『ハイエク 知識社会の自由主義』 池田信夫著 「計画主義的合理主義(constructivist rationalism)」的なもの拒否した経済学の巨人

ハイエク 知識社会の自由主義 (PHP新書)


■フリードリヒ・アウグスト・フォン・ハイエク(Friedrich August von Hayek)の今日的意義を考えた導入書
新書とは言え、それなりに経済学的思考や知識に慣れていないと、ストレートにわかるかどうかは微妙に思えるが、僕には非常に面白かった。どちらかというと、ハイエクが古典的な経済思想をベースにしている人で、計量経済学(要は数学ね)的な部分よりも、哲学的な射程を広く含んだ人だったからだと思う。アダムスミスやヒューム、ロックなどの18世紀の経済思想は大学で少し齧ったので、「そこ」からの接続なので、僕には非常にわかりやすかった。とはいえ、新書という導入効果を意識して、ハイエクの業績を、現代的な意義と比較して、わかりやすくまとめようという著者の気概は、とても伝わってきた。また、それは十分に成功していると思う。ハイエクの思想が、今日的な環境に非常にフィットしており、有用な概念であることは十分に納得できた。

ブロガーとしての位置づけなど、僕にはまだまだ分からないことは多いが、この本は、姿勢と内容含め、一読者としてとても好感がもてた。久しぶりに、ハイエクを読み直してみようという気になりました。

当ブログで何度も書いているように(労働需要が飽和した特殊な場合を除いて)賃金が下がれば労働需要は必ず増える。利潤も増えるかもしれないが、それだけということはありえない。
後半はわかりにくいが、要するに「賃下げで所得が減ると、有効需要が減って景気がさらに悪くなる」という乗数理論だろう。ケインズは、この論理でピグーなどの「古典派」経済学者をボロクソにけなしたが、それを裏づける実証データを示していない。理論的には、ピグーのいうように賃下げによって労働需要が増える効果もありうる。一般的にいえば、価格が硬直的で数量調整の速度が大きいときはケインズ的な効果があらわれるが、やがて価格調整が行なわれるとピグー的な均衡に落ち着く。

中略


要するに、労使交渉で賃金が上がれば労働需要が減るという当たり前のメカニズムで、大恐慌期の失業は説明できるのだ。他方ケインズ乗数効果は、最近の実証研究では否定され、ニューディールによる財政政策の効果もほとんどなかったとされている。つまり間違っていたのはピグーではなく、ケインズだったのだ。したがって雇用規制を撤廃して賃金を下げれば、失業率は下がる。失業者が雇用されることは、明らかに「待遇の改善」である。「派遣村」の騒ぎを演出して雇用規制の強化を求める「プロ市民」は、もっとも弱い失業者を犠牲にしているのだ。


賃金を下げれば失業率は下がる
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/762afce0f2b08c10bd909dde481a2b73



きのうは11万PVを超えた。予想どおり「派遣村」の記事に対する感情的反発が多いが、「反貧困」などというフレームで考えているかぎり、問題は永遠に解決しない。格差社会なるものの元凶はグローバリズムでも小泉内閣でもなく、「日本的経営」によって保護されてきた正社員と、そのあおりを食っている非正規社員の二極化なのだ。これは何度も書いたが、与野党ともに選挙目当てのポピュリズムで規制強化に走っているので、あらためてまとめておこう。

OECDは昨年の対日審査報告で、非正規労働者が1/3を超えた日本の労働市場の二極化を、OECD諸国に例をみない異常な現象だと指摘している。以前の記事でも紹介したように、非正規労働者の増加は小泉内閣の発足よりはるか前の1990年代前半から始まっており、構造改革とか市場原理主義とは何の関係もない。それは長期不況に対応してコストの低い労働者を増やす、実質的な賃金切り下げの手段だったのだ。図のように非正規労働者の比率の高いサービス業ほど、平均賃金(正規+非正規)が下がっている(原文p.179)。

サービス業の賃金が低いのは、その労働生産性が低いためで、本来は正社員の賃金を下げればよいのだが、それが困難なために、特に中小企業が、正社員のほぼ半分の賃金(社会保険などを含む)ですむ非正規労働者を採用した。また業績が回復しても日本企業は正社員の雇用を増やさず、非正規社員で対応する。その最大の原因としてOECDが指摘するのは、日本の正社員の過剰保護である:


格差の正体
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/f2c53a4bbd1833f781c7a61741a47fb0
池田信夫 blog


■労働規制の撤廃についての議論〜何が問題の根源なのか?
失業が、日本社会の正社員保護の構造が生んでいるという意見が、感覚と非常にマッチするものだったので、池田信夫さんの著作をなんでもいいから読んでみようと、PHP新書の『ハイエク-知識社会の自由主義』読んでみました。彼のこの議論の根本的な部分の根拠を明快に指示しており、僕には非常にいい読書でした。


これには、僕の何となく持っているテーマである、ノブレスオブレージの問題や社会の指導者がどうあるべきか?という問題にリンクするし、また自分が事業を企画立案するときに、組織や雇用の問題は、無視しては通れない議論だからです。もちろん一担当者が、そんな全体のヒューマンリソースや社会のことまで考えるのは、部分最適(=自分の責任範囲)としては、不遜だしあまりに意味のないこと(=手が届くものでもないし)なのだが、自分なりに全体の構造が分かっていないと自分の仕事や行動に使命感や正当性が持てないので、答えが出ないだろうなりに、いつも胸にある。少なくとも、一般人であり歯車であるにしても、そういう自覚を持っていたいものだな、と思うので。

格差社会など、巷には、弱者を救済せよ、という議論があふれている。僕自身も、どうにもならない不公正で虐げられている人を救うべきという感情的意見には、賛成ではある。が、どうしても、だから賃金上げろという労働組合の意見には賛成できないし、弱者を具体的に救済する政策の段階の方法を聞くと、強い違和感を覚えてしまう。感覚的にだが、正社員の保護を叫ぶ労働組合は、高杉良さんの小説『労働貴族』を思い出すが、なんだか特権階級の既得権益拡大にしか聞こえない・・・。少なくとも、大企業の御用組合には、本来のユニオンとしての意味も価値も今の僕には感じません。また基本的にケインズ有効需要政策もそうですが、弱者保護政策でもいいのですが、どこかの特定の領域に金をぶちこむ行為が、本当に公的な保護の水準を上げているのか?というと、疑わしいとしか思えません。要は既得権益の拡大や特定団体の優遇政策に堕しているようにしか思えません。そういった印象もありますし、なんちゃってだが、経済学を勉強して、この世界を構造を考えていると、その具体的手法が、間違っているように見えて仕方がなかったんです。

できれば世界のマクロにとって正しい在り方を追求したいと思っているのですが、非凡ならざる僕にはその答えは確信が持てません。日々、目の前の仕事に追われて、ささやかな家族と自分の自尊心や幻想を守るので精一杯で、学者ではない僕はそんな答えのない、また自分がいま目の前で必要でもないことを延々追及している余裕はありません。だから、偽悪的に「神の見えざる手」(=言い換えれば競争だよね)による選別が正しいのだ、というアダムスミス以来の素朴な古典派(これはちゃんと勉強した!)に依拠してきました。まず自分が生き残らないと、家族を守らないと、話をすることもできませんしね。

ただ、その議論に依拠したのは、理由は簡単で、どう勉強しても、その善意のスタート地点は疑えないのだが、カール・マルクスコミュニズムなどの、社会主義全体主義に共通する「社会を特定の目的のために動かす」という思想、いわゆる「設計主義的合理主義(constructivist rationalism)的なもの、池田さんの訳語に従えば「計画主義」が、理解できなかったからです。

計画主義は、もっとわかりやすく言えば、目の前で飢えて死にそうな人がいるとする。それを救わなければいけない!、それも今すぐに!。そして、一人を救うのではなくて、そういうものが生まれな仕組みを、社会を今すぐに作り変えて、壊さなければいけない!と考える考え方です。なにも間違っているようには思えないでしょう?。これをよく考えると、つまり理性の力で社会を変えられる、と考えることです。これが、非常に賢い理性をもった少数のエリート集団(=政府?)による暴力革命を志向するのは、論理的帰結です。出発点はたいてい感情的に同意するのですが、それを具体論まで追っていったりしていくと嫌悪感でいっぱいになっていく・・・。左翼を僕は、理性の力と合理主義で、この世界を変えることができるという信仰!と思っていますが、そういった左翼的な理想主義にあこがれと憧憬を感じると同時に、それは間違っている・・・という深い諦念を感じてしまいます。なぜならば、社会の「目的」というものを集約する手段が現実にはあり得ないからです。

計画の主体として、個人を超えた社会とか国家を想定するとき、最大の問題は、国家の目的関数は具体的にどうなっているかということだ。個人の目的ま明確だが、それを国家としてどう集計するのか。あるいは国家が適当な目的関数を設定したとして、国民全体の福祉を最大化することはどうやって保証されるのか。


企業のプロジェクトでは、与えられた目的を最適化することだけを考え、あとはできた商品が市場で売れるかどうかを見て目的関数を変更すればよいが、計画経済では最初の目的を決めるところで挫折してしまう。消費者の目的を、たとえばアンケートで集計するとしても、その好みは多様で、刻刻と変化している。そのどこかの時点で収集したとしても、そのデータをどう「社会的目的関数」として集計するかという問題が残る。


中略


コルナイの実験は分権的社会主義が現実には不可能であることを証明し、市場経済がいかに膨大な「計算」を自律分散的に行っている明らかにした。30年代には論争に負けたかのように見えたハイエクやミーゼスの理論が正しいことが、実験によって証明されたのだ。


p59-60

社会の目的が統合できる方法がない以上、為政者の「適当な判断(思い込み)」でしか、意思決定ができないことになります。またその正しさの保証もまったくありません。意図がどんなに正しかろうと、この方法では、世界は救えないのです。また、単純に考えればいい、、、「目的のある社会」なんて息詰まる社会に住みたいでしょうか?。その目的によって、すべてが規制され支配されるんですよ?。しかもその目的の正しさが全く自明ではないんです。ちなみに、人類が滅亡に瀕している、という人類の敵と戦うような物語やレジスタンスが、全体主義的でありながら、高い高揚感を感じさせるのは、目的の正しさが自明で、それに基づく共同体のつながりが生まれるからです。

鉄や石炭のように単純な製品を大量生産する場合には、経済全体の情報を官僚機構に集中し、彼らが計画的に設備投資を行うことが効率的になりうる。事実、韓国やシンガポールなど「開発独裁」と呼ばれた国々では、集権的な政治体制によって経済成長が促進された。


しかし製品が多品種・少量生産になって複雑化し、コンピューターなどの発達によって扱う情報量が爆発的に増えると、情報集計するコストが大きくなり、また変化も激しいため、長期的な計画が立てられなくなる。


つまり資本主義は、与えられた目的を最大化することではなく、つねに目的を探し、変更する自制的秩序であることによって、高い成長率を実現したのである。


p138

とにかく、僕の感覚の出発点は、計画主義・・・理性で世界を変えられる、人間は合理的であることができるという信念が、信じることができませんでした。だから、その反対の意見のように見えるアダム・スミスに目が行ったのです。世界は、そして人間は、僕のつたない経験からすると、「不合理・不条理に満ちています」。それを、中央(=為政者)からコントロールすることが、できるとは思えないのです。ましてや、計画主義の権化であったファシズム全体主義が、どのような歴史的結末を迎えたかは、語る必要もないほどです。だから、人間の理性を信じることもできません。不合理なものこそ人間という前提に立てば、計画や数値の集計によって、「正しさ」が集約できるとは考えられません。また民主主義的手法が、そういった正しさを担保するともとてもではないが思えません。

この考え方は、新古典派経済学の結論とも一致する。人々の効用が同一だと仮定すれば、完全に平等な所得配分によって社会全体の効用が最大化されるが、人々の効用が比較不可能だとすれば、無数にあるパレート効率的な所得配分のどれがすぐれているかは決まらない。だから政治的な「価値判断」で決めるしかない、というのが新古典派の考え方だ。しかし、その価値判断を民主主義的に集計する方法が存在しないというのは、前に紹介したとおりである。


とくにハイエクが警戒するのは、社会正義のような顔をして要求される「最低賃金の引き上げ」などの要求の多くが、既得権の拡大でしかないことだ。たしかに最低賃金が引き上げによって、いま雇用されている労働者の所得は上がるだろう。しかし賃金コストが上がれば労働需要は減り、失業率は上がる。統計的にも、雇用規制の強い国ほど失業率が高いという相関関係は明らかである。こうした「弱者救済」政策は、もっとも弱い失業者を犠牲にして組織ない労働者の既得権を守るものだ。


p165

ここの労働者の所得向上による乗数効果(=ケインズ政策)は、非常によくある議論なので、条件等々を細かく詰めていかないと理論的に、上記のロジックが正しいかは、僕の頭ではすぐには分からない(正しいと思うけど)。けど、もっと哲学的な部分で、効用(=目的)が比較可能ではない状況(=目的なんて同一化できるはずがない)では、正しさが決められないというのは、確実に言えることだと思う。その場合の政策の効果が、非常に意図と乖離したものになる確率が高いというのは、確実に言えると思う。


では、計画主義的な社会の運営方法が間違っているとするならば、いったいこの世界の、今の資本主義システムが、まがりなりにもある程度のシステムとして成り立っているのは、なぜなのだろうか?というのが次の主題となる。それが、「自生的秩序(a spontaneous order)」という概念ですが、この辺は、ぜひ読んでみてください。