『ローマ人の物語』 塩野七生著 41−43巻 政治が不在の日本社会のこれからは?〜キャリアの複線化が人材育成の重要な仕組み

ローマ人の物語〈42〉ローマ世界の終焉〈中〉 (新潮文庫)

評価:★★★★★5つ
(僕的主観:★★★★★5つ)

■時代の「流れ」というものは個人の才能や努力ではどうにもならないものなのかもしれない

先日もコメントしたのだが、読んでいて、本当に切なくなる、『最後のローマ人』といわれるスティリコなど、優秀な人材はたくさん出てくるんだけれども、それを登用する仕組みがない。過去千年以上にわたるローマ帝国の歴史を読んでいれば、似たような危機は何度も起きている。けれども、その一つ一つがが、取り返しがつかないように壊滅的に破滅に向かっていく様は見ていて本当に切なくなる。こういうのを徒労、というのだろう。


先日僕の尊敬する会社の上司と話していて、いまの日本の状況ってこういう末期的な感じだよね、、、ほんと「どっかで見たことがある風景」っ感じで切なくなるよね、まったく徒労に終わりそうだとわかっていながらも全力で頑張るしかないってのは(苦笑)、、、と身も蓋もない本音をおっしゃっていて、あまりに同感ですねーと、うなずき合ってしまった。どんなにがんばってもマクロレベルでの流れというのは、なかなかかわらない。



2011-01-16 戦後の世界経済が俯瞰できる本

http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20110116


2011-01-18 There is no alternative to market.
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20110118


僕は、ちきりんさんのブログが好きでよく読んでいるのだけれども、彼女が、野口さんの『経済危機のルーツ』という本に仮託して、よく日本も繁栄と衰退のサイクルがあって、いまってそのどん底へ向かっている時期に当たるってことを何度か書いてて、その記事は見つからなかったんだけれども、ああ、そうだなーといつも思うんですよね。まぁ基本的に、その後V字回復がまっているんで、あと10年ぐらいは、がんばっても意味ないかなー(てへっ)とか思いつつ(笑)。時期を得るというのは大事なんですよ。でもまーあと20−30年で、日本がどん底から新しい創造の時期に(過去のサイクルを見るとそんな周期になっている)入ると考えると、まー自分の子供世代は明るいかな、と思い、それはなんか嬉しい気がします。


■がんばることの意味は、マクロ(=時代の流れ)とミクロ(=自分の努力ややりたいこと)が一致しないと生まれにくいのかもしれない

ローマ人の物語』でローマの通史を見ていると、素晴らしい時代の人材がひときわ優れていたわけではないと思う、という塩野さんの述懐はなるほど、と思う。そうやって相対化すると、日本社会だって明治維新の時代の素晴らしい人材たち、坂の上の雲を目指して全力疾走をした近代日本建国の父たちが、その時代の人材のみが極端に優れたわけではないって、僕も感じます。いまだって同レベルの素晴らしい人材は溢れていると思う。けど、それを登用したり活かしたり、たくさんの経験をさせ、さらなる成長を促す仕組みというのが、社会とや組織に失われているんだな、と思います。そうやって考えると、なかなかいろいろ思うところがあります。小説家の小川一水さんが、たぶん初期の頃テーマとして書いていると思う「因習のない組織」で仕事をすることが、どれだけ楽しく、そして創造的に社会を変えることができるかというのを繰り返し書いていて、そういうファンタジーみたいなことはあるのかな?って思ったんだけど、渋沢栄一さんとか過去の日本近代のファウンダー達の本を読むと、確かに因習のない組織で、時代を得ると、凄まじい勢いの成長と最高の経験を売るんですよね。鈴木商店を世界的大企業に数順年で押し上げた金子直吉とか。SONYのファウンダーの盛田さんやパナソニツクの松下幸之助さんとかを読んでいてもそれはすごく感じる。因習がある組織というのは、言い換えれば、その時代やマクロ環境の変化に合わせた適応するのに遅れてしまう旧態依然の仕組みが残っている、という意味になりますもんね。ちなみに、昨今、アップルのスティーブジョブスや日本でいえばユニクロなんかもそうなんですが、急成長を遂げて革新的なサービスを提供しながら、なかなか沈まない驀進する企業ってのは、ほとんどがオーナー企業であって、集団による経営の進化を否定するような方向性なんだけれども、それだけ、マクロ環境の変化が速すぎる時代なんだってことなんだろうと思います。マクロの変化のスピードに応じて、対処しなければいけないスピードも変わる。そして、現代の変化は、よほど早い判断ができない限り、オーナーに率いられる即断即決のほうが強いんだろうと思います。そういう意味では、現代の経営の在り方を、意思決定や思考のスピードに求めたビルゲイツって、やっぱり慧眼だったんだなー。

復活の地 1 (ハヤカワ文庫 JA)

お家さん〈上〉 (新潮文庫)

雄気堂々〈上〉 (新潮文庫)

思考スピードの経営 - デジタル経営教本 (日経ビジネス人文庫)

さてさてもう少し卑近な例で、自分の組織に重ね合わせると、マクロの外部環境とそれをかじ取りする経営者の力量によって、大枠は決まってしまい、担当レベル・・・それが相当に上のポジションであっても、ほとんど全体には影響を及ぼさないものなんだよね。ちょっと自分の過去を振り返ると、僕は、赤字の事業の立て直しばかりやってきたんだけれども、ここ何年かは会社のコア事業の中核で仕事をしているんだけど、ああ、、、こんなに恵まれている部署と恵まれてない部署では、評価や自分が学べるものって違うんだなーとしみじみ思う。もちろん、赤字の事業の立て直しは、物凄い勉強になったし、あの時の苦しみや修羅場が今の自分を成長させたのは間違いない。ヒトモノカネがまったくない状態での撤退戦。希望がない毎日の中での絶望的な仲間への鼓舞。意味がないことをやり続ける不毛巻に自分の心が折れないように全力を尽くすこと・・・・自分の人生の中でもあれがあったればこそ、という思いは強い。とはいえ、赤字の立て直しによって、例えば会社全体が変わったか?とか世界経済や、その業界のビジネスモデルそのものを変えたとか、いえば、ほぼNOだ。局地戦や辺境で戦っても、マクロにはほとんど影響を及ぼさない。けど、同じ労力で、同じ手法で、同じくらいの結果でも、パイ自体の大きかったりメインの部署でメインの市場に働きかけると、その影響力や変化は莫大なものになる。そして、評価も、物凄い上がる・・・。なんじゃこれ、って思うよ(苦笑)。まぁ、人材育成のキャリアで考えると、悪い部署といい部署は行ったり来たりするべきだと思うんだよね。


■キャリアの複線化が人材育成の重要な仕組み〜仕組みと時代を得なければ努力は無駄に終わる


ローマ人の物語』で塩野七生さんが、なぜローマ帝国が衰退したのか?という命題の一つに、こう答えている。


私は、三世紀初頭に実施されたカラカラ帝によるローマ市民権の既得権化と、四世紀初頭に強行されたシビリアンとミリタリーの完全分離が、ローマの軍事力を衰えさせた二大要因であると思っている。



42巻 p157


この中で、僕が最近の思うのは、シビリアンとミリタリーの分断についてだ。というのは、ローマ帝国の人材の質を明らかに低下させたのは、このことだからだと思う。読んでいない人にはちょっと不親切なのだが、ようは、ローマ帝国というのは、属州や元老院での政治家の経験とローマ軍での実践経験が、基本的に必須だったんですよ。エリートの基本条件であって、属州の地方政治にかかわるレベルでも、これって基本的なものだった。キャリアを上り詰める過程で、軍隊経験→政治(官僚)経験→さらに軍隊経験→さらに政治(官僚)経験→社会の指導者ではどっちでも対応できる状態になる・・・というようなことだった。これって、有事でも平時でもどっちでも物事が理解できかつ実践できる人材であったわけです。兵役が志願制に変化した以後も、国家の要職に就く人は兵役体験が必須とされ、共和政時代のローマのVIPで軍隊経験が確認できな人は、哲学者で弁護士で時代に名を残したキケロぐらいしかいない。もちろんいわんや皇帝で両方の経験がない人などほとんどいなかった。



そこで、先日のちきりんさんんのブログが思い出されました。ちょっと長いけど引用です。

きっかけは真山さんが言われた「なんで福島第一の原発事故は国がなにもせず、東電だけに対応させているのか?」という至極まっとうな問いかけでした。

普通、化学メーカーのコンビナートなどで火災が起こった場合、その原因が地震だろうと化学工場側のミスだろうと消防隊が駆けつけて消えるまで消火活動をします。大きな火災であれば消火ヘリを出し、空中から特別な消火剤を撒きますよね。そういった火災が起こった場合、消防隊がなにもせず、民間企業である化学メーカーが単独で消火活動をするなんてありえません。事故対応のリーダーシップを発揮するのは消防隊の方です。

ところが福島原発の事故では、ごく一時期に消防隊が出動しただけで、あとはずっと東電がやってます。これ、なぜなんでしょう?



どこの国でも原発はテロの標的です。戦争が起これば原発サイトが狙われる可能性があることは、軍隊にとって「想定内」のはず。とすると、当然、地元に原発がある消防隊や自衛隊は「原発北朝鮮のミサイルにやられた場合」を想定して、対策を考えたり、訓練を行っているはずです。(ですよね???)

まさか・・「戦争で原発が狙われるなんて想定外だった。」とか、「原発は絶対安全なので、そんな訓練はしていませんでした」とか、言わないよね??? 



そうであれば、なぜ福島の事故だって、消防隊や自衛隊はもっと全面的に出動しないのか、ってことです。被害住民の方にお風呂を提供したり、津波に流された方のご遺体を探すのも大事な任務でしょう。だからといって、原発事故に対して、ここまで「オレ達には関係ないし」的な顔をしてるのはなんか変じゃないでしょうか?

これがアメリカやフランス、中国での事故であったなら、最初から軍隊が出動して対応したのではないでしょうか?(というか、今回だって米軍は“ともだち作戦”の前にもっと重要な協力を日本政府に申し出ていたのでは?)

でもその申し出を受けたのは、我らが誇る“市民活動家”総理であり、かなーり「軍隊嫌い」な思想をお持ちにみえるご夫妻であったわけです。

・・・今後、万が一キムさんの国がミサイル実験の手違いで、日本の原発の上にミサイルを落としてしまった場合、もしかしてその火災は、関西電力が自力で消すことを求められてるんでしょうか・・?

コラプティオ


http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20110913
2011-09-13 この国の政治の不在、対極としての『コラプティオ』


これは、確かになるほど、と思った。僕もなんで国家の非常事態で国が滅びるかどうかの瀬戸際の問題で、東京電力などという一私企業に対策を任せているのか不思議でしょうがありませんでした。普通、こういう場合は軍隊が出動するでしょう?。どう考えても。だって、非常事態の事態収拾こそが、軍隊の機能なんだから。そして、シビリアンコントロール下での現行法制度では、その最高司令官として、軍隊を指揮するのは総理大臣であって、東電の伝言ゲームとか何とか、情報がホントかウソかわからないなんて、子供みたいなこといっているなんて、ありえないでしょう?。だって、戦争が始まって自国民がガンガン死んだり国土を侵略されている時に、現地から情報が上がってこないので、真実がわからん!とか怒っているリーダーがいたら、普通後ろから刺されますよ。想像してみれば、わかりますよね。有事とは戦争なんですから。


団塊の世代戦後民主主義という思想と教育が生んだ層が持つパラダイムとは?

僕は、民主党に含むところは(意外にも)あまりないんですが、それでも、この総理ははないわーってショックを受けました。けど、菅直人さんって、団塊の世代のシンボルをかつ人格の結集したみたいな人なので、戦後日本の「戦後民主主義」という思想の結晶みたいな人だと僕は思っています。なんというか、今の民主党ってのは、戦後日本の教育が集大成された人材の宝庫だと思うんですよ(苦笑)。良くも悪くも自分たちの鏡。ちなみに、自民党にこれを批判する権利は全くないと思いますよ。だって、この教育システムと社会を作り上げたのは、自民党なんだもの。それを忘れて声高に、両者を批判する人は、少なくともそれなりの歴史的スパンで見ている人からすれば、ちょっと近視眼的すぎて苦笑してしまいます。ちなみに、僕は彼の政治思想を知る(言い換えれば現在の民主党団塊の世代の層の思想のコア)には、かなり古い本ですが『日本 大転換―二十一世紀へ希望を手渡すために』がお薦めです。もう売ってないかな?。

この中で、僕が最もなるほど、とうなったのは、彼の理想の政治について、ハックスレーの『すばらしい新世界』のような世界にはしてはいけないってことが、彼の中心にあるってことが書かれていたものでした。

すばらしい新世界 (講談社文庫 は 20-1)


ハックスレーは、なんといっても管理社会ものの典型ですよね。いいかえれば、全体主義国家による究極の管理社会の解体こそが、団塊の世代の、もっといえば、全共闘世代の究極の理想なんだ、と僕は考えています。これは歴史的に的にも、根拠があるもので、いってみれば、WW2での枢軸国側の思想を「悪」と決め付けた連合国軍(現現在の国際連合)、特にアメリカの世界へのプロパガンダの基軸の一つです。そして、少なくとも、さまざまな欺瞞があり、支配国へのアメリカからの洗脳政策であるともいるが、同時に根拠がないことではないといえます。さまざまな歴史的制約があるとはいえ、枢軸国の全体主義的な国家統制やナチズムが、政治体制としていいかっていると、問題ありますもんね。また、これを強く主張したアメリカ自身が、この思想によって、1960年代はアメリカに公民権運動が吹き荒れて、国としての根幹をズタズタにしてしまうほど、自らをつくりかえたのですから。


ちなみに、団塊の世代が日本社会の実権を握り高齢化社会への対応を遅れさせている根幹の思想(苦笑)なので、むしろ歴史的に相対化されつつある今こそ、全共闘の思想は読み説くべきかもしれないとか思ったりして(めんどくさいけど・・・・)。ちなみに、とても面白かったのは、小浜逸郎さん(この人の文章は丁寧で、ちゃんと自分の頭で考えていていつもおもしろかった。共感は、ちょっと難しかったけど。)の『オウムと全共闘』がわかりやすくてよかったですね。この人は、一時期よく読んだ。自分の頭でちゃんと言葉を積み上げる良書が多く、参考になった。けど、最後になんで「そこ」へ?というような、あまりに小市民的というか、小さい結論の地面への飛躍?というか、レベルだんする落ちの付け方には、いつも???と思うんだけど、、、、(苦笑)。好きだったけど、とても共感できない人ですね。

オウムと全共闘


自由からの逃走 新版


■自由を求めるスタンスによってことなる世界への態度〜「への自由」と「からの自由」

僕はこの、団塊の世代全共闘、1960年代にアメリカ自体を変えてしまったリベラリズムなどの根幹を考える時に、いつもエーリヒ・フロムの概念を念頭に置いています。
これはファシズムの分析なんですが、僕的に印象に残っているのは自由というものが「からの自由」と「への自由」の二つの種類があるということです。どっちがいい悪いとかの問題ではなく、「からの自由」というのは、拘束されている状態が嫌なのでその解放を望むということで、具体的にいえば、人間の社会には国家は秩序のために必要なものですが、この秩序も含めて、個人を束縛するあらゆるものを「解体していこう」という方向性に働く力です。原初的なレベルの発生理由は、体感的によく理解できるものです。だって、支配されているのとか、いやでしょう?。過去の身分制社会でもそうですが、自分の意志とは関係のないところで強制されることは人間は嫌なものです(まぁほんとうはそうでもないところがにんげんのむずかしいところですが)。「への自由」は、まぁ義務と責任みたいなもので、自由を獲得すために、自分の自由を抑え込んでいくという系統の自由の求め方です。フロムは、ファイズムや全体主義を生んだ旧枢軸国側(伊・独・日)などの大衆分析において、この「からの自由」が見られたことを指摘していて、英米系の国家の原理に「への自由」の傾向があるというようなことを言っている・・・・もう読んだのかなり昔でうろ覚えなので、ほんとにそうかどうかわかりませんが、僕はそう理解(曲解?)しています。ここで言いたいのは、僕はこの「からの自由」ということの本質は、身分社会と封建社会からの脱却=自由民権=個人の権利拡張=国家の解体志向=インターナショナリズムコミュニズムというのは、すべて同じ系譜をたどって、同じものとはいわないですが、そもそものエネルギーのベクトルや原初は同じものだと思ったのです。こう考えると、日本の戦後社会、団塊の世代が目指した思想である、連合赤軍全共闘そして戦後民主主義というものが、なぜずっと共産主義ソ連にシンパシーをもっいたのか、責任をとるという「への自由」的な発想を嫌い、ひたすらに権力と国家の解体を志向し続ける運動なのか?。ということが、納得いった気がしたのです。そしてその権化たる市民運動家から出発している菅直人さんの政治信条の根本に、『素晴らしき新世界』の主軸のテーマである、管理社会(=国家による秩序)を解体して、抵抗するというイメージが確固として存在していることに、非常な納得を感じたんです。


良い悪いは置いておいて(ちゅーか非常時や外部環境の変化が激しい時に、はっきり悪いんだけどね(苦笑))、物事の原理として、、、、というかもう少し具体的にいえば、政治を見る時に、その人が、「からの自由」を目指す根本の動機を持つ人か、それとも「への自由」の動機を持つ人か、ということがその人を評価する重要な補助線になる、と僕は考えています。いや、政治だけではありません。あらゆる物事へのスタンス・スタイルを評価する時に、これで分析すると、その人がすごくよくわかります。


もう少しわかりやすいえば、「への自由」って、というのは、マッチョイズムだし権力志向だし、責任をとる!!という与党的な方向になります。責任意識があって、秩序を守る側なんですが、この方向の人は、すぐ暴走して権力的に腐敗して、多様性や弱者を犠牲にして蔑視しやすい傾向があります。マッチョイズム的な権力意識は、まーもともと家系的に裕福でお金があるようなリソースに恵まれている状態ではないと、たいていは、秩序を守るために、弱いものを弾圧したり切り捨てること平気でやります。それは、最大多数の最大幸福という理念で考えられます。逆に「からの自由」という人は、とにかくひたすら逃げます(笑)。役割、身分、責任といったものに拘束されない状態が人にとっての幸せだと規定するからでしょう。非常に悪くいえばウィンプ的だし、責任から逃げる人々です。戦後の日本社会の基本となる考え方です。理念的にいえば「最小不幸社会」ですね。けど、よく言えば、秩序を守る側、国家権力によって、どれだけ民衆が、弱きものが切り捨てられて弾圧されてきたかの歴史的事実から考えると、それに対するレジスタンスともいえます。個人の自由という権利を守ることが、名もなき力もなき人々が、幸せに、自分の個人の自己実現だけを目指して平和に生きられる社会ってことですもんね。WW2で、国土がめちゃくちゃになり、連合国側に無差別都市爆撃はやられるは、誇りを持って徴兵にされた軍隊で命をかけて戦ったのに、自国からも海外からも何の尊敬も受けないで軽蔑された戦前の日本社会を生きた人々からすれば、そんな国家なんかいらん!解体してやる!!と思うのは、非常によくわかる反動だと思います。この傾向を、非常に洗練されたやり方で進めたのが、ヨーロッパの社会民主主義でなんだろうな、と僕は思っています。


つまりね、これってバランスなんだと思うんですよ。近代国家というリバイアサンをコントロールすることこそが、現代社会の重要な命題です。そこに当たって、既に、普通選挙を実現している大衆社会において、個々の人権が認められて国家の暴走と支配を限りなく薄めることは、正しいことだと僕は思います。程度の問題はありますが。市場によって世界が駆動する資本主義社会を構築した我々は、ドラスティツクにこそ変化しないが、漸進的に変化していく社会なので、時には不満も多いかもしれないが、必ず数十年単位で世界は変化していきます。そして、その間の平和による世界の技術や進歩は、僕は戦争による飛躍よりも圧倒的に価値があると思うんですよねー。もちろん現代の日本のようにイノヴェーションが起きずに社会が停滞してしまう危険性も常にありますが、それを戦争に求める!という、なんというか、人類数数千年の基本的なルールに戻るのは、なんだかぁ、、、と思います。二度の世界大戦を経て、かつ核を持ち、資本主義社会によって地球上の多くの人類を市場に参画させ市場に加えることによって豊かにしていくシステムを持つにいたった我々がねぇ、、、。まぁしかし、もしかしたこの100年くらいは、まれにみるパックス・アメリカーナであって、次の大戦争の前の戦間期かもしれないので、何とも言えないですがね。人類の歴史からすれば「いつか来た道」はありうるですよね、十分。

新興国内需が回り出した現代〜第二次グローバル化によってBOA(ボトムオブピラミッド)の経済がリンクする

まぁ、そういう中で、ブラジル、インド、ロシア、中国などの新興国内需が回り出し、それが世界市場にリンクした第二次グローバル化が進展する世界市場って、やっぱりすげぇって思いますよ。ソ連の崩壊や911の後、世界は守るべき基軸の価値が喪失して、どうしていいかわからん!見たいな暗中模索の方向に向かいましたが、、、、、少なくとも、僕は、新興国の大衆市場や内需が、完全に世界経済にリンクされた現代を眺めていると、、こりゃぁ、、、人類まじで進化してるじゃやねぇか、すげぇなって思いますよ。というのは、これって本質的に一昔前のパラダイムの根本であった、貧富の差による南北間戦争(先進国と後進国破局大戦争)がないってことですもの。さらにいえば、難民流出によるエグソダス(世界の国境線が崩壊する)ということが、この50−100年ではあり得ないということだからです。大パラダイムの返還だと僕は思ってます。まぁ進化というか漸進的な歩みですが、平和(少なくとも世界規模での戦争がない状態)でこれだけ世界が根本的に変わっていくんなら、、、、やっぱ人類、やれるよっ!って気分になる今日この頃です。・・・ちなみに、この第二次グローバル化の進展(僕の勝手な造語)は、A.T.カーニーの梅澤高明さんの記事が好きで、僕はよく眺めています。インベブとかの話は、まさにまさに、と思います。ちなみに、もうかなり前になりますが、梅沢さんコンサルタントをしながらグロービスで講師をしていた時に、経営戦略の授業で教えていただきましたが、いやー戦略家の目を持つ人の志向ってこんなにクールなんだなーと、いまでも印象に残っています。そして、こんなに超クールなんだけど、行動が凄く国粋主義的で(笑)、こういう人って僕はすごい好きですねー。このへんの話は、↓の話ですね。


寡占化が進むグローバル超競争

ここで今日最初のメインテーマとなる「グローバル超競争」についてさらにお話ししていきましょう。

 1つ目は、顧客、サプライチェーン、そして資本市場という3つの面で世界市場の統合が進んでいるということ。それから2つ目は、東欧やBRICsといった新しい成長フロンティアにおける優位性が、グローバルでの規模の経済性に繋がるという点。新しい成長フロンティアにおける戦いが、グローバルレベルでの覇権争いの前線になるということです。そして3点目は、グローバル競争におけるメインプレイヤーには、欧州や米国、あるいは日本といった従来の先進国発企業に加え、中国、インド、ブラジルといった新興国のプレイヤーも含まれているというポイントです。

 世界のグローバル市場では急速に寡占化が進んでいます。日経ビジネスは2008年1月、我々が提供した分析データをもとに特集記事を企画しましたが、これによると、ビール業界だけでなくたばこ業界でも急速に寡占化が進んでいることが分かります。ちなみに我々の言う世界寡占度の定義とは、グローバル市場におけるTOP3の合計シェアです。

 このほかにもアルミニウム市場はTOP3社で世界シェアの約半分が抑えられていますし、鉄鉱石もTOP3社で市場の3分の1以上が占められています。この寡占度が2000年代以降、年とともに上昇しているのがグローバル競争の実情です。これは資源だけの話でもなければ、川下にある消費財だけの話でもありません。製紙や鉄鋼といった川中の業界でも同様なんです。自分がいる業界だけ見ていれば業種固有の現象に思えるかもしれませんが、実はグローバル競争のダイナミズムがもたらす、業界の垣根を超えた現象と考えるほうが正しいと思います。



A.T.カーニー 梅澤高明日本代表「グローバル超競争と日本経済の復活」
http://www.globis.jp/1486-1

2011-09-07 「輸出・輸入」→「市場の一体化」Chikirinの日記
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20110907



あれ、???なに書いてたんだろうおれ???なんか、文脈がまた意味不明になってきました(苦笑)。


■政治が不在の日本社会のこれからは?〜キャリアの複線化が人材育成の重要な仕組み

ようはね、では、「への自由」と「からの自由」を両方理解できる人間を指導者に育てるにはどうすればいいのか?ってことなんですよ。そこでローマ帝国の話に戻ると、この大帝国の指導者層を支えたキャリアのルールが、ミリタリーとシビリアンを行ったり来たりしていない人は、指導者になる資格がないというモラルだったんだなと言われています。先日、アメリカのGEの人の話を聞く機会があったんですが、この人が、アメリカ社会の企業やGEの人材の強さってのは、まぁいろいろ仕組み的なこともあるんだけど、大きなことの一つに、指導者層に軍出身の人や軍隊経験がある人が普通にいる社会でないと、組織を率いる人としては「危機感」や覚悟のレベルが凄く下がってしまうというのがありました。ようはね、死にさらされながら極限状態で人を率いたりしたりする体験がない人って、人を率いたり、戦う(市場でね)ことの本質が全然理解されないんだっていうんですよね。もちろん、戦争馬鹿ではダメでしょうが、少なくとも命をかけるような行動をする時の「覚悟」がどういうテンションでなされるか?とか有事の時にどうやって動き、どうやってヒトモノカネを動かしていくかしていくか?ってことが、体感レベルでわかっている人が社会に組織に多数いるってのは、物凄い強いことなんだってことです。ちなみに、今の日本にもいます。長老世代で、今バンバン死に始めている団塊の世代の親の世代です。彼らは軍事戦略をたたきこまれ、それをベースに世界の歴史に参加して、そして大失敗して痛い目にあった(苦笑)日本有史以来の初めての世代です。ソニーの創設者である盛田さんとかだってもともと海軍の士官ですよね。伊藤忠商事の元会長の瀬島隆三さんは、大日本帝国陸軍の参謀でしたよね。けど、そういう地球規模の国家戦略の教育を受け、またそれを実体験で体感し!!!(←これ重要)、そして命のやり取りをする状況の中で多数の部下をひいきいた組織体験があるって人材が日本にもごろごろしてたんですよね。そろそろいなくなる世代ですが・・・・。ちなみに、アメリカの経営学の基礎用語は、ほとんどが軍隊からの借用概念ですよね。それくらいに軍事、戦略に関する歴史は古いんですよね。資本主義下での株式会社のガバナンスや組織論なんて、まだまだ短いものです。と考えると、「からの自由」を重視した歴史のフェイズである日本で、徹底的にそのような教育を行い、かつ軍隊経験のある人間が社会にほとんどいなくなった日本社会では、「有事の時の感覚」や「死の危険に面したときの判断力」などは、極端に下がってしまっているんだろうなーと思います。


現代社会の組織が持つ構造的問題点〜縦軸と横軸の問題


と考えて、福島原発のような「有事」にさして、団塊の世代戦後民主主義教育の結晶のような日本人のリーダーが率いていて、なぜ指導力が不在になってしまったか?というのは、なるほどなーと僕は思います。だから、再度、ローマ帝国の話に戻ると、ミリタリーとシビリアンのキャリアの複線化ができれば、もう少しましな人材が生まれるのではないか、と思ったのです。けど、そもそも、日本社会は、憲法第9条での問題もありますし、日本の特殊事情だけではなく、現代社会というのは、タコつぼ化したプロフェッショナリズムによって高度に専門化した分業によって成り立つ社会です。この社会の問題点は、全体を見渡して目的を設定して、縦型になった組織を横断的に横軸展開が「できない!!!」という構造的な問題が常に付きまとう社会なのです。


どのように働けばいいのか? 事業部制という罠 (1/4)
http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1101/21/news003.html

この記事検索して適当に出てきたものだけど、最後の結論は???と思うけど、事業部制というのがどういうものかうまく描写していると思う。


そんでもって、じゃあどするかってことなんですが・・・・・。ぼくもまだわかんないや、てへっ(笑)。


と、この次に、なぜこういうキャリアの複線化が難しいのか?。また最も機動的だといわれるフラットな組織での事業部制度において、相互連携をさせる横軸機能がなぜ機能しないのか?機能する場合はなんなのか?


という思考の流れに続いて、先日の、twitter軍事における「統合軍」についての議論になるんですが、、、、、疲れたので、またその話は今度ーーー。


経済危機のルーツ ―モノづくりはグーグルとウォール街に負けたのか