【映画版ヱヴァ破考察 その壱】僕たちが見たかった「理想のヱヴァ」とは?〜心の問題から解き放たれた時、「世界の謎」がその姿を現す 

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ちなみにネタバレなので、見ていない人は読まないでくださいね。2回目の人推奨です(笑)。



■前向きなシンジくんの物語である「序」を受けて

本当に話したいことの核心は、あまりにネタバレなので、まずは周辺部から話してみたいと思う。今日金曜ロードショーで「序」を見直したんだけれども、最初に見た時の感想が非常に正しかったのを思い出した。「序」は、その映像は素晴らしいけれども、テレビシリーズの総集編である域を出ず、僕は本音のところでは「なーんだこの程度か」というふうに思ったものだ。


しかし、何かが違う!。それは、当時海燕さんも言っていたが、総じてこの「序」は、碇シンジくんが「前向きだ」ということを評した感想が多かったことが、まずもって一番に挙げられるだろう。僕の友人は「逃げてばかりいたシンジ君が大人になっていて、ちょっぴり好きになった」と言っていました。概ね、誰もがそう思ったと思う。あくまで「ちょっぴり」ではあるが。実はこの「ちょっぴり」が、壮大なこの映画版の「世界の謎」における、物凄い巨大な伏線であるのだと考えているのだが、その謎解きは、まだ弐へのお楽しみとして、ここではいったん置いておいて、その前段階の考察を進めてゆきたい。


さて、シンジ君がほとんど同じ行動をしているにもかかわらず、なぜ「意志的」に見えるかといえば、二回目の今日見た時に分かったのだが、「序」では、シンジ君が目を伏せないで意志的に「にらみ返す」演出が多く、また眼を伏せるにしても「明らかに反抗的な意思」をはっきりと出しているからだと思う。テレビシーリーズのアパシー(=無気力)な演出からすると、大きな差だ。もちろん見ている僕らが90年代の病的なアダルトチルドレン的な時代性から、00年代の決断主義?的な行動に出なければならないという意思を重要視する時代に入っているという、受け身側(=われわれの心の姿勢)の姿勢もあるのかもしれないが、やはりこの映画版の碇シンジ君は、TVシリーズのアパシーな無気力に浸っている意志自体が消失しているキャラクターとは違う人物だと思う。


もう一つあげれば、脚本構造は変わっていないのに、シンジ君が意志的に見えるのは、映画の尺が、テレビシリーズよりも「少ない」ことにも起因していると思う。「尺の長さ」や、テレビシリーズのように毎週次の番組まで一週間の「間」が空くという「視聴のスタイル」は、受け手の感覚に強い影響を与えると考えている。映画は、必然的に、尺が少ないこと次の回までの「引き」を作って多くを受け手に妄想させるといった演出手法がとれないことにより、受け手が「シンジ君はどう考えるんだろう?」とだらだら悩む暇を与えることができない。そういいかえれば、シンジ君が、即断即決しているように、見えてしまうんだ。それは、物理的な時間の制限によってね。


■物語はテレビシリーズのなぞりに過ぎないのに、全く違う物語に見えるわけ

さて、上をまとめてみよう。まず、作り手側が(1)シンジ君を意志的に演出している。また同時に、(2)-1映画という尺が少ないメディア媒体で演出するが故に、物事を即断即決(=決断)しているように見える。(2)-2中だるみがしやすいテレビの総集編の演出、またテレビシリーズの中盤の焼き直しが故に、アクションシーンを多用していることから、展開が速く動き、登場人物たちが悩んでいる時間が極端に少ない。この2点から、テレビシリーズを同じ脚本構造で描きながらも、登場人物たちが決断する時間を持つ暇もなく、意志的に行動してしまうように見える。序についても同じことが言えるが、このことが破格の面白さを産んだのではないかと思う。この手の話をまとめると、以下の問いかけと問答になるともう。破では特にこれが強く出ていると思う。


そもそもただのテレビシリーズの脚本の焼き直しなのに、何がそんなに面白く感じるのか?


この問いに対して、まず表面的な答えとしてはこう答えることができる。


それは登場人物たちの動機の構造がテレビシリーズと全く異なっているから、同じ脚本構造であっても「同じものに見えない」のだ。


だからこの映画版の面白さの根源はないか?と問われれば、答えはキャラクターたちの動機が強く意志的なことであり、「その文脈に沿って」同じ出来事が起きても、見る側の受ける印象は異なる。序では感触に過ぎなかったのだが、破では、全く同じ脚本構造をなぞっているにもかかわらず、まるで違うものを見ているかのような印象を与えるに至っている。

そして脚本構造の本質は変化がないのだが、そこに至る小エピソードに小さな変化が生まれることになる。なぜここで「生まれる」と書いたのかというと、もちろん、演出側が全く異なる物語のエンドを想定して話をずらし始めているといった神の視点ではだけではなく、僕の印象としては、動機が小さく異なっているが故に、同じ試練にさらされていくと行動が少しづつ変わってきてしまうという感触を得るからだ。それはあくまで自然なもので、もう少しわかりやすく言えば、恋愛シュミレーションゲームやエロゲーなどの選択肢分岐型のシナリオゲームで「一つの選択肢を少しづらす」と少し異なる分岐ルートに入っていくような、そういったイメージとしてとらえてくれればいいだろう。


そもそもエヴァンゲリオンのテレビシリーズの脚本は、完成度が高いので、大枠の構造はなかなか変えることはできない。いまでこそテレビシリーズ&旧映画版は、最後のシンジ君の心の世界に閉じて収束してしまうという話になっているので、アダルトチルドレン的な「個人の心の問題」がメインのように見える。が、実はそれほど単純ではなく、王道のSF作品として、そしてガンダムシリーズに代表される日本のアニメーションものの英知を結集した「普通の少年がロボットに無理やり乗せられて闘う」というシュチュエーションを、徹底的に極める形でつくられた王道の物語としての完成度の高さがあったればこそ、あの作品にあれだけ人を引き込むことに成功したのだ。あの時代にはやったアダルトチルドレン的な作品が、映画、アニメ、演劇、文学のどれをとっても、個人の心の問題に収束していく物語が、社会現象たりえずほとんどが島宇宙のような小さなセグメントで売れるマイナー作品にしかならない反面、同じ題材を扱いながら社会現象まで広がりをエヴァンゲリオンが見せたのは、そもそも器が非常にエンターテイメントとして王道の部分を備えていたからだと思う。


ちなみに、庵野秀明さんの作品は最初期から非常に完成度が高く(つまりSFなどのそれまでのエンタメや物語の類型を分かり尽くしてクリエイターになっている)、数作品を見れば、彼の世界観の完成度の高さはすぐに分かる。「普通の人がロボットに乗って戦い世界を救う」のは、『トップをねらえ!』を見ればいい。人類を守るために、個を捨てて死力を尽くす少女の自己犠牲に、涙できるだろう。「SFの王道作品」としての世界観を見たければ『不思議の海のナディア』を見ればいい。ありとあらゆる遺伝子を管理し保存するノアの方舟のシーンに、マクロのを感じる胸が震えることだろう!。



トップをねらえ!1&2合体劇場版』 庵野秀明鶴巻和哉監督 仲間を守ることと自己犠牲①
http://ameblo.jp/petronius/entry-10020155175.html


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90年代以降のクリエイターらしく、凄まじいほどのパロディ(=過去の作品のオマージュでも何でも言い方はいいが)に満ちていて、この時代までに積み重ねられてきた、エンターテイメントのリテラシーが積もりに積もった作品だ。こういったパロディのバロックの果ての究極の王道という制作姿勢は、まさにガイナックスという集団のコア中のコアといえる。そして彼らが凄いところが、そこまでパロディでありながら、その本質が骨太の王道である点だと思う。いまは制作はガイナックスになっていないようだが、この製作集団のコアが、ガイナックスのDNAをもっとも純粋に受け継いでいる集団の一つであることは否定できないだろう。その王道の器に、「意志的」という動機を挿入させることで、これほどまでに「王道的な物語としてのカタルシス」をつくりだすことができるのだ、というのが面白さの根拠の一つだ。ここでいう王道というのは、非常に簡単で、意志的な男の子が好きな女の子を救うという、陳腐でよくある物語のことです。いうまでもないことですが、「序」から「破」に向かって、物語のメインテーマは「シンジが大好きな子(=綾波レイ)を救う」ですよね。少年が少女を救うビルドゥングスロマンとなっている。「破」に強いカタルシスがあるのは、まずその本質が、非常に陳腐でわかりやすい類型の物語を貫いて結論が出ている点にあります。あとで書きますが、アスカについても、はっきりと彼女の心の問題を解決しているからこそ、非常に前向きに見えるのです。陳腐だけどわかりやし心の悩みの解決・回収は、人にとても安堵感と感動をもたらします。あのゲンドウすら前向きじゃないですか・・・。ああ、、、みんな大人になったんだなーと涙でそうでしたよ。


アダルトチルドレンから意志的たろうとする大人への道〜実存の回復の物語

いまに至るまで庵野監督は実写で『式日』(岩井俊二監督が俳優として主人公!)や村上龍の小説を実写化した『ラブ&ポップ』または『キューティーハニー』を撮っており、アニメでは津田雅美さんの『彼氏彼女の事情』 を作っている。これを時系列ですべて追っている人からすると、実存回復・・・・逃げることではなく、責任を引き受けて自ら物語の主人公たろう!(それは世界に対して受け身でもある)ということを模索していく過程がありありとわかりました。

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村上龍さんの『ラブ&ポップ』は、彼の作品としては、僕は凄くダメな作品と位置づけています。それは世の中の表面的な部分に敏感すぎる村上龍さんの、援助交際自傷系の女の子に対する知ったかぶりで描いている作品に感じてしまい、ようは、古い人情ものとかに回収されていて、なんら「その奥」にあるものに到達していない、と思うんですよ。援助交際にとか宮台真司が語ったブルセラ女子高生は、某かの真実はあるものの、時代の徒花である種の幻想だったと僕は思う。もちろんそれを映画化したらもっとひどくなった、と思う(笑)。とはいえ、あのころの雰囲気は、映像が故にか庵野さんの方がうまく抽出しており、そういう意味では、「ああいうアダルトチルドレン」的なもの直視しようとするスタートだったんだと思う。真面目な人ですよ、庵野監督。ちなみに、主演の三輪明日美さんは可愛かったなー当時(好みだった)。内容は好きではなかったが、うん、あれはよかったー。ググってみると、そんな彼女も、もう3児(かな?)の母になっており、時間の流れを凄く感じますよ。


三輪明日美のずぼら記
http://ameblo.jp/miwa-asumi/


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そして、そういった表面ではなく、内面まで観察し切った上にほぼ自叙伝的になった作品が『式日』です。結局心の傷が家族、特に母親に回収されるのかよ!つまんねぇ!と当時の僕は感想で書いていますが、しかしこの手の物語の回収ポイントとしては最も王道なのかもしれません。村上春樹さんの『海辺のカフカ』でもそうでした。全ての内面の腐っている理由は、ほとんど親に行きつくんですよ。ちなみに、それに肉付けした、一瞬しか出てこない大竹しのぶさんの演技は素晴らしかった。あのシーンが、「アダルトチルドレン的なもの」に僕は一つの決着がついたんだと思う。つまり、どこまでいっても、親のせいにしかならないんだ!、つまりは解決の出口がない、と。内面のループなんですよ。親には、その親がいますからね。当時の僕はこう書いています。

確かに内面の豊饒さを発見したという意味では、80年代以降の文学の成果ですが、それは世界というマクロとかかわりのない、いわゆるナルシシズムの世界の追求なんですよね。究極的には。エヴァのテレビシリーズの最後の「何もない真っ白な世界」というアニメとセリフは、今でも最高に文学的で、よく覚えています。ようは、映画でいえば『アンダルシアの犬』『オープンユアアイズ』『ヴァニラスカイ』『トゥルーマンショー』的な、メタレベルでの視聴者への攻撃という手法で、主人公(=それに感情移入している読者・視聴者)の内面や自我の解体を志向したんですよ。
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けど、、、、自分の内面の話って、難しくてつまらないんですよね〜。最終的には。もう、次の世代は、内面に入っていくというのは、古い気がするんですよねー。この手法が、新しさを感じたのは、90年代前半がギリギリ最後だと思う。たとえば、では、世界をそう捉えてしまう自分の自我や実存が、そのあり方が間違っていた(=自分自身が悪だった!)という気づきは、容易に責任転嫁として、次の問題を志向します。誰が悪くて、自分の内面や実存は狂ったのか?


そんなの親や教育に決まっているだろう!という、責任転嫁になる。現実的には事実ではあると思うが、そんな意味のない責任転嫁をすることは、独立した成熟した大人のやることではない。そういった親や過去からの負の連鎖を断ち切ることこそが、成熟した大人というものなのだ。負の連鎖は自分の意志と力で止めるのが、大人なんだ。誰かのせいにしても意味がない。親のせいにすれば、その親の親のせいで…と無限ループになるからだ。この手の内面への志向は、結局は自我の弱さ…親の問題などのアダルトチルドレン的な、悪を自分以外の何かに押し付けて逃げる姿勢になってしまう。 前に庵野秀明監督の『式日』を酷評したが(映画の出来はいいんだけれど)それは、もう親のせいとかのセラピストが毎日唱えているお題目はあまりに広まりすぎて、「だから?」って気がしてしまい。では、その次はどうするの?と思ってしまうのだ。



善悪二元論の果てに内面の解体を目指したことの行き詰まり
http://ameblo.jp/petronius/entry-10027647923.html


そして、こうした「行き詰まり」。誰のせい?親のせい。というものへの最終的な解決が、『彼氏彼女の事情』であったのは、まさに、まさにです。当時の僕はこう書いています。

こうした自意識の恐怖を描いてので、エヴァンゲリオンで似たテーマを追っていたガイナックス庵野秀明監督が、アニメ化したのは、当時なるほど!と思ったものです。また雪野の性格に代表されるように、女性の作家の方が、自意識からの解放を描くのはうまい。ちなみに最終的に最もうまいと思っていた漫画家の安野モヨコさんと、結婚!!したときは、さすがに驚いた、が納得もした。僕が津田雅美さん(全作品を所有!!)を好きなのは、人間のドロドロに暗い側面と、同時に解放されたときの聖性を帯びた美しさ静謐さを「同時に見てしまう」人だからです。

主人公たちはのた打ち回りながらも、永遠に反復する業の輪を断ち切ろうと、もがいています。この手の作品は、庵野監督のエヴァンゲリオンで頂点を見た、過剰な自意識を支えきれない弱さのみをクローズアップする視点から、やや踏み出しています。そこは、すごく好感が持てる。



彼氏彼女の事情津田雅美/繰り返すものからの脱却
http://ameblo.jp/petronius/entry-10002092598.html

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彼氏彼女の事情 (1) (花とゆめCOMICS)
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ちなみに、評論家のいずみのさんが指摘していたのだが、この劇場版の学園シーンや日常のシーンには、カレカノと同じ音楽が使用されているとのこと。詳しくは、下記で。


2 :いずみの:2009/07/04(土) 21:00:42
http://www.amazon.co.jp/dp/samples/B000765MT6/
カレカノサントラ試聴

ニコニコの「弾いてみた」(一期一会)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4436454

http://d.hatena.ne.jp/izumino/20090704/p1

彼氏彼女の事情 CD-BOX
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ちなみに、あとで書こうと思うのだが、新劇場版の日常の価値を描くシーンで、親から受け継いでいる苦しみの連鎖を断ち切って、「自分の人生を歩み始める」物語を描いたカレカノの音楽を使っているところは、もうめちゃくちゃ論理的だなーと思います。


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キューティーハニー』も、そういった実存回復の方向で位置づけるとよくわかる。ここでは、素直な戦隊モノを描いており、、、、言い換えれば、自分が「闘うこと」に無駄に悩まない、あっけらかんとした性格を描いていると思う。これって、庵野さんが描ける女性の限界点なんじゃないかなーと思うんだ。サトエリとってもあってたし、かわいかったけど。いまいちパワーが足りなかった。ちなみに、この延長線上に新キャラの真希波・マリ・イラストリアスが出てきていると僕は思っています。とはいえ、庵野さんの描ける人格とは、ある種の断絶はあるんで(そのように感じる)、このキャラクターは、庵野さんでは描くのしんどかったんだと思う。


だから、トップ2で鮮やかに、トップ1の生真面目さを飛び越えながら、けっして物語の王道を失わなかった鶴巻和哉さんの『トップをねらえ2』的なキャラクターを出してきたんだろうと思いました。いや、論理的に言うと、


1)病んだ少女(ラブ&ポップ


2)それは実は自分の内面の病みなんだ!&それは親のせい!(式日


3)しかし、親からの連鎖を断ち切ろうぜ!そして美しい日常へ!(カレカノ


4)つーか、そんな無駄なこと悩んでないで、突っ走ろうぜ!(キューティーハニー


というような流れ(笑)で、1)-3)を描いてしまっている(=積み上げている)が故に、軽やかに4)以降を庵野監督は描くのがしんどかったというかうまくできなかったのだと思うのだ。そもそも生真面目な人は、内面なしでダイレクトに世界を楽しむ人を描くことも理解することもできないと僕は思う。なぜならば、考えないで感じる人!(byブルースリー)だから、そういう人は。

そこで00年代以降のテイストを入れなければならないので(これは、あとで並行世界の物語の部分で説明するつもり)、鶴巻和哉さん(=庵野さん以外の人間)のキャラクターが出てきたんだと思う。ちなみに『トップをねらえ2』は非常に00年代以降の作品の色が濃くて、一見すると、王道SFかつパロディなのにド真面目な『トップをねらえ!』と全然違う物語だと思う人がいるようだが、それは全然違う。脚本も同型だし、言いたいことも非常に重なっている。ただ、登場するキャラクターの内面のあり方が、かなり異なったプロセスで形成されているので、世代が違う人にはほとんど理解できない作りになっている。1と2を見比べて、どっちが好きか?で、その人の感性の依拠している時代が分かると思う。いずみのさんなんかは、はっきりトップ2のほうが好きに僕には見える。世代の差だなーと思う。・・・そういえば、秋葉原に劇場版見に行ったなー、いずみのさんと・・・なつかしいやー。えっと話がそれたが、感性がかなり違うものなので、両方ともちゃんと理解したうえで、好きという人は、ちょっと変人(笑)だと思う。


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■ただの王道の物語〜しかしそれをヱヴァというもので描くことに意味がある


僕には、この新劇場版ヱヴァは、大きな時代的な回答に、感じる。そう考えるとかではない、そう「感じる!」んだ。リアルタイムに見ているものとして。それはどういうことか?。この質問に答える前に、もう一つの伏線を置こう。

上記までいったい何をくどくど説明してきたかというと、つまりは、90年代に登場したテレビシリーズのエヴァンゲリオンと旧劇場版は、「アダルトチルドレン的なもの」、いいかえれば逃げ道のない内面の深掘りをする物語の類型であった。個人の内面を深掘りする傾向は、1960年代以降の流れの帰結点であり、それ自体は「豊饒な内面の発見」を生んだのだが、内面に偏り過ぎてナルシシズムの世界に究極的にからめとられて自閉していくという作品群に帰結した。それはそれで「可能性の選択肢」の一つを究極的に深掘りする文学的な先鋭さで、時代が要求しているものと見事にマッチしたからこそああいった大きな影響を持ちえたんだと思う。

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時代的なパラダイムと一致していたが故に、「あの答えが」「あの帰結が正しい!」と感じた人は、当時多かったと思うし、いまだそう思っている人もいるだろう。


理由は二つ。一つ目は、そもそも一定規模で内面に自閉化していく類系の物語を好む自傷系の人間というのは常にいるということ。そういった人は、内面の空洞をバネに激しく極端な活動するのでオピニオンリーダーになりやすいと僕は思っている。マーケティング的には「影響力のない見かけ倒しのリーダー」と僕は思っていて、マスのフォロワーにあまり影響がない(笑)が、尖鋭的が故に目立つオピニオンを出す輩だ(含む自分(笑))。こうした層は、かなりの比率でに今回のエヴァンゲリオンの「王道的な物語展開」に対して、「こんなのおれが好きなエヴァじゃない!」と声を上げると思うのだ(←超偏見(笑))。もう一つは、やはりあの時代の雰囲気から、「答えはあれしかなかった」と思うのだ。あの時代には、あの結論が、最も納得がいくカタルシスを生み出したんだと思う。村上龍村上春樹も、そうだったじゃないですか。

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だから、あの時のは「あれが真実」だといっても過言じゃなかった。


でも、僕は、今はそうじゃない、と思う。今は、屈折をしながらも王道へ回帰する時代であり、それをどのような形で描けるかが勝負な時代なんだと思う。そこで、あえて好きな女の子を救うという陳腐な王道的物語で、かつ主人公が、周りがみんな「意志的である」というベッタベタなベタをやってきたことに、さすが庵野秀明さん!と感心しました。もちろん、王道とは、常に「最も陳腐な物語」であり、エヴァの文学的な尖鋭的に一つの可能性を追求して内面に入り込みメタに展開していくという手法の部分に愛着や好みがある人にとっては、こんなつまらないものはない!、おれの好きなエヴァじゃない!という印象をもたらすかもしれません。


が、それは無駄な抵抗です(←いいきった(笑))。断言してもいいがこの王道の物語は売れる!。だって時代が、、、、なによりも、マスが求めているものだもの!。おもねることなくマスに売れるやつが、僕は正しさと強さを兼ね備える、と思う。文学はしょせん、一エピソードの袋小路を追求するものであり、物語の持つ包括的で豊饒な雑多なエネルギーは持たない。だってほら!村上龍は『愛と幻想のファシズム』や『五分後の世界』に進み、村上春樹の今の『1Q84』だって物語性に回帰しているじゃないですか!。10年ぐらいのアドバンスがある文学の世界は、ちゃんと物語に回帰している。その他のライトノベルの発展だって、僕は物語性の復権だと思っている。文壇で袋小路に入って自閉化したブンガク・文学の私小説へのアンチテーゼがライトノベルであったと思うのだ。また王道の物語を使ってアニメ文学をやってエヴァンゲリオンだって、そのアプローチが、王道の側からのアプローチだったからこそ成功したんだと思う。もともと文学を志向したモノは、ことごとく売れなかった。そういうやつは、消費者をばかにしているんだと思う。消費者は、高尚な文学の先鋭的な可能性追求と、物語の豊饒さによる萌と癒しとカタルシスを、同時に求めるという非常に目の肥えた消費者なのだ、90年代以降の我々日本人は。

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1Q84 BOOK 1
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けど、エヴァの成功は、見ていた我々にもクリエイターにも、大きな足跡を残していた。そりゃーそうだ。思春期や最も多感な時期に、シンジ、アスカにレイに感情移入したり、好きになったりすれば、、、、もう(笑)苦しいしこりを抱えたまま、閉塞したまま生きているはずなんだ。


しかし、その「心の病」を、小さな動機の変化が分岐ルートを変えていくことで、丁寧に解きほぐし、見事にカタルシスに昇華してくれる。


みんなこう叫ぶだろう!!!「よくやったシンジ!」って。


そして思うだろう、



レイがんばってるな!もう君はお人形でも変わりがきくものでもないよ!


アスカも、自力で孤独の世界から乗り越えるのかよっ!お前かっこいーよ、それでこそアスカだよ!


意志があるところに、自分で自分を救うやつには、どんな外部の悲劇もその人の心を生き様を汚すことはできないんだぜ!って思う。


そして、ゲンドウ!あの、鬼畜オヤジが・・・・こいつも大人になって・・・・


そうみんな思うはずだよ!あの作品を見て。なんと、、、95年放映だから、15年近く???たって、ついに物語の扉が開かれたんだ。こんな凄いことはない。



さてさて、何がいいたいのか?。この記事の言いたいことは、80年代を席巻したアダルトチルドレン的な「心の病」を新劇場版は一掃する目的でつくられているんだって、僕は感じたってことだ。90年代の最大のテーマだった自閉して内面世界にからめとられていくことから、どう脱出するか?ってことに、心の次元でこの破は、解決をもたらしている。小さな動機の変化を積み重ねることで、同じ脚本でありながらシンジはついに全く違う行動に出るようになって、好きな女の子を救うことになった。


そして、こうした「心の問題」が片付いたところに、ついに「世界の謎」が現れることになるのだ。そう、ついに15年かけてミクロの次元の物語に解決をもたらしたことによって、マクロ(=世界の謎)がついに動き出したんだ。いっていることが伝わるだろうか?。ミクロの問いが解決しない限り、シンジ君は、いつまでも内面世界のループの中から抜け出すことができない。内面に結論が出ない人は、外部にあるマクロに、世界に、リアルにかかわることが出来ないんだ。だから、「これ」を解決したことによって、初めて物語が動き出すってことなんだ。心の問題が解決しない限り、人類補完計画ロンギヌスの槍でもアダムでも何でも、そんなのは、意味のないガジェットに過ぎない。けれども、心の問題が解決されれば別だ。そこで初めて、ぼくらはこう思うんだ。「この世界ってのは一体どうなっているんだろう?」って。


そうそれこそが、真の、僕らが本当に見たかった理想のヱヴァンゲリオンなんだ!。


さて、そもそも最初の問いに戻ってみよう。


そもそもただのテレビシリーズの脚本の焼き直しなのに、何がそんなに面白く感じるのか?


それは、ミクロの次元(=心の問題)が解決していくが故に、「世界の謎」が強い輝きとリアリティを感じさせるからなんだ!。ついに王道中の王道の物語が動き出したんだから、それもこのクオリティで。興奮しないわけがないぜ。そして、そして、さすがパロディ王のガイナックスのDNA。この内面世界のナルシシズムの檻からの脱出と、世界のループの脱出を重ねあわせる「世界の謎」を作っているようだ・・・・それは、僕がいままでブログで、エヴァの設問に答えとして、見事に答えきった一つが『マブラブオルタネイテイヴ』だっていってた話と、リンクすると思うんだ。オルタも凄まじい傑作だと思っていたが、エヴァのクオリティでやられると・・・・いやー流石ですは、胸が燃えます。


弐に続く


【映画版エヴァ破考察 その弐】 庵野秀明は、やっぱり宮崎駿の正統なる後継者か!?〜「意味」と「強度」を操るエンターテイメントの魔術師
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20090719


【映画版エヴァ破考察 その参】 僕たちが見たかった「理想のエヴァ」とは?(2)〜エヴァテレビシリーズと旧劇場版は、エロゲーのバットエンドだったのだ!さあぁ、トゥルーエンドのはじまりだ
(まだです)


ちなみに、その参がたぶん、マリの話と並行世界の謎解き(ってもまだ全然わからないから構造の提示)お話です・・・いつになるのやら・・・。ちなみに、


並行世界の話はややこしいので、ちょこちょこ参考図書を乗せて置いているので、ぜひ読んだりしながら見に行くと、物凄い思考実験ができておもしろいですよ。

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