『天地明察』 冲方 丁著 武断政治から平和な時代への転換の難しさ〜江戸300年の平和を作った男・保科正之というマクロの背景に

天地明察

評価:★★★★★5つ
(僕的主観:★★★★☆4つ半傑作)

素晴らしい小説でエンターテイメントでした。この著者の『オイレンシュピーゲル』などのシリーズをぜひ読めぜひ読め、といろいろな人に言われていたんですが、まずはこっちが先に読了。とても読む意欲が湧きました。これだけの話を描けるとすれば大した小説家ですので、俄然その他の作品も読んでみたくなりました。下記は、インタビューなので、読んでみると面白いですよ。

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nodeオイレンシュピーゲル壱 Black&Red&White (1)(角川スニーカー文庫 200-1)
オイレンシュピーゲル壱 Black&Red&White (1)(角川スニーカー文庫 200-1)


■挫折しまくりの人生の中で好きなモノを追いかけているうちに、日本文化を変えた大いなる計画への挑戦者になっていくビルドゥングスロマン

帯のいろいろな人の推薦文にもあるんですが、この春海の生き方っていいですよね、勇気百倍、という感じ。

というのは、この人って、微妙にねじが外れているし(=好きなことしか見えなくていろんなことで損をしやすい)、なんというか「世渡りベタ」だし(=周りが微妙に見えていないというか、まぁいいやーと競争を下りてしまう感じ)感じで、なんというか社会の成功者!とか、競争の勝利者!とかとまったくかけ離れている人生を生きているんですよね。家柄は悪くないんだけど、微妙に立場が悪くて、養子だった義兄にすべてをかっさらわれそうな危うい立場だったり、でもそれでも積極的に自己の立場を確立して強化しようというようなプラグマティックな根性が全然ない。この根性のなさ!と競争下りている(=ヘタレ感)感じがいい。けど、人生は楽しみたいんだ、好きなことは好きなんだ!という、意外に動機が、世の中の常識的な本堂とずれているところが、凄くいい。

いいかえれば、覇気がない。社会での栄達が、なんかめんどくさくて、いつもどっかに寄り道して中途半端な人生を生きている。でも、それが豊かな人生って気もしない?。頑張ればいいって社会は、多様性がない気がするんだよねー。頑張ればいい!という社会は、みんな突っ走っていて、余裕がない社会な気がする。もちろん、頑張れる対象があってそれに夢中になれるのは素晴らしい、人間の本質であるべきだとは思うけれども、「それって簡単に見つからない」し、「うろうろ迷うし」、しかも、そうして迷っていることに否定的な社会って、ダメだと思うんだ、感ようがなくて。

冲方さん春海の生涯をどうやって書こうか、書き始める前には悩みました。「その日、春海は登城の途中、寄り道した。/寄り道のために、けっこう頑張った」っていう2行が書けたときに、「そうか、この人は寄り道のためにけっこうがんばった人生を送ったんだ」って、ストーンと腑に落ちました。鋭意粉塵努力しました」というよりも「けっこうがんばった」という、一歩引いた感じが、この人を描く上で最適なんじゃないか、と。

インタヴューより
http://books.rakuten.co.jp/RBOOKS/pickup/interview/ubukata-t/

これ、とってもわかりやすい主人公評。

そして「にもかかわらず」この冴えない中途半端な男だった春海に、日本の歴史を変える大きな大舞台のチャンスが回ってくるのです。

時の老中・酒井雅楽頭が「お主、退屈でない勝負が望みか?」とささやくのです。

ただ単に、名門の碁打ち安井家の碁打ちとしての人生にどうしてもはまれなくて(おかげでどんどん人生は負け犬方向へ・・・(苦笑))、数学や暦法に寄り持ちして何事も為せなかった彼に、大きな成長のチャンスが舞い降りるのです。これって、素晴らしいビルドゥングスロマンです。歴史の本や解説には、14歳で安井算哲の名を継いだ秀才と記載されているのですが、ちゃんと当時の状況を調べて「非常に冴えない中途半端な男」をスタート地点にしている著者のキャラクター形成には、非常にうまいな、と思わせます。

というのは、時は戦国時代を終わらせて、しかしまだ武断政治の香りが残っている「戦後」の時代に、武士による文化の創造、文化によって統治される社会の創立という大きなマクロの背景があって、この時代は、戦争が強いモノや腕っ節が強いものではなくて、数字によってちゃんと計算ができたり、武力で話されない何かを持って社会を安定させていくという物が必要になっていた時代だったからです。この世界での「ビルドゥングスロマン(=旅を通しての自己成長)」は、テクノクラートによってなされるのでって、武士・・・武力によってなされる時代ではなくなっていたのです。算術などの事務的な、ホワイトカラー的な、テクノクラートが、世を支配する時代の転換期でした。この時代に置いて大流行していた、算術が大好きな青年、というのが歴史の表舞台に引き出されていく様は、上手いなーと思うと同時に、好きなモノを好きなように頑張っている過程で、大きな舞台に登壇していく、その様は、えらく勇気を感じさせます。これは、自身の夢や手ごたえというミクロと、時代のマクロが一致した幸福な物語なんです。ありうべくビルドゥングスロマンってこういうのをいうんだと思います。だから読んでいて、物凄く清々しく、感動する。


武断政治から平和な時代への転換の難しさ〜江戸300年の平和を作った男・保科正之

というのは、この時代が、戦国時代、その後の豊臣秀吉による朝鮮侵略、そして家光までの徳川時代は、一つの終焉の時代だったからです。下剋上の時代、というのは、どんな生まれの出自があろうとも、たたき上げで日本の頂点に登れるとだれもが夢見たある意味とても平等主義的な時代でした。機会平等という意味でね。だから宮本武蔵などは、最初強さを求めていたのです。それが、「士官の口がなくなる」言い換えれば、戦争の機会の激減によって、戦争によって回る経済が体制が回らなくなり、その後成長を自己の内面に向けることで『五輪の書』を完成させていくことになります。でもほんとは、大名とかそういうのになりたかったんだよね?最初は。宮本武蔵が、とても素晴らしいのは、この「自己の目標が失われたアノミー」から、外部の世界が成長も就職の機会もなくなるという「成長」を失ったマクロ状況で、それでも内面の成長を見出した、という部分になるのではないか?といまは思ったりします。

こういった作品の背後にある、大きく支配するマクロの背景の設定が、とても今の時代に合っていると思う。

というのは、3代家光政権の後の、武断政治による戦国時代から平和な民衆を中心とする社会を構築する、その境目のこれから始まる「終わりなき日常」への転換点を描き、そんな「大きなマクロので変化がない平和」な社会が構築されていく中で、その中でさえも、自己を燃やす世界を変えるようなことができる!という渋川春海の生きざまは、僕らにとても希望を投げかけてくれるからだ。

彼は、碁打ちの名家安井家の長男であり後継者ではあるが、「部屋住み」に近い身分です。この概念がよくわかっていないと、江戸期の時代劇の面白さは半減しますので、ぐぐってみたりして調べてみてください。

風雲児たち』 みなもと太郎著 31歳の井伊直弼の男泣きに感涙〜部屋住みとは何か?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080813/p5

主人公の渋川春海は、自分の「立場」がはっきりしない「本当にやりたいことが見つからない」フラフラした人生を送っている。けれども、家業である碁も捨てきれない(自分が後継者を継げるかどうかは微妙)、という中途半端を絵にかいたような人生。そんなかれが、関孝和という天才数学者と出会い、、、って実際になかなか出合わないのだが(笑)、自己の使命を見出していく様は素晴らしいビルドゥングスロマン。漫画の曽田正人さんの『昴』なんかを思い出したが、とにかく夢中(夢の中にいるように周りが見えなくなること)で生きていく人間の、ひたむきで、いちずで、天然さを凄く感じる。

そして豊臣秀吉は、、、ああ、、この小説の保科正之のセリフで、やっとなぜ豊臣秀吉が、、、あの一番下の階級から成長して、頑張って、頑張って、頂点を極めた男が、朝鮮侵略というような夢を見たのかの理由がよくわかりました。これって『まおゆう』の小説も同じでしたね。つまりは、武士階級が、、、戦争を専門にして経済を回す体制が、既に何百年の歴史で確立しており、次々に戦争を起こすことで機会平等主義的な「実力主義(=下克上)」の時代を作り上げてきたマクロの歴史背景があったのです。だから、日本全国が統一されると、その階級は浪人になってしまい、成長の機会も雇用の機会も失われ、経済が崩壊します。その武士階級の自己実現と、それを支える経済体制を回すためには「戦争を継続する」しか道が思いつけなかったんです。なるほど!!これは、すばらしく理解できる理由です。経済的にも、ようは戦士階級という巨大な失業を生まないためにと考えると、非常に良く説明できますねー。

そして、それ・・・・戦争が自己実現と経済を回す基礎となっている戦国時代の仕組みを最終的に変えたのは、戦争による需要と雇用の創出ではなくて、保科正之による、内需の創出と、文化の創造による文化による自己実現の世界の創出(=文化的パラダイムの変換!)でした。そのために、徳川4代将軍時代には、国庫は空っぽになるほどの巨大な資金を、内需の創出、、、、、巨大都市江戸への上下水道完備のための玉川上水の建設や都市国家機能の充実のための都市整備などなどに費やしました。、、、、そしてその最終的な仕上げとして、暦法を日本独自で新たに作り出すことによって、この世の中のあり方が変わったことを高らかに歌い上げる。・・・なんと野心的なパラダイム転換。

(ちなみに、これが本当かどうかは僕には、あまり興味がありませんので、これがた歴史的事実だといっているわけではないことは理解くださいね。あくまで物語としての話。物語の大きな枠を知りたいだけで、別に保科正之が「これ」を為したのでなくても、こういう大きな時代の転換点があったこと、それを幕府閣なり幕府が主導したこと自体は、非常にありうる想定なので、そういう枠さえ分かれば僕のようななんちゃって読書人には十分なのです。コンパスのない世界では歩けませんから。学者じゃないので、歴史と眺めるための視座をもらえればそれでいいのです。)

話が前後するが、主人公の渋川がこの時代に日本の暦を変えるきっかけになるのは、日本に平和な民衆を基礎として社会を建設する!という保科正之の天才と理念がその背景にある。基本的に、あまりにいい人ばかりしか出ないので、きっといろいろな補正が物語的にかかっているのだろうとは思うが、それにしても、この保科正之という2代秀忠の御落胤にして、事実上の徳川政権の基礎を作った大政治家の凄味には圧倒される。

話半分に差し引いても、この人が、徳川300年の平和社会を、江戸の社会を、織田信長にも、豊臣秀吉にも、徳川家康にもやりきれなかった軍人が社会を支配する時代から、軍人が必要とされない平和な大衆社会に移り変わる「大構造改革」をやりぬいた男・・・・大火の後に天守閣(軍事基地)を再建しないことや、軍事的に都市が丸裸になる玉川上水の建設、言い換えれば上下水道の整備など、、、軍事社会を基礎とする武士社会ではあり得ない政策の断行、そしてそ総決算として、「暦」を変える、、、公家、武士、僧侶、民衆を巻き込んだ一大イベントの挙行・・・・すべては、保科正之の天才と理念がその背景にあった、というのは、素晴らしく面白かった。もちろん、本当かどうか?は、単純ではないとは思うが、いろいろな本を読むにつけ、基本的なイメージは間違っていないのが分かってきた。物凄い傑出した大政治家であったことは間違いない。そういう物の一端を見れたことが、素晴らしく面白かった。 この人の小説ないだろうか???。「この視点で評価された」モノ・・・。見てみたい。ちなみにこのことを初めて、あれ?と気づかせてくれたのは、下記の話でした。


風雲児たち (1) (SPコミックス)

この最初の巻で、そうか!!!江戸期の基礎を作ったのは、彼だったのか!!!とビックリしました。

そして、明治維新がなぜ起きたのかを、関ヶ原の長州や薩摩藩の行動が原点にあると同時に、会津藩がなぜ徳川政権に殉じるようなことをしたのか?、も、非常に理解しやすくなる。会津の家系に連なるモノは、徳川家に忠節をつくし、「他藩に従わず(他人と比較して物事を決めるな!)」という伝統が、この時に作られているからなんですねー。うーん、この「つながっている」感覚は、面白い。いろいろな歴史的なモノが浮かび上がってきます。

やっぱり、歴史っていろいろな「つながり」を連鎖させて重層的に見ないと、ぜんぜんみえないんだなーと思います。僕は、日本テレビの年末時代劇スペシャルで、時代劇を愛するようになった少年でしたが、その時の『白虎隊』とか最高でした。自身のルーツが、会津にあるって言うのも拍車をかけたんですが、ただねーーーどうしても、東北地方の時に会津って「時代が読めなかったやつら」とか「散ることが美しかった偏屈な奴ら」としか美しさを表現できない。「散ることの、殉じることの美しさ」ってのはあるんだけれども、それ以上に「日本の建国や日本という悠久の歴史を持つ国になにを貢献したか?」ってのが、イマイチ見えなかったんですね。その後の日本の軍隊で、最後まで政府を強く支持したのも東北で、東北の政治家や軍人には頑固者が多い。戦後は、その反動で凄い軍隊嫌いになってしまったり(苦笑)。変わり身の早い、九州方面の西の文化からすると、なんかなーと思いがありました。やっぱり、幕末期や明治期の西方の藩・・・・薩摩や長州は、かっこいいじゃないですか。もちろん、忠義を尽くした会津は、それはそれで「散りゆく美しさ」はあるんだけど、なんか・・・甘いというか、戦略的でないというか…という思いがいつもありました。なんかテンション高くかっこいいんだけど、白虎隊などの行動も・・・と、、、けど、これが、初代会津藩主と保科正之が、事実上「徳川太平の世を、民衆による平和な世界を」作り上げた、建国の父である!というスタート地点と伝統があるとすると、全くい評価が変わります。なるほど、徳川300年の基礎として、日本人のモラリティのこん気にあるモノを、近代化で喪わせてはいけないという強い意志と自負があったればこそ、ああいう行動になったのか?ということを考えると、これは、非常に深い意味を持ちます。


なんていうことを、いろいろ考えるきっかけになってよかったです。


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■「売れ筋を外れている」チャレンジングな題材に挑戦することが素晴らしい

次には、水戸光圀を描く『光圀伝』を書くようですが、時代劇の、かつエンターテイメントとして読ませる(おじいちゃんくさくない感じという意味)作品で、これだけ「売れ筋を外れている」チャレンジングな題材に挑戦することがまず素晴らしい。

池波正太郎でも吉川英治でも司馬遼太郎隆慶一郎でもいいのですが、本流の時代劇や歴史小説ってあるじゃないですか?(まあこれらが本流かって、??という人もいるでしょうが、人気作品という意味で)。そういった大御所でないと、なかなか「売れ筋を外す」というわがままは通りにくい。にもかかわらず、本流から外れた題材を扱い、しかもライトノベル作家が出自なので現代人に(特に若者にも)「面白く読ませる」という技術があるのが、いい。

似たような人では、沖縄の開国時期を舞台に描いた池上永一の『テンペスト』なんかも連想します。どちらかというと本流ではありますが、清朝の末期を描いた浅田次郎の『蒼穹の昴』『中原の虹』なんかも。いままでの定説であり「常識的な歴史」のスポットライトを浴びない部分(=売れない)をエンターテイメントにしてくれる、というのは、本当に読書界が豊穣になることなので、素晴らしい。こうした常識を解体してくれたり、いままで見ていなかった(=いままでの歴史学ナショナリズムとうには必要なかったパラダイム)ものを取り上げて人口に膾炙してくれるのは、本当に出会えた時にやった!と思えます。

もちろん、いろいろな人がコメントしているが、暦や数学については相当な専門知識がいるだろうから、大きな枠を超えては完璧さを期するのは難しいかもしれない。けれども、それは、おろそかにしていいこととは思わないが、枝葉末節であるとも思う。だって、面白いんだもの。こんなマイナーなキャラで、マイナーな題材で、これだけ壮大でハラハラドキドキするエンターテインメントが体験できるんだから素晴らしい。 こうしたエンターテイメント性が核にあれば、そこから「導入」の役割となって、より深く追求する人には「入口」になると思うし、「こうした世界観」「マイナーなモノ」が。広く大衆のリテラシーのようなものをあげてゆき、結局は、そういった専門的なマニエリズムを追う人々の「飯のタネ」を保証することになって、よいスパイラルがまわって行くんだろうと思う。

テンペスト 上 若夏の巻
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蒼穹の昴(1) (講談社文庫)
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