評価:★★★★★星5つ マスターピース!
(僕的主観:★★★★★星5つ)
ラブです!おがきちか先生!!。僕は連載を読んでいないので、毎回単行本を待つ身ですが、安定して発売されるところも見ると、掲載誌のコミックゼロサムもこの作品も安定した人気があるのでしょうね。安心です。「一迅社」ってあまり聞いたことがない出版社だし、しかも内容がかなりマニアックな感じがするので、10巻を超えて安定して出版してくれるのは、非常にうれしい。この作品は掲載しさえ安定していれば、延々と素晴らしい物語を紡ぐのは作家の資質からいって間違いないですからね。こういう「待つ」何かがあると、人生って豊かになるようなー。忙しかったり苦しかったりしても我慢していると、プレゼントのように必ずいいことがあるようで、うれしい。
■物語の連鎖・伏線のうまさ〜あそこのあれが、ここでくるのかよ!
それにしても、この作品の伏線の妙は、感心を通り越して、感動的ですらある。まさか、あの猫はしかがここでつながってくるとは! ただの萌え設定じゃなかったのか。
この作品ではひとつひとつのエピソードはそれぞれ独立していながら連鎖している。いったん終わったかに見えた物語が、はるかに先の展開にかかわっていることも少なくない。だから、先の展開ほどおもしろくなる。本当に良くできた漫画だと思う。
http://d.hatena.ne.jp/kaien/20080630/p1
Something Orange
12巻はウルファネア編完結の巻なのですが、ああ、もう、、、おもしろくて、素晴らしくて泣きそうだよ。海燕さんが、同じように悶えているんですが、僕も「猫はしか」が、まさかここでこんな・・・・・バイオテロ(笑)を引き起こすなんて、、、、感動してしまいました。海燕さんも書いていますが、この作品の凄さは、なんといってもその「伏線」の見事さですね。一つ一つのエピソードは完結しているために、ともすれば、ただの萌え話?とか、竜を退治してお姫様を救いだしました、めでたしめでたし??、のように思えて、たいしたことがないどこにでもある読み捨てられる凡俗のファンタジーのように見えてしまうのですが、読み進めて行くうちに、驚くほど深くまで世界観が緻密に設定されており、なんというか、えっ?それが?みたいな驚きをもって、どうでも良かったようなエピソードが、深く本質に絡んでくるのです。
僕は、非常に感動してにもかかわらず、最初の3巻に対する評価が、客観★3つ(普通に面白い・わざわざ見るほどでもないが見れば楽しい)ランクに評価づけているのに、後半に行くごとにどんどん評価が上がり、途中からは日本のファンタジー史に残るぞ!くらいの妄言を吐き始めています。これは、この作品が、物語が進めば進むほど、深く、おもしろくなるタイプの物語であることを示しているんだと思う。・・・なんというか、不思議な「物語の構造」だ。たしかに、栗本薫さんとかああいった物語作家の類型の資質だとは思うのだが、どうもこういう感触を感じる作家は、本当に珍しくて、僕としてもまだ抽象化が出来ない・・・・いいかえれば、自分が知らない「まだ見ぬどこかへ」物語が連れて行ってくれそうな気がして、静かに興奮してしまう。似たようなものって、、、なにかあるかなぁ?。どうも類似のがあまり思いつかないんですよね・・・誰か、サジェッションくれないかなーと思う。
■複雑な物語世界の連なりに読者はどこまでついてくれるのだろうか?〜情報集積の度合いのエッジ
そして、物語は一気に「アカデミー騎士団」編へと突入する。突然、王都に襲いかかってきたなぞのモンスターたち。騎士団の大半は不在。アカデミーの学生たちは自分の力で対応することを余儀なくされる。
ひとりひとり、個別にたたかっては勝ち目はない。唯一の方策はこの場で組織を作ること。アカデミー騎士団の誕生である。
トリッドリッド家の王位継承権者であるティ・ティがリーダーに選ばれ、急速に組織が練り上げられていく。
本来、あらゆる意味でもっともリーダーにふさわしいDXはここにはいない。騎士団もいつ救援に来れるかわからない。自分たちの力で何とかするしかないのだ。
http://d.hatena.ne.jp/kaien/20080630/p1
Something Orange
まるでハリーポッターシリーズ五巻の『ハリーポッターとフェニックスの騎士団』を思わせるが、それよりも段違いに面白く深い。寮生活をする学園世界(=日常)が、どうしようもない非日常にさらされることによって、それぞれの少年少女が、その危機に対処するために大人顔負けの英雄的な役割を発揮していくことになる、という設定は、こういった学園モノにはよくありがちのパターンです。が、これが見事なんだな。何が見事かというと、大きく二つの軸が非常に明晰で、かつそれが軸と感じさせないほどにナチュラルに物語世界に織り込まれているところ。
まず、その1。
1)自分の持って生まれた本質・本文を全うすること〜役割の多様性が見えてきた時代に
これはねーライトノベルの『狼と香辛料』のとらさんの書評に書いてあったこととつながるんだけれども、、、、
■ファンタジーノベルなのに、剣で戦わない、魔法もない、商取引をするだけ(笑)
この作品の独自性は、一言でいうと、主人公が商人である、という点に尽きる。
このあたりは『手当たり次第の本棚』のとら兄貴の評 が、シンプルにいい当てているので、一部引用させていただく。
>思えば、ライトノベルに先立ち、まずはTRPG(テーブルトーク式のロールプレイングゲーム)が、次にネットゲームやゲーム機で行うRPGが、キャラクターの「職業」の幅を広げてきた。ウルティマオンラインなどは、多分、その最右翼だったのだろう。
戦士だ騎士だ僧侶だ魔術師だ……というような、ほんとに定番のキャラだけでなく、商人などがいても良い。
いや、戦士や僧侶だとて、時には商取引やかけひきをする必要があるシチュエーション。シムシティのような生活シミュレーションとまではいかなくとも、舞台が架空の世界であっても、世界観が、広がるというか、「地に足の着いた部分」が出来てきて、プレイヤーも、そういう世界に馴染んできているだろう。
そういう環境があって、こういう小説が生まれたのかもなあ、と思うわけだ。
『手当たり次第の本棚』より引用
http://ameblo.jp/kotora/theme2-10000341433.htmlこの評が、もっともこの作品のエポックメイキングな点を、表わしていて、ファンタジーの世界が「地に足のついた部分」ができて、プレイヤー(=読者)がその世界に深くなじんでいるが故に、こういう作品ができるのだと思う。日本のファンタジーノベル市場も、非常に成熟してきたんだな、と思います。
『しゃにむにGO』の批評でも書いたんだけれども、人間が最も人間らしい自己実現をして充実に包まれるためには、「ナチュラルボーン(=生まれつき)の本分」を全うことである、という哲学?倫理??が僕にはあります。僕の批評をする時の「最も言いたいこと」の一つです。人間は、これを全うするために生きているのだと思うのですが、「馴致」と実存主義哲学では呼ばれますが、人間には目の前の瑣末なことに捉われて現状に慣れ家畜化するという性癖があって、自分の本分・本質を意識してそこへ無かってて邁進している人は、稀です。
だから、自分の本質にまっしぐらに向かっている物語を見ると、感動します。それは物語になるような、稀なことだから。ところがね、『巨人の星』でも『デビルマン』でもいいのですが、80年代以前ぐらいまでの作品ってのは、それが主人公だけに集約されて、、、つまりヒーローのみに集約されるスターシステムになる場合が多かったんですよね。だから、主人公の職業(=本文)のみしか、話題にされないし、出てこない。また、たぶん戦後民主主義の大失敗の一つでもあるんだが、「全体を一つの元に集約して力を発揮する」という戦略的思考が、封殺されている。これって、ほんとうは組織をつくって弱い民族が、高い攻撃力を得るというデモクラティズムの基本を無視する行為で、たぶんに偏った教育だよなーと思う。
えっと話がそれた。あのね、僕が小学生から高校生頃に読んだファンタジーノベルとかって、魔法使いと戦士ぐらいしか、出てきないものが多くて、商人とか、戦士の中にも盗賊とか拳闘家とか騎士とかニンジャとか、ここで描かれる従騎士(正式な騎士につき従う貴族ではない騎士)などなど、様々な役割の区別が全然出てきませんでした。魔法使いでも、実はいろいろな種類がある。グインサーガでは、王国に使える魔法使いと、単独で魔法を追い求める魔法使いには全く違う規範がありますし、僕の愛すべきファンタジーの王道『ドラゴンランス戦記』などには、様々な龍の種類や種族の違いが出てきます。
いやもともとファンタジーの原点である『指輪物語』などの西洋ファンタジーには、こういった様々な種類の区別はあるんですが、日本ではたぶんこの種のカテゴリーが導入されるときに、読者・消費者が、区別がつかないであろうことを想定して、単純化したんだと思うんですよね。それから、数十年・・・・。これは、エニックスのRPGドラゴンクエストなどの登場によって、職業の区別が複雑つに分化してバロック化して、また王道骨太の物語の枝葉が百花繚乱に咲き誇る同人誌などの発達や、骨太の大きな物語の解体を志向した時代の傾向と重なって、ついには、剣で戦わない、魔法もない、商取引をするだけで女の子を守ろうとする『狼と香辛料』のような作品を生み出すようになりました。王道の魔法使いである、ネギ・スプリングフィールドくんは、八極拳の使い手ですしね。タイプムーンの『Fate/styanight』にも、キリスト教教会の闇の執行機関の人間である言峰綺礼も、八極拳の使い手です。こういう西洋東洋のバロック化というかごった煮のエンターテイメントなんて、西洋ではきっとないですよね。
えっと、やっと話が収束してきたんだけれども、
00年代の日本のファンタジーは成熟してきて、商人や従騎士など、本来は骨太の物語の脇役にしかならないようなものをメインにした作品群がたくさん生み出され、それぞれの職業の持つ本来の深さが認識されるようになってきたと思うんですよ。消費者が、その多様性を教育された、ということです。そして、組織が力を発揮するときに、たとえばただ一人の英雄とか王とかそういった物語の主人公の、ただの道具として存在する商人とか部下のただの歩兵とか、そういったエリートとノンエリートを、、、指導者と従うものを、ただの二元的分割で見るという非常に短絡的な見方をしない傾向が出てきていると思うんですね。
ただ単に「そういう風な物語を設計している」というだけではなくて、見ている消費者側の中の記憶のアーカイブに、商人とは?ニンジャとは?諜報員とは?といった別個のストーリが既にマインドセットされているので、かなり省略して、相当奥深いところまで物語世界を多様化・バロック化できるわけです。これって、LDさんGiGiさんの情報圧縮論ともつながる話です。
そうすると、今度は、それらの役割が連関した場合に見えるもの?というテーマが追求されることになるはず。これは、マクルス主義の残した非常に悪癖である、なんでも二分するという、善と悪で分けちゃうみたいな二元論の思考法への反逆です。農村と都市とか、資本家と労働者とか、帝国と植民地とかね。世界はもう既にそんな単純ではありえないのです。というか、もともと単純ではないところに無理に単純化したので、人間は動員できたけど、現実が追いつかなかったという話。
(2)に続く
2)みんなはひとりのために、ひとりはみんなのために〜個人ではなく組織が力を発揮すること
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