『GUNSLINGER GIRL』 6〜10巻 相田裕著 成熟した大人の恋の物語の挿入から生まれる立体感

GUNSLINGER GIRL 8

たしかに、超法規的な世界というのは、ある意味惨劇の死の世界であり、その生と死をつかさどる世界は、容易に聖化されやすく、綺麗だ。この作品に無常観や諦念というテーマを見つけるのはたやすい。でもその綺麗さを舞台装置のみで使うのは、ただ単に設定だけの作品で終わってしまいかねない。以降に期待する作品ですね。

GUNSLINGER GIRL』 相田裕著 聖なる残酷さ〜美しいが納得できない世界観
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20081025/p1

以前の書評で僕はこう書いた。ただ、いま思うと「ただ設定だけに終わる」ではなく、無常観や諦念というテーマ性・世界観に、作者が自ら選んで留まっていたのだ、ということがわかる。既に、もうこの世界観だけで、完全に世界が完成している。巻の途中で評価するのは、物語性のダイナミズムを重視する僕には珍しいのだが、この作品は既に高い完成度を示している。最初の数巻の完成度だけで十分な作品だ。そして、もしここから物語の飛躍を描ければ、なかなかマイナーな名作となりうると思う。基本的に、作者は「この世界観」に耽溺することを志向しているように感じる。


これまでの全ての巻は、すべて義体(いってみればサイボーグ化)されて暗殺者としての悲惨な人生に身を投じる少女と、その管理を請け負う担当官の、腐りきった残酷な殺し合いの世界での、これでもかと暗い背景をえぐるだけに終始してきた。たとえば、ある少女が、義体化される(=記憶もすべて失う)きっかけになったのは、スナッフビデオ(だいたいは強姦されて殺人される過程を写すビデオ)の餌食になって身体を解体されて瀕死の重傷を負ったためだ。・・・・こういう設定だけでも、あまりに悲惨でしょう?。


この6巻も、ペトルーシュカという少女が登場するが、バレエダンサーであったロシア系のエリザヴェータが、骨肉腫でダンサーの道を閉ざされて自殺したため、義体化の対象となる。


「命を粗末にした罰ね」

と、義体化にかかわる研究者は言ってのける。このなんというか、諦めに満ちたセリフに、僕はため息がでる。




物語構造は、すべて同じだ。



この救いようのない、汚れた世界に関わり続ける暗殺者たち・・・・・・設定を説明すると、いわゆる超法規的な公安警察であって、イタリアの独立運動派のテロリストとマフィアなどと殺しあっているという設定だ、国家の意思の元に、こうしたサイボーグ化の実験がなされ、少女たちは実戦に投入されている。彼女達は、すべて記憶を失って、イヌのように担当官に忠実に従う。そして彼女たちの存在意義は、もちろん、暗殺や殺人だ。その世界に放り込まれた少女たちの過去の回想を、現実の凄惨さと対比させることで、世界の矛盾を描き出すというドラマツゥルギー。世界の残酷な部分をこれでもかとえぐると、「もうどうしようもない」といったある種のあきらめを通り超えた聖なる感覚を受け手に感じさせるものだ。


が、実は、この6巻もまったく同じ構造であるのに、なぜか物語が動き出す印象を僕はもった。なぜかはまだ言語化できていない。



ペトルーシュカが、16歳と、これまでの少女たちよりも高年齢なためか?



それとも担当官のアレッサンドロが、めずらしく未来を志向しているモチヴェーションの持ち主なためか?



しかし、悲惨な中にも、何かが生まれそうな、何かへ向かいそうな希望を感じる。なぜだろう?。いままではまったく同じ構造で、まったくそんな片鱗も感じなかったのに。物語には明示的には描かれていないが、明らかに作者が、一歩前に踏み出した印象を僕は抱く。・・・・・これは楽しみかもしれない。狭い聖化された世界に自閉するのではなく、ここから、世界を、政治を、テロを描くことができたら、この作品は傑作になれるかもしれない。


と、これまでが6巻が出た直後に書いた文章。

GUNSLINGER GIRL 10 (10) (電撃コミックス)


そして、先日最新刊の10巻を、読了して・・・まぁわかっていたが、いやーこの作者、成長しているなーと感心する。成長する作家を読んでいると、本当に感動する。いずみのさんが、mixiで書いているのですが、後半の巻から劇的に世界が広がって豊かになっている、と僕も思う。基本的に、すべてのアイディアは、すでに同人誌時代からというか、この作品を構想した段階でできてたのではないかな、と今は何となく思う。


イタリアのマフィアと国家、そして分離独立を狙う五共和国派のテロリストの対立を、その悲劇のスタートである「クローチェ検事の暗殺事件」とするマクロの世界観設計は、架空のイタリアという設定ながら、見事な時代背景とのシンクロしているテーマだ。というのは、これが、イギリスでいうスコットランド独立と同じような、豊かな地域がネイションステイツの統一体制に反発して、独立を志向することと、極右の台頭が著しい90年代以降の時代を正確に戯画化していると思うのだ。この問題に、EU、ヨーロッパコミュニティという人類の歴史の中での壮大な実験をヨーロッパ大陸は実施している。


が、、、、非常に秀逸に寝られたマクロの背景と、それに振り回されるハードボイルドな男たちや権力者たちを、かなりうまく描きながらも、どうしてもそこに「熱」が入らない感じがしていたのだ。


それは、やはり前の記事で書いたとおり、「義体をもった隷属的な少女と担当官(男性)」という設定が、いかに「らしく」ても、「そもそもそのために作りだされた世界」という感じがして、この関係性が「固定化されている」という風に感じてしまうと、物語のすべてのアイテムがただの記号というか風景に見えてしまい、重厚なマクロの世界観も、それって萌えとかそういったある種の「単一な価値観」の従属物にしかならない感じがしていたのだ。


それが、ぶっ飛んだのは、やっぱり6巻から始まるペトルーシュカとサンドロの恋愛物語だ。これは三角関係にもなっていて、サンドロという精密なスパイを作り上げた、大人の女性がいて、彼女はイタリア公安部の伝説的な情報工作員でロッサーナ(これが、赤毛のいい女なんだ!ほんとに!!)という。この素晴らしい物語は、ぜひ後半のダイナミックなガンスリの中で楽しんでほしいところなのだが、簡単にかいつまんでいうと、

この3人の三角関係がそのまま、「つくるもの」と「つくられるもの」の反復になっていることがわかる。A:ロッサーナは、自分の後継者として、B:アレッサンドロを見つけ出し育成していく、、、しかし、自分の生き方に疲れたロッサーナは、自分の分身としてのサンドロを作り上げた時点で行方不明になって身を隠してしまう。そして、サンドロは、義体であるC:ペトルーシュカに自分の工作員としての技術を教え込むことで、同じサイクルを作り出している。


が・・・・このA→Bの関係で解決付かなかったことが、B→Cでだんだんに解決の方向へ向かっているのが分かる。時間がないので例証を挙げないが、読めばあまりの対比構造に、ほーとなるはず。


実は、サンドロ自身も、未来のない実験動物のような義体の少女たちと、ほとんど大差なく人生の無目的な無意味さにいらだっていて、またクローチェ事件の生き残りの兄弟のような、そもそもこの制度を作り出したものと違って、暗殺者の少女たちと同じように、しょせん歯車の一部でしかない。もう、社会福祉公社は、巨大な官僚システムになりつつあるから。彼はその歯車として、生きている実感を持っていない。生きるための何か?を探して生きているにすぎない。ペトルーシュカがあと5年しか生きられないと聞いてサンドロは、「5年先なんて、自分だってどうなっているかわからない」と考えているのが典型的なのだが、ようはね、このサンドロとペトルーシュカの関係は、実は、徐々に「対等」になろうとしているんだ。

わかるかなぁ?。リコやヘンリエッタが、明確にクローチェ事件の復讐という兄弟の「目的の奴隷であり道具」であるという大前提があるんだけれども、サンドロにとってのペトルーシュカは、仕事のパートナーにすぎないんだ。つまりは、「同じように目的LESSの感覚で、同じ目線で世界を眺めている」んだよね。どっちかが、どっちかの道具ではないんだよ。だからこの二人の間に生まれる感情は、対等なものなので、とても深い愛情に感じるし、それはまがいものではない。だって、権力構造がないんだもの。


そして、この二人の恋愛が、1期生の盲目的で隷属的な少女と担当官との関係と比べ、どれくらい自由で、そして人間らしいかは、よくわかると思う。この恋愛物語、、、まるで美しいフランス映画を見ているようなスタイリッシュでドラマチックな物語が挿入された途端、このガンスリの世界が物凄く豊穣でリアルに満ちてくるように僕は感じるようになった。


わかるでしょうか?。


これまで固定的で止まった関係に、ある種のダイナミズムが挿入されることで、すべてのその他の「風景」にしか見えなかった記号が、リアル感を持って動き出したからなんです。そして、逆に、その「止まった関係」すらも、「動的な関係」に照らし返されることにより、よりリアルにその切なさを感じるようになっていく。


そして、ああ、そうか、1期の関係と2期の対立構造になっているんだと思う。、、、ようは、リコやヘンリエッタなど彼女たちを復讐の道具として使うことでしかマクロの復讐劇を成し遂げられない兄弟と、サンドロとペトルーシュカのような対等な関係が、対立構造になって、、、、このクローチェ暗殺事件をスタートとして始める極右によるテロリズムのマクロの劇が進行していくというのが、「そもそも作者が志向していたこと」なんだろうと思う。


それは、、、、すごい。見事だ。


「つくるもの」と「つくられるもの」の逆転劇を抜けようとしているサンドロとペトルーシュカが、さらにより大きな、「つくったもの」と「つくられたもの」というダイナミズムになっているのがわかるだろうか?。


そして、たぶん最初からそういう意図があったのだけれども、受け手側に「それだけのリアリズム」を感じさせるには、やはりこの精密な背景の書き込みと、政治家やマフィアなど年長の人物造形の書き込みと、そして、相田さんのこれまでの得意な関係性ではない、大人の、まるでフランス映画のような、対等な男女の恋愛を描けた時に、すべてがそろったんだと思う。


これは、結論からいって、今の時点で、傑作になる、と断言してもいいと僕は思っています。ちなみに、この話はもっと深く書きたいのだが、とりあえず少しだけ書いておきます。これ、いずみのさんにいろいろ背景を教えてもらっているうちに、強く思うようになったんだよね。なんで、こんなに劇的に後半深くなったかは、不思議に思っていたんです。




追記

僕は、もう、、、ずっと、ここに出てくるメガネの検事ロベルタちゃんに、ぞっこんです。知的な女性にメガネ!死にそうです。