15話 『御使堕し(エンゼルフォール) 』 うん、インデックスたんの無邪気さが印象的でした


15話は、、、、、うん、よかったよ(笑)。スゴクスゴク面白かった。いや、たぶんサービス回(笑)だからってのもあるんだけれども、それ以外にも、なぜ良いと感じるかが、構造的にわかってきた気がする。丁度モノを考えながら見ているので、いろいろ気づきをもたらしてくれた。ちなみに、なるべくダメとかイイとかいったものは、なるべき最後まで見ようとはしています(気分的に)ただ、そうするとアニメーションは、膨大になってしまうので、そのへんはヘジテイトしますね。・・・・しかし、御坂は、うーん、うーん、いいキャラだ。ツンもよくてデレもいいし、無表情さえいい。オールマイティだ。


■導入部はひどかったが、全体の構造はとてもいい。それがいいことなのか悪いことなのかはともかく・・・
1〜5話までの読者を引き込む導入の演出・脚本が、あまりにひどかったので酷評したんだけれども、その評価自体は変わらないんだけれども、ここまで見ると、うん、いいなーと思う。星が3つに上がりました。そもそも世界観が持つ、言い換えれば原作の持つ世界は、とてもいいものなんだろう。そして、逐語訳(=原作の脚本を素直にアニメーションの脚本に移している)かもしれないが、アニメーションは、それを丁寧に写し取っている。最近見たアニメでは、『ゼロの使い魔』も同じですね。僕のような原作ファンとしては、凄く好きだけど、そうでない人にはどう映るんだろう?って感じ。

ゼロの使い魔 Vol.1 [DVD]ゼロの使い魔 Vol.1 [DVD]
ヤマグチノボル 吉岡たかを

メディアファクトリー 2006-09-22
売り上げランキング : 16896

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

ここは問題点で、前に書いたんだけれども、たとえば「丁寧に原作の構造や魅力を写し取って再現する」ことは、それはそれで技術がいることなんだが、それ自体に「新しい顧客の幅を広げる」という意思は欠けます。言い換えれば、商品としての差別化の意思はほとんどない。その作品自体に吸引力のある人(=言ってみれば内輪)に対しての消費喚起力はあっても、それを超えて拡大しない。ということは、市場の大きさ(=全体のパイ)自体は、拡大しないということでもあります。これが繰り返されることは、市場そのものにとってマイナスではないかな、と思います。


メディアミックス自体が、祭りを起こすことで、その世界に耽溺させるという、「作品自体はどうでもいい」という効果があるのですが、「それ」を狙うのはそもそも作品の力ではなくて、「流通力の強さ」と「媒体の多チャンネルの支配力」による販売の仕方で、発想はmanufactureではなく、retailerとかdistributerの発想なんだと思う。これはこれで素晴らしい販売手法の変革だが、クリエイターがこれを前提にするべきものではないと思うんだな。ただし、逐語訳的な作品の制作が非常に、失敗のしにくい企画段階で通りやすいものであることはよくわかる。オリジナルでは、『鉄のラインバレル』のような致命的な失敗が起きないとも限らないもの(書いた後で気づいたが、これ原作ありか!・・・では原作がひどいのかな?。)。それ以上どういう方法があるんだ?と問われれば、それは「個々の制作現場で考え尽くすしかない」というしかないものな。でも『true tears』のような作品が、どちらかというと弱小manufactureで作れるんだから、志と気合の問題じゃない?という気もする。いったん制作の形式が、定型テンプレートされれば、すぐ水は低きに流れるものだしね。

true tears vol.1 [DVD]
true tears vol.1 [DVD]


閑話休題



■記憶喪失が主人公の動機の浅薄さを覆い隠す〜大きな行為には代償がないとおかしい

ちなみに、ほぼ同じミス(=構造上の欠陥)のあるアニメーション『とある魔術の禁書目録』の1〜5話のは、たぶん原作自体が主人公の「記憶喪失」ということで、ほとんど解決してしまっている。ほんとは、その前の「なぜそういう動機を持つにいたったか?」というのは、本当の疑問はあるんだが、むしろ無駄な過去の記憶を作るよりは、「もともとそうやつだった」と演出したほうが、ハーレムメーカーとなれるので、いまの時代にマッチした作品フィールドを形成するのに役立つと思う。つまり、作品の持つテーマ(=何を本質的に主張したいか)が違うと割り切ってしまえばいいのだ。このテーマは、ハーレムメーカー上条当麻の、「誰でも助ける」性格から生まれる英雄物語と思いきってしまえばいいのだ。



ちなみに、記憶喪失がすべてを解決している、というのは、



(1)記憶喪失という非常に大きな欠落を、主人公が代償として支払っている



(2)記憶がないということを、インデックス(=一番好きな女の子)に負い目に感じさせないために、黙秘している

ということで、主人公が非常に屈折したしており、自分の外面上の全能感(=右手の力ことや事件の解決の結果)を、内面上の自己肯定感(=ナルシシズム)に転換することができずに、ぐっと耐える構造になっているところだ。こういう主人公は、動機がなくても、いいやつだなーと思うよ。だって彼は何の根拠もない不安の中で、それでも女の子(=他者)を救いたいって思っているんだもん。それは、動機による行動根拠の説明がなくとも、十分に、彼が「そういう人格である」ということを受け入れることに納得を与えると思う。だって、自分が限りなく損をしても、人を助けたいと思うのは、自己犠牲だもの。世界は、代償があるところに、正統なフィードバックを返すと僕は思いたい。(現実はそうではないですが(笑))

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20090118/p1


そういう意味で、最初の演出のまずさ(これは原作もそうなのかもしれませんねー)をカバーできているので、、、、というか、メディアの小説としてのスピードであれば、気にならないものだったのかもしれません。1〜5話くらいまででほぼ小説の1巻分に相当するようなので、小説1冊のを5週間にわたって待てば、ここで待ち切れずに、主人公の動機が理解できないとなってもしかたがないもの。この辺の、媒体の違いによるスピード感の違い、それにもともとも原作の持つ主人公のハーレムメイカーとしての構造が、深く認識されていないんじゃないの?とか思ってしまう。それほど最初の数話の主人公の発言は、気持ち悪かった。





■最初シーンの海へ行こうと駄々こねるインデックスが、とてもかわいくなかったですか?

15話の、何がいいって、やっぱり記憶を失っているという、ヒロインたちに対する「気後れ」が、このハーレム構造の中では、凄く意味を持つんですよね。この「気後れ」を強く意識していることの落差として、インデックスの無邪気さを描くと、とても切ない演出になることはわかりますよね?。だって、この女の子の「無邪気な天然さ」を守るために、自分の過去の人生すべて(=記憶)を犠牲にしてもいいと思えるわけですから主人公は。これを黙秘しているという行為が、それを証明している。


そもそも正義の味方って、かなり「不可能性のある概念」で、真面目に追求しようとすると、世界のあり方についてウソをついている自分が分かってしまう。だから仮に動機なんかなかったとしても、その「方法自体」は常に矛盾溢れるものなんです。『Fate/Zero』の切嗣が「正義の味方は、自分が決めた人しか救えない」という発言を繰り返すのも、そのことが痛切にわかっているからで、こういう行為を続けてきた人は、自分のウソつきかげんと無力さに打ちひしがれているはずで、「そういう感覚」がない人は、ガキにしか見えません。

Fate/Zero Vol.1 -第四次聖杯戦争秘話- (書籍)
Fate/Zero Vol.1 -第四次聖杯戦争秘話- (書籍)

西尾維新の『化物語』シリーズでも、最初の原点である『傷物語』で、吸血鬼を助けることの意味がどういうものであったかを、その後、主人公は深く深くえぐられてその矛盾を突きつけられます。ちなみに、考えてみると、このシリーズは、動機を一切描かないんですが、その代わり正義の味方の持つ矛盾を、徹底的に追求する脚本になっていて、それは「救う側」にも「救われる側」にも容赦がありません。・・そうか、わかった!あの作品が素晴らしいと思うのは、正義の味方を貫いているにもかかわらず、ほとんどのケースとして「救う側」も「救われる側」も正しくないというメタ的な設定がされているからなんだ。しかも、それに登場人物が自覚的。だから、話に重みが出る。そうか、救う側も救われる側も、正義の味方を貫く(=そりゃーかわいい女の子がいれば救うでしょ、物語的に)ことと、助けてもらう(=自分の動機の根幹を解決してくれること)、その両方が、そもそも正しくないことだという(笑)縛りがかかっているんだ。つまりは、二重志向がなされているんだ。なるほど。だから登場人物のすべてが、「正しさを信じれられない」というこの世界の矛盾したあり方にとても、親和的だ。・・・うわ、、、、書いていて、脱線したんだが、西尾維新さんの『化物語』シリーズの良さがやっと納得できた!。

傷物語 (講談社BOX)

そうすると、最初のインデックスとの何気ない会話が、かなり破壊力を持つんですよね。つまり、この「記憶を失う」という行為が、当麻にとってもインデックスにとっても、二人をオンリユーの状態にするキーになるからなんです。ほんとはこの二人の関係性、言い換えれば対幻想のドラマトゥルギーを根拠づける、インデックスの「魔法書図書館」の意味(=インデックスの救済の根幹にかかわる部分)をもう少し、最初の段階から分かるようにしておかないといけない。それがないので、御坂とか御坂妹とかが出てきてしまうと、主人公に救われる彼女たちと、インデックスの「差」が分からなくなってしまう。完全に等値感覚にしてしまえば、それはそれで物語が縛りがなさ過ぎて、どこに着地点があるか分からなくなる。少なくとも、10数話から20数話で終わるアニメーションは、受け手も消費時間のトータル量を計算しているので、「どこら辺にオチをもってくるか?」ということが意識的でないと、なんか不思議な印象を与えてしまう。これを指して、インデックスに正妻感がない!という表現になるんだろう。


それは、原作自体が、まだそうだから、言い換えれば執着していないのだから仕方がないじゃないか、とか、本当は商売的に悪くないのならば第二シリーズも作りたいし(原作あるから容易だし)という欲望があるのかもしれないので、そこは無理を言えないところがあるが、これはメディアを映した時のその媒体の持つ「尺」感覚の違いが、問題になっているんだろうと思う。終結していない作品を。テレビ化すれば、その物語の持つ動機やマクロの構造の最終昇華地点を、描かなければいけないのだが、原作が終わっていないのにそれは出来ない、というジレンマになるわけだから。