魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」 ママレードサンド(橙乃ままれ)著  その先の物語〜次世代の物語類型のテンプレート (1)

まおゆう魔王勇者 1「この我のものとなれ、勇者よ」「断る!」


■エンターテイメントの基本となる物語の展開テンプレート


ママレードサンドさんによるネット小説。これほどの作品に出会えたことは、本当にうれしいです。

布教活動としては以下のサイトで、かなり広範にしていただけているので、僕は「読んでいる」という前提で、細かい解説(=僕がどのように読んだか)をしてみたいと思います。


そして数頁、あるいは数十頁をめくった時点で、あなたは遂に確信する。この作品は「違う」。じぶんの本棚にならぶほかの99%の本とは決定的に異なる種類の代物だ、と。あなたは舌なめずりしながら呟くだろう。こいつは、凄いぞ。


泣けるほどおもしろすぎるネット小説を読んだので熱烈推薦するよ。 - Something Orange
http://d.hatena.ne.jp/kaien/20100423/p2

 で、ぼくは実は全体の半分くらいまでしか読んでいないのですが、その時点でもこれが傑作であることが確信できます。

 それも、若い時分に読んでいれば、確実に人生を変えることのできるレベルの超傑作です。

 読みながら「この作者は、いったいなにものなのだろう」と、何度も思わされました。


人生を変えることのできる物語/魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」 - ピアノ・ファイア

http://d.hatena.ne.jp/izumino/20100422/p1


君の知らない魔王と勇者の物語 敷居の先住民
http://d.hatena.ne.jp/sikii_j/20100427/p1


魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」〜「先の物語」という意味(その1)
今何処(今の話の何処が面白いのかというと…)
http://www.tsphinx.net/manken/ ←ここでマンガアニメの感想サイトやってます。
http://www.tsphinx.net/manken/index.html


とにかく、大絶賛ですね。


さて、この小説を読み進めている時に、おおーと思った点で一番大きいのは、昨今の物語を作る時の、ドラマツゥルギー(=物語を動かす力)の展開が見事なまでに凝縮されているなぁと思ったことです。えっともう少し噛み砕いて言うと、現代の物語を作る時に、物語世界で「疑問に思うであろうこと」を、ほとんどすべて答えてしまっているんですね。会話だけで進む形式なので、

戯曲のような印象なんで、本来は込められる情報が圧縮されて少ないはずなんですが、ビックリするぐらい複雑な問題提起を、シンプルに、物語のダイナミズムを損なわない形で、すべて答えているんです。凄い才能です。いずみのさんもおっしゃっていましたが、いったい何をしている人なんだろう?作者は、と思います。少なくとも、経済に関してはかなり勉強をしたことがあるはずだし、個人的な印象から組織で働いた経験が長いと思います。でないと、こういうような描写は書けないもの。


奴隷解放に関するマクロを初めて語った田中芳樹アルスラーン戦記


もう少し具体的に敷衍してみましょう。ドラマツゥルギー(=物語を動かす力)の展開って、ことに関して、僕が思いついたのは、『アルスラーン戦記』を書いた田中芳樹さんを思い浮かべていました。

えっとあの話がずれますが、まさか、このエンターテイメントの傑作を読んだこと無いって言う人、少なくとも僕のブログの読者にいないですよね・・・・?(汗)。どうも読者層が低くなっている傾向があるようなので、一応推薦しておきますと、読んでないと人生の損と思えるほど面白いので、ぜひ読んでください。デヴァマント山(うろ覚え)で、「我らがシャーオ(=王)よ」と呼びかけられるアルスラーンのシーンは、胸に焼き付いています。

王都炎上・王子二人 ―アルスラーン戦記(1)(2) (カッパ・ノベルス)
王都炎上・王子二人 ―アルスラーン戦記(1)(2) (カッパ・ノベルス)


アルスラーン戦記』は、希代の名君となるアルスラーンが、王子から王になるまでを描いているのが第一部なんですが、この心やさしい少年は、奴隷を解放するんですよね。それゆえに、後世から解放王アルスラーンと呼ばれるようになります。けど、この奴隷を解放した直後、解放された奴隷にアルスラーンは、手ひどくなじられるんですよ。「自分に優しかった主人を奪った!」といってね。僕は、中学のころだったか小学生のころ読んだのですが、これはものすごくはっきり覚えているシーンです。

奴隷を解放するという、善意の行為が、けっして相手に喜ばれない、国家の政策としても非常に危険で危ないものであるということがはっきり示されたことだから、マクロ好きの僕には、衝撃を感じたんだと思います。ああ、これは「正しい」描写だって。

これは、アルスラーンの参謀であり軍師であったナルサスが、「善意によるアクション」が、「思いもよらない拒否や嫌悪」にあったり「全体としては非常に悪い効果を及ぼす」ということを、肌でわからせようとしたために発生したシーンなんです。奴隷制度を嫌い、自由を尊ぶ(=今の僕らの価値感に近い)ことが、他の歴史の世界や「異なる社会制度にある社会」では、必ずしも簡単に受け入れられないことを、言い換えれば、マクロの次元での「正しさ」と、ミクロの次元の「思いつきの善意」は両立しないことを、示しているんですね。経済学でいう合成の誤謬のような、マクロの概念への、導入のエピソードなんです。

田中芳樹さんは、学習院の歴史科を出た中国史に造詣の深い人で、歴史を勉強する人が持つマクロの視点を強く持っているが故に、彼の作品には、そういう歴史的な視野の広い視点から世界を眺めるというスタンスが多く、この異世界ファンタジーにも、そういった知見がよく描かれています。

この後、アルスラーン奴隷解放は、中規模の自立農民の育成という国策になり、門閥貴族制度に対しての重要なバランサーとして機能する「政治」となっていきます。「そこまで」考えなければ、われわれが当たり前に思っている感覚は、現実にできないのです(ほんとはこれでも足りない・・・)。いいかえれば、中世風の社会制度を前提としたファンタジーにおいて、奴隷や農奴、階級、貴族制度という概念について深い知見がなければ、なかなか、「ああ、なるほど」と思えるような世界を再現することは難しいのです。もちろん、それなしでも「物語ること」はできます。基本的にエンターテイメントは、中学、高校生などの「子供向け」のマーケットであるから、もしくは「民衆」に膾炙するような次元のものなので、そこまで専門的に難しく考える必要はなく、スカッとかっこいい勇者とか善とかを描けばいいとは思います。


けど、読者にも作り手にも「慣れ」があります。やはり物語世界は、「もう一つの別の世界」として構築されているわけで、いろいろなモノを読んだり、ジャンルが複雑化すると、「またそのワンパターンか」と思うようになるし、なによりも、読者も作中のキャラクターたちも、「あれ?これじゃーおかしくね?」と疑問を持つようになります。


そうなった時に、奴隷を解放する、というのは英雄譚としてはとてもスカッとするファンタジーの類型なので、よく使われるんですが、「このテーマ(=ドラマツゥルギー)」を選んだ時には、当然上記のアルスラーン戦記ぐらいのマクロの射程が考えたうえでやっているんだよね?ということが、必要となってくるんです。読者の目が肥えて、そういう物を入れないと「納得」しないからなんですね。


けど、そんな奴隷を解放することがうまくいかなかった歴史なんて、歴史書や専門書を読めば、めちゃくちゃ書いてあるじゃないですか?。アメリカの奴隷解放も、実際は経済の要請から生まれたものですよね。南部の奴隷を使って綿花栽培する農本主義的な経済体制を、北部の資本主義経済(工業化)に取り入れるために、その労働力を奪うために、北部が行った政策であって、理念だけでは成り立たなかったものです。またその証左として、公民権運動が実施されるまで、結局は、奴隷制度(に近い差別システム)は事実上なくなりませんでした。

実験国家アメリカの履歴書―社会・文化・歴史にみる統合と多元化の軌跡
実験国家アメリカの履歴書―社会・文化・歴史にみる統合と多元化の軌跡


けど、だれもそういう物をあまりうまく、ファンタジーとか物語に取り入れられないんですよね。理由は簡単、それは難しすぎるんです。マクロの話は、そもそも理解できる人が少ないし、興味もありません。エンターテイメントの業界の市場は、「そういう小難しいことを拒否して癒されて快楽に浸りたい」が為にあるのがその根本ですから、さらに必要ないものです。けれど、時々、そういったモノとエンターテイメントとを見事に融合させるエピソードを作る人がいて、且つそれがベストセラーや「モノを作る人の原体験」になってしまったりすると、後世の作品が、「それを前提」にしてしまう現象が起きるんですね。

実際、僕が中学生のころは、奴隷解放に伴うこのような「解放した奴隷から拒否され嫌われる」、つまりそれは、教育制度が成り立っていないからだし、解放すれば当然既存の階級制度や貴族社会からの大規模な反発が予想されるし、また生産規模(食料)自体を必要とするので生産力の向上や農耕の改善が見込まれなければ、その解放した奴隷を使って他国の土地を奪いに侵略するしかなくなる、、、、というマクロの動的メカニズムを理解して書かれている、エンターテイメントの物語は存在しませんでした。そこまで描かれているとなると、司馬遷司馬遼太郎のような歴史モノとかの小説になってしまいます。ライトノベルのカテゴリーに入るような、漫画、アニメそういった領域では、なかなか目にすることができないものでした。歴史小説ですら、この領域に達している、もしくはこの部分を重要視して描く作家というのは稀でした。


けれども、昨今のファンタジーを読むと、「このこと」は当たり前のように描かれるようになってきました。よくよく読んでいると、必ずしも「マクロの背景やメカニズム」を理解して書いているというよりも、「そういうテンプレート(=お約束)」だからという使い方がされているようです。時々、申し訳ないが、非常に若い人が作っているファンタジーの読み切りやなどの作品を見ると、こんなおままごとのような「組織」や「国家」なんてありえないよ、と大抵は思うのですが、そういうものでさえ、どれを解放しようとすると、上記のお約束が出てくるのです。ああ、これって、『アルスラーン戦記』のエピソードが、あまりに広がったために、物語の作り手に激甚な影響を与えたんだなーと、時々感慨を感じます。僕は、そのころからずーーーーっと、さまざまな作品を好きで読み続けているんですが、田中芳樹以前以後で、かなりエンターテイメントの「書き方」が変わった気がします。もちろん最も巨大な影響は『銀河英雄伝説』でしょうね。

銀河英雄伝説 1 黎明編 (創元SF文庫)
銀河英雄伝説 1 黎明編 (創元SF文庫)


さて、こういうテンプレートをこれをある種の前提にしてしまうと、物語世界を描くための、物語世界内部の自立的マクロメカニズムが非常に複雑になるんですね。逆に言うと、これを前提に描けば、特に説明もなく、かなり「その先の物語の展開」が描けるようになります。また、「書いてしまったら書いてしまった」で、なぜそういうことになるのか?そういうことをしなければならないのか?ということをキャラクターたちが考えてしまうので、つまり物語の中にある内在性に引っ張られてしまうと思うんですが、それによって物語の深みが非常に増します。もちろん語る力がない人は、そもそも話にならないんですが、語る力がある人が書くと、思いっきり、その展開から深みを引き出すことが可能になるんです。


僕は、こういう「ある種のエピソード」が登場したことによって、その後の作品に、バンバン流用されるような類型の作品を、物語のテンプレートと呼んでいます(さっき決めた(笑))。



そして、この『まおゆう』は、これまでいろいろ単品であった物語類型のこれでもかというオンパレードで、こういうファンタジーで別世界を描いたものが、確固とした世界となってゆき、『風雲児たち』のような歴史群像劇になっていく過程で必要とされるドラマツゥルギーがほとんどすべて揃っている。

風雲児たち (1) (SPコミックス)
風雲児たち (1) (SPコミックス)


あるキャラを出したら、もしくはある設定を作ったら、「そこまでいかなきゃ正しくない!」と思えるような、いま考えられる最終地点まで、ほとんどすべてが到達している。いや、「ほとんど」はいらないと思う。事実、すべてが「今まで描かれていたもの先を見据えて、到達している」と言っていいと思う。


たとえば、この奴隷制度に対する問題は、実は、ただ単に教育の問題だけではありません。奴隷を解放した場合の、生産性の問題(それが上がらなければ戦争で領土を奪うだけしかできない)だけでもありません。一番重要なのは、「自由」の概念が、存立するかどうかという問題です。いままでかけらも見たことがなかった、、エンタメであったとすれば、おがきちかさんの『ランドリオール』に片鱗が見えるだけの、、自由という概念が、ほとんどただの萌え用のわき役としか思えなかった、メイド姉が、自分の存在意義を見つけて、その役割にコミットしていくエピソードは、震えが来るほどでした。この話は、別途個別論で語りたいと思います。


Landreaall (14) (IDコミックス ZERO-SUMコミックス)
Landreaall (14) (IDコミックス ZERO-SUMコミックス)


■“英雄譚”に対する「先の物語」〜善悪二元論を超えたその先を描くこと


王弟元帥や青年商人らのキャラクターの個別論を別途追うつもりではあるんですが、まず大枠で、何が凄いと思っているのかの全体像を書いてみます。

これまでマンガ〜アニメ〜ゲームの“おたく界隈”で追われてきた“英雄譚”に対する「先の物語」を描いているという意味でも興味深く、感じ入るものがありました。そこには僕が物語に対して、ずっと追ってきた事に対する様々な角度の回答がいくつも散りばめられて描かれていました。


今何処(今の話の何処が面白いのかというと…)
http://www.tsphinx.net/manken/ ←ここでマンガアニメの感想サイトやってます。

http://www.tsphinx.net/manken/index.html

僕も、LDさんと同じく、読んでいる時に、『マンガ〜アニメ〜ゲームの“おたく界隈”で追われてきた“英雄譚”に対する「先の物語」』がはっきり描かれていることに、心底驚いたんです。そして、すべでの「出してしまったら」ちゃんと結末つけないとおかしいよねという大きな問題提起、たとえば、インターナショナリズムを目指した王弟元帥や、商取引と金融で世界に新しい次元をもたらそうとした「青年商人」のエピソード、キャラクターは、はっきりとそのすべての枝葉のエピソード回収し、結末までもっていきながら、しかも「最も根本の」善悪二元論の果てにある英雄とは何か?という究極の「物語への問い」に収斂されていくのです。読んでいて、信じられないっ!という興奮と寒気が何度も走りました。

二元論の超克〜三国志のパワーポリテクス/数字は2よりも3がすごい!
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100429/p2

善悪二元論で物語を読む
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100429/p1

僕がブログをやったり物語を考えたりする上で、あまりに前提で、ここ何年も語りすぎててもう最初のスタート地点をなかなか説明しなくなってしまっているんですが、上記のカテゴリーの発想が初め理の原点です。僕は、理想の物語のとしていつも三国志を思い浮かべるのですが、それはなぜなんだろう?と子どものころから思っていました。この時の答えは、善と悪を分けるドラマツゥルギーに慣れ切っていた僕らの子供時代、、、僕ら団塊の世代Jr(今の40-30歳代)の時代は、アメリカを中心とした自由主義諸国による西側陣営と、ソビエト共産党を中心とした東側陣営の善と悪の戦いの真っ最中で、情報も教育も色濃くこれに反映されていました。その中で、はっきりと善と悪による二元論を超えた物語類型が、三国志だったからなんですね。


しかし時代は西と東に二分して人々を動員する時代。その現実を色濃く反映して、かつエンターテイメントとしてはアメリカのハリウッドの影響が色濃く、善と悪の二元的対立「を」スタート地点とする作品が巷にあふれました。もちろん、悪を倒す善という少年漫画はスかっとして面白く、感情移入もしやすいです。その善が、アメリ自由主義でもし冷えと共産党でもどっちでもいい。・・・けれども、ベトナム戦争、クメールルージュ、ソビエト帝国主義などなどと、世の中は単純に善と悪で割り切れない、という現実が世の中を覆うようになっていきます。そうすると、エンターテイメントでも、それを反映して苦しむわけですね。そのへんを強烈に打ち出したのが、富野由悠季監督ですね。LDさんの言うように、「海のトリトン」(1972年制作)や「伝説巨神イデオン」(1980年制作)などは、自分の身を守る行為さえ悪だ!というような、強烈な善悪二元論への行き詰まり、閉塞感を表しています。

けど、いままでどんないい作品も、『海のトリトン』も『ザンボット3』もガンダムシリーズも、たいていは、下記の「戦って、戦って、その果てに何があるのか?」という境地に、物語の最後に辿り着くのがこれまでの物語だったんですね。えっと、つまりこの疑問を「発する」のが物語の終わりの地点だったんです。戦って、戦って、、、、というか手がまず先に来るのですね。

無敵超人ザンボット3 DVDメモリアルボックス
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海のトリトン DVD-BOX
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伝説巨神イデオン 接触篇/発動篇 【劇場版】 [DVD]
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LDさんの記事を引用してみましょう。

■戦いの果てにあるもの

勇者「だって、おれ。壊したり殺したりするばっかりで何にも作ってないじゃんね」

勇者「他人に見せられるような作品なんて一個も作ってないじゃんね」

勇者「だからさ」

勇者「だからもう、やめろよっ俺には微塵も云えた義理はないけどっ。壊したり殺したり、それで何かが達成出来たり偉いと思ったりするのさっ!!」



(「魔王『この我のものとなれ、勇者よ』勇者『断る!』」4スレ目より)

…(他にもいろいろありますが)このセリフとか抜き出している時点で、僕はポロポロ泣けてしまうんですけど(泣)でも、ここだけ抜き出しても今読んだ人は、どっかで聞いたような、セリフだと思ってしまうんじゃないでしょうか?だから、その背景を説明しなくてはならないですね。この物語〜「魔王x勇者」に僕がどうして圧倒されたか?という話をする為に、まず、それまでの(日本のおたく界隈の中で)“英雄譚”〜“ヒーロー”というものがどのように描かれてきたのかを書いて行こうと思います。


そもそも、この勇者が辿り着いた境地。これ自体は何ら革新的なものではありません。正義のため、世界を救うため、戦って、戦って、戦い抜いたその先には結局何にも残らなかった…という物語は遙か昔からあります。


いや、日本の歴史的に見れば、敗戦の時、それまでは日清、日露から太平洋戦争の緒戦まで、勝った勝った、まだ領土が増えたと浮かれていたけど、それが“正しい事!”と思っていたけど、敗けてみたら、終わってみたら、ただただ虚しいだけだった…という“物語”からはじまっているかもしれないです。……おたく的に言えばアニメ・ブームの火付け役となった「宇宙戦艦ヤマト」(1974年制作)の時点でも、それは言及されている。

そう、この境地は珍しいものではなく、物語の善と悪を描いていく果てには、ここに到達してしまう物なのです。


さて、『まおゆう』に戻ります。



最初の第一話が、「どこ」から始まっているかを見ると、それだけで驚嘆します。


この物語のタイトルは、そもそも2ちゃんのスレタイですね。



魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」 


えっと、なんで驚嘆するかわかりますよね。そうです、、、ドラゴンクエストも善と悪の対立という80年代の時代背景を色濃く残している、且つ、エンターテイメントの基本に忠実な勇者が魔王という悪を倒すという善悪二元論に基づいた勧善懲悪の物語です。


そして、上記のシーンは、そのラストシーンなのです。



えっ???、物語が「そこ」から始まっちゃうわけですか?ってことですよ。ネタ的には、こういう作品は沢山ある気がします。だれでも思いつきますから。けど、このママレードサンドさんが、物凄かったのは、ここからスタートすることの意味を深く理解して、それに対して答えきっちゃったということです。富野由悠季監督が、もう考え抜いて到達した最後に地点、そこで発せられる「問い」、それに見事にこたえているんですよ。作品すべてでもって。


善悪二元論の記事を書いたときは、ガンダムSEEDを見た時に書いたものでした。二元的対立を克服するには、多国間政治による均衡主義をとらなければならなず、設定をそこまで描きながら、結局混乱したままあの索引は終わってしまいました。それは、「はっきりとした答え」がないままに、「問いの設定」だけで物語を走らせているので、「ようは今の現実ってこうだよね」というので終わってしまっているんです。だからキャラクターが「こんなんじゃだめだ!」と疑問ばかり発して、「その先」に何をするのかという行動がないんです。究極的には、駄々をこねているだけになってしまう。


しかしこの『まおゆう』の主人公である、魔王(学究肌の巨乳の女性)と勇者(天然バカの童貞くん)の二人は、最初の最初から、「この善悪二元論の果て」にある、「その丘の向こう」を、見据えているんです。その見据えて、残りの命をすべてそこにかけるという契約が、この第1スレッド目なんです。


「『あの丘の向こうに何があるんだろう?』って思ったことはないかい? 『この船の向かう先には何があるんだろう?』ってワクワクした覚えは?」


そう、、、その後、この二人が、どんな思いで「ここ」に行き着いたかも、物凄く背景があって、辿り着いたことが長大な物語を読んでいくとわかってきます。特に勇者は、素晴らしい。

『RETAKE』『ねぎまる』ドラゴンクエストの同人誌など  きみまる著  この腐った世界で、汚れても戦い抜け。楽園に安住することは人として間違っている
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100309/p1


このきみまるさんのドラゴンクエストの同人誌があまりに素晴らしくて、それを友人に薦めたところ、彼も凄い気にいってくれて、それで検索をかけてていてこのまおゆうを見つけて紹介し返してくれたのが僕が知ったきっかけでした。この流れは、文脈的にもよくわかるものでした。というのは、きみまるさんの描いた勇者というのは、このママレードサンドさんの描く勇者と物凄く重なる原体験をもっているからなんです。

Landreaall 15 (IDコミックス ZERO-SUMコミックス)
Landreaall 15 (IDコミックス ZERO-SUMコミックス)

ランドリオール』10巻 セリフに凝縮された深み(・・深すぎる(笑))
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100429/p3


ママレードサンドさんのこの作品は、「勇者」という役割が出てくるだけで、固有名詞の名前はありません。そのへんはそうしたのが設計なのか、何となく流れなのかはわかりません。しかし、このことが物語後半で、凄まじい意味を持ってきたとき、僕は腰が抜けそうでした。えっと、これは「役割」を巡る議論なんですが、それがどういうふうに考えられてきたかは、上記のランドリオールの10巻の分析をした時にかなり丁寧に書いているので、ぜひ読んでみてください。僕の文章にしては論旨ぽ一本出し、わかりやすいと思います。いろんな議論の前提になっているので、読み込んでおいてくれると、僕が何を言わんとしているかが分かりやすいと思います。

えっとね、このドラゴンクエストの勇者ってのも、世界を守るための生贄に供された個人なんですよ。いってみれば、いまの世代ならばエヴァンゲリオンのシンジくんと云えばわかりやすいかなぁ。ようは人類を守るために、そこの住んでいる人が本来等分に引き受けなきゃいけない責任を、なまじ才能があるもんだから、すべて押し付けられて世界を守るための生贄になってしまったんですよ。そして、それは仕方がないことでもあるんです。人から隔絶した才能には、それに見合った要求を世界から突き付けられるものなんです。それほどに勇者の戦闘力は高すぎた。。。。単身で魔王を内に行って、殺されるのを期待されるほどに、、、。


きみまるさんのドラゴンクエストの勇者も子ども時代から、狂った母親に、世界を救え、おまえは勇者だと、、、、「その役割」以外を一切見ないで、、、いいかえれば、勇者という個人を見ること無く、役割だけを強制されて育てられます。いつしか勇者の心は死んでしまって、巨大なマクロの戦闘マシーンと化していきます。その勇者を支えたのは、一瞬だけ、彼に彼自身を見てくれることを思い来させてくれた女の子の存在でした…。けど、彼女は、その勇者の役に立とうと頑張りすぎて、、、、戦闘の才能がなかった彼女は商人として町を建設して、、、そしてやりすぎて、住民の反発によって革命にあって、恨みを買った町の人々から徹底的に復讐されることになりました・・・・。けど、そのおかげでオーブを手に入れた勇者は、、、世界を救うために、彼女を、、自分を唯一見ってくれた彼女を見据えてて世界を救う戦闘向かいます・・・。まぁこの辺は、ぜひ手に入れて読んでもらえば、すげぇとうなりますよ。


えっと、しかしこの「役割論からの反発」たしかに、勇者というキャラクターを通して、ママレードサンドさんは、見事に描いています。才能があるものは、それでも、義務にコミットしていくのです。なぜならば、もってしまった才能の出口がないことは、それも悲劇だからです。それがいかに悲しい役割であったとしても、人類のために、、、全体のために個が犠牲になるというものであっても、、、。


しかしながら、これは次の議論に譲りますが、そこにメイド姉という、名もなき端役としか思えなかった萌え要因のわき役が、、、、なんの力もない奴隷出身の少女がクローズアップされていくのです。ここのからのからみは、、、くはーーーヤバいっすよ。



閑話休題



なんか話が混乱してきた。



まずは全体のアウトラインを描く話だったな・・・。えーとですね。そうそうそこに戻りましょう。この作品は、1スレッド目が、明らかにアイディア勝負だなと感じさせる視点が投入されています。本当の面白さは、そこを超えないとわからないと思いますが、「そこ」のポイントが、全作品を規定するキングス弁なんです。


それは、上記でいった善悪二元論をどう超えるか?。通常は、その告発で終わる物語が今までだったのに対して、この作品は、終わりから始まっている物語なんです。


最初の問題は、善と悪が戦って、その究極ラスボスである魔王、そして善側の切り札である勇者が、戦って、本当に平和が訪れるのか?という問いです。この魔王は、学者出身の人で、それも、、明らかに経済学者(笑)で、勇者に「自分のものになれ」と言った背景を説明します。


なぜ戦争が起きるのか?


もし勇者と魔王もしくは魔族と人類のどちらかが「勝った」場合何が起きるか?


「豊かさ」とはどういうことか?


なぜ戦争が始まってからの方が、人類の人口が上昇し始めたのか?


魔王軍を攻めるべきは軍隊のはずなのに、なぜ勇者などという個人が単独で、暗殺者のようにこなければならなかったのか?


などなど勇者が単純に信じていたことをすべて、わかりやすく、こなごなに打ち砕いていきます。


そして、有名なセリフ「世界の半分をやろう」という交渉は、上記の背景説明からして、意味がないセリフだと切り捨てて、交渉の代償として「自分を捧げよう」と言います。巨乳のかわいい女の子なんですが、そのへんが、いいねー設定として(笑)、、、、でもこの意味はもう少し深い。「わたしは家計簿がつけられることがうまいぞ!」とか誤魔化しているが、これは、「あの丘の向こう」を見るために支払わなければならない代償、その罪をすべてあなたと共に分かち合いたいんだ、という意味です。


これはつまり、この「世界」が、ある種の「魔王と勇者」という対立のシステムで、バランスがとれている中世世界であって、生産力や技術の問題、政治システムのレベル低さなどいくつかのボトルネックがあって、「世界が動的に止まっている」社会なんだということを説明しています。

魔王「勇者がどーシテもと云うなら、ちゃんと戦ってやる」
勇者「っ」
魔王「話によっては、討たれてやっても良い」
勇者「その首差し出せ」
魔王「だから、半日ほど話を聞け」
勇者「……」

魔王「これは100年ぶりのチャンスなのだ」

18 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2009/09/03(木) 17:11:55.79 id:s4r1gUtjP
勇者「良いだろう、話せ」
魔王「じゃぁ、説明する。手元の資料の一ページ目を」

ぺらっ

勇者「表だ」
魔王「グラフというのだ。……これは中央大陸のこの
 50年の消費量と景気を可視化したものだ」
勇者「……え」

魔王「気がついたように、我らが戦争を始めた15年前
 から中央大陸の景気は上昇局面に入った」
勇者「……嘘だっ」

魔王「嘘ではない。2ページ目を見るが良い。
 こちらには各種統計資料が添付されている」

勇者「戦争で数多くの死者が……」

魔王「戦争を始めてから人間世界の人口は順調に増加を始
 めている」
勇者「そんなのは理屈で考えておかしいだろうっ。
 戦争で人が死ぬことはあっても、人が増える道理など
 あるものかっ」

19 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2009/09/03(木) 17:15:50.07 id:s4r1gUtjP
魔王「まぁ、一般解はそうだな。
 しかし、この世界における戦前の常識では違う。
 戦前の――まぁ、この戦前は数百年続いたわけだが
 世界では、人間の死因は疫病と飢餓だったのだ」

勇者「……」

魔王「この二つは非常に強大な敵で
 人間はこの二つを結局500年以上克服できなかった。
 人口は増えるどころか、時に疫病が猛威を振るい
 国単位で滅亡することも少なくなかった」

勇者「疫病も飢餓も人間には御し得ないものだ。
 神が人間に与えた試練と行ってもいい。
 魔族の侵略と一緒にするなっ!」

魔王「まぁ、降りかかるについてはそうかも知れないな。
 しかし、だから克服できないとか、克服してはいけないと
 いうものでもなかろう?」

勇者「それは……」

22 :以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします :2009/09/03(木) 17:23:52.82 id:s4r1gUtjP
魔王「現に戦争が開始されてからこれら二つの
 原因にする死者は30%まで低下した」

勇者「理由は? ……なぜ?  魔族の暴威を見かねた神の恩寵か」

魔王「私は結構長生きしてるが、神など見たことはないよ。
 理由は明白だ。最大の原因は中央大陸危機会議の設立だよ」

勇者「……?」

魔王「つまり、魔族との戦争に対して、人間の王国
 連合を組んだからだ」
勇者「それで、なぜ死者が減るんだ……?」

魔王「食料の多い国が少ない国へ送ったり、医療の
 進歩した国や農業技術の進歩した国が指導を行なった
 からだな」

勇者「それこそ人間の手柄じゃないかっ!」

魔王「その程度のことも魔族と喧嘩しなければ
 実行できない人間が大きな事を言ってはいけないよ」
1スレッド目


ちょっとさわりをのせてみます。こういうふうに、どんどんマクロ的になぜそうなったのか?を説明していきます。1スレッド目は、そのアイディア勝負の側面が強い部分もあるので、ここで挫折せずに読み進めてください。凄くわかりやすいと思いますよ。とてもいい経済学の教科書です(笑)。


ここで何を語っているかと言えば、「これまでの違うものが見たい」と思った時には、上記の説明をあげている「マクロの動的メカニズム」に手を入れなければ、なにをやっても、システムのバランスの中の行為であって、「そこ」から抜け出すことができないんです、と言っているんです。ガンダムシードも冨野監督も、もし「このままじゃいけない!戦った果てに何があるのだ?」と問うならば、まず最初から、このメカニズムを明らかにして、それに手を加える戦略を練る必要があったんです。その戦略なくして、いかに行動しても、どうにもなりゃしません。


けどまーこの解説も、こういシステムによるマクロの支配という概念が、80-90年代に一般化したこともあって、少ない言葉で説明できるのですが、これは確かになかなか手ごわいものです。また、そもそもこんな小難しいことを読んでくれる読者は、エンタメ業界には、なかなかいなかったでしょう。そういう意味では、「これ」が面白くなるほどに僕ら読者が市場が成熟したということでもあると思います。


さて、前にも書きましたが、まず魔王が提案したのは、戦争によって中央王国諸国の盾となることによって存在している南部諸国の生産力向上と自立のために、馬鈴薯(じゃがいも)の耕作方法を広めて、生産力をあげることでした。けれども、それは簡単には難しい。そのために南部の小さな村で実験を行い、その成果を持って他の国を説得する、でした。



はい、もーこれ、エンタメになりませんね(笑)



これまでの作品が、なかなか「戦った果てに何があるのか?」という問いから逃げられなかったのは、「戦わない」と人を引き付けられないし、おもちゃ市場ではロボットが出せないからなんですよね(笑)。そういう意味では、小説の分野でしか出てきにくいものだし、既存の編集者がついていたら、この1スレ目は、アウトでしょうねー(笑)。



さて、まー前に一言で書いた記事と言っている内容は同じ(苦笑)で、ちょっと文章力のなさすぎに、自分でも自己嫌悪ですが、、、、こーいう点が凄く「新しい」んですよ。


そんでもって、この根本的な問題、言い換えれば「善悪二元論の解体」を中心としながら、それを克服するために、商人であるとか、王であるとか、軍人であるとか、果ては一般の奴隷!(メイド姉)などの各分野の物語が、究極地点までいって初めて、最初の根本命題が解決されるんですね。商人は、商取引で、世界に新しい流通や金融の動脈を作り替え、建築家は新しい道や橋を造ることで世界に新しい進歩をもたらし、政治家は部族社会であったものに新しい連邦の概念を取り入れ、ガチガチのナショナリズムに対してはインターナショナリズムを志向する人物が現れ、、、もうなんちゅーか、凄いんですよ。そして究極は、人が生きる上での自立と何か?を、メイド姉は、見つけ出します。もはや新たな宗教の成立と言っても過言ではないです。つーか、ああいう内面のコペルニクス的転換は、宗教的回心と言ってもいいと思います。


その個別論は、また次に。


うーん、、、ちょっとイマイチな説明でした。まー議論の土台はある程度かけたけど。。。まだ土台で終わってしまった。