『彼女が消えた浜辺(ABOUT ELLY)』2009年イラン アスガー・ファルハディ 監督  

評価:★★★★4つ
(僕的主観:★★★☆3つ半)

※ネタバレ注意
第59回ベルリン国際映画祭銀熊賞をとった作品で話題作であったことや、ノラネコさんや樹衣子さんが評価していたので、会社で仕事を何とかやりくりして有楽町に見に行く(その変わり休日に出勤してたら・・・(苦笑))。ふと気づいたが、この映画館の前のイタリアンのトラットリア・コルティブォーノは、この前、奥さんととランチしたところだったなー。やっと映画が見れる余裕が出てきたこともあり、なんとなくアルゼンチンのカンパネッラ監督の『瞳の奥の秘密 El Secreto De Sus OJos』やイチャンドン監督の『ペパーミントキャンディ』、ポン・ジュノ監督の『殺人の追憶』など、複雑な心理や大きくドラマチックではなくとも人間の情念を感じさせるような、ぐっと深く重い物語を見たいと思う今日この頃。これは、ノラネコさんと樹衣子さんの影響ですね、ありがとうございます。

あらすじ
テヘラン近郊の海辺のリゾート地にバカンスに訪れた男女の中に、セピデー(ゴルシフテェ・ファラハニー)が誘ったエリ(タラネ・アリシュスティ)もいた。トラブルに見舞われながらも初日は楽しく過ぎ、2日目に事件が起きる。海で幼い子どもがおぼれ、何とか助かったものの、エリの姿がこつ然と消えてしまっていたのだ。


■秀逸な心理ドラマ〜普段の関係性の中に隠れているものをぶり出すことの怖さ

イラン映画なんかは、なかなか好きな人じゃなきゃ見ないだろうなーとは思いますが、非常に秀逸な心理ドラマの作品でした。ミステリーのように宣伝されているけれども、そういうミステリー系統ではないと思うんですよね。僕の中のイメージでは、吉野朔美さんの『恋愛的瞬間』(これ傑作ですよ!)みたいな、人間の内面に踏み込んでいく、というかそれをあからさまに暴いていく心理劇に見えました。


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後半の展開は、場がぐっとしまって秀逸です。この映画の核心は、普通に生きている一般市民が、エリという女性の不在をきっかけに、普段隠されているものが浮き彫りになっていく心理過程です。実際のところ、本当に普通の都市に暮らす中間層の市民たちなので、そこまで劇的なことはありません。けれども、それまでの彼ら友人づきあいの非常に深い関係にあるように見える(友達夫婦同士で別荘を借りて泊りにくるくらいだから…)ので、その「仲の良い絆」の陰に隠れているものがあぶりだされてくる様はなかなかスリラーです。その部分がミステリーとコピーをつけた理由かもしれません。


ああ、似た感じでは、きづきあきらさんの漫画『ヨイコノミライ』も似ているかもしれません。これも、というかこの人の書く作品はどれも、エグいですよね。過去の記事で「なんでここまで自分の実存の弱い部分を暴いてさらけ出して壊さなければならないのか?」という設問をしてみましたが、僕らは、柔らかなブランケットに囲まれた都市生活のブルジョワシー。こういった明日が安定して毎日が続いていく檻に飼われた動物は、どうしても、その極限を見てみたくなったり、安定している関係を際まで追い詰めて、追い詰めて「真実」が見たいという衝動に駆られるのでしょう。孔子の「礼」ではないですが、礼儀を、虚構で嘘ととるのか、それこそが本質なんだと考えるのかは、なかなか難しいところだと思います。だって、学校にいって、会社にいって、社会で「楽しくうまく生きる」ためには、嘘の仮面の笑顔と前向きな姿勢ばかりが重要ではないですか。それ以外で、社会は受け入れてくれないし。個人の実存の寂しさを聞いてあげるほど、社会は寛容ではありません。けど、なら「ほんとうの僕はどこ?」という気持ちになるのはわからないでもありません。礼儀というか同調圧力への妥協と屈従は、結局は、嘘じゃないか!!と告発したくなる気持ちは、僕ら現代資本主義社会の役割に拘束される人生では必然の欲求なのでしょう。


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こういった普段隠されているものをあぶりだすというのは、それだけである種のホラーになるんだと僕は思います。残念ながら、オチ自体はカタルシスがある感じで、「わかりやすく」オチなかったので、あのテンションのある過程だったらもっとエンターテイメント的に落としてもいいのではと思ったが故に、星の数は僕にしては低いです。ただし、映画の構成上は、最後に結局「あれがほんとうに、ほんとうのエリだったのか?」という不安感を観客に残すことを設計しているのでしょうから、あれが正しいのだと思います。この似たな終わり方は、『インセプション』のコマが倒れるかどうかがわからないで終わるのと似ている感覚ですね。この現代的な共通のテーマなのでしょう。


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本作のポイントは、事件の原因を作ってしまったセピデーが、基本的に善意の人であるというところだろう。
彼女は誰かを傷つけようと思った訳ではなく、むしろ嘘をつくことで、余計な波風を立てずに、エリとアーマドに幸せになってもらいたかったのだ。
実際、もしもエリが姿を消さなければ、すべては上手くいっていたはずだった。


だがセピデーの問題は、その善意が一体誰のためなのかが自分でもわからなくなっている事だ。


何しろ彼女は、エリが何者なのかすら本当は知らないのである。


まあ日本にも、頼まれてもいないのにやたらと他人の世話を焼く人は珍しくないが、親切と御節介は紙一重
この物語では、セピデーの小さな善意の嘘が、結果的に関わった全ての人間関係をグチャグチャにしてしまうのだが、それによって浮かび上がったのは、人間という存在の何ともミステリアスな複雑さだ。
エリを探す事は、実は人間を探す事なのである。


我々は、知っていると思っている身近な人を、或いは自分自身を本当に知っているのだろうか?


ノラネコの呑んで観るシネマ
http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-405.html


僕も本作の鑑賞ポイントは、すべての問題の始まりであるセピデーの「小さな善意の嘘」と「エリの不在」の二つが組み合わされることによる、「あたりまえ」の消失だと思います。なんというか、エリがいなくなるまでの、このメンバーの楽しそうな雰囲気って凄いじゃないですか。何事もうまくいっている、とまさに人生の素晴らしさを謳歌しているような。けど、それは、実は、非常に微妙なものの上に立っていることが、どんどん暴露されていくわけで、、、、けど、その問題の根源をどんどん探ると、セピデーの「善意」に行き着くんだけれども、セピデー自身もどんどん混乱して、「いったい誰のための善意」だったのかが良くわからなくなる。これってなにをいているかというと、人間の行動や動機って「底が無い」って言っているんだと思うんですよね。つまり、自分でもなんでそんなことをしたのかってのは良くわからない。人間はそういう生き物。みていると、そんなことを僕は思いました。結局のところ、物凄く仲がいいと思い込んでいても、「相手のことを本当にどれだけ知っているのだろうか?」ということが、人間関係の世界にはよくあります。これはとても普遍的な問いだな、と思います。結局エリという人間をほとんど全くセピデーは知らなかった。それを通して、その他の人々の関係だって・・・・と敷衍されてしまうわけです。とても怖い物語ですね。僕らは礼儀を守って周りとの同調圧力におもねって生きている中で、どれだけ「相手のことを、そして自分のことを良くわかって生きているのででしょうか?」そんなことを考えさせられました。まぁ反抗して生きればアウトサイダーとして社会から弾き飛ばされるわけで、なかなか「よりよく生きる」というのは難しいものです。


イラン映画が本当に普通の都市生活の中級所得者層を描いている

何かの記事の切抜きで書いてあったが、この映画を見ると、これがイランの日常なのか?って結構驚いてしまう。日本にいると、友人でもいない限り、イランというのは、イラン革命以来の宗教国家で、アメリカに良く楯突いて核兵器開発をしているしていないでもめているというようなイスラムの国に見えるんですが、この映画を見えるとどうしてどうして、普通の近代国家にしかみえません。だって、カスピ海のリゾートに男女八人と子供達三人で、遊びに行くってのは、イメージ的には、山中湖のコテージとか伊豆とかに仲のいい夫婦で遊びに行くような感じなんですよね。しかも冒頭の車の窓から大声で叫びわめくシーンは、暴走した若者のそのもの(苦笑)。ああ、はじけているんだなーってのがわかります。僕も学生の時を思い返すと恥ずかしながらあのノリは良くわかります。メンバーは、アミールとセピデー、ペイマンとショーレ、マヌチュールとナジーの三組の夫妻にその子供。そしてエリの白のルイ・ヴィトンのバックや、グッチのサングラス、プジョーの車など、僕らがもっているイランのイメージを打ち砕く、豊かな都市生活者の感じ。イスラム教徒らしく女性たちがヒジャブをかぶっていることだけが、唯一の違いで、それ以外は、ノリノリの学生や仲のいい若い夫婦が、ちょっとはじけて遊びに行くとい先進国の風景の何もかわらない。


イスラムの原理的な国は、映画自体が否定されることが多い中、よくよく考えれば、バフマン・ゴバディ監督の『ペルシャ猫を誰も知らない』(これみたい!)やジャファル・パナビ監督の『オフサイドガールズ』とかとか、イランって中東では映画が凄く振興されている国なんだなと、いまさらながらに思う。それって凄いことだ。ノラネコさんもいっているが、よくよく考えればホメイニ師による革命以前は、パフラヴィー朝で何でもありの享楽国家だったわけだもんねー。そういう融通性は、生きているのかもしれない、と思う。あっ、この『私が女になった日』も見たかったんだー、、、こんど探してみよう!。・・・ちょっと検索するだけで、ざくざく面白そーなのがある・・・。うひゃーすげぇな、イラン映画

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この都市に暮らす人のベースの嗜好や生活様式、あふれるブランド物や休みの日の友人と別荘に出かけるような日常、こうした『日常』の基盤があってこそ、上記の隠された人間関係をあぶりだすことに意味があるわけで、テーマもガジェッドも非常に現代的。まさに、われわれが生きる、「終わりの無い日常」の不毛感覚のものです。なんかびっくりしてしまった。そういう意味では、キアロスタミの初期の作品ぐらいで、イラン映画はご無沙汰だったので、ぜんぜん追いつけていないかったということだ。これはうれしい。



■見に行った理由〜より複雑で重いものを通して人生の複雑さと深さを

最近、上記でも書いたが、『瞳の奥の秘密 El Secreto De Sus OJos』やイチャンドン監督の『ペパーミントキャンディー』とか、結構重い映画を好んでみている。仕事は、あいかわらずというか普段より忙しいのだが、やはり子供の手がかからなくなっている(といっても、、、すげー大変だが)ことなど精神的にぐっと楽になっている部分があるのだろう。結局は人間は環境と背景の奴隷的な生き物。見る時の外部環境で「モノの見方」なんてものは簡単ひっくりかえってしまう。人間は、ほとんど過半が脊髄動物的反射の生物なのだ(ちょっと諦念(苦笑))。どうもいまは物語というか趣味に対して、癒しや逃げの側面よりも、「よりもっと深く」とか「より何か変化への手がかりを」みたいな意欲があるので、こういう作品に回帰しているのだろう。まぁどんなものからも、その奥にある真の複雑さや豊かさを感受できれば理想なのだが、それは実際無理。表象というものがあるかぎり、なかなかニュータイプのようにダイレクトに本質にはつながれないんものだ。僕もいいがちだし理想として設定するけれども、本質をちゃんと分かれというのは、非常に傲慢なモノ言いなのかもしれないなーと思う。「わかる」ということは、自分の感受性のスタイルを越境することは、物凄く難しいことだから他人に強制できることではない。するなら、うまく説明しないとなー。僕が導入本を重要視するのは、そのへんゆえんです。日本のリベラルアーツというか、「知」に対する多様さへの寛容が凄く少ない気がする。工業メインの近代国家だったからかなー。友人にはアメリカに学位をとりに行った人が多いが、ほんとかの国の授業の種類の豊富さには、羨ましさでため息が出ます。


それにしても映画をじっくり見ようとする意欲が強まるのは、いったい何年振りだろう。自分でもすごい嬉しい。こういう時は、ご飯もお水もとても美味しく感じるものだ。自分の内的感覚を観察すると、こんなふうに複雑で重いものを読み解きたいという思うのは、数年ぶりくらいだ。僕は聖書の言葉、、、というよりも栗本薫さんの伊集院大介シリーズによく出てくる「何事にも時がある」という言葉がとても好きで、死するに、愛するに、「時」がある・・・・というように、何事にも、「正しい時」というものはあるように思っています。「よりよき人生」を送るためには、自分の「内面から出てくる衝動」と「外的環境からの必要性」を上手くマッチングさせて、それが、正しいチャンスに重なるようにしていくことだと思います。なかなか難しいですけどね。でもこの感覚がないと、イチャンドン監督の『ペパーミントキャンディ』の主人公のように人生を損なってしまうのだと僕は思います。人生には、時があります。

そういえば、テニス漫画の『BABYSTEP』で、自分の「本能の声」と「理性の声」をバランスよく聴け、というのがありましたが、過半が背傷動物的反射で生きている我々に唯一できるとことは、コントロールすることよりも(それは実際には僕は難しいと思う・・・)、きっとそのタイミングをよく見つめることが重要なんだろうと思います。ちゃんと、いろいろなモノに「耳をすまして」生きていれば、正しい声がより分けられると思うのです。

ベイビーステップ(13) (少年マガジンコミックス)

話がまたずれました(苦笑)。何が言いたいかというと、先日のカンパネッラ監督の『瞳の奥の秘密』もこの映画もそうですが、こういうマイナー系のしっとりとした映画は、解釈力をとても要求されるし、精神的に平衡状態でないと映画からの問いかけが強すぎて、なかなか見れない、と僕は思っています。いやイラン映画でいえばキアロスタミ監督の『桜桃の味』や『友だちのうちはどこ』などでもいいし、韓国映画イチャンドン監督の『殺人の追憶』とか、まぁ他にも『ベティーブルー』とか『パリテキサス』とかトラン・アン・ユン監督の『青いパパイヤの香り』とか小津安二郎監督の『東京物語』や溝口健二監督の『雨月物語』でもなんでもいいんですが(てきと−です)、こういうのって好きな人は見るけど、メジャーですげぇ面白かったぜハリウッド!的なモノとは違うじゃないですか。僕は精神的に余裕がない時はほとんど受け付けません。ふつーは、もっと、シンプルで、希望があって、わかりやすくて、ちょっとH(笑)で、笑えて、泣けてがいいじゃないですか、、、、、。映画に求めるものが何かで、その時のチョイスは凄く変わりますよね。感情の情動(=動物の脊髄反射の部分)を動かしてほしい時と、拠り奥の深く乗り性も含めた「何か」を揺り動かしてほしい時では、チョイスは変わってきます。

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