TURN 25 『Re;』の感想(3) ルルーシュが世界にかけたギアスとは?〜罪の十字架にかかることで世界の仕組みを変えること


■ただし残るパラドクス〜ギアス自体は肯定しているんだよね、それはなぜか?


「ギアスは願いに似ている・・・・」


というセリフがありました。このセリフをベースにギアスという意味が、かなりこれまでとずらされているように僕は感じました。「これまで」とは
(1)で書いた「人々の個々の意思を捻じ曲げたことが罪である」というという文脈からです。ルルーシュが罪滅ぼしに「死ぬ」ということがなぜ必要だったか?ということの理由を、、倫理に求めると、非常にわかりやすい。


うんうん、人をだました奴は、人の心を弄ぶような「悪」は、死んで当然だ!という、そういう表面的な道徳観が人々にはあます。その表層の薄い理解で言うと、上記で僕が語ったように、人を騙すという「悪」を為した、ルルーシュが自らの命で責任を取った、というわかりやすいドラマツゥルギーがあり、それに涙してカタルシスを得ます。



けど、本当にそうか?



本当にルルーシュって、そんな表面的な道徳だけで、死んで見せたんだろうか?。もちろんそういう道徳もあったかもしれない。けど、もう少し意地悪く、考えてみたい。というのは、「このギアスが願い似ている」というセリフや、「撃っていいのは撃たれる覚悟のあるやつだけだ」というのは、実はかなり善悪を飛び越えた身も蓋もない意味があるように僕には感じるんです。


まずね、意味だけで考えると、ギアスと願いが似ている、ということは、「人間の願い」と同じ意味しか「ギアス(=人の心を操る力)にはない」って喝破しているんですよ。もう少し敷衍すると、人が人に対して支配力発するのは、結局、ギアスがなかろうが同じようなもので、人間は結局何かに操られて生きているものなんだ!、そういう「人を操りたい」という気持ちの争いが世界の真実なんだ!という、要は競争社会のバリエーションにすぎなくて、ギアスだってそんなものにすぎないと、つまり究極として「人の心操ることを肯定している」としか僕には思えない。


また、、これは、LDさんが同じことを持っていて、わかっているなーと思ったんですが、「撃っていいのは撃たれる覚悟のあるやつだけだ」というのはこれをパラフレーズ(=いいかえ)ると、「覚悟があれば、撃っても(=人を殺しても)いいのだ!」ともいえるんですよね。


さて、このセリフから類推される、戦後の「やさしい世界」・・・・ルルーシュが望んだ、世界のあり方って何か?って考えると、結構、単純じゃない気がするんですよ。いや、もしかしたら見ている人はすぐこれが分かっているのかもしれないです・・・僕は、1日たって、、、あれ、もしかして・・・と思い直しをし始めてきました。mixiとかのコードギアス関連のコミュニティのコメントを見ても、いきなりこのことに言及するよりは、脊髄反射的に、ルルーシュが死んで悲しい!(けど偉い!責任取った!)とか、そういう表層の感情論が多くて、それはそれで正しいのでしょうが、理解としてはどっちが「正しい」というか、監督の意図したことなのか?と少し疑問に思いますが、少しづつ考えていくと、、、、


えっと、たぶん「ルルーシュの唯一皇帝として世界の敵になって、世界をまとめたという戦略」って、普通に頭のあるやつが、丹念に皇帝ルルーシュの足跡を追っていくと、「誰にでもわかること!」なんではないかと思うんですよね。同時に、そうなると「ゼロの正体がスザクであること」なんかも、すぐわかること!なんではないかと思うんですよ。


しかも、世界の統治に関わる主要人物、第100代神聖ブリタニア皇帝ナナリー・ヴィ・ブリタニアも、戦後の日本軍の枢軸である藤堂将軍も、日本の主要な政治プレイヤーであろうカグヤも、日本国首相の扇も、黒の騎士団のトップであり中華帝国の天子様の恋人(笑)のシンクーも、みんな、ルルーシュをたぶん悪く言わないと思うんですよね。そしたら、政治の中枢にいるやつは勘で分かってしまいますよ。僕が、政治のプレイヤーで扇さんみたいな、甘い人にあったら、たぶん数分でわかってしまうようなことだと思います。


・・・しかも、全世界で、あの中継がされているんだろ?、、、あの時のナナリー(お兄様って、泣いて悲しんでいますよね?)やルルーシュのセリフを読唇術や状況から判断して、さまざまな憶測をするやつって、ものすごく多いと思うんで、すぐ真実なんか明らかになると思うんですよね。たぶん憶測に過ぎないって、公式声明では陰謀論だと、それを否定されるとは思いますが。だって、ジョンレノンの暗殺も、ケネディの暗殺も物凄い憶測を呼んでいるじゃないですか。


そうしてみれば、あの時代に、世界をまとめるという「結果をたたき出した!」という実績から逆算すると、意図的にルルーシュとスザクが演出したってわかる可能性が高いと思うんですよ。だって、過去の全てのスザクやルルーシュの語録は表に出ている部分の分析はする思いますよ、普通。とりわけ、ナイトオブラウンズでもあった、スザクの言行や行動や裁判記録はのこっているので、そこから考えると、力を求めたとは考えにくいことは絶対にわかると思うんですよ。


では、いったい何をどういう風にスザクとルルーシュは演出したか?ということを丹念に追ってみたいと思います。ちなみに、このロジックは、ほとんどLDさんと同じというか、パクリなんで、まずはLDさんの記事を読んでいただけると、うれしいです。が、僕なりのこれの解釈を再度書いてみたいと思います。

しかし「コードギアス」ではスザクが扮した仮面の騎士ゼロが皇帝ルルーシュを討ちます。

僕は、ここが大きく違うと思っています。これまでの擬態悪の者たちは、僕が知る限り自分が討たれた後の世界がどうなるかは大雑把に言ってしまうと感知していなかった。ただ「託した」だけなんですね。……え?ルルーシュも「託した」だけですか?いや、そうも言えるんですけどね(汗)僕はそうは思っていない。少なくともルルーシュは世界に対して「ギアス」をかけた(スザクとそんな話をしていますよね)それは単に願いを「託す」というより「呪詛」に近いものと僕は思います。


そうそう、実は、これは僕も思った。というのは、ある程度の舞台まで用意したら、あまりにも激しい悪を行使しすぎたそのラスボス=主人公(=ここではルルーシュ)は、未来をのちの人々に「託して」旅立ったり、死んじゃったりします。


なんでか?


っていえば、それは。当然、人間の自由意思を尊重するからなんですよね。この系統の物語の類型・・・・「ラスボスが主人公であった」という「世界の敵になって、世界を統一させ殺し合いの続く人類に平和をもたらす」という戦略には、なによりも、まず無理な願いなんですよ。

そもそも人類そのものは、そういう風になっておらず、永遠にゆるやかに殺し合いをやっている中東やアフリカの部族社会のほうが、人類史では実は自然なことであって、国家など統一権力ができることによる戦争の拡大はそれこそ人類が飛躍的に成長する契機であると同時に、それまで見たこともないような殺戮や悲劇を世界にもたらすんですよね。信長が登場した時、頼朝が登場した時の日本の群雄割拠や、真の始皇帝が登場した時の春秋戦国時代を見れば、そもそも多国間による緩やかな同盟と、安定した殺し合いがバランスオブパワーで継続しているほうが、どちらかといううと人類の歴史では普遍ですらあるといえるかもしれません。それほど、「統一」をもたらすことや、その自然に培われた文明ある地域を、「新しいステージに飛躍させる」統一者や革命家というのは、異常な特異点なんです。

そして、信長や始皇帝を見ればわかるが、世の中に統一や平和を打ち立てようとする時に行われる「行為」は、身の毛もよだつような、激しさを伴うものなんです。なぜならば、「それまでの人類社会が甘受してきた緩やかな倫理道徳をはねのける」ような意思と行動がないと、そういうことはできないんだと思うんですよ。信長は宗教勢力を皆殺しにしましたよね。秦の始皇帝の殺しまくりはすごいですよね・・・。けど、歴史的にみると、「その行為」がなければ、中華帝国という一つの「国家」は生まれず、アジアには大きな秩序は生まれず、中華圏は永続的なヨーロッパ大陸の中世から近世への歴史と同じと同じ殺し合いが続くことになったはずです。日本の信長の異なる秩序に帰依している人間の徹底的な買いたいと皆殺し政策がなければ、日本国家の統一的基盤というのは終ぞつくられることなく、ヨーロッパの侵略があった時には、内部で侵略者に手引きする離反者が大挙して出て、統一国家としての力強さは持つことはなかったかもしれません。

けど、それは、歴史的に「あとの者」が思うことです。だって、自分の親兄弟をの部がなに殺された人や、始皇帝に殺された人は、そんなマクロの、遠し未来のことを考えるでしょうか?。

けど、「歴史的に見れば」彼らの行為は、一つの巨大な多大さを示しているんです。ちなみに、ヨーロッパは統一権力がないために、長期間の緩やかな戦争を繰り返すことにより、「異様に戦争する技術がうまくなったこと」また「その激しい死を賭した競争の中で文明のレベルが高まったこと」によって、はるかに進んでいた文明出会った中東のイスラーム文明やアジアの中華文明を、数百年にわたって支配し続けることになったわけですので、、、何が「善きこと」かはわからないものなんですよ。


えっと、話がズれまくった、、、つまりね、そもそも「個人が世界を変えよう!」と望むことは、ものすごく無理があることで、しかしながらそれでも何かに対して、、、今ある秩序に対して、いまの世界の人々がいう「仕方がない」に対して反逆をすることは、物凄く厳しいことなんです。このコードギアスの物語が、凄くスカッとする全能感を感じさせてくるバトルシーンや世界を人を平気で支配していくルルーシュの才能や行動力を見せる一方、その「対価」・・・いまの秩序を踏みにじった対価を、個人に徹底的に支払わせるんですね。まず、ユフィを殺し自らの魂の同盟者になるべき人を自らの手にかけることで、自らの「正しさ」が奪われ、さらに、自らの反逆と存在理由であった妹ナナリー、彼女のため「という免罪符」を彼女の自由意思を見せて粉々に打ち砕き、最後に帰るところであったはずの「等身大の自分を愛してくれる恋人のシャーリー」を自らの失敗で殺され、自らを本気で命をかけて慕ってくれた弟のロロをぼろきれのように利用して殺し、最後の帰るところであった「黒の騎士団」という時間を共にした中mさえも、彼を裏切ります。


・・・・これは、たとえ目的が「正しく」とも、その「正しさ」は相対的であり、いまの秩序を壊すことが、どれだけ個人に罪を感じさせ、罰を与えるかのオンパレードのコレクションのようです。正しさは、貫かれて結果にならなければ価値がない・・・が、その「行動」は、澱のように罪として個人の肩にのしかかり、正しいことをしているにもかかわらず罰を受けないければならない・・・それが、いまの時代の「善きことを志す指導者」のあるべき姿なんです。


正直いって、全能感に満ち満ちるこれだけの仕掛けがありながら、谷口監督という人の資質は、やはり、「人の動機の解体である」という00年代の特有の発想に貫かれていると思います。まぁ今の時代で産業としてエンターテイメントを維持しようとするとこの発想以外ないと断言できますが、それでも、『無限のリヴァイアス』を見ると、もともとそういう風に、マクロもミクロもすべてちゃんと描ききって世界をクリアーしたうえで、やっぱり個人が生きることを、その欲望を告発して解体して、徹底的に追い込むのが好きなんだな・・・と思います(笑)。まぁ今の時代の表現者や人の上に立つような仕事をしている人間は、一様に、この「くれくれと叫ぶ大衆のゴミども」の自意識を解体してやりたくてたまらなくなるというのは、表現者に人の上に立つ人の宿命のようなものです。そして、いまの時代って凄く難しいのは、この「ゴミども」の筆頭として「自分」がいたりするようなとっても自意識の強い時代なんですよね・・・・(苦笑)。僕は、自意識の高まりによる「再帰」って呼んでいます。最初は素朴に、「真善美がわからないこの大衆のブタどもが!」とか傲慢になったり、そういった馬鹿の世界からは離れようと仙人ように高踏的に思うものなんですが・・・でも気付いてしまうんですね、最もブタで、もっとも真善美が分かっていないのは「自分」だって・・・・。そういういったん、メタに自分を切り離して外から客観視できるようになる視点を「マクロでみる」という意味の一つとして僕は考えています。けど、こういうマクロの視点になると、物事を鳥瞰図的にバーズアイで見てしまって、「ここのこと」がどうでもよくなってしまうんですね。これをミクロの消失とか高踏的と僕は呼んでいます。そんで、もう一度人間が生きるというのは「ミクロの視点から世界を体験することなんだ」という心理になって戻ってくる、この十牛図的なプロセスが、僕がいう「再帰的」ってやつです。ちなみに、ネーミングた適当です(苦笑)。

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なんか、解説が多くなってしまったんですが、ルルーシュという少年の姿って、とっても今の時代に重なるんですよね。まぁ一言でいえば、ちゃんと反省することができた上に、空虚な根拠なき決断幻想による決断という「逃げ」ではなくて、自分の意思で、すべての動機(=幻想)を解体されたうえでも、それでも、「あえて決断する」、それがたとえ「嘘であって」「罪であって」「相対的な正しさであって」すらも、それをすべて分かって、決断するっていう00年代の想像力的にいうと、僕はここで言われる決断って、「空虚な幻想の決断(=単に自分の内面を見つめるのから逃げただけの脊髄反射)」だと思っているんですが、ルルーシュは、これは、『マブラブオルタネイティヴ』の主人公のタケルにも似ている構造なんですが、マクロ的にもミクロ的にも徹底的に、決断するのに必要な動機(=生きるための幻想)を解体して、リアルをこれでもかと突きつけた上で、それでも、・・・・それでも、あえて僕はやります!と、叫ぶ形式になっているんですね。いいかえれば、単純な契約ではなくて、再契約を経て、物事に自覚的になった上での、再度の契約(=決断)で、それって最初のものとは全く意味合いが違うものであることは、明白ですよね。


ここでLDさんの話に戻ります。

…さて、この「ウソの世界」って本当に「ホントウの事」を言っただけで崩壊するものなんでしょうか?

ここでちょっと、こういうウソをつく者を“大人”、それを嫌いホントウの事を言う者を“子供”と定義づけて続けます。

“たとえば”ですね。…貨幣って「ホントウは」単に鉱物を練成したもの、あるいは単なる印刷物ですよね?これは誰もが知っている事です。でも、貨幣にはあらゆる物と交換する価値がある。この事も誰もが知っていると思います。しかし、この「貨幣に価値がある」という話は「ウソ」なわけです。人間が便宜上使っている「ウソ」ですよね。

つまり貨幣経済そのものが「大人が作ったウソの世界」という事になります…“バカには見えない服”ではないけど、“バカには価値が分らない紙切れ”を流通させているワケです。では、この世界に無垢な子供が一人現れて「なんでぇ!ただの紙切れじゃん!」と指摘したとしたら、貨幣経済は終わってしまうでしょうか?…終わりません。それは、その「ウソ」自体に意味があるから。僕がしたい「ウソに乗る話」とはそういう話なんです。


つまり大人というのは、そうやって様々な「ウソ」をつく事によって世界を前進させて来た……と僕は思うんですよね。正確に言うと「ウソ」をつく事ではなく、「ウソ」を「信じる」事…信じるだと何か信仰にかかって来そうなんで(無論、信仰も含みますが)僕は「ウソに乗る」という「言葉」を選ぶワケなんですが。


たとえば「自由思想」、「平等思想」、「人権思想」なんてものも人間蹂躙の歴史の果てに大人がつく事に決めた「ウソ」です。でも、その「ウソ」のお陰で人間は「民主主義」というそれなりにマシに思える「世界」を手に入れる事ができたんです。…「ウソの世界」ですけどね。
同時に、この「自由」や「平等」、「人権」と言った様なものが「ホントウの事」だと思っている“子供”は、何故それがあるのか?を考えもせず〜「人権は在る」という話が「ホントウの話」だと思える人は「在るから在る!」としか思わないでしょう〜、今現在も大きな間違いをし続けている…と僕は思うのですが、この話は「コードギアス」の本論とはあまり関係がないので、ここで切り上げます。
でも、僕はこういう観点にいるので「コードギアス」の中でシャルルが「本当にウソが嫌い」っぽい所を見てとると「う〜ん(汗)真実厨(子供)だなあ…」と苦笑いしていたりしました。

「ウソに乗る話」大体こんな感じです。以前も言ったようにけっこう僕は事ある毎にすると思います。
#515 作品チェック コードギアス反逆のルルーシュR2最終回〜ウソに乗る話〜
http://www.websphinx.net/manken/come/dens/dens0089.html#515


【ウソに乗る話】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/2b1066647c20036cc70e8b2ecf75c162

それで、ここにつながってくるんですよね。そう、この作品の最後のゼロ・レクイエムという戦略で、たぶん、ルルーシュもスザクも、もう自分のことを罪人だなんてこれっぽっちも思っていないはずだと思うんですよ。

あって、「撃たれる覚悟があれば撃っていい!」と宣言しているじゃないですか。ようは、「殺される覚悟さえあれば、人を殺してもいい!」と言っているんですよ。ここにある種の決断があるんです。その決断は、ただ幻想ではない。自分が依って立つ、妹や、正義や、正しさなどを、そのすべてをちゃんと否定されて、自分が認められることすらないのをちゃんと「すべての現実を認識した後」で、これを行なっているからです。殺される覚悟とは、もちろん、肉体的なことだけではありません。「存在を抹消される」「個人としての価値をすべて抹消さて消し去られる」というリスクも含めて受け入れられるか?って問われているわけですから。


その上で、スザクもルルーシュも、「やる」って決めているんですよ。




ちなみに、そう、、、だから、ゼロレクイエムは、世界の統治者たちにこう問いかけているわけです。


このウソをどうやって、壊す?、その過程は告発できても、それを完成されて、明らかに嘘だとわかる状況があっても、それに対して、


お前たちどう決断するんだ?


と。世界は作られたものなんです。つくる過程の罪は、ルルーシュがすべて引き受ける構造を世界に作りました。だから死に際の十字架ののように見える血の跡は、まぁ監督のメッセージですよね。これって、キリストが人類の罪をすべて引き受けた原罪になぞらえているんです。

「そのこと」によって、世界はとんでもなく変化を迫られ、それによって凄まじい死者や悲劇も起きるかもしれない・・・けれど、その首謀者が明確なシンボルとなって、かつその対価に「もっともこの世で尊いはずの命(そんなわけないが・・・)」を投げ出している・・・となった時に、その思想を、わかってもないのに、フォロワーが劇的に増える可能性があります。「命をかける」というのは、わかりやすいストーリーだからです。意味が分からなくても、それだけでそれまの罪などが帳消しになってしまう魔法の演出だからです。ましてや、明らかに本人が自覚的に命を、演出として消費している場合には、その価値はとてつもなく高くなります。ぱぅと見そうでなくても、そういうものなんだと僕は思いますよ。ルルーシュなにも死ななくてもよかったんじゃ・・・という涙が多いのは、この反逆のルルーシュの世界で、このウソに気づいた一般人の誰もがそう思う、ってことでもあるんですよね。


そう、、、これはすべて、ルルーシュとスザクの二人がついた、大ウソなんですよ。


しかも、それを英雄でも、罪人とでもなく、なんら物語による幻想の彩りなしに、淡々と実行してのけた。実は世界を平和に導いた勧善懲悪・・・・物語の世界でも、ゼロという英雄による悪逆皇帝ルルーシュの討伐による世界平和、というわかりやすい物語が真実からねじれて存在して、それがバレバレであるにもかかわらず、誰も告発できない構造作り出している。もちろん、視聴者に対しても、同じです。


とっても、自覚的で、再帰的で、にもかかわらずロボットアニメの楽しさとギアスによる展開を進める全能感を全面に押し出した、なかなかにひれくれた作品だと思いますよ。うん。