『獣の奏者』 上橋菜穂子著 傲慢さを捨てられなかったのは・・・・だれのせい?

獣の奏者 1闘蛇編 (講談社文庫)

SANA 2010/03/06 22:57
こんにちは、ペトロニウス様、はじめまして、HN SANAと申します。いつも興味深くHPを拝見しています。
今回は以前のペトロニウスさんの記事に触発されて、「獣の奏者」を読み、疑問に思った点をお伺いしてみたくメールしました。思いのほか、長くなりましたのでご面倒でしたら、読み飛ばしてください。意味不明な文でもペトロニウスさんへのファンレターの一種であると思って、笑って済ませていただければ幸いです。また、以下の疑問は作品が素晴らしいと思うからこそ出てきたものだと思ってください。そして、答えを強要するものではありません。
1、 闘蛇編・王獣編に関して
「知りつくすことは支配につながらないか。」
 前半の2巻でのエリンは王獣を知りたいという気持ちに突き動かされていますが、どこか知ることがいつかできるという気持ちが透けて見える気がする。しかし、相手をすべて知ることができたら、それは支配することに近いのではないだろうか。そして、作者はそのことに無自覚である気がする。子供向けということを勘定に入れても、1・2巻の自然描写には人間を圧倒するものという感覚が欠けている。「圧倒された」「美しさに魅せられた」とはあったようだが、自らよりも絶対的に圧倒的であり、それが故に手を伸ばす印象は受けない。例えば『風の谷のナウシカ』の王蟲の登場シーンや『蟲師』の蟲の描写(なんだかマンガが先に出てきてしまいました。)または『ゲド戦記』の2巻闇の描写などと比較すれば明らかであると思う。そこには、どこか全て知ることができるという気持ちがないだろうか。それは、支配と紙一重である。(尚、実はアニメ版の方を先に見たのでアニメではそのあたりを良く補っていたと思う。特に自然描写に対して。)

2、 探求編・完結編に対して
「別の道へ―エリンはプライドを捨てられなかったのではないか。」
 エリンは自分の信念に従って、厳しすぎる現実と折り合いをつけ、家族を大切にし、必死に生きている。それは素晴らしいことなのだが、どこか息苦しさを感じる。
 エリンは非常な努力と探求心を持っている。しかし、その努力は自らが積み上げたプライドや恨みを捨てて「霧の民」に教えを請う、という形にはならなかったのだろうか。ナソンは明らかにエリンにある程度の好意を持って接していたので、王獣が闘蛇とぶつかるときにどうなるか、くらいは教えてくれたように思う。それができなかったのは母のことでの恨みが大きかったのが一番だと思う。しかし、どこか自分が明らかにできると考えていたのではないか。しかし、本当に何が何でも知りたいのなら、プライドや恨みを捨てて頼むという手段もあり得たのではないか。いざという時に高く買ってもらえるよう普段から誇り高くいるのではだめなのだろうか。そして、それまでエリンは誰もが認めるほど必死にやっていた。ストーカーをしているナソンにはより明らかだったろう。そこで、頭を下げていたら、違う道があったのではないか。
終わりに
 2点、疑問をあげましたが、この小説に感銘を受けたためです。好きな場面をあげればきりがありませんが、特にエピローグと後書きに感動しました。エピローグではエリンの行いを全肯定するのではなくジェシの新たな考えを描くことで、希望と、愛情を同時に感じました。後書きで、ますます次回作が楽しみになるという初めての経験をしています。これほど真摯に児童文学を書き、更に向上しようとしている作者の姿勢に次回作も必ず買うつもりでいます。
 この本を紹介してくださったペトロニウスさんに感謝を。また、この長いメールをもし最後まで読んでくださっていたらそのことにも感謝です。
SANA


SANAさん

真摯な長文のメールありがとうございます。

ええ、、、まさに、その通りだと思います。上記の2点は、この作品のエリンの「気真面目さ」、、、そして「すべて一人で解決してしまおうとする傲慢さ」が生み出しているんだとおもます。エリンは、非常にエレガント(=傲慢な)な人間です。その根源は、「他者に虐げられてきたという恨み(=だれも助けてくれなかった・母親と祖父に捨てられた)」と「知識によって世界おすべて明らかにしようとする強い意志(=それはおっしゃる通り支配欲)」の2点だと思います。


知識に凄くよってしまい孤独なのは、この作者が、学者であって、組織の悲哀の中で生きたことがないからではないかな、という気がします。組織の中で生きると、一人では何もできない無力感と、分業によって世界を全く違うアプローチで変えていけるわくわく感が同時に存在することになりますから・・・。全ての作品の主人公に「組織では生きていかないという孤独癖」を感じます。アウトサイダーを描きたいのでしょうが、これほどマイノリティの気持ちを描けるのだから、逆に、支配者の、組織で生きるしかなかった人間の悲哀や夢も同時に描いてほしいと思うんですよ。それに、案外と、、、素晴らしい自然を描いておきながら、自然に対する畏敬の念が少ないというのも、実はその通りだと思うんです。これもやっぱり、「自然を知識によって分解して理解できる」という科学主義的なデュアリズム(二元論)の深く染み付いた視点が(作者は文化人類学者ですからね)、特にエリンというキャラクターの視点によってフレームアップされすぎているんだと思います。


この作品のエリンは、どうしても、オルタナティヴ(=もう一つの選択肢)を考える余裕に欠けるんです。


だから、一介の捨てられる科学者(技術者)に過ぎず、本当の為政者としての視点も、より人間として独立した存在にまで至れなかったような気がする。。。最初の感想で、この国・・・この国家の在り方も、非常に孤高を保っており、「同盟」という観念が抜け落ちている・・・という指摘をした気がします。国としても、他の国家と交わっていくダイナミズムの中で、さまざまな解決方法を目指すということを忌避し、純粋性を保とうとしている・・・僕は、永野護さんの『ファイブスター物語』のアマテラスの帝がコーラスに語った言葉?だったかを思い出しました、、、「自国を誇り高く思う気持ちは大切だ、、、けれども、その気持ちが強すぎると得てして、他国の人間や文化を低く見下すようになっていく・・・」。これはエリンというよりは、この国家に対して思った気持です。

もちろん僕も素晴らしい小説だと思っています。そして、たぶん「ここで描かれるテーマの本質」を追求したらこの欠点は、欠点ではなく、そうとしか生きられなかったやるせなさになるんだと思うのですが・・・素晴らしい小説で世界が広がっているだけに、なぜ、、、という気持ちは僕も残ります。

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