『J・エドガー』(J. Edgar 2011年 米国) クリント・イーストウッド監督 誰が本当に国を守ったのか?

J・エドガー Blu-ray & DVDセット(初回限定生産)

評価:★★★★☆星4つ半
(僕的主観:★★★★4つ)

FBIを作り上げた伝説の長官、エドガー・フーバー。その伝記映画。僕は、彼について、それほど知識がないので、知識的な面から解説するアプローチはできない。なので、まずこの作品を見ている時に自分の中で持ち上がった二点のポイントのを主観的に評価してみたいと思う。

1)民衆を守るという”正義”〜それは全体主義共産主義との戦い

2)コミュニスト共産主義)に対抗するために全体主義に頼る1930年代〜近代国家の統治は官僚統治と全体主義の組み合さった社会主義

この2点を、鑑賞中にずっと感じていた。映画の文脈というよりは、僕の中にある文脈なのですが、この作品のある側面を理解するには補助線になると思うので、書いてみたいと思います。ここ数年戦争映画や戦争、特に第二次世界大戦の日本の戦争、大東亜戦争であり太平洋戦争を見てきて感じたのは、当時では驚くほどのリベラリストの海軍の提督たち、山本五十六、米内光政、井上成美ですらも、日本の民衆自体を「土民」とまでは言わないが、マクロの先が読めない蒙昧な民衆としてバカにするエリートとしての視点が存在していて、ましてや一般の為政者たちには、強烈にそういう「強烈な上から目線が存在している」というのがわかってきた。昨今で言えば、まさに愚民どもと切り捨ている宮台真司さんや大塚英志さんなんかが思い浮かぶ。

山本五十六 (上巻) (新潮文庫)

愚民社会

しかし、これは、村社会のみの連邦国家(徳川政権ね)で300年近く安眠をむさぼって近代化どころか主体性も何もない「土民である日本人」を率いて、西欧列強(パワーズ)と闘わなければいけないという宿命を背負わされた、福沢諭吉や山形有朋らなどを見ていれば、なんというか痛切に涙が出てくるほど、仕方がないよなーと思えるのだ(苦笑)。

伊藤博文―知の政治家 (中公新書)
伊藤博文―知の政治家 (中公新書)

帝国陸軍の栄光と転落 (文春新書)
帝国陸軍の栄光と転落 (文春新書)


だから明治維新近辺から今に至るまで、近代国家建設その統治を考えるものであれば、日本人の「空気」に踊らされる村共同体思考、主体性(=近代的自我)のなさ、というのは涙が出てくるほど、情けないというか、このままでは「殺られる!」と恐怖するものなんだろうと思う。だから知的エリートの課題は、1867年からこの100数十年間ずっとかわらない。近代の評論や文学作品など、何を読んでも究極的には「このテーマ」をめぐっていろいろ煩悶している。ちなみに、受験の現代文のテーマである評論や論文は、すべてこの文脈に沿うので、「ここ」がわかればほとんどすべてのことがなにを言っているか理解できます。受験生は、是非ここを理解しましょう(笑)。基本的には3つくらいの立場があって、(1)日本人は主体的近代的自我を持つべき!か、(2)あまりにそれが不可能なので絶望して、日本人には主体的近代的自我を持てないのだ!という(1)の否定。そして、(2)の派生ですが、日本は近代なんてステージを超えて、近代を超克しているのだ!(原始的な心性の残る日本、足早に経済的には近代化した日本を見て、ヨーロッパ的なステージをすっ飛ばすのがアジアには可能なんだ!という議論/ようは京都学派)の3つぐらいがあります。まぁ、昨今は、ミックスしている人も多いので混乱しやすいですが、ようはシンプルに分ければすぐ理解できます。大枠で、著者が、『どれなのかな?』と考えれば、ほぼ文脈は読み解けます。この辺の基礎的なお勉強は、村上陽一郎さんとか寺田寅彦さんの随筆集なんかがおすすめです。科学者の視点とか科学史の話の方がクリアにわかります。文人とか社会科学の人は、イデオロギーが入るので、わかりにくくなるのです。

近代科学を超えて (講談社学術文庫)

難しいのは、上記の宮台さんや大塚さんみたいに、年代によって、最初近代主義者だったのが、絶望して反近代主義者になって、さらにそのあと元に戻るというようなステージがころころ変わって転向しやすいのが主義を持たない日本人知識人の基本なので(バカにしているわけではありません、日本人はそういうもなんです!もちろん含む自分)、いつごろの意見かも重要です。10年違えば、180度とか360度とか意見が変わります。ちなみに上記の本では、ここ10年−20年ぐらいで宮台さんと大塚さんの過去と立場が入れ替わっているのが面白いんだけど、ようは、二人とも近代主義者であることには変わりないんですよね。高踏的な視点を持つエリート。ただ、このエリートという言葉は揶揄ではありません(←さっきから繰り返す)。日本社会で指導者たろうと考えて、かつ日本以外の国との競争や外交的バランスを考えれば、絶対にこの視点に辿り着くものなのです。エリートが、外部環境の事実に気づいて、自分の仲間たち、同朋の人生を考える時に、「このままじゃやばい!」と思うのは、良くわかるんです。そして、最終的に絶望していくのも。宮台真司さんの生き方なんか、まさに高橋和己さんの『邪宗門』まんまだな、といつも思います(笑)。

邪宗門〈上〉 (朝日文芸文庫)

なかなか難しいんだよね、この問題は。たぶん、村共同体的な思考、「空気」に流される多神教的な存在・心性の在り方は、日本人のオリジナルそのものであって、これを無くせばそれはほんとに日本人か?というものになってしまう。けれども、「これ」が継続する限り、近代的な国家統治、運営はかなり酷いレベルでしか成り立たない。僕は、本当に欧米先進諸国が、そんなに自我の近代的自立がなされているのか、というと???って思うんだけど(←ここ重要なんで、いま結構調べている)、そこは勉強が足りないのでおいておくにしても、この辺の悩みは、日本近代150年の悩みなんで、まぁ僕ごときに答えの出る話ではありません。ただ、大衆とエリートの意識がすごく乖離しやすく、エリートが日本人の土民根性に、絶望して(=ふてくされて)すぐ、エリート視点でバカどもを動員して操ってやろう、、、そういう露悪的な根性でなくとも、仲間に誠実に尽くそうと考えているうちに、どうしても土民として扱って動員して洗脳した方が、統治としては究極ましになる、、、と考えてしまいやすいのが、日本の政治風土なんですよね。そっちのほうが、より多くの貧困や無知蒙昧に苦しむ人々を救える、、、とミイラ取りがミイラになる。この辺は、キリスト教における日本人教徒の転向を扱った遠藤周作の『沈黙』とかもこの文脈で読むと、ああなるほど、と思うはずです。つまりは、本質が満たされるのならば、意匠的なるものはゆずればいいじゃないか、と考えてしまうわけです。

沈黙 (新潮文庫)

僕は、高橋和己さんの『邪宗門』って、物凄い素晴らしい作品だな、といつも思うのは、日本人の知識人やエリート、指導者の陥りやすいパターンを見事に類型化しているところです。もともとは世直しを志向している社会改良家としての主人公が、日本で科学的手法で何かを変えていこうと考えるよりは、新興宗教の教祖になった方が、よほど本当に苦しんでいる人を救えるのではないかと転んでいくのです。日本近代の新宗教には、ほとんどこの思考が入っていて、この辺の葛藤がわかると、新宗教で生き残っている(=オウムのように反社会にならなかった)宗教史が、非常に興味深くなります。近代の新興宗教は、みんな政治を志すんですね。田中智學や大本教創価学会だってそうでしょう?。あれって、スタートは世直しの動機も大きかったんじゃないかな、と思います。よく中身はわかりませんが、幸福の科学とかも、がんばって選挙に出ていますよね。日本人の土民意識(=ようは、空気に流される村共同体的な原始的心性)を変えるには、宗教を変えなきゃいけない!と考えるんですね。ここを理解しないと、戦前の近代天皇制が、ほとんど見事にキリスト教徒同じ骨格を意図的に作って啓蒙していることとか、仏教や神道を排して、キリスト教を国教にしようとか、ほとんど無理いうなよ!的なめちゃくちゃなことを考える動機がわからなくなると思います。きっと、近代国家を建設しようと、明治維新を起こした若者たちは、起こしたはいいけど、この国のあまりのひどさに驚愕して、というか、彼らはわかっていたんでしょうが、物凄く悩んだんだろうな、ととても思います。


おっと、話がずれた(笑)壮大にずれすぎた。一応僕の考えの文脈には、この流れを追わないと、いきなり何言っているの?となってしまうので、文脈を書いてみました。そして、ここで何を言いたいかというと、民衆にとっての「正義」ということを、エリート(=その社会の指導者)はどう考えるんだろうか?、という視点が最近僕にはあるんですよ。特に、日本の第二次世界大戦を調べていたので、1920−1950年ぐらいの期間の間の近代国家としての正義はなんだったのか?、そしてそれを実現するとすれば、具体的に実現可能なことはどんな方法で、どんなことだったのか?ということなんです。もちろん、ここでは上記の「上から目線」の問題もあって、エリートは、国家レベル、マクロレベルでの競争ばかりに目が行ってしまい、エリート間の組織力学のことばかり考えて、最終的には民衆を食い物にして土民として洗脳して操ってでも、その器を守ればそれでいいだろう!というマクロに偏った思考に陥るようなんですね。日本的に言えば、『国体』の問題。日本人を作り出し、そのオリジナルの根源であるマクロの仕組みを守れば、ミクロで暮らしている個々人の人々の人生はどうでもいい、という風に手段と目的がおかしくなっていく。微妙に、それが嘘でもないところが難しい(苦笑)。だって、『国体(=その国のオリジナルのマクロ構造)』が失われれば、確かに大きな喪失になるからです。とはいっても、それが、本当に民衆のためか?エリートの自己や自己の属する組織の保身にすぎないのでは?という問題も常に抱えますが。


そして、ああ、このフーバーという人は、「民衆にとっての正義」をある意味、当時の限界で体現した人なんだな、とその矛盾も込みで非常に納得いったのです。ここはイデオロギーになってしまいますが、1920くらいからの世界にとっての、人類の歴史にとって問題点は、全体主義共産主義だったのではないか?思うのです。一言でいえば、それらとの防衛戦争。外部だけではなく、そもそも大衆社会が実現しつつあり、近代国家でマスを動員する構造を持つ以上、内部から矛盾が吹き出ており、その国の、その民族の自然に紡ぎだしてきた秩序や法概念をベースに、どこまでこれらを抑え込めるかということが、歴史的に見れば、結局、民衆にとっての正義だったんじゃないか、と最近感じているのです。


ここで、僕は浅田次郎さんの『珍妃の井戸』を思い出しました。これは、殺された珍妃という皇帝の妃の死をめぐるミステリー小説なんですが、「一国の君主の妃が暗殺されたことは、重大な事件であり真相を突き止めなければならない」と、イギリス帝国の海軍提督エドモント・ソールズベリー、ドイツ帝国の大佐ヘルベルト・フォン・シュミット、ロシア帝国の露清銀行総裁セルゲイ・ペトロヴィッチ、日本の東京帝国大学教授松平忠永の4人の貴族が事件にあたるのですが、この4人の目的は、立憲君主制、貴族制に基づく安定した国家を壊してはならないという目的のために、そりが合わないのですが陰で同盟を結んで事にあたるんですね。これ真偽はともかく、なるほど!と思いました。彼らが、政治体制としては、安定した立憲君主制による「自然な秩序と歴史によって出来上がった現行体制」が一番、民衆にとって良いものであるという信念があるんですね。そして、それは、コミュニズムの洗礼を受けて再分配が機能し始め社会民主主義的な修正資本主義が行きついた、現代から見ると、とてもいいところをついているのがわかります。暴力革命は、民衆にひどい苦しみを民衆にもたらしましたからね。だから、暴力的に現行体制を否定するコミュニズムをこうした体制側のエリートは物凄く嫌うんですね。昔は、専制者や貴族が、つまりは封建主義の体制を守る、既得権益を守るために言い訳をいっているんだ!と思いましたが、よくよく歴史を顧みていると、結局の最も人大被害を与えたのは、共産主義による暴力革命であったわけで、それを徹底的に潰すという体制側の意思をちゃんと貫徹した国だけが、自由主義国として個人の権利を守り切っています。だから、体制側の安定を信じ、政治体制としてのコミュニズムを徹底的否定し弾圧するという「正義の物語」があっても、本当はいいのではないか?と思うんですね。それが、ほんとうの正義とは言わないけど正しいという視線から日本の治安維持法とかをを見直したら、たぶん単純じゃない気がするんだ。最近、そんな視点を少し考えます。

珍妃の井戸 (講談社文庫)

そして、これが非常に難しいのは、これらが非常に複雑な構造をしていることです。というのは、貧しき人の自由や選択肢を拡大して、個を確立させる世界を作ろうというレフトウイングのとても合理的な夢を、具体的に叶える方法とその動機の原初は、共産主義にあったからです。そして、共産主義の社会を、産業革命を経た資本主義社会で統治、運営する方法は官僚システムをベースにする全体主義しかありえないんです。そもそも、それ以外の手っ取り早い具体的な方法はない。この辺は、学問的な話ではなくて、最近の僕の直観の話なんで、この辺りはおいおいちゃんと勉強したいと思いますが、直感を吐き出しておかないと、勉強のレベルが下がるので、いったん吐き出してみます。


この複雑な問題点を代表した人が、少なくともここで描かれているフーバー長官だったと思います(というか、そのように矛盾に満ちた人としてイーストウッドは描いている)。というのは、僕が、結構びっくりしたのは、物凄い秩序と社会の安定を求めるくせに、この人って、物凄いリベラルな社会でないといきれないくらい矛盾を抱えているんですよね。本当かどうかはともかく、表面的な部分を見れば、極度のマザコンで、同性愛者で、しかも女もいけるバイ(笑)。ウソを捏造してまで、キング牧師を脅迫しているくせに、ぶつぶつ飯がうまくつくれないとイライラしながら黒人のメイドをずっと雇っていてる。・・・・言っていることが伝わるでしょうか?。自分の伝記を書く部下の黒人エリートFBI捜査官に対しても、特に偏見も嫌味もないのです。たぶんこの人は、スーツの趣味がよくて、様子がいい男で、高学歴で、頭がよければ(そういう人間ばかり雇ってFBIを近代的な大祖師苦に育て上げてきた)よかったんだなー(笑)というのが、如実に見て取れます。人種を考えていない。この人この、アメリカの保守化が激しい時代の、その中心人物でありながら、意外に寛容なんですよ(笑)。少なくとも対人間関係は、非常に偏見が少ない(ように描かれている)。ここでの描写は、社会の秩序を乱すもの、社会の安寧を壊すものに対して物凄く強烈な敵視をしますが、黒人のメイドを事実として受け入れている姿勢を見れば、大きな意味で人種差別者でもないし、同性愛など、誰を愛するか?などの個人のナイーブな部分への差別意識は、ほとんど出てきません。というか描写としては皆無です。あれだけの弾圧的な政治的行動しながら、意外にリベラルなんですよ、この人。ディカプリオの演技が素晴らしすぎるので、その可愛さが出てしまっているのか、本当にそういう人だったかはともかく、僕は、ここで何を思い出したかというと、ロンドンで見たミュージカルの『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンを追い詰めるジャベール警部です。

Les Miserables 10th Anniversary Concert

当時まともに英語がわからなかった僕が、最後は号泣したんだから、このミュージカルは、すげぇと思いますよ。おすすめです。いまCDを聞いても、one day moreとか、泣けるもん。そこで特に印象に残っているのが、法の番人であったジャペール警部です。彼は、素晴らしい人間であるジャン・バルジャンを法律を違反したということで追い詰め続ける、法律の権化のような冷徹な男です。こういう男は、なんとなく海外の文学作品にはよく出てくるような類型な気がするんですが、この人は、法律を心の底から信じて、すべてに優先させて法の執行を追求します。けれども、あまりに、ジャン・バルジャンという男の気高さにふれて、その存在に圧倒されて、彼を逮捕することができなくなり、法律を執行できないところまで至ってしまい、最後は、そんな自分に耐え切れず自殺してしまうというキャラクターです。ここで重要なのは、「法を超える存在」であるジャン・バルジャンに出会うまで、彼は、ひたすら法律、言い換えれば、社会の秩序の追及をし続けており、それに無上の誇りを感じているのです。彼は、最後に、自らの命を絶たなければいけないほどに、逆に言えば法というもの、社会秩序の安定というものに、凄まじい信頼を寄せ、それを信じきっているのです。だからこそ、それを曲げなければいけない存在にあった時に、執拗に追い詰め追求してどこかにジャンバルジャンの悪いところはないかと探し続けるのですが、法こそ破っているが、彼が素晴らしい人物であり法を曲げても彼のことを救いたいと思った時、自らのほうへの信頼が崩れ、彼は自殺してしまいました。


このキャラクターは、ずっと僕の中でオリジナルの存在として、なぜ彼はそんなことを考えたのだろう?、なぜそんなふうに法に信頼を寄せるようになったのだろう?ということが今に至るまで、疑問に思っています。


まだその答えは出ていませんが、僕の中で、イーストウッドが描いたJ・エドガー・フーバーという人物は、このジャペール警部に凄い重なって見えました。というのは、ここが肝なのですが、彼は、決して、自己のコンプレックスのためだけでも、人種差別のためでも、ああいうことをやっているわけではないようにみえます。それは上記に挙げた、この時代に、意外に黒人差別をしていないところ、同性愛を隠すために何かしゃかりになっているというほどでもなく(だから同性愛を弾圧したとかいうわけでもない)、彼のコアはただ一つ「社会秩序を乱すもの」に、力でもって正義の鉄槌を下すことです。凄い矛盾を抱えているくせに、平気で正義を遂行してしまうところは、現代社アメリカそのものを描写しているというノラネコさんの意見に同感です。

フーバーが、自らの存在その物が正義であると錯覚するのも、実は内面の矛盾を覆い隠そうとする故ではないか。
正義の遂行のためには、常にNo.1の立場にいなければならず、異なる正義を唱える者は、力を使ってでも排除するというフーバーの論理は、そのままアメリカという国家のキャラクターに通じ、高潔なる正義感の内側に、実は深刻な葛藤と自己矛盾を抱え込んでいるという点も共通している。
イーストウッドとブラックは、このエキセントリックなキャラクターに現代アメリカ史そのものを体現させている様に思えるのだ。


http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-523.html

ただし、ここでは僕はとても興味深いのは、この場合には、州を跨ぐ犯罪者や共産主義(思想犯)などに、ターゲットを絞って対処しようとする姿勢が見えることです。特に共産主義に対する敵意はめちゃくちゃで、それは、社会に対して「革命を企てる=現体制の転覆を企てる」という匂いがあるものを絶対に許さないという、上記の秩序維持を最優先の正義と考えるところからきています。この人は、何を正義と考えていたかといえば、現状の体制が壊れてしまうことに対して、少しでも匂いを感じると、徹底的に叩いています。


それで最初の話に戻るんですが、その国の民衆にとって何が最も悪かといえば、体制が崩壊することなんだろうと思うのです。これが、専制支配の国であれば、個人の自由は保障されていないので、革命(=体制の転覆)は理解できますが、、、、(この辺はもう少し思考する必要あるけど、、、、)そうでない国では、最もいいことはマクロに関わることのできない民衆が、マクロのことを思い煩うことなくミクロのことを追求できることなんじゃないかと思うんですよ。まぁリベラリズムですよね。それで、20世紀の歴史をすべて見通してみると、最も悲惨な統治をもたらした体制は何か?といえば、全体主義、ナチズム、コミュニズムじゃないでしょうか?。1945年以降は、コミュニズムに集約される。生まれた最初から体制側にいる人間は共産主義を暴力の思想だと忌み嫌い徹底的につぶそうとしてきますが、動機が純粋(=弱者解放の物語)なので凄く否定しにくく、共産主義への弾圧と民衆への弾圧が微妙に重なって非常に難しなといつも思います。というのは、労働者などしいたげられた者を解放しようという「動機・目的」を掲げる共産主義は、それ自体がその専制主義的な支配統治体制をもたらすんですが、支配のポジションいつかない限り、現状の国家体制に対するレジスタンスに位置してしまうんですよね。だから、弾圧すると、弱者を叩いているように見える。けれど、共産主義活動は、基本的に暴力革命を志向していて、物凄い組織作りのノウハウなどが世界中に広まっており、ある種の「体制動員&転覆の技術」があって、それこそ凄まじい勢いで国内で増殖する。これに対抗するには、基本的には、体制側の断固とした意志と暴力そして強大な組織的権力が必要です。それがない国は、最終的には、ソ連になり、東ヨーロッパになり、ポルポトカンボジアや、北朝鮮になっていくわけです。


えっと、うーん、言葉が雑だし、用語も凄く甘いので、うまく説明できているかわからないんですが、近代国家を建設して、リベラリズムを守って、漸進的に(暴力革命のような一挙に変革することは壊すことが多すぎて結局全体としておくれてしまう)変化させようとすれば、その過程で、共産主義の発生に対して、断固と徹底的に秩序を守る意思を国家が貫徹させないと、ほとんどが国の舵を誤ってめちゃくちゃな苦しみを民衆にもたらすことになるってことです。ライトウイングというか、体制を保守する側の視点なんで、シンプルに言うと、自分の受けてきた現代日本の左翼的な教育的には、うーん(苦笑)と思うんですが、ただどうも、近代国家を建設するには、絶対に必要なプロセスのようなんですね。このような社会秩序を守るためにあえて汚名を着て未来の社会の維持を頤使して、徹底的に警察国家を行ったことにも、是々非々で評価をよく見なきゃいけない、と僕は最近感じてきました。ようは、共産主義は敵だぁー!と叫ぶ、狂った国家主義に見える治安維持法とか特高警察も、意外にいいやつだったんじゃねぇ?という視点が必要だ、という感じです。・・・まぁ、これ、偏っているんで、逆にもっとコミュニズムにシンパシーのある物語とか、歴史とかを読んでみないとなー、、、なんかないかなー。


インビクタス/負けざる者たち』(原題:Invictus/2009年アメリカ) クリント・イーストウッド監督 古き良きアメリカ人から人類への遺言
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100815/p5

インビクタス / 負けざる者たち [DVD]

グラン・トリノ [DVD]

たぶんそう読み取っていいのだろうと思うのは、クリント・イーストウッド監督が、『硫黄島の手紙』や『父親たちの星条旗』などで、いかに国家というものが信じられないかというアメリカの信じているもの解体というテーマを描いていたのですが、そこから一転してというかグラデーションで、『グラントリノ』『インビクタス』で分裂してしまったコミュニティ、国家の再生を描いていることです。もう少し敷衍すれば、分裂してバラバラになってしまったコミュニティや、国家はどうすれば再生できるのか?というテーマがあるように僕はとらえています。特に、『インビクタス』は、あからさまで、これまでの「どうにもならない悲しみは受け入れるしかない」という非常に右翼的というかアメリカ共和党的な頑固オヤジ的な脚本ばかりだったところに、『インビクタス』は、そんなことあるわけねーよ!的なご都合主義見満ちており、それが事実だった!とはいえ、あまりにこれまでと異なる題材を選ぶことに違和感を感じたのですが、きちっとアメリカの、世界の分裂した現実を直視したうえで、それでもなお、統合を目指さなければいけないんだ、という強い意志に僕には見えました。そして、国家の融和のために、個人的な家族のきずなをすべて捨ててしまったネルソン・マンデラ南アフリカ元大統領の姿を描くことで、自分の個人的な幸せをなげうっても全体のために奉仕するリーダーの在り方を示した、と僕はこの時の記事で書きました。


J・エドガーにも、僕は同じ系列の匂いを感じるんですよね。つまりは、どれほどアメリカを操った悪いイメージで描かれようと、彼はアメリカの秩序を矛盾に満ちながらぎりぎりのラインで守り切った人物だった、と書いているように僕には感じました。特に、1919年にパーマー司法長官に仕える時から、最初期から彼は目的をはっきり言っています。共産主義が、社会を壊す。暴力と組織で社会に害をなすものには、きちっと権力と暴力で対抗しなければならない!、そうでなければ社会が壊れる。基本的に、公の目的に仕えすぎて、自分でも何が目的か自己保身化があいまいになるし、自分の一存で敵を決めていく独善さという問題は常にあるのですが、それでも、終止にわたり彼が敵とする相手は、歴史を顧みるといいところをついている。最後の、マーティン・ルーサー・キングJrを敵とするシーンは、もう時代が変わっていて、ほとんど影響力がないように見えるんだけど、、、(笑)。ただ、僕はいいなーと思うのは、彼が暴走すると彼の愛人?だったアーミー・ハーマー演じる副長官(男性)が、「そう言うことはするもんじゃない」みたいなことを、ずっと言い続けている。身体を壊して、うまく働けなくなった元愛人をずっと面倒見て仲睦まじい感じなんですよね。この人って、これだけ実存壊れてて危うい性格なのに、意外に、身近な人間にとても優しいんですよね。身近な人が少ないだけで。非常に重い愛を押し付けてくる母親に対しても死ぬまで面倒を見ている。あと、なかなか凄いなぁ、というのはナオミ・ワッツの演じる秘書のヘレン・ギャンティなんだけど、フーバーが若い頃であってプロポーズするんだけど、結婚に興味がなく仕事一筋に生きたい、と言われて、、、、それってていのいい断り文句じゃないですか?普通。けど、この女性は、本当に生涯エドガーに秘書として仕えるんですね。これは、物凄く衝撃だった。それも、超大国アメリカの司法を支配するFBIという組織を育成していくという大仕事に、エドガーの片腕として。これも不思議な感じでした。たぶん二人の間に肉体関係とかはない感じなんだけど、深い深い同士愛に溢れているのは、見ていてわかります。まぁこの二人だと母親だけなんですが、僕はとっても、健全な人間関係に見えました。いやたしかに、実存壊れている危険な人なんで、通常でいう健全さではないんですが、、、でもちゃんと、二人の魂というか「個」の部分い向き合って、死ぬ最後まで、ちゃんと共有しているものがある、、、、ヘレンもトゥールソン副長官も、幸せだったと思うんですよね、僕は。そう考えると、ますますこの表の顔に比して、、、、と思いがとても強くなる。


2)コミュニスト共産主義)に対抗するために全体主義に頼る1930年代〜近代国家の統治は官僚統治と全体主義の組み合さった社会主義


あと、長くなりすぎたんで、、、、2)なんですけれども、全世界の図書館検索システムを若い頃に構築していることなど、旧態依然とした組織に「科学的手法」を取り入れ、リクルートで選抜基準を明確にし、FBIという組織を徹底的に近代化していく辣腕を発揮しているという描写をしています。僕はここがすごく興味深かったのですが、これって、大規模な組織を作成して、広大な国土と情報を集中管理していくという組織を作ることで、近代国家には絶対必要な科学合理性と巨大組織の官僚システムを完備していくことなんですよね。僕はこれを見て、いくつかのことを思ったんですよ。1920年代-50年代ぐらいまでって、本当に前近代的なものがたくさん残っている。そして、国家として、脱前近代をしていくには、以下の二つの点が必要なんです。

A)科学的手法をベースとした近代官僚システムを完備していかなければならない

⇒が、究極目指すところは中央集権による全体主義になってしまう



B)ころころ変わる政治ではなく、一貫した思想に貫かれたプロフェショナリズムによる独立性を持った官僚組織の育成が必要

⇒途中から統帥権独立やフーバーの闇の権力といった形で、それを統制できる力が失われてしまいやすい

これって、、、、明治から昭和の日本の軍隊が求めていたことと、まったく重なるんですよ。目的も手段も全く同じ。意外な共通性に、というか、意外でも何でもないんですよね、同時代なんですから同じ、近代国家としては同じテーマを抱えている。ああ、そうか、同時代なんだなーと感心しました。そして、どっちも暴走したとはいえ、日本は国が滅びてしまいましたが、アメリカは超大国へ上りつめています。何が違ったのか?というのも興味深いです。この時、ずっと、昭和の陸軍や海軍の問題点、それに池田信夫さんのブログで描かれていた東条英機ってどんな存在だったんだろう?という話が念頭にありました。あと、この前近代から抜け出す時にどうしてもしなければならないことを、暴走させてしまったのは、戦前の日本でした。けれども同じ過ちを抱え込みながら、国家として健全?(苦笑)に成長したアメリカとは何が違ったんだろうか、と。

ちなみに、Bの部分は、日本の軍隊では、まさに統帥権独立問題として表出しています。フーバーが、FBIという巨大官僚組織の政治家からの(大統領と議会から)独立を求めて、徹底的に秘密ファイルで、弱みを握っていくものとそっくりです。これは物凄い悪のように見えますが、そんなことはありません。たとえば軍事学上の常識として、統帥権が独立するのは歴史的な常識です。いまどこに攻めるか?軍隊をどこに展開するかを議会や政府に確認してたら情報ダダ漏れで、相手に殺されてしまいます。またそんな高度に純粋な軍事的な判断は、軍事のプロフェッショナルにしかできません。だから、議会には予算編成権があって、金を出さない!という形で息の根を止める伝家の宝刀があるんです。まぁこの辺の議会による官僚各部局を支配する方法を、日本社会はついぞ行使しないんですけどね、、、。まぁ、それは置いておいて、プロフェッショナルな官僚は、事故の組織の機能のレベルを上げて、問題に正しい形で対処するために、政治家、政府の介入を嫌い独立を志向する、というのは全世界共通なんだ!ということを、この映画を見ていて、凄くよくわかったんです。言われてみれば当たり前なんだけど。決して、日本だけのおかしい、というわけではない、ということ。

東條英機と天皇の時代 (ちくま文庫)
東條英機と天皇の時代 (ちくま文庫)

東條英機は心やさしいサラリーマン
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51790476.html

失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)
失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)


ちなみに、上記で描いたように、近代国家の大規模な統治というものは、徹底的な科学合理的手法による巨大な官僚システムが形成されなければ、まったく運営できません。近代国家の統治というものは、どうしてもテイラーシステムではないですが、科学合理的な管理手法に基づく官僚システムによる全体主義的な構造がなければ、運営できないんです。これは前提の議論であって、なければ近代化しません。日本の官僚が言うのもよくわかるのですが、政治家などという素人には、ここの専門性のプロフェショナリズムに基づく判断はできません。だから、官僚事務方の頂点の人間に、権限を委譲させて半独立的にさせないと、物凄い歪んでしまいます、、、、、ようは、僕は非常に難しい話だな、と思うのですが、近代国家の中央集権的官僚システムって、一言で言えば科学的管理法法に基づいた全体主義なんですよ。・・・・おいちょっとまて、日本のファナティツクな天皇主義とかナチスドイツと戦うために、そして共産主義と戦うために、徹底的な全体主義を手段として選ばないと、どうにもならなってことか?(苦笑)。そして、この全体主義的なものと、非常に親和性がいいのが、社会主義である共産主義なんですよね。ああ、、、なんと難しい。全体主義的なものと社会主義は、紙一重の差です。というかほぼ同じものだと考えていい。そう考えると、戦前のスーパーエリートたちであった、軍人の指導者たちが、近代化を駈け昇る大組織の改革の中で、社会主義的改良を夢見るのは、ましてやリソースのほとんどない日本においてみれば必然だったんだろうと思います。そうでなければ、北一輝が夢見たものが、さっぱりわからなくなってしまいます。日本の近代を見るのにあたって、陸軍の若手軍官僚が何を夢見たのかは、日本の革新官僚が何を夢見たのかは、この近代国家の建設、中央集権、官僚独裁全体主義社会主義共産主義が全部重なったものとして見なければいけなくて、意匠的(表層的)には、いろいろ矛盾するし重なるはずがないものが、本質的には同じなので、、、、という「読み込み」をしないと、わからないような気がします。

北一輝 (ちくま学芸文庫)

蛇足ですが、僕は、この辺のジレンマは、村上龍の『愛と幻想のファシズム』が忘れられません。それは、政権を取得しつつある鈴原冬至(スズハラトウジ)に対して、日本の自民党の大物政治家が、、、、その生涯を自由主義にささげた政治家という設定なのですが(これって後藤田正晴さんとかあの辺がモデルかな、と思います)、トウジに対して、


日本がアメリカと本気で戦うならば、自由主義じゃだめだ、、、日本は全体主義でないとアメリカに戦う力がないのだ、、、、


と、痛切に吐き出すシーンがあるんですね。このシーン忘れられないのですが、日本のリソースの無さって、こういうことなのか、、、と、衝撃に思ったのを覚えています。


愛と幻想のファシズム(上) (講談社文庫)

フーバーについての知識が、少ないので、自分の文脈に引き付けて書いてしまったのですが、時代的にも同時代だし、こういう文脈で見るのは僕は間違っていない気がします。特に、イーストウッドが、本当に国を守ったのは、アメリカの統合に尽くしたのはだれか?という視点でこれを書いたのは、僕はほぼ間違いない気がするんですよね、文脈的に。もちろん、非常に危うい人であったし、かなり自己中心的で壊れている人ではあったんでしょう、けれども、彼の人生に深くかかわった3人。ヘレンとトゥールソンと彼の母に、J・エドガーは、僕はとても矛盾に満ちながら深い関係を気づいていて、3人の彼への関係性の深さから、決して彼が、人間あるものをないがしろにするような人間ではなかったことが示唆されているように僕には思えます。その人間関係の複雑さ、やるせなさは、『ミリオンダラーベイビー』を思い出させますが、そのどうにもならない矛盾に満ちたものを愛すること、ずっとともに歩むことこそ、人間なるものだ、というイーストウッドの人間観、世界観を表現していて、ああ、やっぱりイーストウッドだなーとおもいました。


ミリオンダラー・ベイビー [DVD]