テーマを持って本を読むこと〜断片のエピソードが媒体や物語を超えて大きく連関していくことの喜び

■テーマを持って本を読むこと〜断片のエピソードが媒体や物語を超えて大きく連関していくことの喜び

「文字の洪水に溺れながら」のsutatinさんが、北方水滸伝を読んでくれているようで、こういう風に、A)自分の紹介で本を読んだっ!といわれると、とてもうれしいです(ちなみに、僕のブログからアフィリエイトで買ってくれると、さらにうれしいです(笑)、、、こずかい少ないので・・・)。


それで、B)さらに最高だっ!って思えるのは、勧めた本の解釈や読み方に感動してくれたり、その他のほんとの連関を感じてくれたりするような人の意見ですね。この2)は、コメントとかメールで意見をもらえると、めちゃめちゃうれしいです。僕のブログの記事は、ものすごく書き散らしているので、実は少し自己嫌悪ではあるのですが、「初めての人が読むと????」となってい場合がとても多い。忙しいのでMY用語や定義、いいまわしなどを、なんの説明もなしに書いている。けど、sutatinさんが書いてくれているように、僕は思うんですが、絶対に、本を読んで、もしくはアニメでも映画でも見たうえで、僕の記事を読むと、好き嫌いや意見の是非はともかく面白いと思うんですよ。それは、本の解釈の水準を変えて読む方法を提示しているわけだから。好きな物語には、より深くその世界に入りたいという欲望がないはずがないと思うんです。僕の意見の好き嫌いや是非はともかく、その物語からどんな本質やインスパイアを獲得したかって話を、自分の人生と観照して話せると、それは最高の無駄話になって、人生を彩ってくれると思うのですよ。せめて本を読むのならば、この次元で仲間とだべらないと、本の持つ面白さの数百万分の一も分かっていないと思うんですよ。


さらにいうと、C)でいずみのさんやLDさん、GiGiさん、ルイさんや、でこぽんさんのような、さらに僕が思ってもみなかった解釈を提供してくれて物事を見るレベルに止揚してくれるような会話が常時リアルタイムできるようなことです。3)までいくと、たいていは、本当のリアル友達になりますねー。この辺は、僕は神々の会話(笑)って読んでいるんですが、もうたとえば、LDさんとか、僕とか、いずみのさんは、ある程度自分の「読みの視点」や「解釈の方向性」というのは完成されていて、完成されたもの同士の交換という形態をとるんですね。もうお互い初めの段階では、相手の意見なんか聞いちゃいねー(笑)。こういうのって、つまり完成された意見のぶつけ合いというのは、ある種不毛でもあるし、たいてい最悪の人間関係にしか結実しないので、実はこの領域は、とても怖い領域なのです。「自分」というものにかなり自信を持っていう売れに、論理的にもいい張りができるレベルなので、いくらでもロジックでごまかせるんですよね。だから、このレベルの解釈の戦争をする場合にはものすごく重要な前提が二つあります。



1)相手の人格を、等身大のレベルでとても尊敬していること。だから言葉がとても丁寧で手順を気にする。


2)議論の水準で、より高みに到達するために、貪欲に新しいものを取り入れて止揚しようという「自分の過ちや負けを常に認めつづける潔さ」


この二つです。ちなみに、この1)と2)が感じられない相手とは、コメントでもリアルでも、どんな状況でも、僕は全くしゃべる意欲がわきません。時間の無駄だから。こういうのがない人は、ナルシシズムとかルサンチマンでしゃべっているだけなので、議論のレベルが明らかに低過ぎて、聞く価値がないんですよね。この二つが重要なのは、神々の議論のレベルで解釈戦争をする人は、かなりのレベルで知識が膨大で、しかも傲慢で尊大な人が多いっていうのが前提にあるからです(笑)。この1)と2)がないと、礼儀をわきまえて、ちゃんと「相手に分かってもらうようしゃべろう」という意欲がないので、コミュニケーション(双方向)にならない一方的な、「おしつけ」にしかならないんです。


あっ、ちなみに1)の派生で1.5)ですが、その人との等身大のリアルも含めた長期のコミュニケーションをしようという気概がないと、これも話し合う価値がありません。なんというのかなーコミュニケーションの距離ゼロまでのステップをわかった上で、その相手とできる限り深くまで行こうと思わない限り、そんなのただの情報源であって、しゃべる意味なくね?とか僕はおもってしまいますがねー。


ちなみに、僕のブログスタンスは、何度も書いていますし、自己紹介でも宣言していますが、友達をつくるためと好きなものを共有するためなんで、真実を明らかにするとかそういう気は全くありません。だから、言葉の上だけで議論をする気は全くありません。仲良くなって会って、ずっと話し込んでいる人になれないのならば、わざわざ解釈戦争をしても、無駄だもの。僕は実務家なので、真実を明らかにすることにあまり価値を感じません。実務家は、常に結果だけ。僕は人生の過半は仕事と家族と親友でこれを使うので、残りの趣味の領域では、友達と楽しくしゃべるだけが目的になりますね。その目的に沿わない場合は、全くどうでもいいので、その辺はどうも申し訳なく(って全く悪いとは思っていませんがね、ここはパーソナルメディアなので)。どーせ、生活のための金になるわけでも世界を動かすわけでもない個人日記のようなものではないですかブログわ。


ちなみに、「友達になる」ってのは、いろいろなんというか運のようなものがあって、たとえば師匠と弟子とか意味不明のことをはし君はいつもいうけれど、Fateとマブラブは、彼が強烈にプッシュしなければ、、、それも、僕は何度か投げ捨てた後なんで(笑)、絶対見なかったと思うので、僕の中では微妙に先輩?(笑)的なイメージもある(笑)。新しい世界の先導者になるかどうかで、先輩と後輩という序列は決まるもの。彼に、怖がっていたコミケも連れてってもらったしなー、、、そう思うと、仙台に足を向けて寝れねーな、とか。ああ、、、こういう風に、新しいものを紹介してくれる人は、めっちゃうれしーですねー。つぼにはまったら、最高。逆をいうと、僕が誰かにとってのそういう人であれたらな、とも思います。


いや、友達に「なる」ってのは、ある意味、人生の中で全く先が読めないフラグイベント(笑)みたいなものであって、出会いによっては、全くしゃべりもしないような人と関係性を持っていく様は、ああ、、人生だなーと思います。もちろんいろんな関係性があって、いつまでも仰ぎ見る存在のとら兄貴や、日常に見るジャンルが違うので交流がないように見えるがかなりひそかに気にしているつなさんや樹衣子さんとか、、、、もしくは、人生で生まれて初めて、自分とほぼ同じ世界解釈を行なってほん読みのスタンスがほぼ同じという限りない共感のある海燕さん、とかとか。


ただ共通しているのは、この読書人コミュニティーの大前提は、自分が愛する者よりたくさんの人に知ってほしいという善意があふれる点です。本は情報なので、独占することに価値はありません。それよりも、よりたくさんの人のその面白さを共有してもらえたら最高ですよね。この共有にはお金のコストは余りかかりません。けれども、コミュニケーションコストはとてもかかる。ちなみに僕の感覚ですが、教養や知性などのリテラシーの会話をするときは、大前提として、漫画やアニメではダメな気がします。映画でもほとんど駄目かも知れない。やはり唯一の徹底的な攻撃性のある、かつ内面のメディアである「本」という媒体のみが、個人の知性を深めるような気がします。これに時間を費やさない人は、基本的に、内省力が弱いので、熟考、沈思したりすることができなくなるようです。少なくとも、僕は自分の子供には徹底して、本を読むトレーニングと癖をつけたうえで、ヲタク趣味や格闘技をやらせようと思っていますよ。内省力のない行動や趣味は、レベルが低くなるもの。

考えてみたらこれってすごいことなんだなぁとしみじみと思う。こんなにすごいのか!とかこんなに深い意味があるのか!とかって読んだ後の勧めてあった人のブログとか見ると再認識することも多いし、それを勧めている人はちゃんとそのすごさが完璧にわかっているわけだよ、そういう人の話を見るたびにうわー、俺ってまだまだすぎるって感じる。そしてその人の頭はいったいどうなっているんだという畏怖の念を感じてしまう(笑)

これなんかがまさに「そうだよね!全く同じ気持ち!」ですね
http://d.hatena.ne.jp/hasidream/20080727/1217184346

「本を読むことと、それにまつわる経験」

こういう関連性のあるものを続けて読んでいると、論理がつながっていく瞬間があって、「あー、あれがこうつながっているのか……」みたいなことがある。この時が一番楽しいわけだけど、その時こそ、既に誰かが踏破した後である事実に戦慄するというか……。すげー……って思う瞬間だなーとかぼちぼち分かるようになってきたよ。

文字の洪水に溺れながら
http://d.hatena.ne.jp/sutatin/20080904/1220559970

話がかなりずれたんですが、上のA)〜C)の続きですが、僕が本を読んで、深く物語を解釈していくレベルまで到達していく読書人としての成長ドラマツゥルギーの中で、自分にかしている「HOW TO SKILL」が一つあるんです。


何度も書いているけれども、それは、異なる媒体や異なる題材の多量な情報の海の中で統一したテーマを持って読んでいくことです。もしくは、統一して隠れているものを見つけ出していくこと。これこそが、THE読書の知的快楽!だと僕は思うのです。


だから、なるべく、僕は本や漫画が日常のベースですが、そこから連関性のある文学や映画、小説などをできる限り同時並列的に並べるようにしようと思います。かなり全部記事を読んでもらえれば、僕の内面は、萌え萌えのH漫画でも、古典文学でも、マイナー映画でも、政治でも仕事でも、ほぼ一貫して同じテーマや用語で話していることがわかるはずだと思います。これは、要は統一的視点による、世界を解釈する態度の多様性を追求しろという僕のメッセージです。というか僕の尊敬する評論家中島梓さんのメッセージの焼き直しです。そして、「曖昧な世界に対する解釈という実存的手法」を通して世界に回帰することをして、現実の充足に至る方法を探し続けるという実存主義哲学のハイデガーコリン・ウィルソンの、一つの結論の具体的実践でもあります。・・・ってややこしくなったですねー(苦笑)。


まぁこれは行き過ぎなんで、いまだったら『北方水滸伝』や『楊令伝』や、当然この時代であれば、ダイナスティ・コンクエスト(征服王朝)ともっとも中国の民衆に愛される英雄、岳飛の物語を抜きには語れません。『岳飛伝』とかよまにゃーならんですわね、当然。とかとか、この辺は僕はあまり知識がなくて統一的テーマはないんですが、実はこうやって北の遊牧民と南の農耕民の対立から文明が動いていく様は、実は今読んでいる塩野七生さんの『ローマ人の物語』のローマ帝国の安全保障上の最大問題の一つ、リメス・ゲルマニクスという北方のゲルマン民族をどう防御するかということとほとんど同じ中身を持っていて、いま凄く気になって調べている世界遺産万里の長城を見たんですが(つーか何度か言ったことあるんですが)、これって、地図で線を一直線に引けば、間違いなくリメス・ゲルマニクスとかハドリアヌスの長城とかと、一直線でつながるんですよね。ここで、ぼくはうぉつ!!!ってうなりました。そして、なるほど、ダイナスティコンクエストを欧米の史家が何であれほどまでに大きく取り上げたかが、ここで分かってくるんですね。

そうすると、唯一のヨーロッパ大陸でのダイナスティコンクエストは、ヴァイキングなんですね。イギリス征服。それって、クヌート王のことなんですよね。『ヴィンランド・サガ』の。ほら、こういう風につながっていく。ちなみに、他民族を征服してそれとの共存というのは、『反逆のルルーシュ』のスザクのテーマと重なるし、この前話題にしていたチベット問題やダライラマ少数民族の統治と帝国問題と、すべて関連してくるんです。ほらほら、きたきたきたぁぁぁぁぁ!!!って感じですよ。これですよ、これ、これが読書の醍醐味!。これがわかってくれば、この前すげぇと感心した、高村薫さんの『リヴィエラを撃て』のアイルランド問題が分かってくるんですよ。もちろん、そこからつながりで、佐藤優さんと鈴木宗男議員の『国家の罠』の問題や、小泉政権下の多軸外交へのシフトの封じ込め問題が連関してゆき、、、そこの北方領土イスラエルの問題は、みなもと太郎さんの『風雲児たち』や、僕が今勉強しているEUの独禁法の問題や、EUコミュニティーの100年の戦略とかかわってくる・・・・ほら、すべてはつながっている。もっと細かく関連性を詳細に説明することはめんどくさいので省きますが、テーマを持って世界を眺めることや、隠されたものの中にテーマを見つけ出すという行為が、知的行為のなかでもっともきほんてきなすきるなんです。もちろん同時に、最高に楽しいことでもあるんですよ。これが慣れてくると、SEXなんて目じゃねー持続力の快感があります。

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■本を選ぶことの難しさ〜まずは模倣と後追いから始めよう

勧まれた本を読むのって基本的に当たりという意味でものすごく効率良いんですよね。

自分で選んだのは6割ぐらいが当たりかなぁと思うんですが、基本的に人が薦めている本(本だけにこだわらないんだけど)は9割以上が当たりで何でこんなに効率よく当たり本に遭遇できるんだろうって考えてみたんです。

そうしたら、なんてことはない簡単なトリックがあって本を薦めている人は読書家しかいないんですよ。これマジで。

読書家だから他と比較できていい本だけお勧めできるんですね。

読書家だから胸張って自分の読んで良い!って思ったのを勧めれるんですよ。

で、少ししか本読まないやつは基本的に特定の本は薦めてこない、これは自分でも自信持ってます。(逆に言うと僕を籠絡したかったら本を薦めればいいです/笑)


本を習慣的に読まないやつは、表面だけで生きている猿だからそんなゴミは無視して生きようというといったのはだれだったか(苦笑)・・・まぁ言い過ぎですが、僕のスタンスもこれに近い。内面の豊饒さがある人のみが、やはりしゃべるに足る人間だと思うのです。とはいえ、「書を捨て街へ出よう」という言葉は、真意はともかくとして、僕は大っきらい。「書をもって街へ出よう!」というべきだと僕は思います。おもっいっきり読書という深い森を探索しながら、現実の世界豊穣さにアクセスしようぜって思います。スピノザだったか、デカルトだったか?、「世界という巨大な書物を読むために僕は旅に出た」というようなことぬかして、人生のほとんどを旅したって話がありましたが、そんなスタンスが重要。それはやり過ぎだとは思うけど(苦笑)。


現実なんて、その背後のあるものを見通す内面の解釈力がなければ、平たんな日常が続く無味乾燥なものなんだから。基本的に、「適度に本を読んで、適度に現実で行動」をして、というサイクルがわかっている人間が、最も充実した体験を生きる人間になります。えっと、ここでいう本を読むというのは、イコール内省、沈思、瞑想といったような、個人の内面に深く潜って自己の意志だけで世界を解釈することができるっていうような意味です。これができるためには、パーソナルメディア媒体である本というものを読む行為を通してだとアクセスしやすいのです。


別にもちろん、本でなくとも、そういった自己(=自分一人で)で深く内面に潜る行為ができるのならば、なんでもいいのですがね。ただ、本を読むという行為を通さないで、それができるようになる方法は人類はあまりまだ見つけ出していません。唯一同一のレベルでできるのは、宗教などで言う「祈り」ですね。祈りなどを通したコンヴァージョン(=回心体験)ですが、これも基本的には「聖書を読む」という行為を通して行われるので、やはり同じだと思いますよ、僕は。

本を読まない人間を軽蔑していた。

こいつまったく勉強する気がないな、と。

私自身、月に20??30冊は読む。

けど、本を読まない人間にいくつか反論されて、言い返せなかった。

いわく、「そんな本読んでなんの役に立つの?」

確かに読んでも役に立たない本も多い。そんなにバリバリ読む必要はないのではないかと思う。

いわく、「勉強してる気分になりたいだけなんじゃないの?」

読みたいから読んでいるんだが、なぜ読んでいるかと聞かれると、読んでないことが不安だから、勉強し続けてないと不安だから、というのもあるように思う。

いわく、「実体験から積み上げたものじゃないと信用できないよ」

これはどうかと思う。ただ、生活に生かせない読書をしてもしょうがない、というのであれば、まあ一理あるかもしれない。

そう考えていくと、本を読む自分を自己肯定したいだけなんちゃうんか、と。

読む冊数、減らそうかな・・・。

本を読みすぎること自体、自分で考えることを放棄しているんじゃないかと自問することもしばしばだし。http://anond.hatelabo.jp/20080905042139


こういう議論には、1)「実体験」と2)「本を読む」ということが、二元的な対立で思考していると思うんですよね。よく話される会話ですが・・・。そもそも、この1)と2)は、そもそも適度にリンクし続けることが必須なわけであって、何が軽蔑されるべきかといえば、これが単独で存在している状態を猿のような反射で生きているといわれるんです。読書をする人が、反射で生きている実体験だけの人間を軽蔑するのはよくあることなんですが、もちろん同時に実体験で生きている人からすれば、読書「だけ」している奴なんか何の意味もないって軽蔑され返すんですよね。読書(=内省)が価値を持つのは、行動とのリンクが回っている状態があって初めてで、単独で読書の量を誇っても何の意味もないんですよね。


・・・・・なんか長く書きすぎて何が言いたいかわからなくなってきた。とりあえず今日は、ここでやめます。