『青空エール』 河原和音著 主人公のあこがれに向けて努力する姿に切なさを覚えます

青空エール 6 (マーガレットコミックス)

評価:★★★★★5つ/まだ途中ですが評価は変わらないと思う
(僕的主観:★★★★4つ)

河原さんは、なんというか、もうある程度水準を超えたものしか作らない感じがするので、よほど失速しない限りは、ずっと★4−5クラスの作品を出す人なんだろうと思う。これもとても面白い。・・・が、前もコメントで書いたが、この作品は、とても切なくて、胸がギュッと来る。恋愛の切なさ、というのではなくて、スタート地点が遅いところからビルドゥングスロマン(=自己成長を描く物語)の
王道ともいえるエピソードの連発
なんだが、、、、ふつうは、もっと、万能感、全能感あふれて描くか、もしくは何らかの才能があるという設定で描くものなんだけれども、この作品には、それが一切ない。はっきりと、スタート地点が遅い人間が、いかにだめなのか、ということをこれでもかっと繰り返し繰り返しつきつけられる。はっきりいって読んでいて、いじめ???これっていじめなの???ってくらい、主人公の女の子にとって苦難しかおこらない(笑)。もちろん、いじめではなく、これは単に、「事実が主張されているだけ」というところが、さらに切なく苦しい。けど、、、




これ、読んでいて読者はつらくならないのだろうか?と思う。



えっと、この後の話が全然違う、話に進んだので、そこはカットして別の記事にします。・・・・と言いつつ、書き直した下も全然違う話になっている気がする・・・・(笑)


ここで言いたいのは、この主人公の少女つばさは、大介君という甲子園を目指している男の子への恋と、その一途な生き方へのあこがれから、自分も「そのようであれたら」ということで熱血部活モノの物語(=ドラマトゥルギー)の世界に入っていきます。


けど、高校から始めたブラスバンドで、簡単にレギュラーをとれるほど甘くはありません。厳然たる経験と練習量の差が、特に目立った才能がない翼には、越えられない壁として存在します。この物語は、ずっと、これでもか!これでもか!!と、この壁の厳しさを問い続けることで、けど、それを「前に向く力」につばさが変えていく物語として構成されています。けれども、なかなか難しいのは、つばさって、特に目めだった才能がないんだよね。


才能には二つあって、


1)物理的な才能(=ここでは音楽自体の才能ね)


と、


2)前向きに努力し続けて世界をポジティヴとらえる才能


もちろん、1)があれば話は簡単。天才の物語というドラマトゥルギーに転換されるんです。つまり、「もともとある(=隠れている)才能をどうやって引き出すか?」もしくは「才能を維持して世界の手が届くためにしなければならないことをこなせるか?」という物語。この物語類型の作り手が気にしなければならない点は2点あります。それは、隠れていた才能が見いだされるというのは感情移入する側にとってはとても気持ちがいい全能感を満たしてくれることなのですが、あまりに才能が桁外れすぎると、世界を見るスケールが大きすぎて、「そんなことあるわけないじゃん」とか「これって私とは違う」といって共感を拒否されてしまうことです。この典型例が、曽田正人さんが描く物語です。彼は、もともとの原初として想像を絶した天才(ここでは彼はアイルトン・セナがその原型にあるようです)を描きたいと常々言っており、それが故に、『昴』の第一部が典型的なのですが、これほどの超度級の物語であるにもかかわらず、なかなか読者の共感を得にくかったようです。


昴 (1) (ビッグコミックス)

capeta カペタ (1) (KCデラックス)


じゃあ、1)がない場合はどうするの?というのが、努力の才能とチームワークの物語という話に還元されていきます。チームワークの物語は、『ちはやふる』のような、部活ものとして1)の天才の物語と両立しかねないので、まずここは、努力の才能という物語類型に、話を絞り込んでみましょう。

ちはやふる (1) (Be・Loveコミックス)


努力、、、という言葉を聞くと、いまこの『青空エール』と前の『高校デビュー』が一番思い出しますね。あとは、琴子ちゃんの、ああっと多田かおるさんの『いたずらなkiss』ですね。


高校デビュー 1 (マーガレットコミックス (3728))

イタズラなKiss 1 (フェアベルコミックス CLASSICO)


河原和泉さんの『高校デビュー』と多田かおるさんの『いたずらなkiss』の共通点について依然記事を書きましたが、これって、どっちも、明らかにムリ目の男の子を狙って(『高校デヴュー』のほうはそこまでの差異を演出していないけど)、女の子がひたすら自分が男の子に釣り合うように努力して、猛烈アタックし続ける、という話なんですよね。そのアタックの数々の撃沈ぶりは、涙なしには見れません(笑)。けど、この主人公の女の子たちの共通点は、「ほとんど無理なことに挑戦するとき」に、全く躊躇しないし、グジグジ悩まないし、まっすぐに「自分がほしいと思うことへ努力できる」というところが強みなんですよね。もちろん、最初に書いたように、現実の壁は厳然とあります。琴子ちゃんに対して、入江くんは、虫けらでも見るように一切感情がないのは、最初期には非常によくわかります(笑)。だから何度も何度も撃沈するし、「ことを達成することの不可能性を目の前に突きつけられます」。けれども、主人公たちは、全然あきらめないんですね。解決とかできるわけではなくとも、毎回発生する理想と現実の「差違」について、ちゃくちゃくと、自分なりの解決点や、やりきる努力をしまくるんですね。もちろん、だからといって、物理的な壁は越えられません。けれども、誠実に、全力で事に当たる彼女たちを見て、周りや男の子の心に、様々な思いが発生するんですね。それは当然。


これは恋愛成就の物語なので、個々に発生した「感染」は非常に効果があるんです。ようは、ほだされちゃうんですよ(笑)。それにね、感情が感染するのは当然で、努力というものの「価値」というのは、その「落差が大きいほど意味があるんです」よ。もちろんそれは、プロセスにすぎないので、結果が物理的に出るもの、にはあまり意味を成しません。たとえば、『青空エール』の主人公のつばさが、どんなに極限の努力をしても、、経験と実力の差は大きすぎてほとんど意味を成さないように。けれども、恋愛は違います。恋愛は、「相手の心を動かしたら勝ち」というゲームのルールになっています。そして、共感が強烈な感染になるのは、上記の「落差」をこれでもかと見せつけられる場合なんです。そうやって不可能なことに全力で誠実になんのウソもない行動で努力され続けると、周りの人間は、ぐっとくるんですね。そうすることで、もっと才能がある入江君は、「おれは自分の才能を、琴子のように極限までがんばって届かないものにチャレンジするようなことに使ってきただろうか?という自問自答が始まってしまうのです。誠実に頑張る人が、傍にいることは、人を非常に安心させます。ちなみに、入江君は、才能がありすぎるけどその才能はジェネラルなものなので、この世の中に対する無感動につながりやすい。頭が良すぎる人は、行動がもたらす実感や実存を「理解しよう」として、人生が貧しくなるので。行動や実存は、理解するものではなく、感じるものだ。そこへ、琴子のように、世界にぶつかって体感で生きている人が傍にいると、世界が急に生彩が満ちた鮮やかなものに変わる。なので、その麻薬に浸った入江君は、琴子ちゃんに陥落していってしまいます(笑)。無理なことに物凄い努力を傾け続けることは、実は才能がいることなんです。なぜならば、万人がこの「落差」には非常に抵抗力が弱いからです。そして、後で書きますが、これは、自分の心がルサンチマンで駆動していない状況でないと、安定して「落差」に挑戦し続けられない構造があります。つまり、生得的にナチュラルに等身大に、落差に(=幻想が壊れて現実に突きつけられる苦しみ)に対して態勢がある人でないと、なかなか「挑戦し続ける」ことは難しいのです。ちなみに落差なので、たとえば初期値が高くても落差自体の大きさは、変わりありません。だから落差がある事にぎりぎりまで追求することで発生する視野狭窄的な修羅場感覚」というのは、物事を成そうとする万人に訪れる苦しみのプロセスなので、すごく共感しやすいものであるということも言えます。



さて、この「落差があることにチャレンジし続ける」というのは、絶え間なくこの「苦しみのプロセス」を一身に浴び続けるという地獄の道を歩むことになります。青空エール』のつばさが歩んでいる道は、これです。ビルドゥングスルロマン・・・言い換えれば自己実現や自己成長なんて、苦しいだけなんですよ(笑)。だって、自己否定の連続と、現実の厳しさの洗礼を浴び続けることなんだもの。けれども、『いたずらなkiss』の琴子ちゃんが典型例なんですが、1)の物理的才能がない場合は、すさまじい苦しみが来て、なかなか結果が出ないという二重の苦しみが長引きますが、世の中には、それを誠実に頑張っ行こう!、そしてそれがもたらす体当たりの体感の喜びを、実感して人の中で巻き込み巻き込まれて生きていくことが「楽しい!!!」と思うとても健康的な人が、いるんですね!!(驚きです)。でも、これって、健康でちゃんと良い家族に育てられた人の基本的な性格なんですよ。僕は、ルサンチマンの動機を駆動するコーディネーターに対するナチュラル(=等身大の天然の人)とか呼んでいます(今作った)。


琴子ちゃんというのは、この良い家族に育てられて、ルサンチマンが少なく、何かに対する憧れに出会ったときにそこに引っ張られる動機を持つ「未来志向の前向きな力を持つ人」なんですね。こういうのを僕は、努力ができる才能、とよんでいます。ちなみに、この努力できる才能が持つ人の、大前提は、ルサンチマンのない家庭に育てられた人である、ということです。これは、親が作り出した「家庭空間」によって担保されるものだからです。単純な話、自己肯定を、承認を、子供のころから無根拠でもらっているので「世界から否定されるわけはない」という気持ちが強く前提にあるんですよ。もちろん、そうでないケースも時々ありますが、基本的には、負のルサンチマンと同じく正の承認は、親子7代までたたり、、、じゃない、まぁずっと続きます。ちなみに、津田正美さんの『彼氏彼女の事情』なんかは、この負のルサンチマンの連鎖を断ち切る物語と僕は読んでいます。

彼氏彼女の事情 1 (白泉社文庫 つ 1-2)

http://ameblo.jp/petronius/entry-10002092598.html


逆に、ある家庭の持つルサンチマンやテーマというのは、ずっと引きずってしまうものなので、特に本のような「家」の意識がある地域には特にこの名作が生まれやすく過去の近代日本文学にはこの香りがとても濃いです。パール・バックの『大地』とか思い出しますが、一族の3代を描くと、この人間というものは「親の世代からのテーマ」というものを強烈に引き継ぐものだ、ということが、よく感じ取れます。これは、物語的に劇化されて過剰になっていますが、僕は、人間というもおはそういうものだ!と思います。ルーツから切り離されて生きられる人間はいないのです。特に、歴史の古い地域に生きる国民は、絶対これから逃れることはできません。ちなみに、日本の負のルサンチマンの連鎖を断ち切る話は、大抵がラストに、アメリカに行くという設定になるのは、理由があります。それは、アメリカが人口国家であり、移民によって、、、新しく作られた人工的な「家族」によって成り立つ国だからです。つまり、非選択的な家族や国を、自己選択に変えてしまおうという仕組みが動いている国だからです。


楡家の人びと (上巻) (新潮文庫)

大地 (1) (新潮文庫)


話を元に戻すと、「努力をできる才能」というのは、物凄く物理的な才能がある人の心を動かす(=いたずらなkiss)という物語や、ここで人の共感を強烈に感染させるというテーマから、チームワークの物語というものにつながっていきます。それはわかりますよね。このパターンの最強クラスのものが、『キャプテン』の谷口くんです。これは、努力が極限すぎて、周りを巻き込む力も極限すぎて、天才級の才能を超えてしまった、、、という神の領域に到達した物語です(笑)。

キャプテン 1 (集英社文庫―コミック版)

そしてゆるいものは、部活ものの安定した作品群たちを作り上げます。最近だと周作というか安定していい作品だなーと思ったのが、『放課後ウインド・オーケストラ』ですね。部活ものというのは、ある種のものがカテゴリーですが、部活って、常に、勝負をとるか?仲良しクラブをとるか?という大きなテーマが隠されており、というか、別に物語の類型でなくとも、しょせん学校の遊びというか教育活動であるということと、しかしやるからには勝たねば!、しかも甲子園などの職業や人生に直結するものもあるので、この二元的問題は常に、現実にあるものです。

放課後ウインド・オーケストラ 4 (ジャンプコミックス)


そういえば、ぼくがあずにゃん問題(笑)(まきしまさんのことではない←わかる人にしかわからんな、これ(苦笑))と読んだ話があるんですが、このことについて書いてくれた、海燕さんの記事を、ちょっと引用してみましょう。

でも、ま、部活ものにも二種類あって、ひとつは、『SLAM DUNK』みたいな、『アイシールド21』みたいな、集団のモチベーションがはっきりしているタイプ、「全国制覇めざすぜ!」系。もうひとつは、『放課後ウィンドオーケストラ』のような、『とめはねっ!』のような、特に大きなモチベーションが存在しないタイプ、「まったり皆で楽しもうぜ!」系。そのいずれが正しくいずれが誤っているというものではありませんが、とにかく大別するとこの二種類に分けられるんじゃないかと。



ぼくは前者を「きつい部活もの」、後者を「ゆるい部活もの」と呼んでいます。ぼくは見ていないけれど、『けいおん!』はたぶん「ゆるい部活もの」なんでしょうね。もちろん、この二者は明確に分かたれているわけではなくて、じっさいにはグラデーションを描いていると思います。で、ペトロニウスさんは良く「ゆるい部活もの」は物足りない、みたいなことを仰いますよね。それもわかる話で、過酷な競争社会でもまれているひとにとっては、そういうモチベーションの低い仲良し集団ものは、いかにも甘ったるく思えてもふしぎじゃない。でも、逆にいうと、こういう「ゆるい部活もの」の価値は、その物足りなく感じもするところにあるのであって、その何ともいえないゆるさ、優しい癒しの空間こそが魅力であるわけです。


部活漫画には二種類ある。/Something Orange
http://d.hatena.ne.jp/kaien/20090617/p1

あずにゃん問題(笑)〜日常をたゆたい「いまこの時の幸せをかみしめる」か、それとも志と夢を持ってつらく茨の道をかけのぼるか?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20090628/p1/

『三月のライオン』 志を持って勝負の世界に挑むことhttp://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20090628/p5

けいおん! 1 [DVD]


部活、、、というか集団を描くときには、この勝つことをを選ぶか仲よくすることを選ぶか?ということの命題は、常に念頭にあると、とても興味深く物語を体験できますよ。ちなみに、一般的な分け方からいうと、会社組織には、この命題は発生しません。というかしないのが正しいのです。なぜならば、会社は、アソシエーション(=目的達成するために形成されたもの)なので、自然発生無目的に「共同体(=コミュニティ)」とは別物だからです。これは社会学の常識的定義です。しかし、なかなか興味深いのは、非営利組織の未来を描いた、経営学の泰斗ドラッカーがいうように、組織というのは非常に形態を変えていきます。そして岡田斗司夫さんが主張する昨今の話のように、「好き」という気持ちをベースに会社組織の在り方を定義しなおす時代が来るのではないか?というような説もあります。まぁ、この辺は、余談ですね。先に行きすぎた(笑)。でも、問題点のスタートは、この組織はどうあるべきか?ということにあると思うんですよね。

ネクスト・ソサエティ ― 歴史が見たことのない未来がはじまる
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評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている
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さて、少し最初の問題に戻りましょうか。


1)物理的な才能(=ここでは音楽自体の才能ね)


と、


2)前向きに努力し続けて世界をポジティヴとらえる才能


があるって話で、それぞれの定義や単体の物語類型の例をいろいろ出してみました。この話をめぐる僕の問題設定がわかってもらえたでしょうか?。僕はこんな無駄な意味のないことばかり考え中がら、物語を消費しています。ほんとに金にならない無駄なことですが、とっても楽しいです(笑)。


えっとね、これがミックスされた作品で、興味深いな、と思うのが、サンデーの大御所といってもいいよね、河合克俊敏さんです。

とめはねっ! 鈴里高校書道部 1 (1) (ヤングサンデーコミックス)
とめはねっ! 鈴里高校書道部 1 (1) (ヤングサンデーコミックス)

帯をギュッとね! (1) (小学館文庫)
帯をギュッとね! (1) (小学館文庫)

微妙に地味な印象がありますが、この人は、すべての作品を、凄まじい長さで描いています。そして、そのテンションやレベルがずっと維持されているという、、、つまりは、ずっとおもしろいと僕は思うのですが、そういう作家さんです。すべての作品で、この上記で上げた類型のすべてがきれいにはめ込まれているですよね。『帯をギュッとね!』が最も典型的ですが、粉川巧という柔道の天才!(物理的な才能)の物語を中心にしていながら、部活ものとして、努力が要請されてみんなを巻き込んで行き、チームワークの物語になり、天才が花開く過程として、チームワークで部活の青春ものとしても機能するという構造を持っています。



さて上記に、一点欺瞞というか表現におかしいところがあって、それは、天才の物語と努力の物語が同時に入っている点です。これは、僕の定義からいうと、相反発するものなので、なかなか描きにくい。河合さんが、これをどう回避したのかといえば、『とめはねっ! 鈴里高校書道部』でもはっきりと打ち出されているのですが、



経験と才能の圧倒的な差をひっくり返す方法がるのか?、それがスタート地点の遅い素人集団に可能かどうか?



というテーマが、最初の地点からあるんですね。帯ギュでもとめはねでも、才能に頼らず、どう効率よく頂点に立つ奴いらを倒せるか?ということを考え抜くのです。僕はこういう、ゲームのルールを書きかえるという、裏技的なからめ手攻めが大好きです!、、、、しかし結局時間はみんな同じで全国優勝するような部活をやっている人は、高いモチヴェーションで、あらん限りの時間をそのために費やしています。同じくらいの時間を費やすのは当然としても、ゲームのルールが同じならば、同じ努力をしていては、スタート地点が早かった人には永遠に追いつけません。そんなの当たり前ですよね。



そうすると、、、、あらら、、、、不思議、帯ギュでもとめはねでも、



この深刻な競争主義的な「優劣が動かないゼロサムの競争的世界観」が、ジョークのような笑いに満ちた感じで、ゆがんで壊れていくのです。



これ比喩でも何でもなくて、全編にわたる帯ギュのメンバーのたのしそーでふまじめそーな感じは、本当に青春ものって感じです。仲間と一緒に時を共有する喜び。「真剣になりすぎて視野狭窄に陥った」相手は、みんな負けるんです。ゲームのルールを王道的なものに固執して、、、、って結局は、王道というか正道が一番近道ではあるんですが、それでも、実は盲目的に「長時間訓練し続ければいい」わけではなく、



自分の頭で徹底的に考え抜いた奴だけが、勝ち残るんです。基本的に、才能と経験がある人ほど、時間を費やしてきた自負があるので、チャレンジャーの危害やショートカットの意識を持たないので、イノベーション(=ゲームのルールを変えること)を極限まで考え抜こうとしないという性癖があります。



つまりは、圧倒的な経験と才能があるスタート地点が早い連中を打ち負かすためには、同じくらいの強い動機と時間をかけるのは「当たり前」としても、同じように物事を見ないで徹底的にどう「やり方を変えてショートカット」で勝てるか、ということを考えなければなりません。ショートカットって、楽するという意味ではないですよ。同じ効果が上がるものならば、原理を考え抜けば、やり方はいろいろあるってことです。そして、王道的な成長のプロセスとしては、最高の師匠を探し出して、その人のべったりになるというのもまた重要です。帯ギュもとめはねも、全国級の人間を見つけ出して指導を仰いで効率を上げようとすぐします。これ基本ですよね。効率よく学ぼうと思ったら、優秀な指導者は絶対にいる。けど、部活がそもそも伝統がないところにはそういう人がいないので、、、、であきらめるのではなく、ではどうするか?抜け道はないか?やり方はないか?その他で代替できないか?と考え抜くんですね。ここのプロセスが面白いんです。こうしていろいろなことを考え抜きます。


ちなみに、なんで、「物事に勝つ(=天才の物語)」と「チームワーク(=努力の物語)」が、両立するかといえば、この




ゲームのルールを変えるというイノヴェーションは、多様性(ダイヴァーシティー)からしか生まれないからなんです



つまりは、強い奴も弱い奴も含めて、いろんな奴が混じっている集団で、なんとしても目的を達成しようと考え抜くと、単一基準に物事基準が収まらないので、常に、様々な価値観やスタートラインやもひっちゃかめっちゃかなもので混乱されて、そこから、「思いもがけないもの」が出てくる可能性があるのです。移民国家のアメリカの強さなんかもここなんですよね。この考え方は、第二次グローバリズムの波にさらわれる企業の未来を考える上で、最先端の考え方です。



話がそれた、、、



そして柔道の団体戦では、天才粉川の物語と、あるいもその他の凡人たちの物語が、並列するのです。そして、そこに巻き込まれて才能を開花して、同じ舞台に立っていく人間も出てきます。そういう意味で、部活ものの、最終着地地点は、河合さんの作品だな、と思います。そうでないと、『ちはやふる』も『青空エール』も天才もしくは努力の「純粋な」ストレートな物語になって、多様性が描けない。ゲームのルールの内部でがんばっているうちは、どうしてもストレートな話になってしまうので。もちろん、そのストレートな鮮烈さ、というのはあると思うのですけれどもね。


そんなこと思いました。ちなみに、河合さん大ファンです。