『インセプション』(Inception/2010年アメリカ) クリストファー・ノーラン監督  何ゆえこの夫婦は50年も過ごしてしまうような危険な領域まで突入していったのか?それが僕にはわからない


評価:★★★★☆4つ半
(僕的主観:★★★☆3つ半)

■全体の講評〜目新しいモノはなかったが、素晴らしく面白かった

友人と昨日思いつきで見に行く。総括の評価としては、とってもおもしろかったけど、特に目新しいモノはないね、という結論だった。個人的には、ちょうど米林監督の『借りぐらしのアリエッティ』を見た直後で、似た感触を感じた。非常に良くできているし、完成度も高いのだが、「期待以上の満足感」がなかったというところが残念な感じ。

ただそれは、僕の「思考の文脈」に影響受けているもので、このブログで同じテーマを共有しているいとでもない限り、基本的には、一級品レベルの素晴らしいエンターテイメントであったと思う。こういういい方がいいだろう。僕の「内面の発見と深掘りから並行世界からの脱出」という考察の文脈で言うと、目新しいモノのない普通の作品(内面にダイブするというテーマのね)。その文脈ぬきで、映画単体としてみるとすれば、さすが『ダークナイト』を作ったクリストファー・ノーランと唸る完成度のエンターテイメント。そうそう、なにがいいって、これほど複雑で難解なテーマを、ものごっつわかりやすく料理して、手に汗握るハリウッド映画にしてしまったその力量だ。単純に、何も考えなくて、凄く面白い作品でした。映画館で見る価値ありまくりです。個人的には映像的に「もう一歩先の世界を!」と感じるが、それは「僕がみたいモノ」に過ぎないと思うので、批評として意味がないだろう。

ダークナイト [DVD]
ダークナイト [DVD]

■僕らの渡辺謙〜演技派の俳優の中で

そして、僕らの渡辺謙が、なんというか、一流のハリウッド俳優として遇されているさまは、なんだかとてもうれしかった。ともすれば、『ライジングサン』で女体盛りとかするヤクザがいいところの「しょせんアジア人俳優」という色モノ扱いがやっが普通なのだが、徹頭徹尾、超一流のハリウッドとして扱われているのががはっきり分かってなんだか嬉しい。もちろん演技力も大物感たっぷりの「重さ」で、すばらしかった、というのもあるが。海外映画初出演となった『ラストサムライ』『バットマン ビギンズ』『SAYURI』『硫黄島からの手紙』と超大作で重要な役をこなし続けていて、これからも楽しみな役者ですね。なにハリウッド映画に出れば偉いわけではないが、アメリカのハリウッド映画に注目できる日本人俳優がいるというのは、とてもうれしいことです。まぁ、『独眼竜正宗』のころから大好きだし、凄くうれしい。ちなみに日本ロケもあって、びっくり。新幹線が出てくる。ハリウッドの超大作に、日本の風景がこれだけ大々的に出てくるのは、めずらしいと思われる。

硫黄島からの手紙 [DVD]
SAYURI [DVD]
ラスト サムライ 特別版 〈2枚組〉 [DVD]

ちなみに、ディカプリオをはじめとして、ハリウッドの演技派がそろい踏み。その中で、というのがうれしいね。

さて、コブを演じるのは、妻が自殺してしまう「レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで」や、妻殺しの嫌疑をかけられる「シャッターアイランド」と、なぜか最近妻との関係がトラウマとなる役が続いているレオナルド・ディカプリオ

最近ではスコセッシ作品の顔という印象が強いが、同じように同一俳優とのコンビ作が多い、クリストファー・ノーランとの相性は悪くない様だ。

この濃密な心理劇の中で、彼は自らの内面に隠した妻の死の真相に対する贖罪の念と、愛する家族の待つ故郷への望郷の念との間で、複雑な葛藤を繊細に演じてみせる。
モルを演じるマリオン・コティヤールは「パブリック・エネミーズ」が記憶に新しいが、今回は夢の世界の住人で、実はコブの思念の投影であるという難しい役を、ムーディーに演じた。
他のキャストの面々も凄い。

依頼人のサイトーは、我らが渡辺謙が大物オーラを輝かせながら貫禄たっぷりに演じ、日本ロケのシークエンスもある。

潜入チームは、コブのパートナーのアーサーに、「(500)日のサマー」でブレイクしたジョセフ・ゴードン=レヴィット、作戦の舞台となる夢の世界を構築する「設計士」のアリアドネエレン・ペイジ、他人に成りすましてターゲットを誘導する「偽装師」のイームスにトム・ハーディ、深い眠りをもたらす沈静剤を作る「調合師」のユスフにディリープ・ラオ。

更にターゲットのロバートにキリアン・マーフィー、父親のモーリスにピート・ポスルスウェイト、そしてコブの恩師にしてモルの父親であるマイルス教授にマイケル・ケインと、殆どハリウッドの演技派見本市の様である。


ノラネコの呑んで観るシネマ
http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-393.html

■あらすじ〜内面世界のはいっていく、何が現実かわからなくなる脚本類型


ドム・コブ(レオナルド・デカプリオ)は、他人と夢を共有する事で、アイディアを盗み取る特殊な産業スパイ。

だが、彼は妻殺しの容疑をかけられた逃亡者でもある。嘗てコブは、妻のモル(マリオン・コティヤール)と共に夢の深層へのダイブを繰り返していた。やがて夢と現実の区別がつかなくなったモルは自殺し、コブは故郷のアメリカに幼い二人の子供を残して流浪の生活を送っている。

そんな彼に巨大企業を率いるサイトー(渡辺謙)が、新たな仕事を依頼してきた。その内容は、アイディアを盗むのではなく、ライバル企業の後継者であるロバート(キリアン・マーフィー)の夢に侵入し、自分から会社を解体する様に“アイディア”を植えつけると言う極めて危険で困難なもの。

だが、自らの犯罪歴の抹消を条件に依頼を引き受けたコブは、作戦を成功させるためにスペシャリストで編成されたチームを作り始める・・・

■夢の中の夢〜何を現実として帰るところとして認識するべきなのかというテーマ

この映画の最も面白い設定は、「夢の中で見る夢」で「階層が一つ下(=深く)」なっていくについれて、「時間の流れが遅くなる」という点。人間の深層心理にダイブするというモチーフはたくさんあるが、深くなればなるほど「時間の流れが変わる」という設定は、めずらしくオリジナルなモノだと思う。この設定は、「閉じ込められた空間からの脱出劇」というエンターテイメントの面白さを設定できるだけでなく、精神の階層に深く入れば入るほど、現実のとの接点を失っていくという「人間心理」にも似ていて、体感的にも「なるほど」と思わせる脚本設定だった。


ちなみに、この映画の最大のテーマ、言い換えれば本質は、「何が現実か?ということを、問う」というものだ。


このテーマ自体は、非常に良くある問題設定で、そういう意味では、昨今では珍しくない物語だ。内面を探っていくと「現実というモノがいかにあいまいで不確か」が分かるようになり、「そもそもそれぞれの人間の生きている現実ってのはなんなのか?」があやふやになるのは、外部の世界を見ないで内面を追えば、当然に発生する疑問だからだ。「自分の心」「自分の内面」を追っていけば、それはナルシシズムの世界(=他者や現実との接続を失った状態)であるわけだから、そんな「他者や現実からの反射」がない世界では、「自分の生きている実感が失われていく」ことになる。思考の世界では、答えや結論が出ないからね。その「あいまいさや不確かさ」が、ある種の地獄というか、耐え難い苦痛を生むことになり、「そこ」から「抜け出す」という脱出劇を生むことになる。日本社会で、80年代後半から00年代の前半まで、このテーマは限りなく繰り返されている。アメリカでもどのあたりという時間の感覚ははっきりわからないが、基本的に同じテーマは追われていると思う。というのは、豊かになった近代先進各国での共通の「自意識の病」をベース(=共感のよりどころ)として、そこから脱出する、つまりはナルシシズムを破るビルドゥングスロマン(=成長物語)にするのは、物語として非常にエンターテイメント化するのにしやすいものだからだ。


ともすれば、産業スパイの大アクション活劇になってしまっている今作品だが、結局のところ主人公のレオナルド・デカプリオがずっと追っているのは、1)「現実がどこかわからなくなったしまった」ことから抜け出たいという想いと、2)「妻への贖罪」だ。



ネタバレ注意です。



この二つは入れ子構造になっています。


まずそもそも妻のモル(=マリオン・コティヤール)とガフ(=ディカプリオ)が深い第四層の世界で、50年近く人生を過ごして、、、過ごし過ぎて、妻が現実が何かが分からなくなったことに端を発している。その彼女を現実に戻らせるように「この世界は本物じゃない」と種を植え付けて(=洗脳)することによって、ガフがその世界を出たことが物語の発端でした。


その種は、現実に戻ってからモルの心でどんどん成長して、最後には、「本当の世界」に戻るために、自殺してしまうのでした。というのは、この心の中の世界で死ぬと、現実に帰還できる、というルールがあるからです。ガフは、このことをずっと悔やんでおり、この「妻への贖罪」をずっと胸に抱えている、というのがこの物語のスタート地点。そして、妻殺しの容疑によって、アメリカのホームに帰ることができない彼は、産業スパイのプロとして、国々を渡り歩いているのでした。


ここで重要なのは、モルに現実に帰れ、と諭したガフ自身が、「自分のホーム=子供のいるところ」に帰れない、、、、夢の世界を渡り歩く職業をしている彼には、「帰るべき現実」がこの「子供たち」なんですね。だからずっと、この子供の顔が見えないというシーンが繰り返されます。これはガフが、現実にちゃんと触れることができないということの暗喩として出てきているのだと思います。


実際この物語の本質は、派手なアクションシーンではなく、この主人公のガフがどれが現実かわからなくなっていくことをひも解いて、現実に帰る(=子供のところに帰る)という部分にあります。



1)妻と過ごした第四層での50年で、妻が何が現実かわからなくなる


2)現実に戻ったものの、妻は、現実(=50年過ごした第四層)に戻りたいと自殺してしまう


3)そのせいで、妻殺しの容疑者で子供に合えなくなり海外を放浪することとなる


4)子どもたちに合うため(=現実に戻る)ために、もう一度第4層まで潜らなければならなくなる


5)第四層でもう一回妻に、何が現実なのか!という問いを突き付けられる(=私と一緒に残って!!)


6)そこを抜け出し、仕事を成功させて、子供たちに会う(=現実に戻る)

というプロセスをたどります。



超ネタバレですが、




この最後の、6)のシーンが絶秒な部分で終わっており、実際は、本当は何が現実であったか?ということが観客にはわからない仕組みで物語は終わります。


でもね、この1)-6)までの流れをみるとね、ずっとずっと、主人公のガフは「さすらっていて」、実際、何が現実か?ということは、手掛かりがないんですね。ガフ自身にも見ている観客にも。この迷宮に「誘い込むことこそ」がこういった系統の脚本の本質なので、そういう意味ではよくできています。この映画の本質は、結局のところ「何が現実かわからない」こんな曖昧な世界に僕らは生きているんだよという不安感を惹起する部分にあります。この人間存在の本質を喚起するが故に、この手の脚本は面白いのです。


ただ、このテーマであれば、本来は、6)で、この子供に出会ったことも、今までのこともすべて「幻想だった」という方が、脚本としては理にかなっていると思う。そういう意味では、感覚としては、エンタメにするために6)のシーンはひよったな、と感じてしまった。というのはね、なんでこんなに5つもの世界を重層的に描くのかといえば、人間が生きる現実というモノは、「何が本当かわからない!」と体感させるためのものであって、そういうことを観客に突き付けたい欲望があるからこそこういった脚本を書くのであろうし、この作品の構造の本質は、「そう」であるのだから、そこであっさり、子どもと出会うのが「現実」でした、、、最初から妻が狂っていて、主人公のガフは正常でした、というのは、なんだか、、、、。そんな「現実は所詮現実だよね」というった常識で話が終わらせられるのならば、延々とこういう脚本を書かないだろうに、、、という意味では、このテーマの本質にしては、終わり方が陳腐であったと思う。なにも、現実がどれかわからないというグロテスクな悲劇で終わらせろというのではなく、この構造から言えば、もう少しひねりを期待したかった、ということ。


またね、、、、仮に最後の子供に会えた現実が唯一無二の現実だとすると、妻は「ただ単に気が狂った人」で、怪物化されて終わってしまう。それは、気の毒(苦笑)。6)が常識どおりに解釈されれば、結局は、妻が狂った怪物でした、で終わってしまう。まー普通に見ていればそうにしか見えないが。でも、それじゃーただ単に現実を現実として受け入れられなくなった心の弱い人は、ダメな人でした、というなんか、、、、身も蓋もない話になってしまう。



そこで、ポイントとなるのが、1)の部分。



そもそもこのガフとモルという夫婦が、何ゆえ50年も過ごしてしまうような危険な領域まで突入していったのか?という動機が全然説明されていない。だから、そもそも妻のモルにも、それを正そうとするガフにも、深い意味で共感できないと思うのだ。皆さんできます?。何の理由があって、50年もの人生を過ごさなければいけないのか?よくわからない。そりゃー精神も狂うよ(苦笑)。その出発点が、彼ら夫婦が現実が何か分からなくなる迷宮に踏み込んだきっかけがわからないと、主人公に感情移入ができない。


そういう意味で、この1)と6)の部分をうまく処理できなかったことは、この脚本としては、目新しいことが何もない、と僕は感じてしまう。


ああ、、、それ以外の、すべてがパーフェクトなだけに、惜しい。まったくもっておしい。


というぐらい、おもしろいです。



■閉じ込められた世界からの脱出が歌によってなされるというモチーフ


作中で、ピアフの歌が現実に帰還するキーワード的なモノになっているんだが、僕の大好きな『12モンキーズ』の主人公のジェームス・コール(ブルース・ウィリス)が、人類が滅びる前の世界に戻った時に、ずっとルイ・アームストロングのWhat a wonderful worldが流れているのとかを思い出した。こういうナツメロは、ある種の郷愁を作り出す演出ととてもマッチするよね。ちなみに、過去の名曲をよく知っている人は、エンターテイメントが、何倍も面白くなると思います。映画は総合芸術なので、知識が多い方が湧きあがる環境はより大きいような気がします。まあ知識よりも、出会いの方が重要だけどね。どのタイミングで出会うかが、一番感動を左右するものね。


エディツト・ピアフ
Edith Piaf - Non, je ne regrette rien (1961)

12モンキーズ [DVD]
12モンキーズ [DVD]