『コロコネクト ユメランダム』 庵田定夏著 あなたには思想がない〜Fate/staynightの衛宮士郎のキャラクター類型と同型

ココロコネクト ユメランダム (ファミ通文庫)

評価:★★★★★星5つ
(僕的主観:★★★★★5つ)

■ユメランダムは、傑作だと思う〜学園ものという狭いステージでこのテーマをたった1冊で語りつくしたのは見事


■自意識の病の系列の物語の変奏曲〜八重樫太一の場合

W★5つけといて、いきなり否定的ですが、基本的にまだ作者が若いというか、決して文章が非常に読みやすいとは言えない感じがします。実際、時々読むのがめんどくさくなってしまうことがあるので、技巧的に超絶というわけではないんだろう。どこが?というと指摘しにくいが、これだけキャラクターに感情移入していて、しかも全体のストーリーが好きなのに読みづらくなるのは、技巧の面でもう少し修練が必要なのかもしれない、と思う。でも、それは僕は決して単純にマイナスにはとれない。というのは、このあたりがこの人の作家性の重要なポイントだから。この人、すべてのかなり体感的な部分を、誠実に言葉で説明させて、それが哲学や分析に出さないでエンターテインメントの次元にとどまっている。マイナス的に言えば、この人の話は「全てにおいて理屈っぽい」し「体験やストーリーで語るのではなくて言葉で話を展開する」という部分がある、と前に書いた。そこが、このシリーズの「読みやすくない」点ではあるが、反対の角度からとらえると、普段は雰囲気や空気やドラマトゥルギーの「展開」として処理されがちなものを、ギリギリ哲学書や社会科学になってしまわない次元で、物語とキャラクターの次元、物語の次元をキープしながら、展開、説明していく。逆に言えば、ストリーテリングの力が高いともいえるのかもしれない。だから、この「ことばに頼って展開する」部分は、ここまで読んでくると、わざわざマイナス面の角度から悪くいえば、ということだなぁと思った。全体的に、まぁ、とはいえ、とてもキャラクターは立っているし、楽しいけど、とても今風で、よくあるものだなーと思って、ひと時の癒しと楽しみ(=それもまたすばらしい読書の効能であると思うけれども)思って読んでいたが、この太一の回は、おおっと唸るドラマトゥルギーの展開だった。


たぶん、この太一の話は、特に僕がずっと追っているテーマで、それを、この作者の特徴で、おおっとうなるところまで言葉で巧みに分解し(これ藤島さんの役目ね)、しかも学園の関係性のみというしょぼい狭い世界の中で、見事にこのテーマの全体性を昇華し切っている。だって『Fate/staynight』の衛宮士郎の物語は、この話ドラマトゥルギーを展開するのに、あれだけの長尺を必要としたんだぜ!。この話は、いかにシリーズの背景があるとはいえ、エピソードとしてこの1冊でちゃんと完結している。これは、凄い、と唸りました。これは、最初に↓で指摘した長瀬伊織の心の闇のテーマと並ぶテーマで、ああ、伊織ちゃんのテーマが女性に典型的な問題点(これは、(2)で描いた)だとすれば、太一の抱える問題点は男性に、男の子に特有といえる問題点のような気がします。・・・・これ、案外性別に分けること重要な視点かもしれない時、、、


ココロコネクト』 庵田定夏著 自意識の病の系列の物語の変奏曲〜ここからどこまで展開できるか?(1)
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20121003/p1


さて、とはいえ、いままで自意識の病・ナルシシズムの檻からの脱出に関するテーマはたくさん書いてきましたし、僕も実際の人生で、さまざまなケースを見てきました。もちろん自分の心の闇も含めてね。まぁ、僕は精神科医ではないので、そんなすごい例を知っているわけでもないし、自分にかかわりのあるケースも、そんなすごい例があるわけでもありません。けれども、継続的に、洞察力をフル回転させて20年以上モノを継続してみていると、相当のことがわかってきました。経験や洞察の継続は力ですよ。話がそれた。・・・・そんで長瀬伊織の心の闇の救済は大きなテーマでしたが、もう一つ大きなテーマがあって、それがこの八重樫太一の問題点です。ようは意思の無さ、世界「へ」の意思のなさという問題とでもいえるかな。


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前回の記事で指摘したのだが、アニメーション12話分、小説で言えば、3巻分までの話は非常に面白く僕は体験させていただきました。西尾維新さんの『化物語』シリーズに例えたんですが、この話も基本的にそれぞれの心の闇とかコンプレックスとか、ナルシシズムの檻とか、いい方は何でもいいけれども、自分の殻に閉じこもって他者とのつながりやコミュニケーションを閉ざしてしまう心の在り方を、解きほぐして解体するところに、そのカタルシスがある物語です。

化物語 Blu-ray Disc Box少女不十分 (講談社ノベルス)


僕はこれらの系統を「自意識の病・ナルシシズムの檻からの脱出」というようなテーマでずっと追ってきています。都市文明社会の現代で最も産業的に訴求力のあるテーマだというのが僕の持論です。このブログを読んでいてくれる人は、おなじみのテーマですね。前回の記事で、この作者のポイントは、「論理的な手当=言葉だけで心の問題を解決・解放する手法」をとっているところが、良くも悪くもあるというのが僕のものを考えていくうえでのアンカー(=錨)になりそうだということでした。今回のこの八重樫太一編でもこの傾向は、はっきりとしており、やはり言葉で太一の闇を解決しようと論理を重ねていきます。



■あなたには思想がない〜Fateの士郎のテーマと同じテーマの展開
自分の中でアンカーとなるテーマというか視点はあるもので、↓の記事は僕でも視点がすごく気に入っていています。まぁ、なにが言いたいの?というぐらいにいつもの物語三昧節ですが、このブログが好きな人ならば読み込んでおくと、僕の「考え方」のポイントの一つなので、どこかで、おお、この人は、こういう部分いこだわっているのか?というのが読み続けていれば、わかるかもです。その錨の一つとなる記事のつもりです。



Fate stay night』 人を本当に愛することは、愛する人の本分を全うさせてあげること、、、たとえがそれが永遠の別れを意味しても
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080802/p2


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ここでの大きな問題点の一つは、


衛宮士郎っていう人はどんな人なのだろうか?。



彼が目指していたものってのは、ほんとうの本当(=自分で腹に落ちるレベルでわかる)ではどんな人なのだろうか?。ってのが、ずっと大きなテーマで僕の中でわだかまっています。ちなみに、遠坂凛がどういう人か?というのは、良くわかるつもりです。


人が生きるということは?〜凛ルートの本質である「自分が楽しむというコンセプト」
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20091218/p1


自分が同じものを目指す系統の人間だし、たぶん僕が最もす好きなタイプの人間であり、生き方だから。ロマンチストにして現実主義者。それが故に、致命的な失敗を犯してしまう粗忽もの(苦笑)。。。けれども、士郎については凄いのは、わかるんだけれども、僕自身は、士郎のような空っぽでもお人好しでもない人なので、いま書いたように腹に落ちる!わかった!!、そうだったのか!!!エウレカ!!!のような「実感」がないんですよ。でも、この衛宮士郎の目指しているもの、彼のものの考え方というのは、非常に抽象的でわかりにくいものです。そういうものを、言葉で説明するのは、理詰めで解析できて、さらにそれを物語のエピソードで展開することは、物凄く難しい。


図書館戦争』 有川浩著 抽象的な「表現の自由」をウルトラ具体的なものでシミュレーションさせて具現化させている荒業に1本!
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100910/p1


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上記の記事で、抽象的な概念を、具体的な物語で展開できるのは、非常に希少な才能だと書いたことがあります。なかなか、抽象的な論理を、物語に展開するのは難しいのです。けど、この庵田定夏さんは、こういうのが得意なんでしょうね。やるなと思いました。特にこの八重樫くんの問題点を、ほぐして解体していくときの展開は、見事な筆の冴えで、こりゃーすげぇ!とこんなに小難しい話なのに★5つ級!とうなりました。この小説は、なるほど、こういうことなのか!と見事にわかりました。「これ」のことなのか!とその興味深い例がもう一つサンプルとして今回展開を見せてもらえました。この八重樫太一君は、まさに、衛宮士郎と同型の問題点を持っています。そして、それがなぜ危ういのか?なぜ間違っているかについて、非常に高度な抽象的な問いなんですが、見事に具体的にはっきりとわかる形で藤島委員長が、その問題点の構造を指摘しています。このくだりは、刺激的で、本当に興奮した。


思想がないのよ。




ココロコネクト ユメランダム p137

藤島さんのこの指摘は、なるほどっとうなりました。この言葉だけでは、はっ?って感じなのですが、学園世界の、対したこともないエピソードでこの倫理的問題点を、実感させていくストーリテリングには、感心しました。おお、そういうことかっ!ってすごく腑に落ちたもん。逆に、学園おたわいもないエピソードだから、その具体性がわかったのだろうと思う。


よくある物語の類型として、神の力を使って現実の出来事に干渉する時に、このポイントは非常に問題を浮き彫りにさせます。もちろん、こういう超能力的なことによる現実への干渉は、極端な形をカリカチャライズしているだけで、力を行使して現実に干渉するということに、どのような倫理が求められるのか?という非常に高度ではあるけれども生きるための現実の普通の問題なんですよね。学園もので、日常の中でのテーマで描かれたものだったか、これが実は非常に普遍的な、ごく当たり前の問題だということに気づきました。力を行使するには、思想が必要なこと。


思想とは、一貫性。


もっといえば、力の行使によって発生する現実を時系列的に「責任」として自覚して関わること。ようは、自分の行ったことによって発生した「現実」を受け入れていくこと。こう書くと当たり前なのだが、現実に行動することによる、その余波がバタフライ効果的に起こしていく現実を、自覚して「自分の責任である」と受け入れていくことは、実は人はなかなかできていない。


つーか、それができないことこそが、ナルシシズムの檻による虜囚なんだよね。自意識の病の最大ポイントも、ここだ。人間はみんな非常に頭が悪いので、自分の起こす行動の「直接的なリアクション」でしか物事を受け入れることはできない。もしくは、あまり気づかない。あるアクションを起こすと、連鎖的にさまざまな余波が広がって、さまざまな出来事が連鎖して、意図せざる様な結果を生み出していくのが人の世界。その、自分の直接的でない(=意図さえしていない)出来事にまで責任をとる覚悟を求めるのは、非常に難しい。けれども、それらの時系列的に広がっていく余波も含めて、その全体像やメカニズム自体を覚悟をもって受け入れていくことが、大人になること、ということだ。また、限りなく、どこまで自分のコントロールを意識するか(=予測できない結果についてどこまで責任をとるか?)の線引きを持つことが、「思想を持つこと(=一貫性を持つこと)」なんだろうと思う。

どうする?ああ、自分の意志で答えればいいのか。判断するのだ、己で。そしてその時、現象が始まって以来多くの相談を受け持つ中、いま初めて『自分で』判断する場面に出会ったのだと思い当たる。

 やろう。自分にはできる。自分の意志で、答えを。


なかった。


その事実に、太一は目の前が真っ暗に---------。


だけどその時、目の前で相談する女子が二人になる・・・・いやこれは。


中略


「・・・・・まぁ、もう無理だったらいいけど」


失望されたくない。自分にはできないと思われたくない。



p201 7章 星空の下で

7章の決定的な間違いをおかすシーンの太一の内面の煩悶が上記なんだけれども、思想がないのに力を持った場合の自我の空転が非常によく表れているシーンだ。「一貫したプロセスの果ての結果」に対して「自覚」がある場合には、世界はそんなに都合よくはなく、自分がいかなる判断をしても、現実はそれを裏切り自分にとってマイナスのことが発生する確率も常に50%はある。それでも「それを受け入れる(=何があっても)」というのが、思想を持つということだ。


たとえば、いま目の前で苦しんでいる人を救うことが、世界の大勢には全く影響がなく(=目の前にいなかった人を救わなかったことである)ことや、また目の前の人を数くことが、その人の自助努力を失わせ最終的には救おうとした人をより悲惨な状況に追いやることになる、というような『こともありうる』こともすべて引き受けて、それでも「あなたはどうしますか?」ということを考える・・・・


僕のこのいま説明している「倫理における意思判断」をベースに考えると、太一がいかにずれて間違った思考をしているかわかるでしょうか?。まず、全編読んでいて、太一は、常に「自分で意思判断をしないといけない!」という問いかけを何度も自分の中にして、内圧を高めていきます。この精神的に逼迫していく心理描写が、この作者の、そして物語の魅力です。これは、藤島さんに「あなたには思想がない」つまり、自分の意思で判断してやっていないのよ、というようなことを言われたがゆえに、そうではない、自分の中には「人を救いたい」という根拠があるのだ!と根拠を探していくというような心理の流れがあります。この焦りは凄くわかるし、直截的な他人からの詰問に対して、答えを出そうとする描写の流れは物語的にうまいです。


すると、そうやって内圧を高めて、しかも行動を繰り返して、人に感謝されまくって、、、その果てに、非常に難しい問題が現れた時に、太一は馬脚を現してしまいます。「なかった・・・・」と絶望するんです。そして、自分が人からの要求に対して、『どこでライン引きをする』という、言い換えれば、プロセスにおける結果まで見通してそれが自分にマイナスであっても「思想上」許容できない場合にも、断るというような選択肢が自分の中にないことが彼には、わかってしまいます。言っている意味が伝わるでしょうか?。太一が人を助けていた理由は、上記にはっきりと書いてありますが、「他人から要求されたときに断わって失望されるのが怖い」というその「怖さ」が根源なのです。


非常に卑近に言えば、ようは彼には自信がないんですよね。けどね、マイナス的に言うと自信がないダメな人なんですが、太一のスペックや安定した心理状態(かわいい妹に恵まれ、彼は家庭が安定していて許容範囲が広い)からいって、彼は「受け入れる」系統の人なので、プラスに言えば、物凄く許容度が高い人なんですね。こういうのの果ての一番大きな人物は、僕は西郷隆盛とかを思い出します。間違っているとわかっても、昔の武士の仲間が、あたなしかいないぃぃぃぃ!!!となると、こいつらのためにいっちょ死んでやろうか、とすべてを抱きしめた突き進んでしまう人(苦笑)。こういう、人っています。レベルが低ければただの自信なし野郎ですが、レベル(=水準)が高ければ、人々の巨大な欲望をまとめ上げて吸い上げる効果がある人です。そして真ん中のレベルの人は、太一のように、他者と仲間との絆のバランサーになる人になるんだろうと思います。


しかし、、、、上記にあるように、そこに思想がなければ、彼は際限なく、人の欲望をその間違ったものも含めて引き受け続けることになって、最後は、パンクしてしまいます。衛宮士郎やキリツグを思い出しませんか?最近の物語だと。思想がなくて受け入れていれば、いいことと悪いこと(その線引きは難しくともそれなりに因果律的なグランドルールは世界にはある)の区別なく受け入れていくので、100%必ずしも管理しきれるものではなく、どこかで破たんが来て、ぺちゃん、と壊れてしまいます。この学園のストーリーは、その膨らんでぺちゃんと壊れるまで、とても見事に小さくまとめていて、本当にうまいと思います。



■ミクロの問題設定に対してマクロの切り返しをする会話〜物語の豊饒性が際立ったんだなぁ、、、

だから、青木が、唯たちに父親の件で助けてもらったことを、肯定できなかったのは、人の世界で生きていくうえでは、「起きてしまった出来事を受け入れていく」という現実認識のグランドルールを逸脱することは、非常に人間として危険なことだということが彼の中にあったからだ。これは、他の人間が行使しえない力を行使した時に、それによってどこまで責任を持つか(=意図せざる結果をコントロールするか)の線引きに関する思想がない場合は、手を出さないのが正しい責任意識だ、と言っている。とはいっても、自分の人生を破局的にしてしまう出来事について、エゴイステックに自分優先で考えない彼の倫理観は、相当に頑固なところがあるとは思うけどね。

「そんなもの必要なかったのにっ」

斬り、捨てた。

桐山は信じられないと言いたげに、青ざめる。

「そんなこと言い出したらっ、不幸な問題前部に首を突っ込まなきゃいけなくなる。オレだけのじゃ、不公平になる!。」


「ふ・・・・不公平とか意味わかんないっ!」

一転、桐山の頬にこんどは赤みが差した。

「間違っていることを正して何が悪いの?あたしだって凄く青木に助けてもらった!そのお返しができたと思っている。!こrですっきり、、、、返事もできて、決着もつけられるでしょ!それが間違いだっていうの?」



p120 4章 信じた道が分かれたから

このやり取りは全編凄く興味深い。全部引用する体力がなかったので、適当にコアの部分を抜き出したので、この数ページのやり取りをよく読み返しながら考えてほしいのですが、ここに作者の描写力とテーマ設定の問題点が現れています。ここで、青木が言っていることは、個人感情的に、ミクロ的に言えば、凄くおかしいのです。話の流れ的に、読んでいてどう感じても(=感情としてね)唯の方が正しいと思えます。思えない壊れた人もこのようにはそれなりにいると思いますが(苦笑)、どう考えても、唯のように、痴漢の冤罪で家族がズタズタになって進学もできなくなっている青木を、冤罪だっていっている唯や太一が何もしないのは、どう考えても個人道徳的におかしいでしょう?。ましてや個人のミクロの世界は恩讐ロジックの世界であって、受けた恩と仇をどう返していくかの関係性の折り込みあいが、世界というものです。


しかしそういった、ミクロの世界では上位にくる優先順位を、いきなり差し置いてマクロのグランドルールを青木は持ち出しているんです。マクロ的に公平であること、人間の観測能力を超えたことには手を出せないこと(それが不条理であっても!カフカ!)は、マクロのグランドルールです。いきなり虫になっちゃうとかは、戯画化というかある種のメタファーなんですが、ようは、人のみに降り注ぐ「不条理(=個人的な努力とか意思とかを超越する何か)」をどのように人は受け入れなければいけないのか?またどのようにいきなりそれがやってくるのか?ということは、文学では、非常によく問われます。

変身 (新潮文庫)

もっとよく問うのは、宗教の死に関する話です。「なぜ、世界に60億人もいる命で、私が、もしくは私の最愛の人が死ななければならないのか?」という身も蓋もない端的な不条理に対して、世界の道徳や倫理は答えを持ちません。もちろん、そういった生命のレベルはマクロの話であって、個人の内面に関する話とは全く別のロジックで動いているので、関係ないからなんです!!!というのが答えなんです。身も蓋もない(苦笑)。ちなみに、ちょっと違うのかもしれないのですが、ふと思い出すのは、ブッタとかキリストの態度です。キリストは、自分の母親に「女、お前が私に何関係あるのか?」というようなこと言っていた気がします(うろ覚え)し、ブッタは悟りのために国の民(=彼は王族ですから)と彼を深く愛する妻と子供を平気で捨て去っていきます。個人的に言えば、なんと冷たい奴らだ!(笑)と思いません?。こういうミクロの情愛や恩讐のロジックの世界を、マクロレベルを優先してた生きる考える行為が、いわゆる「悟り」とか「解脱」とか「出家」につながるのですね。ニルヴァーナとかとか。


それは、個人的には、全能感の視点、自分の都合の視点からは非常に受け入れがたいことではあるのだが、この辺のバランスがわい、どの辺までミクロのロジックとマクロのロジックのバランスをとるか?というのが、まさに思想を持つこと!にほかなりません。青木の態度は、いきなりここで、マクロの視点に切り替わって飛躍しているんですよね。ここ!!ここがすごく違和感がある。この辺が作者が、とても抽象的に考えすぎていて、僕は、文章がうまいとはいえないなぁ、、、とおもってしまう点です。けれども逆に、この話をコンパクトにまとめられるのは、すばらしい力量でもあり、はっきりと文章では描けない(=ミクロの世界の物語の対話では描けない話)をテーマ何しているところは、とても才能ある人だと思います。というのは、



太一は、尋ねる。これは自己犠牲?いや違う。人として絶対に正しいことをいっている。

「『力』を使って自分たちの利益や欲求のために動くのは、絶対に間違っていると思う。けど、『動いてはいけない』というルールを盲信して、誰かのためになる、誰かを救えることやらないのは−−−−−−−−−−−」


「主人公か、テメエは」


侮蔑を孕んだ、稲葉の一言だった


「お前みたいのがいるから、はじめなくてもいい『物語』が始まるんだ。」



p121 4章 信じた道が分かれたから

そして、このマクロとミクロの接続に対して、稲葉の切り込み方は、一本!!!と物凄く唸った。イナバん好きだぁぁーーー俺の嫁になれ―――って思った(笑)。頭のいい女は、好きだぁ(苦笑)。まぁ、それはよしとしよう、、、、えっとね、唯と青木の会話って、物凄くずれているの。そして、青木はちょっとマクロに飛躍していすぎる。あんなふうに人はまず思わない。よほど宗教とか、特別な哲学でもバックグランドにない限り、人間は、ミクロの保身を最優先に考える生き物なのだ。動物的に。ましてや「できる力がそばにある場合は」。けど、ここではそれが重要。一般のパンピーたる我々のそばには、解決できる「力」ってそばにないのが普通なのよね。泣き寝入りするしかないの。世の中はそうなってんの!。ここで、物語主人公退室な、世界の不条理と悪は許せない!!!というピュアな太一や唯のような人間がいることは、とても素晴らしいことだ。まぁこういう善意が、頭と経験を伴わないと紅衛兵とかポルポトスターリニズムになって何千万人も殺すんだけどね。おっといきすぎた、マクロ的には単純じゃないんだけど、ミクロ的には、悪を許さないピュアな心は重要なものなんです。けど、イナバンがいっているのは、この「際を見極めろ!」もしくは「解決できないことに、解決できる力と能力もないのに干渉するな(=そういうのは100%悪い結果になる!)」と言っているんですよね。彼女が苛立ちを持つのは、彼女だって、「解決できる力があれば」やりたいんですよ。でも自分は学生であって、そんな力がない、、、、そんな力がない人間は、じっと次の不条理に出会った時に克服できるつからと権力と能力を手に入れるべく努力して勉強するのが筋だって思っているんです。ようは、解決のターム(=時間の感覚)が長いのですね。また、彼女は、今持っている超常現象は、チート(=卑怯)であるし、そもそも身の丈に合って制御し切れていないものなので、プロセスの統御を絶対にできないとおもっているんです。それは「制御しきれない他者の力」と「自分自身で積み上げ制御できる力」の別をよくわきまえているんですよね。・・・・おおっ、いい女だ。。。こういう現実主義者は、太一みたいな理想主義者に転んで、めちゃめちゃ惚れこんじゃうんだねぇ、、、凛が士郎にメロメロになってしまったように(苦笑)。ということで、この辺のやり取りは、凄い面白くレベルが高いです。



閑話休題


■現実の受け入れるのか改変するのかによって、世界の秩序をどのように作り上げたいのかの理念が全く異なる分岐点

相当話はそれて違う話だが、、、、これ前に、アメリカの民主党共和党の世界認識の違いで、考えたことがあるのだが、民主党は「世界は変えられる!」と考えて、人の不幸を不公平を認めようとせず、あらゆる現実を科学でその「現実の在り方を捻じ曲げて改変していこう」とする。共和党は「あるべきものをあるべきものとして受け入れる胆力」こそが人の世界の理だ、としている。これ、共和党の代表例の思想家?が、クリント・イーストウッドですよね。民主党だと、まぁこれは極端な例だが、これを現実の出来事に当てはめると、たとえば、妊娠中絶の問題で、女性の権利や幸福を考える時に、民主党はこれを積極的に認めていこうとするだろう。逆に共和党は「起きてしまったこと」を捻じ曲げるのを認めないので、妊娠中絶は嫌う。これがさらに重い個別ケースになれば、カトリックで婚外交渉を認められていない時に、たとえば幼い少女がレイプされて妊娠されたケースにどうすべきか?と言うと、さらに問題が複雑化する。また妊娠して、確実に子供に障害があるとわかったケースでは?とか。こういうのは共和党だと、アラスカ知事だったペイリンさんなんかを見ているとわかるが、本当に覚悟決めて、現実を受け入れようとする。ほんとは共和党民主党と分けるがすっきりするわけではないが、傾向として、どういう世界認識を持つと、どういう判断をするか?という世界史的にもわかりやすい差なので、例を出してみた。だから民主党的に考えるならば、世界で民主主義を受け入れていない、リベラリズムに反する生活をして苦しんでいる人がいるのは許されない!という美しいテーゼのもとに、世界中を侵略始めて、他の多様な文化を認めずに圧殺して、世界戦争を引き起こそうとする傾向がある。アメリカでは、民主党が政権をとっている時にこそ、世界的な大きな戦争に乗り出すのは、この思想が背後にあるからだと思う。逆に共和党孤立主義を支持しやすいのは、「世界がそのようにある」のは「そのようにある」からであって干渉するべきではないという発想が色濃くあるからだと僕には思う。ちなみに、そういう意味ではネオリベラリズムとブッシュJrのコンビは不思議な組み合わせだったと思う。また、女性の権利を尊重するあまりに妊娠中絶などを認めていく民主党の方向性は、それが故に、ナチスドイツの優生保護法的な発想に舵を切りやすい思考の持ち主が多いともいえる。逆にじゃあ共和党のように「あるべき姿」を維持させようとすると、人の平等や権利が無視されて、女性差別や差別の助長を継続して温存させてしまう。なかなか世界というのは難しい。これは極端なケースだけど、現実を「受け入れよう!」と思考する世界認識と、現実は「改変できる!」とうする世界認識の違いを、極端な言い回しで説明すると、こういう風に言える。ちなみに、誤解しないでいただきたいのですが、現実の民主党共和党が、こうだ!と言っているわけではないですからね。抽象的に考えて、思想を純化するとこういう傾向があり得るのではないか?ということですね。まぁ説明のための、仮説とか思って読んでください。アメリカの政治を見る時に対立しているように見えるのですが、政策的にはほとんど差異がないと僕は思えます。現代の政治を運営するにあたって、そんなにドラスチックな違いがテクニカルには出るわけないからです。けれども、世界認識の根本が違えば、「実現したい理想の世界」は全然違います。そこにポイントがあると、と僕はいつも思ってみています。ただどっちにせよ、現実で生きていくときには、自分のアクションが「世界のどのような余波を生み出してくか」「そのことによって発生する結果を受け入れる」の覚悟を持って生きなければ、人は生きているとは言えない、ということが、ここでは強く主張されている。この自分のアクションの余波が、世の中に連鎖的に広がる、「広がり方」に対しての自覚を持つということが、ここでいう「思想を持つ」ということだ。現実に対して影響を行使する時に、その帰結まですべて責任を持つ(&何があっても受け入れる・逃げない)覚悟で、力を振るうという覚悟こそ、大人になるということだ、とここではいっているんですね。



■神の力ようなイレギュラーの力を行使することが、倫理の在り方浮き出させる物語のドラマトゥルギー

そして、なかなかこういった神のようなイレギュラーの力を行使することは人間の世界には、あるわけではないのだけれども、極端な力を何の代償もそれを獲得する長いプロセスもなしに手に入れた時に、その力を持て余して、力が起こす現実への影響力に対する、思想上の一貫した意思、意図もなしに、行動を起こすと、、、しばし人はその「結果」をコントロールしていけず、しかも受け入れる覚悟もなくつぶれていく。


・・・・おおっ!!これって、落ちモノ系統のドラマトゥルギーに対して、昔考察した契約・再契約の倫理の話とまったく重なる!。・・・ってこれってどこの記事で描いたっけ、自分では凄い話しているので、記憶には深く残っているんだけれども、契約・再契約の理論をある程度かかたった記事って思いつかないな、、、もし読者の方でしっている人がいれば(笑)教えてください。第一の契約だけで、偶然に落ちてきた女の子や機会と結ばれる契約によって、何らかの全能感を得ることが、倫理的に秘境と告発を受けるのは、この覚悟の無さに象徴されるんだろうと思う。


ちなみに、地に足がついている人は、身分、役割、分不相応な「力」を手に入れても、自分の目的や手段が全然飛躍しない。その典型例が『サイコスタッフ』だった。

サイコスタッフ (まんがタイムKRコミックス)

これが、凄く清々しい印象を与えるのは、落ちもの系のパターンである、いきなり何の代償もなしに、特殊な力を手に入れた!さあどうする!。という、物語の始まりが発生した時点で、主人公の男の子は、「いやあ、かえって受験勉強しなきゃ」とそれを無視して、


「自分の目に見える手ごたえの部分を積み上げる結果こそが重要」といって、その「力」や「全能感」を必要ないものとしてあっさり無視してしまう。


これは、最初から、彼が、その「巨大な手段・力」に対して、それと等分に見合う思想上の目的が自分の中にないことから、それは必要ないものである、と結論してしまっている・・・・言い換えれば彼の中で、彼の持つ世界認識・思想において、「手段と目的が釣り合う」ことがなければ、それは不必要なものだというグランドルールが、最初から備わっているということだ。


これは、ようは、凄い大人なんだよね。


異世界ファンタジーにもいえることで、いきなり異世界に転生して「あなたは勇者になりました!」「さあ世界を救ってください」と言われれば、ということと同じ。、、、というか、こういう設定自体が、手段と目的が釣り合っていない状態なんですよね。人間には、分相応とか、自分が現実に保有している手段から、それに釣り合うものを、釣りあわせていくことが人生を生きていくことであるという倫理があって、それを大幅に逸脱すると、非常に倫理的に問題が発生するんですよね。ようは、制御しきれないしから。制御しきれないと、人は、精神のバランスを失っていくものなんだろうと思う。まさに、デュルケームの『自殺論』で語られる古典的社会学のエピソードですね。

自殺論 (中公文庫)

人間は、貧乏のどん底に落ちるのと同じ以上に、いきなり金持ちになった倍も自殺する率が高いそうです。これは、いきなり神の力を手に入れた(=金が増えた!)のが、自分お力と自分の経験で得るという制御能力を持たない場合には、物凄い不幸が個人の内面に訪れることを示しています。・・・そういえば、幸福の定義は、自分が制御できる範囲内を少し超えることにチャレンジしている状態が人に成長と充足をもたらす、というのは仕事論の本質の話であったなー。ナルシシズムというのは、フィードバックがなくなる状況であるという僕の定義からすると、ようは、自分の手段(=自分が保有する力)を超えて現実に干渉すると、そのフィードバックが自分の意図や意思を超えてしまうので、制御どころから、受け入れることすらできなくなってしまうんでしょうねぇ。




この話は、本当に面白かったです。久しぶりにいい小説を読みました。これ、ここまでアニメ化してほしいなぁ。これってめちゃくちゃレベル高い話だと思う。ちなみに、いおりんの救済の話(2)で描いているので、また時間があれば、記事出しますー。ではではー。