その先の物語。

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魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」

これなんだが・・・・昨日友人と話していて、やっぱり凄い作品だな、と確認し合った。というのは、この作品は、僕がずっと見たいと言っている「その先の物語」の一つの類型なんだな、ということが分かってきたからだ。

並行世界・・・・それは、ようは、人の内面の中で、人が決断にいたる物語であって、言い換えれば、それは、「世界」ではなくて、人の心の中に閉じ込められたナルシシズムの世界だった、ということだ。けれども、この作品は違う。たしかに並行世界として確実の、世界を見渡せる箱庭として設計していながら、この世界は、ちゃんと「世界」として成立している。ここは誰かの心の中ではないからだ。まず「その先の物語」の前提は、その世界が内面世界をメインとした話はなく、いいかえると叙情詩ではなく叙事詩的な構造をとる群像劇、とまでは言わないけれども、多人数の視点が独立して存在する「世界」としての性格を備えるようだ。もちろん近代小説以降のものは、内面の一人称的視点や、内面の発見を無視できないとは思うのだが、どうもこういう構造をとらないと、すぐに一人称視点の世界に回収されてしまいやすいようなのだ。


もう一つ。この物語は、3ヶ月くらいで即興に近い形で書いたとは正直いって信じられないほどに、構造的に完璧な論理構造を備えている。特に何よりも、この作品は『終わり』から始まっているという特徴をもっている。『終わり』というのは、勇者と魔王のシステムにとっては、彼らが「出会う」ことに寄¥よってこの世界は終えんを迎えるわけだし、システ(物語内のルールね)でなくても物語としても、勇者(=善)と魔王(=悪)の最終決戦、最終の二元的対立というドラマトゥルギーの頂点「から」始まるんだ。言い換えれば物語的には、エネルギーはどんどん下がっていく方向に動くはず。読者にとっては、頂点(=終わり)から物語が始まるという、本来ならば肩透かしの演出を行っている。


そのことは、魔王が勇者との出会いの後に最初にやることが「ジャガイモを植えて生産力をあげる」という異様に地味なことであることからもわかる。


これは、たとえば、物語で世界をいきなり良くしよう!とか、最終的に行きついた「世界を良くしていくこと」が、いかに地味で難しいものかを、、、、それを物語ると思うのだ。これは僕ら経済学を学んだものでは良くわかる発想だ。近代以降の大規模な社会においては、マクロが非常に複雑に織りなされており、「何が正しいことか?」ということは非常に曖昧模糊としてしまう。それは、「善きこと」が必ずしも正しい結果に結びつかないという、非常に偶発性に溢れたのが現代という空間だからだ。

そして、魔王はこのことを良く見通している。生産力をあげれば、戦争の可能性が高まること、、、、「その次の世界」を見ようとする彼女の行為が、より大きな血を、、、このまま世界が並行政界の箱庭として安定的に回るよりも、もっともっと大きい血を呼ぶこと、、、「進歩」がいかに世界を血で汚すかに自覚的(=再帰的)だ。そして、それをわかりきった上で、それでも「その先が見たい」と彼女は願う。

そして願うだけではなく、「行動」に移す。その行動が、ジャガイモの育成方法を広げていくという、教育や啓蒙になるところが・・・・いや素晴らしいとしか言いようがない。

こんな普通に描くと地味でつまらなくなってしまう話を、「歴史」に作り上げていくところは、、、素晴らしいとしか言いようがない。友人がいっていたが、この次の仕組みは「歴史」に接続するしか類型はないのかもしれない・・・。