メディアミックスすることをどう思うか?〜井汲 景太さんのコメントに対する返答

井汲さんのコメントが、とっても秀逸で、ちょっと感動してしまったので、記事にて返答させていただきます。

まず最初に、はい、すいません、明らかに矛盾しています(笑)。精確に言うと、すっかりいったことっ忘れていました(笑)、言われて初めて気付きました!!というのが実態です。・・・が、どっちも素直な感想なので、これってどっちも僕の心の中では正しいわけで、それをちょっと、いい機会なので、まとめてみます。とりあえず、それなりに整合性は付きそうなので(笑)。いや思いつきだから無理かな?(笑)。


ちなみに、、、こういうコメントは感動します。過去の相当前の作品への言及に対して、ストレートに矛盾をつっこんんでくるのは、相当マジで読み込んでくれている証拠なわけで、、、、、。ちなみに僕は人間がとびっきり小さい人なので、たとえ正しくても反論とかはやっぱりうれしいとは言えません。やっぱり、文脈も読めていない不誠実なコメントでも、否定的なこと書かれるといい気分はしませんよね。言いっぱなしの日記なんだから、うっせーな文句言うなよ(笑)、とか思う時もありますが、、、けどね、こういう風に、明らかに過去の記事を深く読み込んでくれて、しかも論点が、非常に鋭い場合は、やっぱりうれしいですよね。・・・そんなに読み込んでくれているのかって・・・感動しちゃいます。まぁ井汲さんには、様々な情報提供していただいているので、そういうバイアスもありますがね。好意的かどうかで、文字への解釈は相当変わりますから。その他情報がない場合はね。


西尾維新さんの化物語シリーズがアニメ化ですねぇ。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080909/p2


それでは、コメント全文転載です。

井汲 景太 2008/09/14 05:30

では私はそれとは逆の視点から(笑)。

好きな作品のアニメ化………それって、嬉しいことなんですかね?そうなの?本当に?条件反射的に涌き上がって来るこの感覚(“この”と言ってる以上、私もそれを共有した上で言っています。他作品ですが)に、本当に無批判・無条件に身を委ねてしまっていいんでしょうか?それは、ペトロニウスさんご自身が、以前次のように否定されていたんじゃありませんか?



http://ameblo.jp/petronius/entry-10043036486.html より:

あるオリジナルのテクストを、他の媒体で売るという行為で、原作を超えるという例はほぼありません。だから、本当に好きな人は、原作だけ見ていればいいはずなのです。

(中略)

だからメディアミックとは、単純に、メディアでの露出量を、多チャンネル長時間にわたって、多くする!ことに尽きるのです。つまり世間に流通している量とアクセスできる媒体が多ければ多いほど、祭りのような飽和感が発生し、その記号のう空虚な流通を元に「周りの人間と話ができる」ということが重要なのです。ヲタクが狭いサークルをつくって、その閉じた島宇宙の中で、らきすたでもネギまを語ることと、リリーフランキーや原作付きの映画の話をしたがる層は、層こそ違うのですが、資金回収が可能なある規模のマス層のセグメントの大きさに対して、市場が対応するいまや80年代以降の角川商法をベースとする普遍的な手法であるのだと思う。

私も同感です。「好きな作品のアニメ化」に、どれだけの価値があるというのか?価値なんかないんじゃないの?それが私の基本スタンス。

………というようなことを言うと、大抵の場合「原作ファン」というのは「いや、それでもちゃんと『いい』『面白い』アニメ化になるかもしれないし、最初からその可能性を否定すべきではない」とか、最後には「アニメ化の出来いかんに関わらず、それがその作品の知名度の向上に繋がるのだから、認めるべきだ」というような理屈を持ち出して正当化を謀るんですよね。だけど、私はそれは下らない欺瞞だと思っています。そんなものは、ペトロニウスさんが仰る

ある種の売れた記号(=原作)を媒介に、市場の流通量を増やすことだけを志向されていて、その流通量の一時的増大における「祭りへの参加感覚」を、消費者は購入しているのだろうと思うのです。

(中略)

ここは重要な視点で、そもそも現代の消費者は、内容を無視したバカなのではなくて、そもそも「内容は何でもいいけれども、周りの人間と話ができる共通感覚を得られる記号」があればいいのです。物語のテクストが重要なのではなくて、それが記号として世間に流通している量がある一定を超えればいいのです。その臨界点を超えることと、そのスタートを保証する、原作・オリジナルテクストの話題性と求心力があればいいのです。


というだけのことに過ぎないわけで。彼らは、自分の中のプリミティブな「アニメ化嬉しい」という感情を正当化したい余り、それが単なる「祭りへの参加感覚」の購入欲に過ぎないという事実に目をつぶり続けているだけであり、「面白くなる可能性」「よくなる可能性」というお題目が免罪符になるという幻想で思考放棄してそういう口実にしているだけなんですよね。


……………ですから、「好きな作品のアニメ化」というのは、『それが内容的に優れているかどうか』ということ以前に、優れていようがいまいが既に敗北しているのです。それが優れていて商業的に成功を収めれば、そのような空疎な傾向を強めるだけ。失敗すれば、それはアニメというジャンルの価値を下げるだけ。「アニメ化」の時点で、それだけで自動的・無条件に「嘆くべきこと」なのです(「現在の日本のアニメ界の現状では」という前提はつきますが)。


そこら辺、私は「面白いこと」を最上位に置くLDさんなんかとは違うスタンスなんですよね〜。いくら「(結果として)面白くなろうが」それは「それ以前の段階で」既に敗北しているので、「見る価値を持たない」んですね。「『面白いかどうか』よりも上に置かなければならないことがある、それに反するものは否定しなければならない」というのが、もう10年来……いや、もっとになるかな、の私の信念ですね。だからもう、それくらい長い間は、原則として原作つきアニメは見ちゃいないですし、興味も持てないです。私は。


逆に、原作つきでないオリジナル作品の場合は、私は高く評価します。例えば「グレンラガン」はそうでした。私の評価軸だと、オリジナル作品は、それが「原作つきでないオリジナルである」という時点で既に「勝利している」部分がありますので、グレンラガンほどの出来でなくても、ただそれ「だけ」で原作ものに勝る価値がある、と思っていますね。

まあ、ここらへんの前提となる事情は、ここ数年はっきり変わって来た部分もあるので、そろそろこのスタンスも変えどきか…?と多少思わないでもないですが、それでも大勢においてはやっぱり変わってないと思いますねー。少なくとも今後数年は、私が原作つきアニメを認める日はやって来ないと思います。

井汲 景太 2008/09/14 05:33
とゆーかペトロニウスさん、

僕は、魔法先生ネギま!のアニメも声優もドラマも全くわからんし見ていないですが、傍目でそういうのがあるってのは、結構うれしいものです。何もないよりは、何かあったほうがいい、といつも思う。クオリティとかで、自分が納得する必要はないんだし、それを好きという人がいるならばメディアミックスとか、いいじゃんと思います。


の部分、1年前と言ってることが反対じゃないですか(笑)。1年前は

僕は、凄くこの作品を愛しているので、一回目のアニメは、ちょっとだけ見ました。けど、基本的には、原作のマガジンで連載しているオリジナル以外は、その裏舞台も含めて僕には全く興味がない。手に取ることもなければ、見ることもありません。


だったのに。「結構嬉しい」と「全く興味がない」のどっちなんですか〜〜〜!(笑)


返答です。


ちなみに、まー井汲さんは既に

「好きな作品のアニメ化」に、どれだけの価値があるというのか?価値なんかないんじゃないの?それが私の基本スタンス。


価値判断の基準を宣言しているので、それって、他人がどーのこうのいう問題ではなく、その人の自由なんで、僕のこれからの意見は、説得したいがためではなく、僕の価値判断です。どっちが正しいか?という議論にはならないと思うからです。この場合は。


まず、「結構うれしい」と「全く興味がない」というのは、実は基本的に同時に僕の胸の中にある感情です。


個別にしましょう。


たとえば、僕の価値基準としては、ネギまは、オリジナルテクスト(赤松健さんの原作漫画)以外は、本質的な「面白さ」という意味では、ほとんどマイナスにも等しい駄作です(ああ、、いっちゃった(笑))。とてもではないが、最初期から見る価値も意味も僕には見出せません。さすがにネギまは相当好きな作品なので、それぞれのアニメやドラマの一話くらい見ていますが、その評価は変わりません。もちろん全部見ないで言うのは、ナンセンスなんで、僕の意見が客観的に正しいかどうかはわかりません。


また僕は古い世代の感覚で、どうしても監督至上主義、オリジナルテクスト至上主義的な意識の持ち主なので、周辺の声優や同人誌とかそういった異なるレイヤーや二次創作的なガジェッドによる「楽しみ方」を全く知らないので、実はそういう記号を倍加に戯れる楽しさをよく知りもしないので、それを軽々しく否定もできません…・が、個人の志向としては、僕は少なくともそういう判断を下していて、興味が持てません。(なーんて、いいつつ、実は最初のネギまのアニメ楽しんで盛り上がっていたりするので、僕の言うことは矛盾だらけです(笑))。声優とかも、ただ単に僕が楽しみ方を知らないだけなんじゃないかなーとか、実は、そんな気も凄くします。


とはいえ、そういう意味では、「全く興味がない」です。そもそも、アニメや漫画は大好きですが、僕の趣味の世界にとって、ウェイトがものすごい大きいわけではありませんので、レベルの低いモノを見る暇があれば、映画でも小説でも、それこそスポーツでも仕事での勉強でもそっちをします。優先順位が相当高くないと、継続して見続けやしません。


その理由は、もう一回繰り返すと、

1)メディアミックスでオリジナルテクストの価値を超えることがほぼ皆無で稀であること、


2)「ある種の売れた記号(=原作)を媒介に、市場の流通量を増やすことだけを志向されていて、その流通量の一時的増大における「祭りへの参加感覚」を、消費者は購入」していることを利用している流通側の罠(=レベルの低い商売)であること

です。これは、井汲さんがいう

「面白くなる可能性」「よくなる可能性」というお題目が免罪符になるという幻想で思考放棄してそういう口実


……………ですから、「好きな作品のアニメ化」というのは、『それが内容的に優れているかどうか』ということ以前に、優れていようがいまいが既に敗北しているのです。

つーことですよね。

敗北している、というのは、構造的に出資者たちがオリジナルを超えることをアニメの監督らに期待していないわけだし、しかもうまく記号化して中身をスカスカにして流通量を上げたほうが、より売れるという仕組みそのものから生まれているから、そもそもその存在自体が、敗北している、と喝破するわけですよね。うんうん。それは、そのとおりだー。今の日本ののアニメ化による商売の構造(=どうやって、だれから儲けをとるか?)について僕は詳しく知っているわけではないので、これを言い切るのはまだ抵抗はありますが、まぁおおむねそんなもんでしょう(笑)。良貨は悪貨に駆逐されますから。


ただね、でも、僕は、)「ある種の売れた記号(=原作)を媒介に、市場の流通量を増やすことだけを志向されていて、その流通量の一時的増大における「祭りへの参加感覚」を、消費者は購入」自体をマイナスの悪いこととはとらえていません。それが構造的にアニメ作品制作の質を下げるメカニズムに資している可能性は確かに否定できません。ただ、それほどことは単純だろうか?って思うのです。


それってプリミティヴな感情ですよね。好きなものを、みんなが話題にしてくれて、それについて語ることが楽しいってこと。仮に、その好きなものの「本質の理解が」明らかに幻想で、ただ単に幻想を媒介にディスコミュニケーションしているだけであっても。話題によって、つながっている感覚を得たいってこと。それが、流通段階の商売人に金を奪われているだけだとしても。


僕は、少数の「よく分かっている人々とのみ」ただ本質について盛り上がるか、もしくは自分自身の内部で本物を見極めればいいというような鑑賞態度がいいとは思えないんですよ。どうせ本質がわかる人なんて、一つのパイで本の数パーセントですよ(苦笑)。それ以外の95%の人々は、意味もわからず断片に萌えたり感動したり、自分勝手に解釈して記号として戯れているだけです。けど、、、大衆社会というか、流通にたくさんの人がいるマーケットにモノを流すってもともとそういうことじゃないですかね?。いろいろな人がいるということはいろいろなステージがあって、それの楽しみ方をオリジナルテクストの志で評価するのは、教養主義的なヒエラルキーの存在を感じてしまいます。まぁ僕も教養主義の人ですが(苦笑)。


とすれば、現代社会においては、プリミティヴな感情は、常に肯定されてしかるべきで、自分の好きなものに関連するものが好きだという人がたくさんいること、それを自分がそこに交わらなくても横で見ていることは、少なくとも僕にとっては、「結構うれしい」ことです。少なくとも、なにもないよりは、あったほうが、、、、パイの100%の母集団の総数が大きくなればなるほど、その本質を理解する可能性のある人数は大きくなります。もちろん幻想と誤解もより大きくなりますがね(苦笑)。


だから、僕は、基本的に、見るか?と言ったら、メディアミックは、やはりあまり見ないんですが、それでも横目で盛り上がっているのはうれしいし、もしかしたら何か起きるかも、と思い続けているのは、うれしい。まぁ起きることはまずないですが(苦笑)。でも、その広がりが、10年後とか次の世代に広がっていくことは、確実にあります。だからまー何もないよりは、あったほうがいくね?と思います。駄作だろうがなんだろうが、それを楽しいという人はいるわけだし、それが楽しいという人の「楽しいと思う気持ち」を否定する権利はなんびとにもないわけですし。


ちなみに、「敗北している」という構造は、「A)オリジナルのアニメ作品」と、こういった「B)記号の媒介になっている作り方をする作品」との市場での関連性をもう少し深く追求してみないと僕は何ともいえないと思います。オリジナルなAというものは、ともすればなかなか出てこないもので、それが出てくる間でつなぎで、B)を出していくというのは、天才がそれほどクリエーターには続出しないことを考えれば、市場の安定としては、悪いことではないのでは?。それでもお金を落とす人がいるわけだから、それはクリエイターや制作のシステムや会社が生きていくには、とてもいいことです。


また、コミュニケーションの売価にお金を払う層がいるという市場上の特質があったとしたら、それをも巻き込んで、そういった構造を前提にオリジナルを作り出すのは当然であって、その努力を放棄しない限り、構造自体に問題はないと思うんです。質が落ちることで、誰が悪いか?って言ったら、そこに参加している供給者も消費者も等しく責任があって、こればかっりは参加者の志なんで、構造が先にあって、「だから」悪くなるというロジックは僕は式ではないのです。

つまりは、「ある種の売れた記号(=原作)を媒介に、市場の流通量を増やすことだけを志向されていて、その流通量の一時的増大における「祭りへの参加感覚」を、消費者は購入」するという商売上の問題点は、もうすでに構造化しています。民主主義と大量消費の経済システムを肯定している社会である限りは、これは大前提の肯定されるべきことです。言い換えれば既に、ビジネスをする上での所与の前提であるので、これは供給者側が越えるべき壁であって、消費者側の責任でも何でもないのでは?と思います。だから消費者のプリミティヴな感情は、僕は横目で見ていて嫌なものではないです。まぁいまは、消費者と供給者の酒井があいまいなので、この議論も、難しいんですがねー。。。あーわけわかんなくなってきた。


・・・って、どう思います?。


ちなみに、どーもかなりヅツウがするんで、もう寝ます。いやかなりテキトーに書いたんで、とりあえず読んでみてください。えっと、たぶん論理わやくちゃだと思います。こういう時に限って、頭痛が・・・バファリン飲んで寝よ…。


PS

ちなみに、コメント欄封鎖しちゃったので、返答はメールでほしいなー(笑)。



わかります?。売る(=一般人を動員する)のが非常にたやすいのです。



ちなみに、セカチューやそもそもの配役がメジャー級であるなどの、原作の記号が話題手であればあるほど、、、というか流通しやすさがあるほどよくて、三島由紀夫などのメジャーではあるが、硬いものは、失敗しやすいと僕は思う。



また話がずれますが、メディアミックスの議論を僕はライトノベルの話で何度もしていますが、昨今のメディアミックスって僕はほとんど意味がわからないのです。この記事を読む層は、ヲタク系ではないので、本当は、リリーフランキーとかの『東京タワ──オカンとボクと、時々、オトン』とかがいいのだが、僕が親近感があるということで、好きなマンガの『魔法先生ネギま!』を題材にしましょう。この作品は、原作の漫画を軸に、今までに二回!(これは珍しい)のアニメ化に、数々のゲーム作品に、今度は更にドラマ化!までされるらしい。僕は、凄くこの作品を愛しているので、一回目のアニメは、ちょっとだけ見ました。けど、基本的には、原作のマガジンで連載しているオリジナル以外は、その裏舞台も含めて僕には全く興味がない。手に取ることもなければ、見ることもありません。


でも不思議です。
というのは、ちょっとだけ見ても、アニメもゲームも多分ドラマすらも、原作の素晴らしさの記号的コピーにすぎなくて、オリジナルの素晴らしさに一切及ばないのです。メディアミックス・・・・あるオリジナルのテクストを、他の媒体で売るという行為で、原作を超えるという例はほぼありません。だから、本当に好きな人は、原作だけ見ていればいいはずなのです。小説を、映画にするという行為は、わかります。文字の世界のものを、現実のリアルで置き換えてみたい!という映像化の欲望はわかります。が、、、昨今は、マンガ→アニメ→ドラマとか、リリーフランキーの場合は、小説→映画→ドラマとか、劣化コピーのようにいろんなメディアに飛び火します。はては、CDドラマとか。がばいのばあちゃんとか、売れた小説の映像化やヲタク系の世界である劣化コピーの大群は何を示すのか?。

たぶん、オリジナルのテクストを深く読み込んで、その世界に深く潜り自我を投影するというような、旧来の教養主義的な理解の仕方や感受の仕方がすたれてきており・・・・このへんは長いので、結論を言いますと、ある種の売れた記号(=原作)を媒介に、市場の流通量を増やすことだけを志向されていて、その流通量の一時的増大における「祭りへの参加感覚」を、消費者は購入しているのだろうと思うのです。


だからメディアミックとは、単純に、メディアでの露出量を、多チャンネル長時間にわたって、多くする!ことに尽きるのです。つまり世間に流通している量とアクセスできる媒体が多ければ多いほど、祭りのような飽和感が発生し、その記号のう空虚な流通を元に「周りの人間と話ができる」ということが重要なのです。ヲタクが狭いサークルをつくって、その閉じた島宇宙の中で、らきすたでもネギまを語ることと、リリーフランキーや原作付きの映画の話をしたがる層は、層こそ違うのですが、資金回収が可能なある規模のマス層のセグメントの大きさに対して、市場が対応するいまや80年代以降の角川商法をベースとする普遍的な手法であるのだと思う。


ここは重要な視点で、そもそも現代の消費者は、内容を無視したバカなのではなくて、そもそも「内容は何でもいいけれども、周りの人間と話ができる共通感覚を得られる記号」があればいいのです。物語のテクストが重要なのではなくて、それが記号として世間に流通している量がある一定を超えればいいのです。その臨界点を超えることと、そのスタートを保証する、原作・オリジナルテクストの話題性と求心力があればいいのです。

だから、小説でもマンガでも、ある一定のコアなファン層を獲得したそれなりのレベルのある脚本があれば、それを、遜色ないレベルで映像化できる監督の力量があれば、それで十分なのです。 <<

西尾維新さんの化物語シリーズがアニメ化ですねぇ。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080909/p2

遠くの空に消えた』①  行定勲監督  ターゲットはファミリー層!という謎
http://ameblo.jp/petronius/entry-10042978295.html

遠くの空に消えた』②  行定勲監督は、楽園の夢を見るのか?1
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遠くの空に消えた』③  行定勲監督は、楽園の夢を見るのか?2
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