ベイビーステップ出張番外編〜なっちゃんのライバルのお風呂シーンがもう最高!とか、書こうと思っていたら、なんかBasic Skillsとかマーケッティングの話になってしまった(苦笑)

マガジンSPECIAL 2011年 10/3号 [雑誌]

僕は、ここ何年も、雑誌を買わなくなって久しい。ネギまのための週刊マガジンと『ボクラノキセキ』のためのゼロサムワードくらいかな。それなりに定期的に買っているのも。ネギまで、週刊や月刊の「連載ものを追う、という楽しさは久々に復活していたのだが、とはいえ、これも選択肢の一つにすぎないので、なかなかそこだけに集中ってのは僕はできない。


そこはほら、普通の社会人をやっていて、リア充とはいわないけど(つーかいっているけど(笑))、普通の社会人で、年齢にふさわしい生き方をしていると、人生を楽しんで充実させる選択肢やアイテムには事欠かないもので、そういった「多数の選択肢がある」状態で何を選ぶかというのが、スタイル(=生きる様式)になっているのが現代なんですよね。


もちろん、日常の生活を充実できない、という層とできる層に分化しているようではあるが、その対立構造や二元論の話はここでは持ち出さない(実際、こういった二元論は、もう少しすると意味を失うと僕は考えていますので、考えるの無駄かな、とも。。。)。考えなければいけない本質は、現代都市文明で生きる、普通の市民のことを考えるのだと僕はいつも思う。そうしないと、「モノを考える」という趣味(笑)にしては、射程が低すぎる。二次元やヲタク趣味をやっている層というのは、現代日本人の中でも、一つの層にすぎず、また『たくさんの選択肢の中から日常の退屈をごまかして生きていく』という都市型文明のライフスタイルを持つ先進国の住民の一派にすぎない。僕自身が、ヲタク的なライフスタイルをかなり軸に生きているし、このブログを読む人はそういうビオトープ(生態圏)を形成しているので、まるで「その他の世界」がないように思えてしまうのだが(現代の先進国の都市生活者は、島宇宙化して孤立しているからね)実はそんなことはない。ライフスタイルの多様さが許容されているというか、ダイヴァーシティーが、、、相当の極端な少数派でも生き残れるのが現代国家の目指している「生活空間」というやつなのだ。


とすると、マーケティングなどで仕事をしている人はすぐわかる話だが、携帯電話の競合が、ある時を境に、固定電話との争いではなく、エンターテイメント全般が競合になったではないですか。あれと同じ話。つまり、ゲームでも、スポーツでも、恋愛でも、ヲタクでも、限られた身体と時間を奪い合うことがマーケッターとして要求されるようになったんです。またこれらは多様化しているので、様々な分派にさらに細分化していきます。スポーツならば、ゴルフからテニス、ラクロスなどいろいろあるし格闘技だってある。恋愛でも純愛からSEXまであるし、SEXSでも愛のあるやつないやつ変態趣味とかいろいろ細分化できる。そういった、さまざまな「選択肢があふれている」ことが、現代とす生活空間の目指すべき理想なのです。ちなみに、これは先日書いた、フロムのいう「からの自由」の結実だと僕は考えています。要は抑圧をゼロにすることが理想ですから。なんでも「選べる」ということが大事。


ローマ人の物語』 塩野七生著 41−43巻 政治が不在の日本社会のこれからは?〜キャリアの複線化が人材育成の重要な仕組み
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110920/p1


そうした中で、あえてヲタク趣味を、、、、過去の第一世代の岡田斗司夫さん(僕的にいうと団塊の世代から団塊の世代Jrまでくらい。)などの原ヲタクの層などのように「そういう風にしか生きられなかった(=選択肢がない唯一性を生きた世代)」という層ではなく、数ある選択肢の中から選んだり、もしくはゆるく自分の生活スタイルをボケっと生きていたら、このへんかなーって流されてなった第3−4世代以降(1980年代以降の生まれの世代)のように、ライフスタイルとして「あえて選択した」り「なんとなくいろいろあるけど流されて(=その他もあったけど)そうなった」世代にとっては、「何かを選ぶという」行為はすごい意味の差があります。というのは、選択肢がそれしかないとか、「自分の意思で選んだ」という世代にとっては、それは唯一性やオリジナルなものであって、そうでない第3−4世代以降の、今の時代を生きる我々にとっては、それがどれでもあっても代替がきいてしまうものであるということです。否定的にいければ、唯一性がない、ということです。ここに、多様化された選択肢のある消費社会という、現代都市文明社会の理想像の帰結の落とし穴というか罠があって、選択肢が多すぎると、「何かを選ぶという行為に唯一性(=オリジナル性)が宿らない」ので、そもそも、何かを選択してコミットメントするということ自体が非常に稀有なものになる・・・・もっといえば、そもそもの動機が奪われて、動機レスな社会になってしまいやすいのです。


あれ、、、なっちゃんのお風呂シーンが最高だぜ!!とかいう記事を書こうと思っていたら、なんでこうなった???(苦笑)。いやね、えっとねーーーまぁ動機レスな社会で、「何かを選ぶ」という行為は、それだけその他の選択肢との競合状態にあること、そしてそれでも「それを選ぶというコミットメント」にはある種の哲学というか、自分なりのライフスタイルの軸がないと、完全に意味が失われて自分の生きる整合性が失われてしまうので、無気力になりやすいとか、、、そんなことをなんとなく思いついたのですよ、、、、。まぁこのへんは、僕の現代社会分析の基本的流れなので、またなんとなくおさらいです。この辺読んで考えててくれると、今後のいろいろな記事やラジオがわかりやすいかもーーとかとか。ちなみに言いたかったのは、そういう中で、雑誌を買って連載を追ってみる、という作品をいくつか選んで、それを応援というか、記事で分析してみるとかしてみようかなーと思ったわけ。最近、なんとなく。雑誌で買って、追っているのないし。


閑話休題


んでね、、、、もともともベイビーステップは、この動機レスな社会で、それでも、やっぱり人間は変わらないよね、何かコミットできるものを見つけてそこに没入して、それを通して成長していくこと(=世界の見え方が変わっていくこと)を感じることが、やっぱり楽しいんだよね、ということを思い出させてくれる新世代のスポーツ漫画だぜ!とか僕は言っていました。まぁ、その話は、変化なく見事に進み続けているんですが、うまい、、、うまいんだけど、、、そしてそれは、批判にはならないんだけど、どうしてもこれだけ、着実に一歩一歩成長していく疾走感!(=こんなに地味なのにっ!!)があるなかで、日常編を描いたり、なっちゃんとえーちゃんのラブコメやったりしては、そのスピード感が失われるっていうのはわかるんだけれどもっ!!!でも見たいんだよーーーー。と思っていたところで、


なっちゃんら女子選手たちのお風呂シーンから始まる、この番外編!!!


うおっ!!とか、思わず立ち読みしてうなって、そのまま購入しましたよ、僕は(笑)。


やっぱ、、、キャラクターが生きていて、物語が駆動している中で、ハーレムものとか現代のアニメとかの典型のこういうお色気シーンとかお風呂シーンとかやられると、、、くるねっ!。やっぱ、どんなワンパターンでも、こういうのって、ちゃんとしたステップがあるもおは、くるんだよっ!!と思いました。ちなみに来週のマガジンの本連載のほうは、なっちゃんとのデート編だからも、もう、僕はうきうきしてうきうきして、、、、(笑)。