entry-10012793578.html


えっと、なにが言いたいかをシンプルにまとめると、ベビーブーマー、つまり団塊の世代の子供の世代、、、団塊のJrの世代以降になると、、、ちょうどのこの本の時代背景である1980年代に子供・青春時代を経ている人々には、歴史性へのコミットメントが非常に薄いという構造的心性*2をしているようなんです。・・・・えっと、だから、この世代を市場とする時代では、あらゆる物語や言説に、歴史性が失われているものが多い。そういう言説は、常に何を描くかというと、「いまそこにある権力のメカニズム」だけを描くんですね。そして、それほど面白くないものはない!(苦笑)。なぜならば、「いまそこにある」ということは、言い換えれば、もう文字に書かれている時点でかなり遅いし、しかも、読み手にとって汎用性が効かないんですね。「ふーん、そういうものがあるんだ?、俺には関けないよね」みたいな。だって鈴木俊一都知事の時代の権力構造を聞かされても、ふ〜ん?で終わってしまうでしょう。


ところが、ここに縦軸の歴史性が挿入されると、全く様相が異なります。というのは、いつもしゃべるマービン・バウワーのForces at work*3なんですが、これは、時系列といま現在のメカニズムを同じ土俵で論じることで、その「先のこと」も同じメカニズムで予測するという行為なので、つまり、いま現在の我々のリアルタイムで起きることも、この縦軸と横軸にいよる立体がうまく描けていると、かなりの確率で予測できてしまうのです。ちなみに、過去の大きなイベントの縦横軸の分析を通して物事にコミットすると、横軸(=現在のメカニズム)しか考えていな人々に対して圧倒的なアドバンテージになるので、シゴトをする人にとっては、これらの情報は超がつくほどの価値のあるものだと僕は思います。・・・・・ちなみに、有用であるという以上に、歴史性の自覚があると、生きるのが、シゴトをするのが、物凄くおもしろくなるんです。だから、自分属する組織や土地や国などの歴史を学ぶことは、本当は楽しいことだと僕は思うのだけれどもなぁ…。まぁこのへんは僕がいつも書く生きる「実存」の輝きを増す方法のひとつなので、それはまた今度に。

とにかく、日本社会のあらゆる組織を舞台にするものは、まず日本社会の構造的よく横軸の問題点と、縦軸の歴史の継続性の自覚 というものが、重要だと僕は分析しています。そして、あらゆる会社の理念やミッションにも、これがないと最後の軸が通らないんですね。だって、その組織の設立理念やつくられた構造の原因を無視しているわけですから。 この歴史の継続性を意識して、今の日本の歴史的に続いてきた問題点をえぐることがなければ、それは、組織分析であれ、経営であれ、文学であれ、小説であれ、つまらん!、と僕は思うのです。


物語を評価する時の時間軸として過去〜日本社会を描くとき
http://ameblo.jp/petronius/entry-10012793578.html


だから、「おもしろい!」と、ただの娯楽としてだけではなく、何か自分の人生の糧として資するという意味での「おもしろさ」を持つものは、とりわけ日本を題材にした時は、簡単に評価がつくのです。歴史性に対する自覚が強烈でなければ(変にイデオロギーに歪んでいるのは困るが)、面白いとも価値があるとも言い難いのです。作り手が何かの対象を、日本社会で行いときには、この失われている歴史性へのニュートラルな形*4での再現を試みているかどうかで、編集者と作者のスタンスがちゃんと、事実というか読者に対して洗脳という姿勢を取らずに、賢明な対等で真摯な態度で向き合っているかは、すぐわかってしまいます。この作品の中で、なぜこうも見事に、この「歴史という物語」と「自分という物語の接続」がキレイにまとまっているかというと、それは、東京新都庁のコンペというマクロの歴史をテーマにしながらも、語り口を「小説の一人称的な*5」三人称という、物語の主人公のような等身大の感情移入できる視点から、事実とマクロを眺めるという手法をとったが故に、うまくいっているのだと僕は思う。もう、メチャメチャ感情移入できたもの。一言で言うと、文体の選択が秀逸なのだと思います。




■「東京」を巡る物語3〜過去からの重層たる繋がりの果てにいる「自分」


さて、上記の2で指摘したのは、「歴史という物語」と「自分という物語」の接続が、文体やドキュメンタリーの構造の中に仕込まれているので、感情移入しやすいという指摘だった。第二章などは、いきなり青木宏氏という磯崎新アトリエの実行部隊の隊長さんの視点から話が進む。先ほどのル・コルビジェから続く4代目の世代の建築家になるわけである。こういう等身大の視点と感情におとして描くというのはドキュメンタリーとしても、難解な話を他者にうまく伝える技術としても優れていると僕は思います。


もう少し本そのものではなく、この「東京という物語」を読む・実感するための抽象的な解説をしておきたいのだが、、、、これが理解されていないと、僕が何故、「そこのポイント」に悶えて感動するか、ということの「本を読む実感する面白さ」がうまく伝えられないと思うんです、、だから、しばしもうしわけない。

えっと、歴史性がはく奪されている僕らの世代では、意識的に努力しないと、過去からの重層たる繋がりの果てにいる「自分」というものが失われて、真っ白な世界にいる根切りされた「個人」として、世界と相対してしまい、生きるのが不安になって苦しくなってしまい無気力になる、というのが僕の見立てです。またあまりにも世界を短絡的に見てしまいやすい※6*6

丸の内都庁舎の敷地、つまり現在の国際フォーラムが建っているところは、その昔、江戸時代には土佐藩の藩邸(高知の山内家)があった。坂本竜馬も一時期、寝起きしていたことがあるという。また、忠臣蔵の憎まれ役、吉良上野介の屋敷もこの近所で、江戸城の・松の廊下での刃傷沙汰の後に本所(両国)へ移された。ちなみに、いま有楽町マリオンのある辺りが、南町奉行所だった。これを当時のお役所と考えれば、有楽町と丸の内での歴史は江戸時代にまでさかのぼるわけになるわけだ。


p16

僕にとって国際フォーラムって、定番のデートスポットだったんですよ。映画観て、ここの上の方を、ふらふら散歩する。こういう立体的で迷路のような建築は大好きで、隠れる場所もあって、ちょっとHなこと、、、とまではいわないが、柱に隠れて抱きしめたりキスするのにちょうどよかったんですよ(動機が不純)。夜に行けば、意味がわかるはず(笑)。で、映画の試写会とかもよくあるので、好きな場所の一つなんですが・・・ここが、もと都庁で、しかもその前は、土佐藩邸!、しかも坂本竜馬も寝起きした!とかなるとぞくぞくしていきますよ。知らなかったので。


いままでこの場所は、「自分にとって有用な機能」でしか見ていませんでした。使用方法もですが、あの近代的な感じの雰囲気が好きで、会社帰りや大学の帰りにときどきフラーとよって眺めたりして帰ることもままありました。これは横軸(=今の自分にとって見える現在)です。けれども、縦軸で、坂本竜馬土佐藩がつながると、たとえばいま狂っている『風雲児たち』という物語のイメージと、自分の住んでいるところがリアルな実在性をもって接続されてしまうんですよ。坂本竜馬は、もともと海援隊という日本初の株式会社をつくって日本の貿易立国構想を、指し示した人なんのですが、、、その船にのっていた岩崎弥太郎という経理担当が、のちの三菱財閥三菱商事の創設者で、この人が湿地だった丸の内に近代建築群をつくって官舎を誘致するという三菱地所の基礎をつくったんですよね。そういうことがバンバン接続される。そして、自分の所属する組織や住む土地との関連性が、複雑な層となって感覚の中に、浮かび上がってくるんです。三菱グループなんて、シゴトで物凄い関係あるし、そうでなくともMITSUBISHIの製品は日本中にあふれている。こういう「今の実在」に歴史性が接続されると、歴史自身に異様なリアル感が感じられることと、今目の前に見ているモノの背後にある歴史の重層的な蓄積を実在して、感動してビビッドな躍動感がある感じが訪れるんですよ。ここまで感覚を持ってくるのは、難しいのですが、これはちゃんと勉強して、ちゃんとリアルと関わって生活者として、真剣に生きていると確実に訪れる実存感覚だと思います。「今ことの時この場所に生きている自分」が、膨大な歴史の体積の果てに存在しているという、、、なんというのだろう、歴史という巨大な物語の自分が一つありで部分なんだ、という実感です。


おっと、あまりに話が「読み方の前段階の姿勢」で長くなってしまった。(2)に続きます。

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みなもと 太郎

リイド社 2002-07-26
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*1:※1郊外化が進展して歴史性から完全に「根切り」された
戦後教育、とりわけ日教組共産党イデオロギーの深い浸透による、ナショナリティーとりわけ健全な右翼意識の育成への反発・失敗による、子供の歴史感覚の完全なる欠乏。・・・まぁこれは日教組とかの特定の組織の「せい」ではなく、そもそも1)総力戦争後による敗北後の国家は、強烈な戦争・暴力アレルギーになって国を傾けること(イギリスのチェンバレン首相を見よ!)、また2)日本人がとりわけ歴史性に対して忘却癖のある心性を持つこと、さらにいうと、3)郊外化の進展による核家族化にる大家族制度や家父長制度の崩壊という構造的問題があって、そこの水が低きに流れる部分に、行き過ぎた平等主義の強烈な宗教・政治団体らや、左翼、インターナショナリズム傾倒による歴史意識のはく奪を志向する組織の進展がハマったのだろうと思う。

*2:※2:歴史性へのコミットメントが非常に薄いという構造的心性 そもそもこの辺の学生は、日本の近現代史をまともに教育されていないはずだし、歴史性の背景も意味もわからないのに、インターナショナリズムと「アジアの人々を侵略して申し訳ありませんでした」というようなことばかり教えられる。ちなみに、ナショナリティー(=国民としての主体意識)がないのに、謝罪云々を教えられても、意味が不明なので、教育効果は一切ないと僕は思う。背景や相互のつながりが意識されないのに、謝罪とかの「気持ち」ばかり教えられているので、バカみたいな対応しかできなくなってしまうのだ。論理に支えられない感情なんかすぐ霧散するんだよ(しかもだいたい右翼とか反対方向に悪い形で)。これは教育者と政治指導者の責任だと僕は思う。
があると僕は思うんです。

*3:※3:Forces at work

この言葉はマッキンゼー創始者マービン・バウアー氏が考え出したもで、直訳すれば「そこで働いている力」となる。マクロな事業環境分析であるFAW(Forces at Work)分析は、未来を予測するのによくつかわれる分析方法です。ある傾向を伴った事象があれば、そこには必ずその事象を発生させた力が働いているはずだと考えて、その力を分析し、発見することです。
http://www.bbook.jp/backnumber/2007/05/post_229.html
http://www.b-t-partners.com/pdf/pdf5.pdf

*4:※4:失われている歴史性へのニュートラルな形

これのニュートラル・中立を、価値へのコミットレスと考えてはいけないと思う。そうではなく、その時代その外部環境という限界の中で、ある世界観やバリューが選択されていることへの敬意があるかどうか、、、、戦前の脱亜論やアジア侵略には、その当時の必要な事情(プラス)と、そうであってもそれは下策である(マイナス)という部分があって、その両方を抱きしめて、その時、その場にいるという限界を考えた時に、今の後から結果が分かっている特権的な立場から軽々しく断罪しないという賢明さが必要。また、価値による過去の世界観の断罪ではなく、少なくとも時系列的に起きるメカニズムの解明をベースに評価をすべきだと思う。しょせん、ある価値へのコミットなくして、人間が語ることには意味はないし、そもそも歴史というのは統一的な視点から描かれる生の事実への暴力装置なのだから、それが、勝手な解釈による暴力装置であることを自覚して語ってほしい、というのが僕が言いたいこと。E・H・カーもいっているでしょう?。

*5:※5:これってインタヴューを多用しなければいけないので、たいへんだったろうなー。

*6:※6:これってまさに文学やアニメ、ライトノベルでいわれる「セカイ系」の話ですね。この話に絡めて、ランドリオールの12巻についての話を書いているところ。