『超弩級少女4946』 東毅著 セカイよりもお兄ちゃんが大事です

LD  ある意味で一番正義の味方なのは玖海ですよ。彼女は人の生命を相当救っているはずですから。でも本人に全くその気はないというかw動機ではなく、結果として正義の味方なんですよw(座談会より)

それから、飛田玖海はいいですよねえw「お兄ちゃん(マコト)大好き!」ってレベルじゃなくって「兄の為に生命を賭ける!」と決意している。ちょww『葉隠』!ww…というヒロインとしてもそうですが、女ヒーローとしても。ここで語ったように、彼女は、退魔稼業そのものには大した意味を見出していない“結果のヒーロー”なんですけど。でも、僕は「結果を出しているヒーロー」が大好きなんです!w(`・ω・´)




今何処(今の話の何処が面白いのかというと…)
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あいかわらず、妹好きのペトロニウスです。
もう玖海ちゃん、かわいくて、たまらいっす。


僕は、、、、うん、LDさんの意見に賛成。僕はヒーローとしては、欠陥品でも、センリのゆうなやつよりも、もしかしたらマコトのようなやつよりも彼女のような人が好きだ。

人ってのは、「正しくあれない」もんなんだと思う。僕には基本そういう世界理解の前提がある。ちゅーかそうあってほしいというか・・・・。かつて中島梓は、人間はめちゃめちゃに壊れたラジオのような状態で生まれてくる、、、それがちゃんと電波を正しく受信できるように自分で自己修復していくことが、「正しく生きることだ」というようなことを言っていたのを思い出す。僕は暗く輝く鬱屈したコンプレックスや動機が、人をどこかに連れて行き、その中で大切なモノを守ろう、信じよう、頑張って行動しようとあがくうちに、世界の大きな波にさらわれていくのが人生なんじゃないかなって思う。最初から正しいヒーローは、それはいるかもしれない。けど、僕はきっと、そうでない人を好きになると思うなーとかとか。


そういう意味で、「世界を救うヒーロ」としては、玖海ちゃんは、壊れているんだよね。セカイとお兄ちゃんでいえば、お兄ちゃんがすべて優先されるんだもの。それは、究極的には正しくないことなんだけど、、、、単純なセカイ系ではなくて、、、、ってセカイ系の定義は多種多様で難しいんだが、ようは「セカイと好きない人どっちが大事?」と問いを発して、「好きな人」の方が「セカイ」よりも重い!という流れに傾くドラマトゥルギーを持つものが、セカイ系の基本形だと思う。そこからすると、『超弩級彼女4946』は、そもそもめずらしくこの構造を持ちながら、「セカイ」の方が重いことが設計されている作品だと思うんですよね。そうした瞬間に、まなと主人公の恋愛の不可能性がハードルになって、、、、とけっこうしかけある。僕はセカイ系の作品の出口は、「組織」と「組織を支配する中核の絆」が描かれることによってブレイクスルーすると考えていたのだが、そういう意味では、この作品は、セカイ系の構造はそのまま残しておきながら、恋愛(=セカイと愛する人とどっちが大事?)にハードルを設けることで、どのタイプの恋愛の全うの仕方が、世界にとって善きことなのか?というマクロの問いかけを入れることによって、恋愛(=対幻想)が二人だけの世界に閉じていく(=セカイより好きな人が大事だ!)という「閉塞」への逃げを許さない構造になっている。そこに、同類型の、セカイ系キャラ・・・・大事なモノが、セカイと愛(=好きな人との恋愛の関係性)の2元論に収束する類型、、、ようはセンリと玖海ちゃんを出すことによって、この関係性について、深みを見せている。


個人的には、僕が好きな大河ドラマ的な方向には、組織が描かれていないので発展しない作品なのだが、さすがは、過去の同人誌でのテーマがテーマなだけに、興味深い構造を備えている作品だ。


超弩級少女4946 4 (少年サンデーコミックス)