『柳生非情剣SAMON』 隆 慶一郎 (著), 田畑 由秋 (著), 余湖 裕輝 (著)  柳生シリーズの良い導入書&シンプルさに貫かれたわかりやすさ

柳生非情剣SAMON (BUNCH COMICS)

評価:★★★★☆4つ半
(僕的主観:★★★★★星5つ)

株式会社新潮社様より、献本いただいきました。ありがとうございます。さて、僕は少女マンガから漫画を知ったくらいの「そっち」系統の出自のマンガ読みなので、基本的には劇画調のモノは苦手なんです。ですから表紙を見た時から、「つまらない」とか「好きじゃない(笑)」といわなければいけなかったらどうしよう、と思っていたのですが、もうびっくりするほどとびっきり面白かったです。劇画調が大嫌い(笑)という僕が思うのだから、これはとても素晴らしい作品でした。しかも、柳生シリーズを勉強したいけど、背景知識が複雑そうで、何かいい導入書がないかなーと思っていたところで、まさに、まさに!!!という感じで、実はちょっと興奮しています。実は今まで、この辺のマクロの仕組みがいまいち????とおもっいていたのですが、それがすべてつながった!!!のです。このあたりの柳生シリーズがなぜ、この時代劇業界や歴史ものの重要なアイディアの宝庫になってたくさんの作品群を生みだしているかが、よくわかりました。いや、ためになったこともありますが、とにかく面白かった。ご担当者様は、凄いです、ドンピシャでいま読みたいものを送ってもらえました。重ねて、お礼を申し上げます。


何が素晴らしかったかは、言葉で説明すると、次のようになります。


隆慶一郎さんの描くキャラクターの魅力を、シンプルすぎるほどにわかりやすく描いた



・そのシンプルさが、柳生シリーズの複雑な背景を知らない人でも、一発で分かるように仕立て上げた
 (柳生シリーズの背景知識を持たなくても理解できる平易さ)



・家光との同性愛や幕府の隠密として暗殺者を続ける血塗られた剣の求道者十兵衛というコテコテの話にふさわしいコテコテの絵柄(=劇画調)でありがなら、それをぐっと抑えたシンプルな絵柄がマッチしていて迫力と清々しさを感じる


(1)隆慶一郎さんの描くキャラクターの魅力を、シンプルすぎるほどにわかりやすく描いた

老後の(ってどんだけやねん!)楽しみにと思っているのだが(もう少し知識がほしく出会いの機会を、こんな風に待っているのだ・・・面白いのはわかりきっているので)、隆慶一郎さんは、大ファン。この人の最も大きな功績は、時代劇の世界に「男の器量」というか「男が生きることとはどういうことか?」みたいな、もっというと北斗の拳ラオウみたいなものごっつあっつい感じを導入した人で、、、、究極的にいえば「葉隠」の価値観を非常に物語風に味付けして導入したところにあると思うんです。この作品でいえば、「死人」への、、、、言い換えれば、「死」が生きていることの中に常在していることへの賛美です。これが、キャラクター萌えに近いような極端な存在感大きなマクロから突出して浮かび上がるキャラクター群を生み出すきっかけをつくった、というような部分が一番その後の時代劇やエンターテイメントの世界に与えた影響ではないかなと思っています。日本文化の中の大きな文脈の一つでもありますしね。もちろんそれは、原哲夫さんによるコミカライズされた『花の慶次―雲のかなたに』というさらに巨大な導入本があったればこそでしょう。このコミカライズは、素晴らしいとしか言いようがないメディアミックスで、日本のエンタメ史を変えたと言ってもいい存在感だと思う。『影武者徳川家康』とか、もう泣けて泣けて、素晴らしかったなぁ。もし読まれていない人がいれば、時代劇の見方がひっくり返るので、まず漫画がいいので、ぜひ読まれることをお薦めします。


柳生非情剣 (講談社文庫)
柳生非情剣 (講談社文庫)


花の慶次―雲のかなたに (第1巻) (Tokuma comics)
花の慶次―雲のかなたに (第1巻) (Tokuma comics)

影武者徳川家康 (1) (ジャンプ・コミックス)
影武者徳川家康 (1) (ジャンプ・コミックス)

ちなみに、この作品の脚本がとても構造上見事だなと感心する点は、この「死人」の概念、、、死が生きることに織り込まれているという、隆慶一郎的な武士道の究極の体現状態を、物語としてわかりやすくするために、死ぬのが怖いと恐れる一般人である徳川家光との視点の差異で描いている点だ。この「シグルイ」的な極端でわれわれ現代人にはわかりにくい概念を、非常にうまく、一般人である我々に理解させてくれる。また、なぜ、徳川家光のような凡人が、強く生きることができたのか?というのは、この死人の世界を生きようとする左門と出会ったからである、、、という、言い換えれば、徳川家光の「将軍として強くあろう!」とするビルドゥングス・ロマンとして非常にシンプルにつながってくるのだ。だから、この出会いには意味があり、この出会いが、「衆道」という形で愛に発展していくのは、仮に男性同士の性愛が理解できなくても、彼らの魂の愛、、、、お互いがお互いに必要で意味ある存在である、という物語になるので、非常によく分かる。原作は読んでいないのでなんともいえないが、かなりぶった切ったり視点の部分などいじっているんではないかな?と思う。非常に構造的に整理されて読めるのからだ。いろいろなものをそぎ落として、


A「死人(=柳生の剣を求める生き方)」



B「徳川家光のような死が怖い凡人が本物と出会い目覚めて成長していくビルドゥングスロマン(=家光と左門の魂の愛)」



という2軸に、非常にスッキリさせているのだと思う。編集者か脚本家か分からないが、見事な仕事だ。ちなみに、ネタバレになるから言えないが、凡人の家光が、左門の本質に出会うときのシーンは、素晴らしいシーンです。



(2)柳生シリーズの世界観をシンプルに分からせてくれる導入本としての良さ

もちろん、シンボルとして集約されて出てくる「男の器量」とか「生き様」みたなものが表層に出ていて、原哲夫さんの描く「どんだけでかいんだその馬?」見たいな異常なスケール感を生み出して、もう漫画としか思えないような感じなんですが、、、、それは、実は、網野史学などによる様々な歴史学上の新しい概念を、積極的に使用して、更にそれを飛躍して、行っちゃってる!!ぐらいの想像力の幅を広げていったればこその面白さです。言い換えれば、ぶっ飛んでいる、歴史学の中でも画期的というか斬新過ぎるというか、ぶっ飛んでいるにしても、ちゃんと背景が抑えられているからこそ、その飛躍が素晴らしいものになっているんです。隆慶一郎さんの書く世界はね。


さて、そういった隆慶一郎さんの作品からすると、そういう枝葉の分がかなりばっさり削られています。これは、ヘヴィーな隆慶一郎ファンにすれば食い足りない物足りなさをもたらす可能性があるともいえる・・・が、この決断は、個人的には非常に英断だったと思います。というのは、そもそも柳生シリーズの場面は、実はものすごく奥の深い、既に彫り込まれている世界なので、知識ある人にしか入れないかなり難解な世界になっていると僕は思っています。というか、僕自身がそういった敷居の高さを感じていたんですよ。その敷居の高さをあっさり乗り越える、シンプルさとあっさり感が、僕のような柳生シリーズ系統の世界観の初心者には、とても心地よかった。



そして、かといって、重要な部分は、ちゃんと絞り込まれています。


1.徳川家光の成長物語に合わせて、この時代が、合戦(=組織)ではなく諜報機関(裏柳生のこと)による支配の時代に変わったことによる武士の生きるあり方の質の転換を示す


2.徳川家光と柳生左門との禁断の同性愛 - ただの性愛ではなく、男と男の魂の愛(←ってなんやねん?って自分で突っ込む)


3.柳生の剣を追い求める最高の境地の一つとしての「死人」の概念


4.十兵衛が暗殺者として、この平和な時代に「死人」の境地を追い求めていくこと

えっと、思いついただけで、これだけありますが、1-2が上記でいうBに当たって、3-4がAに当たりますね。


えっとね、柳生シリーズを読み説くにあたって、あまりに当たり前で前提的な知識なんでしょうが、、、、僕は初めて気付いたのですが、、、、徳川家光の時代は、パックス・トクガーナとでもいうべき徳川支配による恒久平和の世界秩序が構築された時代なんですね。それは言い換えれば、それまでの組織された軍団による戦争による秩序のパワーバランスから、諜報戦略や情報戦いによるパワーバランスの時代に、移り変わった時代なんですね。言い換えれば、武士・・・という「戦士」の役割を担っていた軍人の機能が、大規模な戦争や合戦をすることから、個人の剣の技能へその必要性が移っていったん時代でもあるんですね。


もう少し敷衍すると、これまでの戦国時代の武士の頂点は、大名なんですが・・・・大名というのは、ようは、「統治者」なんですね。戦争という組織戦で勝つには、政治力やロジスティクスで勝つための領土経営能力などの「組織を指揮する能力」というものが、その理想の頂点にあった・・・つまり、武士が死ぬ気で上を目指していくその頂点に、織田信長豊臣秀吉徳川家康がいたんです。けれども、統治が徳川によって安定してしまったパックス・トクガーナの世界では、戦士の最高の理想像は、、、、諜報戦のスパイになってしまうんですね。いいかえれば、戦士に価値がなくなってしまったんですよ。


徳川の武士はこの後、ひたすら官僚化に邁進して、その後の近代日本社会を支える大規模組織や官僚群の母体となっていくのですが、それが、「戦士」・・・死を常在として持つ生き方を理想としては、これは最低の生き方です。しかしながら日本の明治維新時期の人材が非常に優れていたのは、これら文治主義の文人官僚でありながらも、戦士のあり方がその究極の理想であるという哲学の内面化が起こっていたため、その他の北東アジアの儒教科挙制度による人間の骨抜き化(=極端な文治主義・シビリアンコントロールの行きすぎ)を避けることができたからだ、と僕は思っています。おっと、話がズれた・・・しかし、この徳川家光の時代は、ようは、「戦士」がその道を極めるには、裏の世界で諜報戦のスパイや暗殺者になるしか生きる道がなく、その究極の象徴が柳生一族という徳川の裏を支えたインテリジェンス部隊だった、ということなんですね。これ!これが、わかっていないと、そもそも柳生シリーズが良く分からないんですよ。このマクロが、今回は一発で理解できたので、本当に面白かった。


しかしながら、これらの柳生の初期の3兄弟たちには、その父親の生き方も含めて、戦国時代の武士の「生々しさ」がかなり生き残っているんですね。その狭間でもがき苦しんでいた男が、柳生十兵衛という暗殺者で、、、このことが分かっていると、様々なエピソードが非常に肉厚の重量感を持って生きてくるんですね。たとえば、荒山徹さんの『魔岩伝説』などにも、柳生の男が出てきますが、なんであそこまで律儀に主人公を追いかけるのかといえば、それはこういう求道精神が背景にあるからなんですね。それが分かっているのと、そうでないのとでは作品の理解が全然違う。ぜひ、山田風太郎さんも次に読んでみようともいます。積んであったんですよ。


柳生十兵衛死す〈上〉 (小学館文庫―時代・歴史傑作シリーズ)
柳生十兵衛死す〈上〉 (小学館文庫―時代・歴史傑作シリーズ)

魔岩伝説 (祥伝社文庫)
魔岩伝説 (祥伝社文庫)


(3)絵柄の話


先に書いたけれども、僕は劇画調の絵柄が嫌いなのですが、これは読めました。というのは、劇画調の作品というのは、コテコテでなんだか書き込みが多い割には、その書き込みでキャラクター造形などをごまかしている気がして…ところが、この作品の登場人物は、キャラクターが立っており、僕にはその存在下にふさわしいビジュアルに感じました。特に、柳生十兵衛の獣のような荒々しい求道精神のシンボライズともいえるキャラクター造形は、うーん、いい、と唸りました。