評価:★★★★星4つ
(僕的主観:★★★☆星3つ半)
■残酷さとと緻密で実写的な日常風景のロングショットの対比が生み出す、凄惨な美しさ
素晴らしかった。うーむ、いい作品を集中して薦めてもらえていること、そして一気に見ていることが相乗効果をあげているんだろうが、いい物語が多いなーと感心。ルイさん、ありがとう。最終の落ち・結論の部分では、ちょっともどかしい部分もあるのだが、にしてもこの作品の僕が本質だと思った部分は、描ききれているので、個人的に不満はない(←いやあるか(苦笑))。ちなみに、非常にショッキングな間違いなく鬱に入るグロシーンの連続な上に、そもそもが異形への差別と許されない罪への贖罪と癒しの物語であることから、一気に見ないと非常に苦しい作品です。少なくとも、僕はしんどかった。美しかったけど…。これは好き嫌いが凄くわかれるとは思いますが、この残酷なものとそれをフレームアップすることで、世界の聖性に焦点を当てるという手法は、好きな人にとってはたまらないほどの魅力を与える作品でしょう。
手の指を開き、中指と薬指だけを閉じなさい。罪が犯される時。困難に出会った時。絶望の淵に立たされた時。その手を、痛み続ける胸に当てなさい
〜イグナティウス・デ・ロヨラ「心霊修養」〜
OPのLILIUM この指の形のようなガジェットを見るだけで、この作品のテーマが良くわかります。グスタフ・クリムトの構造を多用していることからも、死のにおいに満ちた「ファム・ファタル」(宿命の女)がどうしても連想に浮かんでしまいますよね。何の予備知識もなしに見たので、けっこうOPの趣味の良い、そして不安を惹起する悲しい映像と音楽に、ショックを受けました。最後まで見ても、このアニメーションが漫画から独立して際立った完成度を見せていることや、この物語に思いっきり深みを与えているのは、このOPの出来だと思います。
とりあえず、どっから見つけた対訳をほんとかどうかわからないですが張っておきます。意味が分かる必要性はないですが、この音楽がキーの物語なので。
Os iusti meditabitur sapientiam,
Et lingua eius loquetur indicium.Beatus vir qui suffert tentationem,
Quoniqm cum probates fuerit accipient coronam vitae.Kyrie, fons bonitatis
Kyrie, ignis divine, eleison.O quam sancta, quam serena,
quam benigma, quam amoena esse Virgo creditur.
O quam sancta, quam serena,
quam benigma, quam amoena
O castitatis liliumKyrie, fons bonitatis
Kyrie, ignis divine, eleison.O quam sancta, quam serena,
quam benigma, quam amoena esse Virgo creditur.
O quam sancta, quam serena,
quam benigma, quam amoena
O castitatis lilium(日本語訳)
正しき者の唇は叡智を告げ、正義を物語る
苦難に耐えている人は幸せだ
いつか認められた時に人生の王者となるであろう主よ、善の根源よ、聖なる炎よ、憐れみ給え
この聖女はこれほどまでに清らかで、静けさをたたえ
これほどまでに慈悲に満ち、情けが深い
ああ、純潔な白百合のように
■人間を人間としてみないこと、そして人を愛することが同時に存在すれば・・・・
物語が始まると、第一話から、人類を殺戮するために生まれた主であるディクロニウスであるルーシィがガンガン人を殺しまくるんですが、そのシーンを見た瞬間に、この物語は「罪と許し」の物語なんだな、と思いました。この「エル・グレコのイエスの手」は、罪が犯される時、ということを指示す有名な象徴ですよね。この作品は、基本的にすべてこの「読み」に沿って解釈するといい作品だと思うんですよね。つまり、人類を殺すために生まれてきた主であるディクロニウスのルーシーには、その種としての本能を持つと同時に、その本能を正当化してしまうような人間の内面の汚さや残酷な差別意識を幼少時に経験するんですよね・・・またその後の人体実験動物としての過酷な生活は、人類を滅ぼす動機を正当化してしまう。けれども同時に、ルーシーは、人の子として生まれて、人を愛したり友達に出会ったりしてしまうんですね・・・。そうすると、彼女は、自分が殺すべきただの「モノ」として人間をみなすのか、それとも自分と同族の共感の対象としてみなすのか、という部分で揺れてしまうんです。そして、彼女が、人間を、いやもう少し狭く言えば、コウタという一人の男の子を好きになってしまえば、彼に受け入れてもらう必要が出てきてしまうんですよ。けど、彼女自身は、凄まじい人間を殺戮し続けており、そしてその中にはコウタの家族も入っているんですよね・・・コウタが彼女を許し受け入れた時が、ルーシーにとっては実は最も過酷で苦しい時なんです。なぜならば、罪が許されるということは、これまでのすべての罪が罪だということで確定してしまい、コウタが許してくれたとしても、彼女自身が、その罪を許せなくなるからです。
言っている意味が分かるでしょうか?
(僕は、文章が冗長で誤字脱字が多すぎる上に、日本語ヘンなので(笑))
この作品は、最初の初手、数分(笑)で、もう既にルーシーが救われること、救済されることは「できない」と構造化しちゃっているんですよね。個人として、人を殺すこと、人間をモノとしてとらえるということは、そういうことを意味します。この手の作品の基本路線は、すべてこうです。つまりは、許されざる罪を抱える時、人はどうあるべきか?というといです。まぁ非常にキリスト教の現在的な発想と親和がある考え方だなーと思うのです。人類の抹殺やハルマゲドン的なものは、どうしてもこの罪と赦しの構造をとりやすいのでしょう。
エルフェンリートはその歌曲からとられたタイトル、OPが全般クリムトの絵画をアレンジしたものである事から、例えばエヴァのように「引用」に思いが及ぶ事が多く、すっかり有名です。そも、左と比べてポーズも極めて正確です。最初に書いた通り、これは初代イエズス会初代総長でもあるロヨラによる、書物に書かれたれっきとした動作であり、その書物をこよなく愛した画家、エル・グレコがよくこの手の形を描いた事で知られています。
#501 神戸守チェック?〜エルフェンリートと、コメットさん両第1話〜 投稿者:ルイ [2008/05/03_04:49]
http://www.tsphinx.net/manken/
ちなみに漫画は僕は、連載当時あまりの絵の下手さにへきへきして見過ごしていたんですが(絵柄が好みじゃーないんですよ・・・)、素晴らしいテーマですね。・・・ただし、これは、アニメのほうが圧倒的に出来が良いと思います。というのは、このテーマが完全に昇華できているし、また写実的な背景の作り込みなど情報量の細密さが、この作品の物語空間にいおける深みを非常に際立ったものにしているからです。漫画には、このような背景の情報量の多さはなかったので、この世界のありように対する残酷さみたいなテーマが、深みを持って立ち現れにくかったと思います。先日一気に全巻を読みましたが、うん、やはり良く読み込めば、確かに誘い込まれる深さのある物語ではあるが、アニメーションで神戸守監督がやった写実主義的な背景の深みを作り出すことで、世界に実在感を持たせるというのは、その風景の美しさと対比して人の営みの残酷さが際立って、メッセージを一目瞭然で伝えてくれるので、うん、アニメのほうが絶対にいい、と思う。なんというか、この作品はストレートに許されない罪と赦しに焦点が合っているので、萌えとかハーレムメーカー的なもの(女の子いっぱいと同居のウハウハ生活)は、あまり本質ではないと思うんですね。それが、漫画では前面に出過ぎる・・・それは単純な理由で、OPの音楽と細密な背景がないからだと思うんですね。この二つがあることで、この物語は別格の重さを備えるようになっている。
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繰り返しますが、紹介してくれた、ルイさんに多謝を。素晴らしい時間でした。ワンクールの短いものであったというのが、またよかった。冗長にならずにストレートに本質に切り込んでいるので。
■その土地の記憶が刻まれた匂いのある雰囲
最近ですね、ちょっと不動産も安いし、家でも買う計画を考えようかなー(笑)とか、思っているんですが、そうすると、、、僕には実は、あまり住むところにこだわりがなく…というか、父が転勤族であったので、「その土地」というものにあまり執着がないのです。僕自身も、転勤族ですし、、、、これだけ、日本中、そして海外も含めて飛び回っていると、一部の場所に骨を埋めて住むということにこそ、違和感を感じてしまいます。・・・新興の郊外的な住宅地がほとんど人生の過半住んでおり、「その土地の記憶が刻まれた匂いのある雰囲気」というものに縁がなかったかもしれません。けど、、、執着がなくそういった無機質な均質の空間に長く住んでいたせいであるのでしょう、「土地に記憶が刻まれた雰囲気」というものに凄くあこがれがあります。
だからそういう物語もとても好きです。大林宣彦監督の尾道三部作とか、氷室冴子さんの『海がきこえる』などなど・・・。そこに、土地の記憶が刻印されている情報量の多さにとても強いあこがれがあります。妻といったデートでもっとも忘れ難いのは、鎌倉の散策でしたし、もっとも思い出深い夫婦での旅行も、二人で京都をふらふら歩いた思い出です。特に、・・・・大学に入学して定期を得たり、会社の独身寮が神奈川の方にあったこともあって、鎌倉や湘南などのあっちの方の思い出は、僕には特別なものがあり、ほんとうは・・・人生には諸事情がありなかなかままなりませんが、、、ほんとうは、あそこらへんに家を買いたいのです。海の音が聞こえたり、坂が多くて大変かわりに、思いもかけない高低差のアングルが生まれるあの情緒深い風景に毎日触れるような生活を送りたい・・・それは、自分が無機質な郊外の住宅に長く住んでいた反動が確実にあると思います。
なんで、こんな話をするかというと、このエルフェリートの演出で、特筆して注目したいのは、この物語の舞台である鎌倉の風景に関する圧倒的で細密な描写がもたらす効果を、語り難いためです。もう見た人ならば、よくわかると思うのですが、徹底的に鎌倉の風景が、再現されており、、、、それもただ単にロケハンをやって精密に再現しただけではなくて、その土地の持つ記憶の堆積感覚を、見事に再現しているからです。これ、確実に演出側は意識しまくっていると思います。先ほども書いたのですが、風景というのは、「どのアングルで切り取るか?」というのが重要な意味を持って、その風景から受けるイメージと、キャラクターの心象風景は非常にシンクロしやすいんです。エルフェンリートの場面場面で、高い高低差のある階段の上から外を眺めるシーンが重要な意味を占めているのは、そうした高低差を利用した視覚の感覚は、人の感情にとても情感や情緒を伝える効果があるからです。あっ、ちなみに、人間の視覚は、どーも個人的印象なんですが、左右に振るよりも、上下に振ったほうが、深い感興をもたらすようです。理由はたぶん、感覚ですが、左右に振るのが人間の目の構造とか体の構造上「ありうること」ですが、「高い視点や低い視点」というのは、そもそも人間という動物には持っている器官だけではやりにくいことだからなんではないかなーと思います。そもそも空、飛べないでしょう?。それに、鳥瞰というものが、物事の焦点を、ミクロとマクロに振るという、通常の体感では感じにくいものを一気に切り替える効果があるからだと思います。
■同型の物語〜『Yasha(夜叉)』
さて、見ていて、強い既視感覚を感じたのは、吉田秋生さんの『Yasha(夜叉)』です。テーマ及び鎌倉などにこだわった背景描写など、はっきりいって、構造上は、そっくりな作品です。ちなみに、吉田秋生さんの方が、エルフェンリートよりマクロの背景をより詳細に整合性がとれた形で作っていますね。この作品群は、『BANANAFISH』から『Yasha(夜叉)』、『イヴの眠り―YASHA NEXT GENERATION』と繋がりの在る一連の大サーガになっている上に、鎌倉などの土地の記憶というベースでは、その他の『海街diary』や『ラヴァーズ・キス』などと強いつながりを感じさせるなど、たぶん彼女の頭の中では、きっとおきくつながっているのだろうとおもわせるものがあって、マクロとミクロをちゃんとすべてに包含しているその物語の翁構築力に、舌を巻きます。基本的に、女性はマクロが描けない人が多いのですが、際立ってマクロとミクロの両方を描ける資質をもつ物語作家も、不思議に女性に多いとも思います。吉田秋生さんのテーマの集約的なものは、『櫻の園』と『吉祥天女』なんですが、これは、変わらなく回帰する日常と、虐げられるものからの逆転と復讐というその後の彼女の本質をストレートに表していて、それを、。人類じゃない生き物、というキャラクターにシンボライズしていったのが、『Yasha(夜叉)』ですよね。僕はほとんど同じテーマに見えました。ただし、吉田さんの方が、よりマクロの整合性が描かれていると思いますし、なんというか人間の内面へのいわく拭いがたい嫌悪感などは、エルフェンリートのほうがテーマを絞りきってマクロを捨てている分、僕はより強い気がしましたが。
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あっ、ちなみに、この罪を背負ったというか、もう逃げることのできない状態に陥ってしまった少女というか、人物に対する哀惜というテーマは、どーも、漫画家の岡本倫さんの特徴のようで、あまりの同じテーマの読み切りばかりが漫画に収録されていて、、ああこういうの好きなんだな・・・と感心しました。漫画の方では、もう少し幅が狭く、どっちかというと相田裕さんの『ガンスリンガーガール』につながるような感覚を受けます。不幸な境遇にある女の子を愛するというのは、言葉にすると、うーんとんでもない偏愛だとは思うのですが、庇護欲に対して偏執狂的になると、これは分からないテーマではないです。まぁかならずしも少女である必要はないのですが、「少女」という存在が非常にこの男性優位社会の中では、「受け身の存在」で固定されているため、こうなりますよね。あっちなみに、この徹底的に世界の苦しみを受苦的に受け入れるしかないという「客体存在としての少女の美」というのは、男性が抱きやすいファンタジーで、このファンタジーの構造をそのまま受け入れて(決しして否定しないで)、逆転構造を創り出したのが、吉田秋生さんの『吉祥天女』であり、小説家では栗本薫さんの『真夜中の天使』ですね。この二つは、素晴らしい名作ですので、ぜひ、そうだなー『エルフェンリート』と『ガンスリンガーガール』と同時に読んでみると、なかなか鮮やかな対比をなしておもしろいですよ。
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■ラストシーンの問題点〜どう読むのが正しいのか?
ラストシーンについては、LDさんと僕と、ルイさんの読みが対立したので、そこの漫研チャットを抜き出しておきます。観終わった人は読んで、どっちの意見に賛成か、とか考えると面白いと思います。ちなみに、根本の構造への解釈は全く同一だと思っているので、こういう風に議論できると、最高だなーと思います。ちなみに、僕は製作者側の意図としては、ルイさんの言うとおりだろうと思いました。同時に、その演出では、僕としては納得いかない、という結論です。まー本質は描ききれているので、それがこの作品の本質的な評価を上げたり下げたりはしないと思いますが。
ペトロニウス >> いやー素晴らしい作品だったです、満足満足。ただ・・・・
ペトロニウス >> 作品のテーマというか本質ではないので、それほど気にはならないとはいえ、マクロの設定として、あの長官?がめざしていたものが何だったのか・・・とか、そういう設定で回収されていないものがあるのは、気になるなぁ・・・。それに、最後生きて帰ってきたのか?とか、、、角が折れることの意味は?とか・・・。
ペトロニウス >> もし、生きて帰ってきたとしても、、、マクロの設定が解決していなければ、そういう日常が続くとは思えないし・・・
ペトロニウス >> 何よりも、ものすごく大きな罪を背負っているわけで、それの意味から言って、幸せに生きる選択肢があるのは、おかしいと思うんだよね・・・
ペトロニウス >> ルルーシュが、生きているべきではないんじゃないの?と似た感じかな、、、物語的に、ああいう風に罪を設定したら、死ぬ以外に選択しないと思うし。
ペトロニウス >> マンガ版は、どうなのかなぁ・・・???
ルイ >> >マクロの設定 長官は結構単純じゃないですかね。息子同様自分もディクロニウス(のなりそこない?)だったようですから、優等人種による劣等人種の排除というヤツですよね。それを、人類の脅威への研究の名目で行っているはず。・・・ただ、仰る通りメインではないですね。シムーンの「戦争」に似てるかも。ルイ >> 最後については、LDさんと僕が戦争している部分なので一方的には断言できませんwただ僕もLDさんも「幸せに生きる選択肢があるのはおかしい」とは、あまり思ってないですね。そういう倫理観が世界に強く存在している、というのはわかっているのですが。
ルイ >> 原作は、状況とのリンクはスムーズですよ。大雑把に言うと、人類ディクロニウス計画でウィルスを撒布するんですが、ワクチンが開発されます。あと、ルーシーは死ぬ。そういう意味では、「生きているべきではないんじゃないの?」という価値観には極めてスムーズに則っていると思う。・・・ただ、原作ほど美しくない。
ルイ >> ×原作ほど ○アニメほど
ルイ >> ・・・生きているべきか死ぬべきかという部分は、あまり問題には含めていませんね。LDさんもそうでしょう。・・・つまり生きる事が赦しで、死ぬ事が断罪とは思っていないので。※繰り返しますが、引き合いに出されたとおり「ギアス」同様、そういう感覚は根強いし、また物語として一で十表現できる部分なんですけどね(=つまり死で断罪という情報圧縮がきく、とも言える)
ペトロニウス >> うん、、、僕はマクロが凄い気になって、そっちに優先順位を置く人なんですが、この作品は、全くそういう気持ちは置きませんでした。描きたいのがそれではないんだ、というフォーカス感覚は、確実に伝わってきましたので。
ペトロニウス >> いやまー死ぬべきかどうか?という問題が重要なのではなくて、生き残ったとしたら、もう一歩、罪と赦しについて深めないと、、、、なぁ、と思うのです。むしろ、最後のワンシーンない方が納得できたなぁ、、、って。
ルイ >> そこについての、ペトロニウスさんの「読み」を伺いたい!僕とLDさんは一時間以上そこでもにゅもにゅ討論してましたからねw
ペトロニウス >> 幸せに生きる選択肢は、ないわけではないと思うんですが、だとすると、もう少しマクロの話に答えを出さないと、、、、感情の部分で納得いっても、そりゃー無理だよと思ってしまうのです。
ペトロニウス >> えっと、、、うーむ、まだ言葉になっていないのですが・・・積み上げてみましょうか・・・
ペトロニウス >> あのね、ちょっと論理的に見ると、家族を殺されたコウタが、あそこで簡単に赦すのは、わかんないんですよね?理性的には。。。
ルイ >> 一応僕が主張していたのは、以上です。オルゴールが止まったのは、悲しい記憶の終焉。時計が動き出したのは、新しい日常の始まり(再開)。つまり、ルーシーは死んで、にゅうの日々が始まるっていう解釈なんですけどね。角はそのもの「マクロからのルーシーという存在の意味」を奪い去ったと思っています。もしくは、その象徴。
ペトロニウス >> けれども、感情的には、なんだか納得してしまった・・・。
ペトロニウス >> それは、ルーシィとい存在に対して、彼女が引き受けた世界の苦しみ・・・業というか十字架というものか、、、
ルイ >> あ、そうですか。僕はもう、あそこでダァーっと泣いてしまったw>コウタの赦し あの整理しきれていないセリフが、そのものテーマだと思いましたし。 というかコウタ自身「許す事はできない」って言ってるんですよね。
ペトロニウス >> そういうものにコウタが共振してしまったからだと、思うのです。なぜならば、彼も家族が死んで、悲惨な記憶のトラウマを持って、闇を見て育った少年なんで、そういう闇にシンパシーがあるんですよね、、、
ペトロニウス >> 行為自体は許すことはできないけれども、それに至る彼女が受けてきた心の傷やプロセスを追体験なり共感すれば、赦せなくても、糾弾できなくなってしまうはずなんですよね。ペトロニウス >> これって、おっしゃるとおり、論理的には整理がつかない状態で、、、けど、そのカオスも含めて、コウタという青年は、受け入れているんですよね・・・・抱きしめるってそういうことだもの・・・
ルイ >> そうですね。テーマは異なれど「真心の想像力」の話であるともいえます。辛い事を経験した人には、その想像力を行使する素質があるんですよね。一方で、更に辛いものを観る事で自分の辛さを薄めたい、という心の動きも存在する・・・
ペトロニウス >> えっと、そういう共感者がいた時点で、彼女にとっては、人類を殺す動機が完全に失われてしまうはずなんです。
ルイ >> ですから、僕はあのシーンでルーシーの「赦し」は終わったので、ルーシーがその後死んでしまっても、それは「罪への断罪」からそうなるのではなく、単に事実として死ぬんだ、という話をLDさんに対して・・・
ペトロニウス >> ちなみに、まさにおっしゃる通りに、この共感のプロセスは、裏を返せば、より弱者を踏みにじることで自分の優越感を確保する心の動きと、同じものなんですよね・・・そのへんが、世界が厳しいところ・・・
ルイ >> はい。>人類を殺す動機 ただ厄介なのは、彼女が「種としてそう」という・・・これはもう、本能レベルの話が存在しているという事ですね。例えばディクロニウスが犬ネコを殺さないのは何故か。それはやっぱり、人間存在へのアンチウィルスのような形で誕生した種ではあるのだろうと。 ※その観点では、ナナの存在そのものが宥和の象徴、キーになってますね。
ペトロニウス >> おっしゃるとおり、あの赦しの時点で、ルーシィーの役割は終わったんですよね。ドラマトゥルギーとしては終息している。僕も、それが分かるだけに、とすると、生きている??って・・・と思ってしまう。
ルイ >> うん。でもそう考えた時、「にゅうは?」と思ったんですよね。ソーマ・ピーリスではないですけど。
ペトロニウス >> というのは、にゅーの存在って、別人格であるというよりは、ルーシィーの苦しみが生み出した「彼女にとっての逃げ道」だから、彼女とともにあるべきで、分離するべきものではないと思うんですよ。
ペトロニウス >> 彼女がまともにしゃべれなかったのも、人格として独立感覚を僕には与えませんでした。
ペトロニウス >> だから、にゅーが幸せになって、ルーシィーが幸せにならないで消えるなんて、そんなのありか!!!と思ってしまうんですよ。
ペトロニウス >> ルーシィー派な僕。
ルイ >> この作品での人格には、ソーマ〜マリィのような主従関係すら存在しない。後先の問題はありますけど、にゅうはルーシーの意識に介入しないし、ルーシーはにゅうの意識に介入していない(ここは?とか言ってる)。ここでルーシーが、おぼろげににゅうとしての行動を知覚していたら、僕も「にゅうはルーシーの従格で、アクシデントで出来た一時の夢だから・・・」みたいな話に乗るんですが。でも、にゅうはルーシーに干渉されていない。・・・その状況で行き続けたら、それはもうアクシデントだろうが夢だろうが、にゅうはにゅうですよね。
LD >> |ω・`)。o(「とらドラ」の記事書くのを優先します……でも「エルフェン」もどっかでまとめないといかんかもね…)
ルイ >> あ、でもにゅうって言語を覚えていってますよね?
ペトロニウス >> 一番つらい思いをした彼女が、救われないのならば、それはおかしいし、、、、コウタの許しが救いであったとするのならば、、、、それならば、にゅーが別人格で出てくる必要もないじゃないですか?
ルイ >> いや、僕もルーシー派ですw
ペトロニウス >> 僕は、どーーーせ救われるのならば、ルーシィーに救われて、、、幸せな日常を過ごしてほしい・・・。
ペトロニウス >> コウタでは、まー心の器はともかく、甲斐性の部分で、難しいところはある気がしますが。
ルイ >> にゅうが人格として出てくるきっかけになったのは、間違いなくルーシーの辛さです。でもにゅうににゅうという人格があって、ルーシーの罪や悲しみが別の所で癒されたなら、そこでにゅうも「ルーシーの救済で救済された」と考えていいのかな?と思ってしまうんですよ。にゅうはEDの歌詞のような世界で生きたいし、彼女が世界の美しさを享受する事は、ルーシーへの裏切りではないと思う。
ルイ >> 演出と絡めるなら、古時計を治そうとしていたのは(そして直したのは)にゅうなんですよね。それは、間違ってもルーシーじゃない。
ペトロニウス >> うーむ、、、そうかぁ・・・僕は、見ているうちでは、にゅうは、完全にルーシィーの従属人格としてみていたので、独立してみてはいなかったなー。。。
ルイ >> LDさんにも言ったけど「欲しい」の感覚で言うなら、僕もそう思いますwどうもここが難しいw
ペトロニウス >> たしかに、時計の演出は、?って思ってはいるんですよ。
ルイ >> それはまあ、この物語はルーシーの物語ですしね。描写量が圧倒的に違うので、そう見えるのもフシギではないですよね。
ペトロニウス >> あの時計は、にゅぅの新しい時間を刻む意思と演出側の宣言と、確実に取れます。
ペトロニウス >> けど、そうそう、、、これって、ルーシィーの救済の物語なので、それ以外のモノが出てくるのは、どうにも納得がいかないのですよ。出すなら同じくらいの描写をしてほしかった・・・。
ルイ >> 本当に、主張する側としてニュアンスが難しくて、LDさん戦の時から悩んではいるんですけど・・・w「にゅうの日々が始まった」と解釈する事は「ルーシーじゃ駄目だ」という考えとイコールではないという子とですね…ただ、にゅうの人格をどこまで認めるかという部分で分岐している話ですよね。にゅう「も」、幸せを受けるべきだと考えているという話になります(ルーシーも享受していいけど・・・ルーシーはもう「得て」いるし、ルーシーが直った時計の音を聴きそうめんを食する事は、にゅうがソレを為す事並みの意味が生まれるものなのかな?=これがルーシーの幸せなのかな?)
ペトロニウス >> ただ、、、、物語的には、にゅうが、別の幸せな日常を送るのは、、、あの情報からは、そうとるべきなんだろうな・・・。
ルイ >> 角が折れた事もその演出の一環だとは思うのです。特に一本目は戦闘で折れたものですが・・・
ペトロニウス >> >「にゅうの日々が始まった」と解釈する事は「ルーシーじゃ駄目だ」という考えとイコールではないという>・・・これは、無理だなぁ。同じ肉体の器をにもっているんだもの・・・・それに、もし、仮に角が折れて死んでしまったとしたら、死して償いをしたように感じてしまう・・・・それは、、、納得がいかない・・・
ペトロニウス >> にゅう「も」という主張をすべきには、にゅう自体が独立した存在であって、ルーシィーからなにも引き継いでいないという前提があるべきで、、、前提ってのは、描写ではなくて、見ている側の「感情的納得」ってやつで、、、
ルイ >> 肉体なんて飾りに過ぎないんですよw ってのはおいといて、ただ先ほどちょっと言いましたけど、ルーシーには「人類全体への恨みつらみ」というより、もっと本能レベル、種としての殺人衝動のようなものがある、というのは回想時の描写でわかる通りですよね。
LD >> んんん、ちょっとだけ。……僕とルイさんの話で、ルイさんの話が強かったのはコウタが「にゅうの事も好きだ!」と言って抱きしめた事。僕の話で強いのは「コウタたちはにゅうとの時間は既に過ごしている。ここで、時が再び動きだすとして、それが“にゅうとの時間”なの?」ってあたりが、差違の焦点になっていたと思います。
ルイ >> うーん、そう考えるのもわからなくはないんですよね。ただ僕はルーシーの肉体を引き継ぐ事で、ルーシーのありえた可能性をにゅうが、IF存在として或いは娘として享受するような美しさがあると「逆に」感じていて・・・これは、平行世界SFにも近いかな。その分岐先の幸福な世界を享受するのは「自分」ではないのだけれど、やっぱり自分なんですよね。
ペトロニウス >> ルーシーは、たぶん共感されること自体で、赦しを得た時点で、救済されてしまっている・・・彼女のドラマトゥルギーは終わっている。だから、にゅーがそうめんを食べる幸せを受ける権利はあるという論理は、分かる。非常にわかる。が、にゅうの人格が、人格だと「感じていない」人にとっては、、、いいかえれば、それは、ルーシィーだった、と考えると、、、、うう・・・んん??となるだろうなぁ。ルースィーが、そうめんを食べる必要があるのか・・・って。たしかに。彼女の本質的な救済は、そこではないだろう。
LD >> もし“止まっていた時間”が動き出す意味ですよね。何が止まっていたのか…。後は、僕は、にゅうをあまりフミカやソーマと同じ感覚で観ていないって事でしょうか。
ルイ >> 論理的には何一つ指摘する事はないですね。そして、やっぱりにゅうの人格が人格「じゃない」描き方をしたいなら、少なくともにゅうとしての記憶をルーシーに引き継がせる演出を、一個でも組めばよいだけだと思います。そんな手は最も簡単な演出であって・・・例えば今ちょっと迷走してますけどwガンダム00でマリィが顕現した時「私の中のソーマピーリスが・・」といわせたのが、単純ながら典型ですよね。それを出来ない作家というのは世界に存在しないと思う。
ルイ >> にゅうもにゅうだよ(´;ω;`)>観ていない
ルイ >> そう、同時ににゅうに言語を習得させていくプロセスは組まなかった、というのも言えることだと思います>記憶の主従描写を全くしていないこと
ペトロニウス >> そうそう、、、、LDさんのニュアンスに近いんですが、時計が始まったら、それは、ルースィーとにゅうの融合人格?(そんなものがあれば)で始まるべきであって、そうでないならば、始まらない方がいいって思ってしまうんだよな・・・
ルイ >> 融合人格があるなら記憶の相互干渉は描くはず。願望なら同感、というのはLDさんにも以前言ったかな?
ペトロニウス >> 演出側の意図は、たぶん、ルイさんの方が整合性がありそうです。実際聞いていると、なるほど、、、と思います。
ペトロニウス >> だから、これは受け手(=僕の願望)ですね、、、そうあったらおかしい!と思うような。
ペトロニウス >> なんでかなぁ、、、僕は、ルイさんの娘が引き継ぐとか、IFとかに感じないんだよね・・・。言われて思い返すと、そういうとり方はあるな・・・とは思うけれども。
ルイ >> ルーシーってロープウェイだったかで、コウタに「私を殺して」って言ってるんですよね。でもコウタは殺すのではなく赦した。認めた。・・・なら、自分の口にした「殺して」はどこにいくのか? 1つ確かなのは、コウタと坂道での交感を済ませた後、彼女は大橋に戻ってますよね。山→大橋→コウタの家近くの坂道 というのが場所的な繋がりなのに。
ペトロニウス >> どう演出すれば、これはよかったのかなぁ?
ルイ >> 願望は・・・同じくらい持ってると思うんですけどねぇ・・・LDさんの時もこういう苦しい立場だったw
ペトロニウス >> いや、そこは、にゅうの存在を別人格として「感じるか否か?」ってところで、それによって感じ方が分岐してしまうんだと思う。
ルイ >> 個人的に1つ提案するとするなら、「にゅうの言語習熟スピードをもう少し速める」だと思います>どう演出 現時点でも行っている事なんですが、そこまで性急ではなかった。・・・でもそれは当然でもあるんですよね。だって、にゅうはこれから日常で覚えていくのだから。
ペトロニウス >> にゅうを、別人格として考えると、非常によくわかる流れですもの。演出側も、そういう意図で描いていると思います。個別のアイテムから、ルイさんの方が正しいと思いますよ。
ルイ >> にゅうが「良い子」過ぎましたかね・・・にゅうなりのエゴを見せてくれたら、そこに生命の実感がもっと「乗った」かもしれませんね。
ペトロニウス >> にゅが、意識を強く持てば、ルーシィーと融合しちゃうはずですよ、、、だって、罪も背負ってしまうもの。過去自分の肉体が、コウタの家族を殺したという記憶を自覚してしまえば。もしくは、客観的に知ってしまえば。だから、言語習得や自意識は、遅くなければならない・・・。
ルイ >> そこはゴールに意識統合があるかという話だとは思いますが・・・
ペトロニウス >> そうそう、にゅうが、にゅうらしい人としてのエゴを見れたら、、、、自分じゃないもう一人の自分として、ルースィーが得られなかった日常を生きるというのは、非常に美しい物語になると思います。
ペトロニウス >> ゴールになくとも、周りの環境がああいう危機迫っているものであれば、意識や言語習得が早ければ、物語の流れに乗らざるを得なくなると思いますよ。自分の記憶がないところで、人をバンバン殺しているんだもの。<にゅう
ルイ >> ああ、そうか。そこですね、やっぱり。今話していて納得できた>エゴ 僕は現時点でルーシーとは別ラインでにゅうを捉えているんだけど、確かに現状の描かれ方だと「ルーシーが一旦ゼロに戻ってやりなおした」ように見えてしまうんだ。それが、従格感覚を植えつけてしまう・・・
ペトロニウス >> ただ、、、なるほど、、、とは思います。ルイさんの説明は、物凄く論理的、かつ物語的にいい終息で、僕が思うよりも、いい結果を生み出します・・・けど、、、うーん、感情が追いつかないなぁ・・・。
ペトロニウス >> そうそう、ルーシィーは、既に救われているので、ゼロに戻る必要はないもの。
ルイ >> うん・・・後、ルーシーとにゅうの話をずっとしているけれど、この作品でユカは完全に日常を担当していて、ディクロニウス問題には全くのノータッチなんですよね。人死にも一度も観ていないんじゃないかな?
ペトロニウス >> ふむふむ?
ペトロニウス >> あっ、、、そうだ、、、解釈は置いておいて、ルイさん、これ素晴らしかったです!。心をえぐる話なので苦しかったですが、美しい話でした。
ペトロニウス >> とりあえず、御礼を。
ペトロニウス >> もう、いまのところのお薦めはすべて見ましたね
ルイ >> その彼女とコウタで形成された、外観的にはハーレム以外の何物でもないwしかし「擬似家族(が家族として歩む物語)」という視点があったとして・・・それも、やっぱり登場人物はにゅうだろうっていうズルイ言い方が(笑)。これはギアスのCCが記憶を失ったときの感覚に近いのですが、このCCの為にルルーシュが生きるという選択はあるのじゃないか→この家族の為ににゅうであるという選択はあるのじゃないか っていうw
ペトロニウス >> 欠落した家族のパーツとしては、失われたいもうとしても、ユカとの娘的ポジションとしても、完璧ですものね。たしかに。
ルイ >> ああ、楽しまれ・・・表現難しいな?色々感じ取れて言葉を紡ぐ気になれたのなら、嬉しいです。良かった。>エルフェン
ペトロニウス >> やっぱり、演出側は、それを狙っていたんだろうな・・・ぁ。失われた妹を、返してあげる・・・かぁ・・・。
ペトロニウス >> 自分が奪ったから、、、自分を消して・・・かぁ。それは美しいなぁ。。。
ルイ >> しかしこの作品も、ハーレム構造のカウンターパンチ的な側面を持っているんですよねえ。2000年代初頭の基本的な揺れ方か。
ルイ >> ルーシーには立ち入れないものとしてね。西村監督なら、まあルーシーはコウタ家では記憶を取り戻さないでしょうw
ルイ >> コウタって、ハーレムメーカー視点で観ても結構過渡期で面白いキャラだと思うんですよね。
ルイ >> 「かみちゅ」は・・どうかなあ(笑)。LDさんどう思います(笑)?
ペトロニウス >> 2000年代初頭の基本的な揺れ方?
ペトロニウス >> なんというか、このコウタって、肉欲的な部分が、全然感じないんで…ハーレムメーカー的な感じは、受けないんだよなぁ・・・構造はドンピシャだけど。
ルイ >> いや、同感です。非マッチョですよねw
ルイ >> 構造はドンピシャなんですけど、記憶というブレーキがかかっている事で「主人公の物語で動かす構造」になっていないんですよね。でも、にゅうも、ナナも、あと・・・えーと・・・性的虐待受けてた子・・・彼女も、実は「コウタの内的な問題」で受け止めてるんですよね。
ペトロニウス >> それに、女の子も、基本的に「居場所提供メーカー」として、、この前話した、「存在の肯定」機能としてコウタを必要としているだけであって、コウタを必要としているわけでは・・・と言ったら、身も蓋もないか(笑)
ルイ >> 年頃の可愛い女の子ばかり、という広まっている基本構造を自覚した上で、「そういう子たちに優しくするに足る事情」を付加しているのは、結構大きな一歩だと思います。でも、物語からの圧力をしっかりかけて、ハーレムメーカーの物語にはしていないんですね。その辺過渡期・・というと一方的に「そうなるべき」みたいなニュアンスが出るかな・・?中間にあって面白いです。
ルイ >> 最終巻のオマケエピソードごらんになりました?あそこでも、きっちりおかっぱの子が頬を染めてるというwあの辺、結構構造は自覚していると思います。仰る通り、究極的には必要としているというより・・・まあでも、家長かな、未来の。
ペトロニウス >> ああ・・なるほど、中間だね。
ペトロニウス >> オマケ見ました。いや、これね、たぶん漫画版は、まさに「もろ」だったんじゃないですか?
ペトロニウス >> 連載している時に、なんとなく一瞬見て、そう思った気がする。絵柄的にも。
ルイ >> 漫画版はまず、絵が下手なんですけど・・・w先ほどちらっと触れた通り、大きな状況へのリンクはあっちの方がしていますね。
ペトロニウス >> オマケとか、日常に振れると、確実にそういったハーレムメーカーの要素を感じますよね。
ペトロニウス >> そうなんですか???、、、漫画版読んでみたいなぁ、、、絵柄がダメで、見れなかったんだが・・。
ルイ >> ああ、そう言えるのかな・・・?アニメ版の方が、この擬似家族というママゴトじみた生活を、なるべき生活としてフィルムに定着させようという意思を感じるんですよね。食事のシーンが多いのもそういう子とでしょうし、その食事も、昭和初期のような・・・皆必ず食卓囲んでいっせーのーせ、という形を保っている。
ルイ >> 漫画なりの美しさはありますし、原作としての価値は揺るぎません。・・・でも、僕はアニメの方が好きw但しこれって「アニメを先に観たから」という単純な(自分にとっての)オリジナル礼賛主義とどこまで区別できているか、自分で断言できるものでもないので、いつもビクビクしながら言っているのですけどね(笑
ペトロニウス >> うん、ハーレムではなくて、疑似家族として描こうとしている。鎌倉の風景の描写はロングショットの多用も、脳内だけの麻薬のようなハーレムではなくて、もう少し長く続いていく、、、ちゃんと歳を重ねていく家族、家庭の方が力点が置かれているので、、、それで、性的なとか恋愛とかそういう肉欲的なものを感じないんだろう。
ルイ >> でも、やっぱり背景美術と音による、鎌倉という表現力の差は大きかった・・・
ルイ >> でしょうね。だから配置はそうなんですけど、そう扱っていないんですよね。CMの中に1つラブコメ調の悪趣味な(笑)ものがありますけど、あれなんて「まさに」ですね。作品の生まれを晒しているのだと思う。
ペトロニウス >> たぶん、この作品は、圧倒的にアニメのほうがいいと思うよ。漫画は、僕は連載で、一瞬で、駄目だと思ったし・・・何度か読もうと試みたが、この作品に感じた罪と赦しの物悲しさを感じれなかったもの。
ペトロニウス >> この外の世界の描写の豊かさがなければ、実在感が失われて、駄目なんだと思う。漫画は、確か絵が下手で、背景がスカスカだった記憶がある。
ルイ >> 監督が好まれる、感情の記号を表すような一般的劇伴とは異なる、長い尺の使用に耐えられるBGM使用というのがあって・・・それも、エルフェンに合っていましたね。ちょっと距離を置いてみつめるような眼差しでいい、この作品のBGMは。
ペトロニウス >> 空間の情報量を込めると、感受に圧倒的な差が出るんだよ。だって、ルーシィーもコウタも、帰りたいのは、穏やかで桜花びらが舞う美しい鎌倉の日常の家族の温かさなんだもの。
ペトロニウス >> その対比があって、残酷さが際立って、苦しみにつながるんだもの。
ルイ >> ああ・・・仰る通りですね。これが、メディアによる情報の差というものですよね。例えば「とらドラ!」だって、単純なセリフ数などで言えば小説の方が多いに決まってるんですよね。でも原作主義に陥ると、その文字情報の減点式だけでマイナス評価をしてしまう・・・代わりに得る武器もあるんですよね。これは、どちらが上とかじゃなく。
ペトロニウス >> メディアミックスのよさは、同じ物語を、多面的な角度で体験できる部分なんだともいますよ。
ルイ >> 鎌倉って、土着の人が根をはって住み着いている一方で、軽く定年後の人がブティックを構えたり・・・そういう重さも軽さもある街なんですよね。感情的には前者を、状況的には後者を有効活用したような感触です。
ペトロニウス >> たぶん、エルフェンは、原作とアニメどっちにも、価値があるという作品なんでしょう。
ルイ >> 展開自体まるっきり異なりますからね・・・
ペトロニウス >> そうなの???うーんそれはみないとなぁ・・・。凄い気にいったもの、この作品。
ルイ >> 端的に言っても、クラマ室長とマリコは一緒に爆死しませんからね。マリコだけ死ぬという・・・クラマ室長、生きてるけれど逆にアニメより可哀相だ。
ペトロニウス >> 記憶のある土地と、記憶のない土地(=人工的な郊外空間)には、込められる情報量が全く違います。住んでいても同じです。人工的に作った、筑波学園都市が、異様なほど自殺率が多いのはそのためですからね。記憶のない土地では、人は人らしく生きにくいんですよ。人は、大地から切り離されては生きられない生き物なんですよ(シータ)
ルイ >> 「lilium」がありませんから。音がないってんじゃなく、道具としてない。そういうと、違いは明らかだと思いません?このアニメは、明らかにliliumがあるから組める物語なんですけど・・・それがないので。
ペトロニウス >> うわーかわいそう・・・・<クラマさん
ペトロニウス >> この音楽で、ほとんどすべての世界観を支配している部分はありますよね、わかります。
ルイ >> ああ、そのお話は以前あった時に伺いましたね。>筑波学園都市 モデルにしているであろう「とある」は大丈夫なのかな・・・? ただその観点もって、昔遊んだゲームで「ムーンライトシンドローム」というのがあるんですが、その感覚がストンと腑に落ちました。
LD >> …ふむ。まあ、前もそんな感じでしたけど、一応、どちらの読みも成立していると思います。…で、終わる形としてはルイさんの方がキレイかなと。そんな感じですね。