『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』 伏見つかさ著 自意識の視線〜一人称で世界を切り取る小説と神の視点で世界を構成するアニメーションの違い

俺の妹がこんなに可愛いわけがない〈2〉 (電撃文庫)

前に一巻で、オタクの自己肯定の視線を感じてしまって、深く入れなかったと書いたが、アニメが思いのほか好きで(歌が好きだなー)読み直してみたんだけど、やっぱり同じことを思う。けど、アニメでは同じ場面を、ほとんど同じに書いているのにそういう「臭み」は全然感じない。なぜなんだろう?。


いや、もちろんオタクの自己肯定の「臭み」というのは観賞側の、この僕の心にあるもので、作品そのものに内在しているものはではない気がする。いま5巻まで来ているが、とてもよくできているし、テーマ自体がアイディアを超えて、とても関係性を丁寧に描いていて、僕はとても好き。いい小説だと思う。この点は重要だと思うんだ。「それ」がテーマの主軸にあるか、意匠に過ぎないかは、きっと長く物語を描けば、確実出てしまう。


けど、1−2巻は、やっぱり上記の感想を感じてしまったのだが、、、、これふと理由が分かった気がする。タイトルに書いてあるのが答えなんですが、きっと、これは主人公の京介の「一人称」で物事を説明する小説の形式と、世界そのものを「外側から覗き込む」神の視点で構成されるアニメーションの違いなのかもしれない。