『超弩級少女4946』 東毅著 

超弩級少女4946 1 (少年サンデーコミックス)

なかなかおもしろい。特に、既に僕は同人誌のきみまるさんの『RETAKE』と『ねぎまる!』を読んでいるから、この人のテーマの文脈を知っているので、凄く興味深い。単純に1巻だけでは、物語としては良くできていて楽しいものだが、それだけだ。逆にあれほど深刻で苦しい話を同人誌で書いていたにしては、なんとエンタメエンタメしているのかと感心するくらいに普通の物語だ(・・・・いや普通じゃないか(苦笑))。


物語は単純。主人公?の彼女が、身長49mのだというだけ(笑)


けどね、これね、今まで読んだ2作の同人誌の文脈で読むとよく分かる。これって、恋愛の不可能性を描いている文脈の続きなんだと僕は思う。そう考えるととても興味深い。


いま村上春樹の読解で、大きく二つの文脈が彼の作品にあると思っていて、一つは「人と人とのコミュニケーションの不可能性(=個人の孤独と絶望)」そして、もう一つは、「失われた半身であるベターハーフを探すの物語」だ。これをもう少し敷衍すると、ようはね、唯一性・・・・たった一人しかいない自分の半身(=ベターハーフ)を探そうとすることが、個人にとっての究極のサルヴェーション(=救済)なんだということで、村上春樹の小説の主人公であるところの「僕」はずっと、魂を共有できる相手を探し続けます。けれど、一度たりともそれが報われたことはありません。相手の女性が、自殺するか行方不明になって二度と会えない(もどってきてもその過程が全然分からない)、という設定ばかり。これは何を言っているかというと、最初の命題と弐番目の命題が絡まっていることを示しているんですよね。

つまり、人は分かりあえないからこそ人であり、個である限り孤独の牢獄から抜け出ることができない。その個人にとっての救済が、ベターハーフであるとすれば、、、、それもまた人間であり、人間である限り「わかり合うことはできない」のだという風になってしまい、堂々巡りに陥ってしまう。ファムファタールというテーマが映画や文学にはありますが、これは一言でいえば男にとって女性が救済になりうるというテーマです。運命の女性に巡り合えれば、男は救済される・・・という、骨太で力強いですが、まぁなんとも単純でナイーブな発想ですよね。いやー根強く物語の世界には、男性が救われたいというテーマは多いのですが、女性が救われるってのは…なかなか無いんですよねぇ。なぜだろう?。

いやまーとにかくね、このテーマを描こうとすると、深く愛し合うけれども、何かの障害があって結ばれない(=一つになれない=対幻想として成立できない)・・・という設定が必要になってくるんですが、この物語のまなとマコトの身長差(笑)はその象徴。まぁ現代SF版『Theかぼちゃワイン』といってもいいのかもしれないが(苦笑)。と同時に、巨大少女まなにほだされていく、マコトの彼女を守ろうとする(=いや守れるわけないから戦闘力に差があり過ぎて)姿勢は、不可能性の中でのヒーロー行為になるるわけなんで、これまた強度が高い設定です。

けどね、、、これ、この関係性を日常化させると話はつまらなく薄くなるし、話をマジで進めるのならばその「不可能性を際立たせる」物語にしていくことになるので、二人をドンドン不幸にしていく(苦笑)設定にする方が物語の強度は上がるはずなんで、、、設定としては、結構つらい設定だよなーと思う。


でもまーそういったメタとしての並行世界の物語としての『RETAKE』と『ねぎまる!』を知っている文脈で読むから凄く面白いが、そうでなければ、普通の男の子が女の子を守るっていう熱血の恋愛話に過ぎない。そういう意味では、メタ的な前の話に持っていく「前の話」としてはパンチが弱いなーとは思う。ともすれば、あれだけ見事なメタの同人誌を書いてしまうと、オリジナルの構造をまず描いてそれを壊すというような尺の長さは、なかなかやりにくいのかもしれないと思った。

えっと伝わるかな?つまり、並行世界の物語のようなオリジナルの骨太な原型があって、それをメタ的に「外から見る」ということで形成される、ある種のリテラシーの「行きついた果て」の物語類型なんですよね。きみまるさんは、その世界での、生きる不毛感からの脱出やその世界の「間」に生きること、、、つまりオリジナルの現実にコミットするということ、そこから逃げている卑怯さ超克という倫理をめぐる物語を得意とする人です。それはもう本当に物凄く素晴らしい。けれども、これはLDさんの情報圧縮論ではないのですが、ある種のオリジナルな原型を、同人誌的な視点で、メタ的に「ああも、こうもあり得た」と俯瞰することでしか、形成されない物語類型です。

そういった形式を、オリジナルの原型を「まず最初に描きながら」更にそれの延長として描くのは難しいのだるということです。つまり別々でないと成立しにくい。それに成功している作品が、ノベルゲームのような選択し自身を内包化させたメディア特質を持たない限り、、、、いや持ったとしても、膨大な尺を持った作品しかほとんどあり得ないことがそれを新していると思う。


などなどと思いました。