日常ったんだろう?

日常 (3) (角川コミックス・エース 181-3)


日常と非日常と、というのはとてもいい概念だなぁ。レスター伯さんに、世代の違いで、この「順番」によって世界を見る姿勢が違うんですよ?的なことを指摘されて、目から鱗が落ちた。


なるほど、70年代の生まれの人間にとっては、まだ「非日常への憧れ」というのが強い輝きがあって、まぁちょっと上の世代に安保とか全共闘とかカウンターカルチャーブームがあって、世界を見る姿勢が、「非日常への強烈な憧れと幻想」に拠っている。それは、貧・病・苦という、物質的な基礎概念が欠乏しているから、その欠落意識に支えられてのものだったんだと思う。しかし、70年代後半から80年代の生まれの世代になると、もうそういった物質的な欠落は広範な幻想の基礎にはなりえなくなってしまった。そうすると、世界というのは「非日常がやってくる」とか「それを強烈に希求する」という期待や憧れが消失してくるんだ。社会学でいう物質地平(だっけ?)のなんちゃらってやつだな、きっとたぶん(てきとー)。


これって僕がブログでいつも述べる文脈論のあらすじなんだけど、これに準拠しながらレスター伯さんの言説に拠れば、僕は70年代前半の生まれの世代なので、強烈に「非日常への幻想と憧れ」があって、何も考えないと、すぐに「異世界へ飛ぶ(=非日常で世界を見たい・日常を飛び越えたい!)」というファンタジー形式に親和性が生まれてしまう。僕にとっては、世界はそうとらえるのが普通と思っていた。


けど、レスター伯さんに拠れば、僕の一つ下の世代になると、そもそも自分の生まれた時から目の前にあるのは「非日常の可能性がほとんどな・終わりなき日常」の風景であって、「非日常へ飛躍する」ということに違和感が感じられてしまう世代が登場した、というように僕は理解しました。これはさらに下に行くほど強烈になっていくので、そのトレンドにしたがって、日常系の物語が広範囲支持を獲得していくことになる。それは、いきなり非日常に飛躍することが、うそくさく感じてしまう感覚が80年代生まれの世代から急速に基礎化していくからなんだと思う。


そうした世代の人間は、そもそも「日常は終わりなく存在するもの」であって、非日常への希求は当然人間だからあるものの、いきなり飛躍することは感覚的に受け付けることができない。というのは、地方や郊外化の進んだ均質的な風景に住んでいる「終わりなき日常」の無味乾燥さが生活世界の基礎となっている人にとっては、世界の豊かさや基本イメージが、「日常」そのものだからだ。そうすると、「非日常を感受したいという欲求」が、「非日常に飛躍する」のではなく、「日常をずらすことや日常のフレームを時間的に切り取る(これはギャグのことなんですが別途細かく説見するつもりです)ことによって、日常の戯画化、ギャグ化、不条理か、物語化を図ることとして展開されるようなのです。


それまでも、ギャグ系の物語でこうした、日常を差異化していくことは、、、道化の伝統を文化人類学的な機能分析を見るまでもなく、ギャクやユーモアなどの重要なコア概念です。けれども、この手法が、時代的な感受性に重なって、「日常をずらす」ことに拠って「終わりなき日常の無味乾燥さを飽くまでベース」にしたまま世界を眺めるけれども「ちょっと非日常(TH?)]を志向するわけです。藤子不二雄が、SF(少し不思議)という概念を早くも先取りしていたのは、本当に凄いことなんだ、と感心します。これらの展開の幅や距離の違いが、セカイ系といわれる「世界の運命が小さな関係性(=日常)で左右される」という感受形式などを生むにいたったのではないか、と思います。



さて、それは、レスター伯さんやいままでのこのブログで言っていた概念をわかっていれば、すぐ思いつくことなんですが、『アマガミSS』を見て思ったのは、恋愛というのは常に「日常をベースにした非日常の感受」のスタイルであって、これは既に、上記の文脈にのっとりながら「非日常」を感受する形式案ですよね。恋愛(=対幻想)は、普通の日常を極端に非日常化します。


・・・と書いていて、疲れて止まっていたのですが、もったいないので、あげておきます。


ちなみに、日常の概念から、、、、日常のままで非日常を扱うのは実は恋愛なんだってことに気づいたのは、アマガミSSを見ていながら。。。