『図書館戦争』 有川浩著 抽象的な「表現の自由」をウルトラ具体的なものでシミュレーションさせて具現化させている荒業に1本!

図書館戦争

評価:★★★★4つ
(僕的主観:★★★★☆4つ半)

■読んだ理由

知り合いから、戦争もの系統でいえば、ここは自衛隊モノで限ると、有川浩さんの自衛隊三部作シリーズがいいですよ、というお薦めを頂いた。あれ、この人って、たしか、、、、『図書館戦争』の人じゃなかったけ?ということで、即全巻4冊買ってきた。そして読了。アニメを放映していたころ、1話だけ見たことがあって、そのクオリティの高さに驚いたのを覚えていたんだよね。その時は忙しくて見る余裕なかったんで、見のがしていたけど、いつか機会があったら・・と思っていたので、いい機会だった。


■抽象的な概念を、物語にするにはどうしたらいいのだろうか?

一読して、不思議に思ったのは、これってどういうふうに「設計」されたんだろう?って不思議に思ったこと。というのは、この作品は、きわめてSF的なシミュレーションの発想で、マクロのレベルの「表現の自由」について、ビックリするほど「具体的に描いている」。これって、すっげーと思った。えっとどういうことかといえば、物事を伝える時に、それもエンターテイメントのレベルで物事を伝えようとすると、「抽象思考」というものは、ほとんど絶望的に伝えるのが難しいことなんですよね。実社会で生きていて、自分がずっと本好きで読んで、いろいろなことを勉強してわかったのは、大抵の人は「抽象的なレベルの志向による理解」というのがほとんどできない、もしくはそんなめんどくさいことはしないで生きている、ということ。コリン・ウィルソンは人類指導的5%と呼んだが、比率はともかく、そもそも「抽象思考」が相手に伝わるということは、非常に希少なことなんです。その端的なものの一つが、「表現の自由」っていう「概念」です。


これって、もともとの「概念」の発生は、基本的にヨーロッパにあって、ヨーロッパの歴史に凄く結びついている。まぁ教会と世俗の対立の中から内面の自由が発生して、云々というところからその起源は始まっている。そして、近代国家の成立とともに、この「内面の自由」につながる「表現の自由」は、多くの血を流すことによって「獲得」されてきたという具体的な過程をたどる、、、んだけど、よくある日本の近代の問題点で、典型的なヨーロッパの歴史「じゃない!」ということで、この具体的な中身が、国民に広汎に経験されてもいないしシェアされてもいない、といわれるんですよね(ほんとは、そんな単純じゃないんだけれども)。そうするとね、この表現自由という概念を説明するために、参照するための具体的な体験や経験が、「ない」ってことないなるんです。そうでなくとも、抽象レベルの次元は、ほとんど絶望的に伝わらない上に、それを参照して遡る「歴史的具体的な経験」も存在しないとなると、そもそもフツーの僕らのようなパンピーには、「全くわかりません!」というものになってしまうんですよね。これ日本社会では、言葉狩りとか出版の自由みたいなレベルでしかなかなか理解されていない感じがあって、これはそのものズバリ、統治権力による思想統制なんだってことが、なかなか実感されにくい。イメージでは、過去の特高警察なんかに何の理由もなく連れて行かれて拷問で殺されちゃう見ないなイメージを考えればいいんだよねー。でも、一気にそこに「体感」として結び付かないんだよね。


これ大学の授業で習っている時に、ドンドン説明が進んでいくうちに、背筋が寒くなったのを何となく覚えている。というのは、言葉通りの「表現の自由」なんて単純なことでは理解しようもない複雑な概念で、凄い背景と射程を持った概念だったからなんだよね。キリスト教の「隣人愛」という概念も、物凄く抽象的な次元では難しい概念なんだけど、それと同じように、「体感レベル」というか単純な感覚のレベルでは、まったく理解できないものなんですよね。普通に、パッとわかるイメージでは、100%間違っているんですよ(苦笑)。そんな単純なモノじゃないから。


これって、、、、、「わかる人にしかわからいだろうなー」って思ったことをよく覚えています。まぁどっちみち、抽象思考ができる人なんてほとんどいないんだから、理解されないのも、、、近代国家としては悲しいしヤバいけど、まぁしかたねえなーと高橋和巳さんの『邪宗門』の主人公のように諦めたのを覚えています。僕はできれば、物事の解決は全体像で根本から為し得たい、と考えるたちの人なので、たとえば郁ちゃん(この物語の主人公に)が一兵士として戦えればそれでいい(=私には私ができることをするしかない!byストライクウイッチーズ)、とは思わない人なんですよね。僕ならば、手塚のにーちゃんや稲嶺司令を志しちゃう。いや下手すると、もっと上のレベルで、、、(もちろん想像力の話ですよ?)。その時に、一番効果があるのは単純にパワーゲーム(組織間の政治取引)に向かう以外の解決策としては、沢山の人(いわゆる大衆ね)が、近代国家の理念・・・をもう少し深く理解してくれれば、民主主義なんで、それでかなり良くなるはずなんです。大衆の教育と普通選挙のセットによって統治機構を監視するのは、近代国家の基本ですから。ちゅーことは、もっとよりよく、この複雑な概念を人々の理解に届けるにはどうしたらいいのだろうか?、、より効率的な「教育」ってのは、なんなんだろうか?って・・・。しかも、歴史的実体験がないこの日本社会で。。。。。。。まぁその一つとして僕は、映画やエンターテイメントに導入の契機の一つを見出しています。

邪宗門〈上〉 (朝日文芸文庫)

アメリカ映画の文化史―映画がつくったアメリカ〈上〉 (講談社学術文庫)


けど、ふと思ったことがあります。この抽象性を、まぁパラレルワールドみたいな形とか、シュミレーションによる仮想の世界とかで、うまく具体的に分かりやすいマクロの状況を構築できれば、、、まるでヨーロッパの教皇と君主が、内面の自由を争った「具体的な歴史のエピソード」のごとく、描ければ、もしかしたら・・・と考えたことがあります。だからこのへんの小説とかを僕は探しています。たとえば、佐藤賢一さんの『王妃の離婚』や『カルチェ・ラタン』なんかは、そういった抽象的なモノを、具体に降ろそうという野望があって、僕は凄く好きです。


王妃の離婚 (集英社文庫)

カルチェ・ラタン (集英社文庫)



■発想の原点は、SF的シミュレーションマインドと少女漫画的ラブロマンスの融合?・・・って?


この『図書館戦争』も、まさに「それ」をバッチリ見せられた感じの物語です。


この作品が、SFの第39回星雲賞日本長編作品部門(2008)を受賞したり、ライトノベル作家としてデヴューしていながら、かつキャラクターの関係性に偏ったライトノベルの資質全開(というより少女漫画か?)の物語でありながら、固い感じのキャラクターのないカバーでしかもハードカバーで出され続けているという「その扱い」はよくわかります。この内容読めばなー。この作家さんは、ライトノベルの枠よりも広い読者を獲得できるのは、よくわかるもの。

架空の法律が社会に重大な影響を与えていることから、パラレルワールドディストピアの世界を描いたSF小説にも分類されるが、主人公の恋愛模様を描いた恋愛小説の要素も多分に含まれている。

中略

第1巻である『図書館戦争』は「『本の雑誌』が選ぶ2006年上半期エンターテイメント」で第1位、2007年『本屋大賞』第5位に入賞。シリーズとしては2008年に第39回星雲賞日本長編作品部門を受賞。2008年8月時点において、シリーズ累計で125万部を突破している[1]。また、アニメ版も第40回星雲賞メディア部門の参考候補作に挙げられた。


wiki

まさに抽象的な概念である「表現の自由」という分野を、良貨法委員会と図書館によるバトルというウルトラ具体的なものでシミュレーションさせて具現化してビックリするほど「わかりやすくしてしまう」というSFマインドあふれた荒業は、一本技あり!と思うのだ。


よくよく考えると????というふうに思う荒業の設定なんだけど(苦笑)・・・・これ設定「ありき」ではないと思うんだよね。この抽象的なモノを説明して理解させるためには、どう「具体」に落としけもばいいか?って言う、シミュレーション思考が出発点なんだと思うんだ。だから、全体を読むと、うっすらと「表現の自由」というものを守る行為が、どういうことかってことが表現されている。だからこの設定に対して、非現実的だという批判は、射程距離が非常にない意見だと僕は思います。



■正義が成り立たない現代という空間で「正義の味方でありたいという純粋な動機」との葛藤


特に、図書隊の特殊部隊の新任の笠原郁という女の子(主人公)の気持ちに感情移入していけば、検閲に抵抗す側の「意志」や「動機」はストレートに理解できるし、そういった「正義の味方を志す」という出発点を守りつつも、「組織を運営すること」はそれだけでは成り立たないところまで射程を広げてゆき、この複雑な近代社会で「正義を為そうとすることの不可能性」というものを見せながらも、それでもって現場で歯を食いしばって戦う姿は、現代の正しい形での「正義の味方像」なんだと思う。この、組織のレベル(=マクロのレベル)で見ると正義は成り立たないというジレンマを前提としつつも、心の奥底にある情熱や動物的反射の部分である「正義の味方でありたいという純粋な動機」との葛藤を描くというのは、現代の物語の既にテンプレートとなっているもので、そういう意味では最前線の物語だと思う。この系統が、ストレートに反映されているのは、『機動警察パトレイバー』で、ゆうきまさみさんの漫画版まさに図書館戦争シリーズと同型の作品で、さらにそれを純化してマクロの問題点をえぐっているが、押井守監督の映画シリーズ1と2ですね。実は、アニメシリーズの押井さんが担当した回も凄くいいのです。これ、この「問い」がエンターテイメントで初めて問われたもので、僕は画期的な作品だと思っています。そして、それが一般の形で広がったのは、テレビドラマで『踊る大捜査線』シリーズです。どっちも、この図書館戦争とテーマや物語の語る形式はほとんど同じです。ちなみに、この系統の話は、90年代からこれまでの日本社会の成熟度合い写してなのか、現代の刑事ものや警察ものの物語形式は、この時代のこれらの作品の根底にあった「問い」が前提となっていて、非常にレベルが上がった気がします。格段に00年代は話のレベルが上がったのを覚えています。


機動警察パトレイバー (1) (小学館文庫)
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EMOTION the Best 機動警察パトレイバー2 the Movie [DVD]
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統治権力の側から見るか現場の立場から見るのか?

ただし一点だけ、物語のフィールドを広げさせないために「仕掛け」がしてあって、それは良貨委員会の検閲「する側」のロジックが説明されていない点だ。これは、作者もあとがきで書いているが、「意図的」だと僕も思う。というのは、統治権力から見たこの問題は、単純に表現の自由の領域に留まらない、その他の権利や領域とのバランスの問題になるので、検閲側の「正しさ」を書こうと思うと、「本を守りたい!」という純粋な動機に焦点が合っているこの物語のフィールドを逸脱してしまうので、そこは潔くカットする。いや、検閲する側の正義を描くってのも、あると思うんですよ。あまりにダークな話になるんで、物語にならないかもしれないけれども(苦笑)。でもその視点は、面白いかも?とは思う。検察を主人公にした小説とか、そういうのないかなー?。。。まっとあれ繰り返すと潔いカットは、いい判断だと思う。それは善悪二元論的な部分を無理に踏み越えないぎりぎりのバランスで、素晴らしい決断だと僕は思う。この作品はだから、上記で書いた「正義の味方でありたいという純粋な動機」=「好きな本を守りたい!」というスタート地点の動物的反射の動機と、それを組織に発展させ、表現の自由というレベルでの対立に持っていくと、正義の自明性が消失するのだけれども、それでもそのギリギリのラインで戦っていくという、非常にシンプルな構造でまとめ上げている。作者、とても頭のいい人だと思う。

・・・・・・・・・・にもかかわらず、これだけ、マクロの抽象思考のあるSFマインドあふれた作品である「にもかかわらず」、ほとんど少女漫画のラブコメ(笑)にしか思えない感触と関係性で物語が進んでいくところが、すっげーーーと思いました。何この構造的アンバランスって。なのに、見事にそれがマッチしている。メディアミックスでこう展開するのは、よくよくわかる(笑)。この作者の中でのバランス感覚は、お見事って思います。


図書館戦争LOVE&WAR 1 (花とゆめCOMICS)
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図書館戦争SPITFIRE! (1)
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