知識を役に立つかどうかで峻別することは、とても小利口だ、というおはなし。

参 2010/01/02 01:06
貴方のファンの参です。無学な学生です。いきなりで失礼かもしれませんがお聞きしたいことが・・・

先日ある小利口な友人に、僕は漫画やアニメなどの分析が好きだと言ったところ、「それって、何か役に立つの?」といわれました。
役に立たなくていい、実用的である必要がない、物語の構造なども理解することで楽しみが深まるものだ。と僕が言い返すと、「実用的でないものは無意味だ。」と一蹴・・・友人は、そんなことをする意義が分からない。そういった分析でなにか他の分野で生かせるのか?という考えを持っていて、実用的で自己研鑚につながる事柄にしか目に入らない様子。(自己研鑚の為に新書や小説を読んでいる人)

またその友人から、ナルシシズムに浸っているんじゃないの?といわれドキッとしました。
よくこのブログで使われるキーワード「ナルシシズム」。友人は、物語の分析で自己完結→自己満足に浸っているに過ぎないということで、ナルシシズムという言葉を言ったのだろうと思われます。(僕自身、ナルシシズムという概念が完全に理解できていません。)

ペトロニウスさんはこの友人にどういった反論(でいいですよね?)をしますか?また友人と「知の実用性」について話したんですが、知は実用的でなければならないのでしょうか?

Gaius_Petronius 2010/01/02 09:53

僕の反論は、一つだけです。そういうやつとは、「そういう話をしない」です(笑)。生きるセグメントが違う人間を相手にしても仕方がありません。「生き方」が違うのだから、生きるために、楽しむために「選んだマテリアル」が違うんだから、です。そういうやつには、そういう話を振らないのがベストです。「好きな物を共有する」のが友人であって、君がその友人と仲良くしたいのならば、君が「相手のすきな物(=実用的なもの)にコミットする」しかありません。君がそれほど努力してキャパシティーを広げたくないのならば、その友人は、友人ではあり得ません。「そこまで君自身が努力して」その彼と友人でいたいかどうかが重要です。「君の側の努力(=相手はしません)」がなければ、その友人関係は社会に出て続きませんよ。そういうセリフを吐く友人は、社会的な成功者を望むと思うので、社会的な成功者になったら友人をそういう系統の人に変えていくので、君は友人足りえないでしょう。君がその彼を好きならば、君が努力しましょう、同じレベルにいつもいるように。そすれば、漫画やアニメがある分、君は、その友人よりも「より広い世界を生きる」人になって魅力的に映るはずです。

相手に自分の好きな物を理解してもらえるなんて、そんな甘っちょろいことは考えるのはよしましょう。君が、「役に立つかどうか」なんて二元論をぶっ飛ばせるほどに、漫画やアニメを分析するのが「ぶっ飛ぶほど楽しく」かつ「それがものすごいレベル!」に到達していれば、君が何も言わなくても、君の意見を、金の話お聞きたい!と相手は言うでしょう。物事はすべてレベルです。レベルが、ブッとんぢ得れば、だれも文句位が言えなくなるのです。君が趣味程度でアニメ漫画分析ウンヌンをするのならば、そんなものは他人にしゃべる必要がないです。そういうのが好きな仲間とだけしゃべればしいのです。

それと、「そもそも役に立つかどうか?」で世界を眺める姿勢は、僕には皆無です。なぜならば「役に立つこと」と「楽しいこと」は普通別々だからです。それが重なっている人は、運が良かったね!とほめてあげましょう。大抵勘違いの嘘ですが。


さて、もう少し『知の実用性』についてアカデミックな議論をするのならば、その友人は、そもそも『知』というサイエンスの体系がどこから生まれたものかちゃんと科学史を押さえているのでしょうか。自己研鑽の為に学生でありながら、専門書ではなく小説や新書では話にならないともうのですが、、、、。そこまで言うのなら英語で原書ぐらい読んでから言え、と僕ならば言うでしょう。えっとですね、科学史の常識として、『サイエンスの体系』は、ヨーロッパの神学の研究から生まれてきました。当時にヨーロッパの一大議論は、


『神はいるかいないか?』


でした。この設問自体が不毛でもっと実用的なことに振り向けるべきだ!という意見は数百年間叫ばれましたが、科学的な発展を望まない中世ヨーロッパの生産システムでは、無視されました。当時の中世は、教会に支配された農奴の世界であって、一番重要なテーマがサルベーション(=神による救済)だったからです。身分が固定化してイノベーションがない、『明日も同じ日常が続く』という世界では、希望は「あの世(=死後)」だけになるからです。

その結果、意味不明なほどの神学の「体系」が作られていきました。議論は精緻化し、その議論自体を論理的にするために、異様に定義や数学までが発達しました。神の存在の証明のために、『星の運行』が計算されたりしました(ガリレオニュートン)。


その結果、、、、あれ、、、、、この数学とか物事を「体系づけるシステム」って、、、、なんか、すごく役に立つっぽくね?と言い出した人が数百年たって現れてきました。


それが産業革命(これもなかった説がいまでは有力だけど)を契機に、さまざまな実用的な分野に振り向けられるようになりました。それはパラダイム(トーマスクーン)が変わったからにすぎません。

それまでえんえん、数百年にわたって、いま『サイエンス』といわれるもの『知の体系』の営みは、無駄なものでずっと「やくにたたないもの」だったということです。


つまりね、何が「役に立つか経たないか?」の議論は、無駄です。現在一見のところ価値がありそうに見えるのは、世の中の基準がそうであるからだけにすぎず、それはいつかわるかわからないのだから。


『知』…勉強は、ようは「質」です。アニメや漫画の分析?それはけっこう。でも、次に聞かれるのは、それが「どこまで」やっていますか?って事です。社会が、周りが、「すげぇぇぇ!!!」といわないならば、それは、ナルシシズム(自己満足)です。知とか、そういうこと言っても意味がありません。自己満足の「遊び」なのですから。


閑話休題


ちなみに、、、、、あと、僕は学生のころに、「そういうことを言われたくないがため」に、だれよりも「勝ち組になろう!」と決めました。その学生は、きっと成績が優秀で実務的に価値があることを尊ぶ人なんでしょう。ならば、そういうやつらを圧倒的な力で蹴散らして、「ゴメーンおれ、マンガ好きなんだわ、意味ないけど!てへっ!」って、笑い飛ばしてやると、絶対に文句が言えません。君がその友人よりも、成績も、社会的ステージも上ならば、君の友人は、そんなこと恥ずかしくて言えないでしょう?。


結論としては、漫画やアニメの分析は、『社会で食っていくこと勝ち抜くこと=実用的なこと』としては、まったく役に立ちません。ちなみに分析好きの僕は、どんなものでも分析します。経済の論文も書きまくりました。会社のマーケティングレポートも無駄に書きまくります。重要なのはアニメ漫画ではなくて、『分析自体(=論理的に世界を再解釈すること)が好きかどうか?』です。僕の分析自身は、仕事でものすごく役に立っています。…そのレベルまでやりつくさなければ、練習としては、役に立ちません。

ただし、『本当に好きであれば』ものすごく面白いです。幸せです。いまそういう仲間に囲まれて、僕は最高に幸せです。仕事で僕は出世街道をひた走って大きな仕事をマネージして誇りをもっていますが、その「幸せと比較しても」決して劣りません。いや、むしろ上かも。また老後、仕事で得た地位や権力は消えていきますが、自分の趣味と友人は生涯死ぬまで消えません。

どっちが勝ちか?。そういう質問はナンセンス。両方求めろ!です。一度しかない人生だもの。

Gaius_Petronius 2010/01/02 10:02
PS 

参さん。一つ付け加えるのならば、自分が「好きなこと」は、動機があるということです。それは継続するといいと思いますよ。それによって、学校の勉強や就職活動などがおそろかになっては馬鹿ですが、「好きな物」は人生に彩りを与えてくれます。そして、「やるならば」、どこまでもやれ!です。「どこまでもやりきって、長期間続けない」のであれば、あまり声高に言わず、同じものが好きな友人とダベっていればいいのです。まぁ、そういうダベりも、ある種の目的意識を持って頑張っていると、けっこういろいろ役に立つものです。趣味だというのならば、ナルシシズム(=自己満足)けっこうじゃないですか!!。ナルシシズムは楽しいのですよ。