ハーレムメーカーは時を止める〜動機の根源に潜む宝箱を開けることは、、、、

とある魔術の禁書目録 第1巻 (初回限定版) [DVD]

■根拠も動機もなく「誰でも助ける」という性格は、ハーレムメーカーなのだ!

とある魔術の禁書目録』の主人公である上条当麻とインデックスの関係を、ルイさんと話していて、おおっ!と思い当たることがあった。この演出がよくなかったと思った最大のポイントは、「誰でも助ける」という主人公の動機を、物語の脚本・演出の中で、説得的に描けなかったからなんだ。えっ?なんで、「誰でも助けるの?」って、疑問に思ってしまう。

ところが、同じ質問を、僕は、西尾維新さんの『化物語』を読んだ時にしているんだけど、『傷物語』(3冊目)まで読んで、そんなこと全く気にならなくなった!と思っているんだよね。今に至るまで、主人公は「誰でも助ける」という動機がどこから来たのか説明されていないし、今後もされないようなのだが、「そういう存在である」ことがとても、素直に受け入れられている(少なくとも僕は)。この差は何なんだろう?。どういう演出・脚本の差が、これを生み出したのか?。

そんで、僕は御坂妹(この子が好きなのは、男なら当然だと思うのだ!)がいいって!言っている時に、ルイさんが、ああ、最初の話からすぐにこの御坂のサイドストーリーが接続されたら、よかったのにな・・・というようなことを言って、「ああ!そうか」と思ったんです。

いや、簡単な話で、連続して「誰も彼も助けるのを次から次へと見せられる」話にすれば、凄く説得的になるんですよ(笑)。ああ・・・こいつは、「そういうやつなんだな」って思うもの、どう見ても(笑)。ただし、当麻の話でも書いたんだが、やっぱりセリフや反応が、「ずっとそういうことを繰り返して生きていた」というような発言や態度がないと、説得的ではなくなるよね。えっと、つまり、ここでは「誰でも助けるやつ」というのを受け手に感じさせるには、「動機を説明する必要はない」ってことが、納得できたんで、僕的には、なるほど!と思ったんです。これは、アニメーションのスピード感では、たぶん集中して話を進めないと、その納得感が来ないんだなという感覚と同じだと思う。原作を知っていないと、少なくともこの主人公の行動を納得的には見れないもの。この手の「誰でも助ける」人格というのは、ある種の物語の基本人格みたいなもので、登場する女の子がみんな彼に惚れてしまうという「ハーレム構造」を非常に簡単に形成できる素晴らしいパターンなんですよね(笑)。しかも、危ないことにこれでもかって首を突っ込むから、物語の駆動にはとても役に立つ。これは作劇を考える時にとても使いやすいと思うのだ。



■ハーレムメーカーは時を止める〜そこに必要なのは動機の根源に踏み込むこと、、、いいかえれば正妻との物語(笑)


ちなみに、ここで「根拠がない」というのも重要で、根拠があった場合には、それはトラウマ(=そういう人格になった原因)なわけなので、それを解決して昇華することがイコール彼の人格の「救済」となるので、その時には、彼の相手は、「その救済が可能な人(まぁたいてい女の子)」という風に、オンリーワンの関係を形成してしまうので、物語が終息へ向かってしまう。これは、動機を描いた時点で、実は、収束に向かうという「路線」を潜在的に持ってしまうと言い換えてもいいだろう。つまり、動機を明らかにしないでおけば、ライトノベルなんかだと、延々と読者を引っ張ることが可能になるってことだ(笑)。同じパターンを続けまくればいいのだから。


漫研で、


「インデックスって、見事なくらい正妻としての存在感薄いよね」

って言っているのを聞いて、おおーなるほど、と思ったのは、さっき言ったんだけど、「誰でも助ける」ってのは、「助けられた人の人生の根幹にかかわる」ということを意味するので、相手は、助けた人に惚れるよね。


ところが、恋愛とか惚れるってのは、「その人を独占したい」という気持ちなわけで、、、、その人を独占したい、より深く知りあいたい、というために必要なことは、僕は「動機の根源に触れること」だと思っている。


ところが、もしこと恋愛で、「動機の根源に触れる」ことをしようとすると、「二人の対幻想のドラマツゥルギー」が発動してしまい、少なくともこと恋愛に関しては、物語が終結に向かって走り出してしまうんだよね。僕は、僕の好みとして、この動機の根源に触れること、、、「こそ」が、人と人がかかわる最も重要なことだと思っているので、基本的にすべての物語に、「これ」を求めているようなんだな、ってことが自覚されたんだ。


ところが、「誰でも助ける」という人格ドラマトゥルギーは、言い換えれば、「相手の動機の根源には触れる」のに、「自分の動機の根源には触れにくい」という構造を生み出す。だって、たいていは、根拠がないもの。根拠を描いた瞬間に、その根拠に触れることができる人が、、、ここでは例えば女の子が、正妻の地位として・・・いいかえれば「その人の唯一無二の取り換えがつかない絶対の対幻想者」として立ち現れてしまうので、物語がハーレム構造を持たずに、終局へ向かってしまう。通常の僕が「いい」という物語は、この対幻想のあり方、、、、言い換えれば、主人公の動機の根源と、その物語の世界観がもつマクロの構造(=路線)とテーマが、一致するものです。


そう、、、なんとなくヒント的に感じるんだが、この「主人公の動機の根源に触れない」という設定を置いた瞬間に、ハーレム構造が成立できるんだね。いいかえれば、制裁をめぐる1号さん2号さんたちが、等距離に配置されるわけだから。これって、ような楽園の日常(エロゲーなんかでよくつくられる空間)の劇空間なんだよね。ほうかーつまり、動機をえぐりださなければ、物語進まないので、餌をおあ付け状態にできるわけだ・・・。


たとえば、西尾維新さんの『化物語』なんかが、秀逸だなーと思うのは、正妻の位置にいる主人公の恋人のツンデレ少女戦場ヶ原ひたぎが、とっても凄いというか秀逸なのは、主人公の暦を「誰でも助ける人だからこそ」好きという点だ。つまり、その時点で、「自分は特別ではない」というのを前提としているわけだから。うーん、うーん、難しい(笑)。


・・・・ちょっと整理は必要で、何が言いたいのか分からんくなってたが・・・・ここは、面白そうなところなので、今後も少し考えていきます。



■それは速度の問題なの?アニメーションの逐語訳は悪手なの?


ちなみに丁度今、TBくれたGrippal Infektさんが書いているけれども、ということは、『とある〜』なんかは、もう少し重層的に連続で女の子が当麻に助けられるような脚本にすれば・・・・彼の言い方を借りれば、速度が早ければ、良かった?ということにでもなるのかな?。ふむ?わかんないけど。ただ、たぶん御坂のエピソードを考えるに、原作の小説では、当麻が延々と女の子を助け続けて惚れられるというハーレム楽園構造を、読書のカタルシスとして魅力を持っていると想像するので(読んでもいないのに勝手に)13巻くらいまで行っているんでしょう?それを読んでいる人には、この構造はいやというほど頭にあるので、その重層感を前提にアニメを見ると、、、、というか、「一人の女の子を助けるというエピソード」を見ると、納得感があるんだと思う。



そのメディアによるスピード感の差を認識しないでアニメーション化すれば、、、まぁ当然面白くなくなるわな。



これは、メディア媒体のスピード感覚の差なのかなぁ?。小説だと、たるといとは思うけれども、「そのゆったり感」は許されるし、十分楽しいと思うんだけど、アニメーションだと、、、、遅すぎるような気がするなぁ。この辺は、興味深い。赤松健さんの『魔法先生ネギま』にも、週刊連載というものの与える圧力で速度の問題を、感じるでの、、、、。ちなみに、小説では問題なかったあの脚本を、何話でするか分からないが、7月からアニメ化する『化物語』で見れるのは、「差を感じる」良いチャンスかも。


http://www.bakemonogatari.com/


いまのところ、原作付きのアニメーションは、すべからくダメなものが多いので、この辺は興味深い。


化物語(上) (講談社BOX)