『殺人の追憶(2003年韓国)』 ポン・ジュノ監督 ソン・ガンホ主演  極端な流動化で翻弄されていく時代の狭間にある闇

殺人の追憶 [DVD]

評価:★★★★★5つのマスターピース
(僕的主観:★★★★★5つ)


圧倒的な重厚感。映画としての出来をいうのならば、文句なしの名作ですね。ただし凄まじく重い物語だけに、体調がよく精神的にダウナーでない時にお勧めです。1986年から1991年にかけて大韓民国の京畿道華城郡(現在の華城市)周辺で、10名の女性が殺害された未解決事件で、韓国史上最初の連続殺人をモチーフにした映画です。まず最初に、


「この映画は1986年から1991年の間、軍事政権のもと民主化運動に揺れる韓国において実際に起きた未解決連続殺人事件をもとにしたフィクションです」。


という一文からこの映画は始まります。そして、徹頭徹尾その通りの脚本で、それ以外なんのケレン味も手練手管もありません。ストレート一本やりで、事件が淡々と発生してゆき、そして解決されないままで終わります。この直前にイ・チャンドン監督の『ペパーミントキャンディ』(これも大傑作!)を見た直後で、この作品が、列車に飛び込んで投身自殺した男性の過去を、少しづつ遡っていくという「時系列の逆転」「遡り」という映画の構造を持つ、いってみれば複雑なプロットだったのですが、それの後だけにプロットの単純明快さは強烈だった。


にもかかわらず、その背景から浮かび上がってくる「その時代の重い空気感覚」は、どっしりと重く複雑な何かだ。本当に作品自体は地味だ。いってみれば、ずっと韓国の田舎の村の畑の風景が続くだけといってもいい感じがする。けど、この韓国の田舎の圧倒的な質感は、きっと美術担当者が執念をあげて作り出しているものではないかと思う。この「濃密な空気「」の統一感は、監督なり美術の徹底した作り込みがなければ成り立たないと思うからだ。僕は過去かなり韓国の田舎は列車や車で回ったが、まさに、という風景だ。イメージ的には、岩井俊二監督が、夏の栃木の風景を見事に切り取った『リリイ・シュシュのすべて』を思い出す。大都市で近代化が進んでいく中での、取り残されていくような田舎の風景。ちなみに最初から僕は、風景で『リリイ・シュシュのすべて』を連想していたのは、そのどちらも、「人間存在の悪」というものが、理解不可能な、何か別の次元にあるような圧倒的で息苦しい濃密感で描いているからだと思う。ソウル近郊の村と東京に近い関東の周縁部という地理的な類似性も感じるなぁ。

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また同時に韓国も日本と同じ北東アジアの民族なので、村社会の土俗的共同体の濃厚な影が見え隠れする。考えてみれば、韓国映画は、こうした泥くさい部分をベースに置くと傑作が多発するような気がする。まだ日本よりも、村共同体のしがらみや織りが色濃く残っているからだと思う。これは日本映画でいうのならば、横溝正史シリーズを撮った市川崑監督のようなものですね。この『殺人の追憶』は違いますが、近代化の過程でこの過去の土俗的な部分と近代化の光の部分が奇妙な混淆を為す作品は、素晴らしい傑作が生まれやすいようです。

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さて、僕は人間が物事を受け取る感受性には、「どういった記憶があるか?」に凄く依存すると思っています。たとえば、何年も前に韓国映画にはまっていた時期があるのですが、いまの僕とは見ている視点がかなり違います。というのは、その後、韓国の顧客を担当で持って2年間毎月のように出張に行っていただけに、今では、この田舎の風景や街並みは、凄くすっと自分に入ってくる。必ずご飯につくキムチや、鉄のはし、ご飯の入った鉄のお椀、焼酎をあおるガラスのお猪口、、、、そして、一緒に仕事をしていた仕事仲間の韓国人や取引先の社長など飲みまくった日々の記憶が、同じ情景でもファンタジーのような異世界ではなく、はっきりとした「質感」と「実在感」を持って感じるのです。特に、ディープにつきあった仕事仲間が、まさにこの作品の世代と被ることもあって、韓国の近代の歴史が頭をよぎります。何事も「そこにある深さ」は、風景・・・・その空気の持つ質感や、その時間を経てきた人間そのものとのかかわりがないと、リアルに迫ってこないものだ、と今更ながらに感じます。やっぱり、たくさんの経験をすることって、素晴らしいな、と思う。こんなにも韓国映画がぐっと肌に入って面白く感じるようになるとは思わなかった。といっても体験至上主義になって「体験しなきゃわからない」といっても仕方がないですよね。記憶のアーカイブと繋がることができると、また違った感受ができて、より豊かにその世界に入れるってことが言いたかったのです。だからたくさん経験値を貯めて本や映画を体験すると、きっともっともっと濃密な体験を感じることができると思いますし、「その人にしか分からない」感覚があると、作品鑑賞という「受身の経験」であってもそれはまたある意味攻撃的で能動な感受なのではないかと思います。


とはいえ、そういった体験がなくとも「空気の質感」は、監督が見事に演出と技術で我々に伝えてくれるので、そういった「空気の質感」を除けば、やっぱり基礎知識としての韓国近代史の知識がマクロである程度頭にあるかないかでかなり違うでしょう。この1986年から1991年の間は、全斗煥大統領から盧泰愚大統領の頃で、かなり激しい民主化弾圧が繰り広げられた軍事政権下の頃です。いろいろ調べてみたり韓国映画を見ていると、この時代は、国の公安(パブリックセキュリティ)が重要視されてひたすらデモ鎮圧のために警察力や軍事力が使用されていて、実際の犯罪についてはかなりの適当な捜査がされていたようです。そういった治安維持のための警察権力がメインに使われる状況、、、、もっといえば南米のように軍と警察の境がかなりあいまいで、常時、戒厳令が出されているような強権的な時代背景だったことがうかがえます。


いくつかのこの時代の韓国映画を見ていると、ほんとうについ最近、、、、1980年代まで軍事政権があり、まさにいまの2010年代の仕事をしている第一線級の40-50代の世代にとって、初めて仕事を始めたり大学生で学生運動をしている世代なんですね。グエムルに出てくる主人公の弟は、かなり優秀そうなんですが、民主化運動で学生の頃いろいろ頑張ったみたいで、そのせいで就職できなくてぶらぶらしているという設定になっていましたね。こういうのって日本の安保闘争全共闘の世代にはよくあることだったのかもしれませんねー。僕には経験がないのでわからないですが・・・。

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この『殺人の追憶』の主人公のソン・ガンボ(この人かっこいいよなー・・・必ずしも二枚目俳優でないところの重厚感が最高)は、2年制の大学を出て刑事をしているところで、この連続殺人事件と出会うんですが、その後、何年もたって現代になった最後のシーンでは、どこかのたぶんIT関係かコンピューターのハード関係のサラリーマンになっている。ものすごく貧しく小さい家で恋人と暮らしていたシーンが若かりし刑事時代であるのに比較して、非常に豊かな中産階級の生活をしている。このギャップって、、、何かぐっと来るものがある。これって、たぶん日本でいえば高度成長期の僕らの親の世代(団塊の世代より少し前)位のイメージなんだと思うが、IMF危機など激動の振幅はあるものの、基本的に20-30年前よりも韓国社会は、格段に近代国家として資本主義国家として成熟しつつある。つまり高度成長を遂げ、それが安定した時代だ。2010年の現代で考えれば、都市生活はもう日本の生活とほとんど区別がつかない。こういったエンターテイメントの質と量がそれをはっきり示していると思う。


つまり、ほんの20年前までの時代の貧困や政治的不安定との落差がとても大きい。「落差」がとても大きいということは、その時代を生きてきた世代にとっては、凄まじい激動だったということになる。この「何もかもが変わっていった時代」を駆け抜けたことが韓国の今の40-50代の世代にとっては、大きな意味を持つのだと思う。この極端な流動化の時代を経てきた人の持つ「重い空気の質感」が分からなくして、たぶん韓国映画は理解できないのではないか、と思います。現代の日本社会と全く逆ですね。流動化が激しすぎて、社会に安定した階層が存在しない新しい社会。彼らは、社会の大変革期にその人生を翻弄された。その翻弄感は、日本社会の比ではないと思う。なぜならば、韓国社会は、大日本帝国によってその根幹を破壊され、そしてその次には、アメリカと朝鮮戦争によって全くゼロから作りかえられてしまった社会。基盤的なスキームや共同体、組織がすべて残った日本社会とは、全く違う社会です。それ故に、時代に翻弄されるにあたって、個人にはまったくセイフティブランケットなしで生きてきたのです。このへんは、たぶんサムソンとLG財閥の創業を描いた下記のドラマとかで描かれているんじゃないかなーと思っているんですが、まだ見れていないです。すげー見たいけど、韓国ドラマ、長すぎるんだもん(笑)。うれしいけど・・・。


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そしてイ・チャンドン監督の『ペパーミントキャンディー(2000年韓国)』は、この時代の大きな動きの中で、人生を損なわれていってしまう様を見事に描き出している。若かりし頃のというのは誰にとっても、ノスタルジーをもたらす輝いていた時で、そこからの喪失感が、この落差によってとても大きなものになっていく。なぜならば、こうした外部環境のマクロの変動というのは「自分ではどうにもならないもの」だからだ。自分にとってコントロールできない、何か大きなものに翻弄されて、人生が損なわれていくことに、人はとても大きな感慨を持つのだと思う。この時代が大きく動いていく中で翻弄されること、人生が損なわれていくことへの無力感この近現代韓国社会の激しい流動化に対する感覚がないと、たぶんこの映画の「空気の質感」が捉えきれないで、終わってしまうのではないかな、と思います。



この「落差」が最も出るのは、韓国映画においては、暴力の描写だ。韓国映画では、暴力が不思議な政治性を帯びるのですが、この映画の主たる観賞ポイントは、主人公の刑事が時代背景に合わせて自白のために殴る蹴るの暴力を繰り返し平気で犯人をでっちあげていく部分です。証拠捏造も当たり前。これは、近代国家としては未熟ですが、そもそも強い権威的な政府による高度成長はアジアの基本的な発展の流れなので、日本の戦前の特高警察から60年代くらいまでもほとんど変わらないと思います。だいたい、日本社会はアメリカに10ー20年遅れて同じことが発生するし、韓国社会は日本に10-20年遅れていろいろな似た社会現象は発生するので、そういうものなんだと思う。まともに資本主義の民主主義国として発展すれば。そうした背景の中では、この刑事(=体制の末端)が、秩序の維持のため、とにかく暴力で政治的意図のもとに市民を抑え込んで抑圧するというのは、基本なのでしょう。けれども、政治的な秩序の破壊者でないカテゴリーでは、この政治性が裏目に出て、どんどん被害者が拡大していくことになります。実際には、この主人公の刑事は、やっとのことでほぼ真犯人だと思われる相手を検挙するのですが、それまでにあまりにも嘘をでっちあげて犯罪者を「つくって」きたので、最終的なところで、凄まじい犯罪を起こしたであろう犯人が、本当に犯人なのか?が、わからなくなってしまいます。この自分たちが、体制側の正しさだと信じて行ってきたことが、成熟社会になるにつれて、「何が正しいことなのか?」が分からなくなっていく部分が、韓国の物語では重要な観賞ポイントであると思います。日本映画や小説でも、横溝正史でも市川昆でも、土俗的な日本の古い共同体が、近代化の途上で移り変わる「その瞬間」を描いたものに傑作が多いのは、まさにこの「変化」の部分が、人間に深い感興を感じさせるからだと思います。韓国映画では、この部分は、刑事の行う捜査の暴力で凄く表れている気がします。たとえば、2008年の大傑作のクライムムービー(これも実話がベース)である『チェイサー』と『殺人の追憶』や『ペパーミントキャンディー』の刑事の取り調べのシーンを比較するととても興味深いです。『チェイサー』では、この時代に被疑者を殴るとは何事だ!!と、警察の上位階級の人間が怒り狂って怒るシーンがあり、猟奇殺人の犯罪者を逃がしてしまうのは、検察が取り調べに置いて被疑者を殴ったことに対して、市民に自白を強要した!と問題視したからなんですね。これは、いい意味で近代国家としての検察機能が機能しており、市民の権利が守られているということなんですが、物凄い逆説なのは、「それが故に」猟奇殺人犯を取り逃がして、さらなる被害が発生しまうんですね。韓国社会が、市民が権威や秩序を盾に暴力にさらされることが少なくなったその代償に、警察組織の官僚化によって、猟奇殺人の犯人が捕まえられなくなる・・・・。これって、非常に逆説的なことを表現しているんでしょうね。このへんの現場の刑事の無力感や喪失感が、多くの名作といわれる韓国映画のベースにあるように思えます。


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