『海賊とよばれた男』 百田尚樹著 (2)石油を確保するという近代日本のエリートが考え続けていたことへの一つの答え


海賊とよばれた男 上海賊とよばれた男 下

評価:★★★★★星5つのマスターピース
(僕的主観:★★★★★5つ)


2)石油を確保するという近代日本のエリートが考え続けていたことへの一つの答え〜本当に自由主義者として振舞えば、世界は微笑み返す


国岡鐡造(出光佐三)が、凄いな、と思うのは、石油という今世紀のエネルギーの基本となるものを、その最初から目をつけて、貫き通したことだ。この本を読んでいた時に、僕はずっと、自分の読書のテーマである「資源を求め続けてきた近代日本」というのを思い出した。この設問に対する一つの明確な答えが、この出光の創業者の人生という物語にはある。この人の人生は、まさにこのテーマをど真ん中からとらえて生きたものだ。


『雄気堂々』城山三郎著 尊皇攘夷と開国の狭間で
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20081013/p1

雄気堂々〈上〉 (新潮文庫)雄気堂々 (下) (新潮文庫)


ちなみに、なぜ「商人たること!」が、現代社会の中で矛盾を解決しうる一つの「答え」になるかもしれない?、もしくは、司馬史観以降の、というか日清・日露戦争以降の近代・現代日本社会を読み解いていくときに見るべきは、事業家、商人なのだ、という僕の一つの到達点にして新しい「問い」の原点はこの記事にあります。このイメージがこのあたりのテーマのすべての根源で、この類似てテーマで、ファンタジーにおける「商人」の位置づけの偏向というずっと温めている論考というかテーマもあります。『狼と香辛料』から『まおゆう』の商人を理解するには、同じことが明らかにされないと、わからないのではないか?と僕は思っています。なので、このテーマが好きな人は、上記の記事を何度も読み込んでおいてください(笑)。僕が言いたいことの根源というか問いの本質がそこにありますので。この記事が一番丁寧に、珍しくわかりやすく書いてあるので、今後の僕のこのあたりのテーマの記事を理解する補助線になると思います。

狼と香辛料 (電撃文庫)

まおゆう魔王勇者(2) (ファミ通クリアコミックス)


このテーマは、山崎豊子さんの『不毛地帯』という小説を読んでいる時に強く感じた。『不毛地帯』の主人公は、壱岐正は、大日本帝国陸軍大本営参謀で、戦後、大商社の会長に上り詰める男だった。瀬島龍三さんという大東亜戦争を企画した大本営の参謀で、戦後は伊藤忠商事の会長を経て、中曽根政権の闇のフィクサーと呼ばれた人の人生をモデルに描いている。これもそれが本当だったかはさておいて、この物語の主軸にあるのは、石油という近代日本社会の存立の基盤となるものを追い求め続けた男の生涯の話です。これは、僕はよくわかる話だと思う。たとえば三井グループのイランの巨大プロジェクトもよくわかる。ようはね、近代日本の戦争のポイントは何かといえば、それは、石油がなかった!ことに尽きる。この恐怖感が、アメリカに石油を封鎖されて、帝国海軍を追い詰め(石油がなければ世界第三位の帝国海軍は、動かない鉄くずとなる)アメリカとの泥沼の戦争にはまり込んでいった。


不毛地帯 (第1巻) (新潮文庫 (や-5-40))

大東亜戦争の実相 (PHP文庫)

新装版 バンダルの塔 (講談社文庫)

ちなみに、いまは、僕はアメリカとの戦争との本質は、やはり石油資源がなかったことを戦略的に利用されて日本は泥沼に引きずり込まれ、そして日本の社会はその泥沼を自らの社会の駄目さで、自ら飛び込んで行った感じがしている。


けれども、石油資源のなさによる帝国の戦略的危うさの構造的問題と、大日本帝国が台湾、朝鮮、満州へと拡大していったものは、別の論理のような気がしてきた。たしかに、永田鉄山のいう戦争の構造からすれば、総力戦の後背地としての満州という点では、資源の不足を補うというこの論理との関係があるとは思うけれども、、、、少なくとも、日中戦争がなぜ起きたか?の前までの帝国の拡大の論理は、資源とはあまり関係性がない気がする。・・・・これは僕の内的思考なので、考えがまとまっていないし、なにを言っているか読者はわからないかもしれないですが、、、どうもアメリカとの戦争とその引き金となった日本と中国の戦争は、その構造がなにか違うもののように感じて来ています。アメリカとの戦争は、なぜ、どうしてそういうものが引き起こされたかは、何となくわかってきた、とこれまでの記事でも書いてきました。けれども、その起源となった日中戦争、いわゆる15年戦争は、僕にはいまだよくわからない。もちろん、全然そこら辺の資料を読んでいないからなんですが、、、けれども、日清・日露から15年戦争までの日本の大陸方針は、まだこの時代では、油の売買を基盤とした構造(=資源争奪戦)があるとは思えないんですよね。そうなったのはこの時間軸の後期からであって、大陸の方針は、この構造をベースにして生まれてきたものではない気が、、、。

昭和陸軍の軌跡 - 永田鉄山の構想とその分岐 (中公新書)
昭和陸軍の軌跡 - 永田鉄山の構想とその分岐 (中公新書)

最終戦争論・戦争史大観


ちなみに、アメリカが戦略的に日本を追い詰めたのは確かにそうであるが、だからといって、自衛戦争とは僕は思えない。うん、たぶん自衛戦争という言い訳にすがるのは、カッコ悪いと思う。やっと、最近、この言葉の卑怯者臭の理由がわかってきた。これは、独占と自らの特権への固執の物語なのだ。過去の日本の戦争が、悪かった、と単純に肯定する気は僕にはさらさらない。悪かった良かったなどという善悪でくくられた歴史観など意味がない。何が、そのような運動体を構成する構造であったのか、力学であったのか?そういうのを人類史的な視点で、知りたいと僕は切に思う。理由は、もちろんそれが一番おもしろそうだからだ。

それでも、日本人は「戦争」を選んだ

昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー)
昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー)

ちなみに、もう少し細かく考えておくと、まだ感覚の次元なんだけど、この「自衛戦争」というニュアンスは、大東亜戦争(ってこれもわかりにくいんだよね・・・)って、ようは、日本は二つの国と戦争している。対米戦争と対中戦争。この中で、対米戦争について、どうも強く言っているケースがエリートの言行録を読むと、何となく感じるんだよね。そして、まだなぜとは論理的には言えないが、それは、実は多少は、そうとも言えるなーという側面がある気はしている。米国は、既にこの時点から超大国だし、戦略的に日本を犠牲にしようと追いつめているのも感じるもの。まぁ、それにのっかった、日本も駄目なんだけどさ。けど、少なくとも対中国との戦争においては、非常に難しい気がする。自衛というにはね。ただしこれも前期と後期があって、どうも「前期」の時点では、日本の外交戦略にはそれなりの論理性があるように思えるんだよね。これは日露戦争の遺産なんだけど。ロシアを防衛したのは日本だっていう話からね。そこは、まだわかる。が・・・それを貫こうとして、「後期」というか満州事変を引き起こしたころから、これって完全な侵略というか、なんの外交的論理性もない、ただの侵略なんだよね。これは、もう言い訳はできないと思うなー。。。。最近そんなことを考える。

「保守の思想」を再点検する3――満州事変は満州問題の解決のためではなくその目的は別にあった
http://sitiheigakususume.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-2191.html

「保守の思想」を再点検する2――満州問題の外交的解決に当たった最後の外交官佐分利貞夫はなぜ死んだか
http://sitiheigakususume.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-6eeb.html

その辺はこのブログの記事がとても面白かった。このへんの問題は、浜口内閣での幣原喜重郎の国際協調外交いわゆる幣原外交を詳細に分析することで、どうもわかりそうだ。このあたりは、もっと勉強しなくてはなーと思いましたが、やっとその契機というか糸口がわかってきた気がします。

平和はいかに失われたか―大戦前の米中日関係もう一つの選択肢


話はもとの独占の話に戻る。


・・・・・とすると人類史の発展にとってこの、独占の排斥という運動は、歴史を見るうえでの重要なポイントのような気がする、、、。ようは資本主義の発展という歴史の運動力学を、ナショナリズムによるブロック経済統制経済(=要は独占)と、それと対立する自由主義経済、インターナショナリズムで捉えようということだが、、、まぁ、これはこんど考えよう。。。。もちろん近代のこの時代が植民地争奪の壮大な西洋文明による侵略の歴史であるという基礎の部分は、否定できないと思う。だからこそ、ペリーによる黒船の時代からの安全保障をめぐる辺境の土民国家日本の近代化の物語という「美しい物語」が、あるわけだ。それは、人類史からいえばローカルな物語ではあるが、西洋文明パワーズに対する辺境の抵抗、植民地主義から自由貿易体制への転換点としては、興味深いローカルな物語ではある。まぁ、いわゆる司馬史観ですね。

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けれども、僕はこれがすごく強調されすぎる(=自分たち「だけ」が特別だというナルシシズム)気がしている。というか、日本の典型的な右翼の物言いは、こういった単純なレベル、表面的にとどまっており、右翼としては僕はあまりにレベルの低い物言いな気がする。日本の右翼って、まずこの辺からいおうとするでしょう?。日本は悪くなかった、とか自衛戦争だった?とか。僕は日本が全面的に悪かったとは何度も言うがサラサラ思わないが、かといってこの物言いは、うーんなんだかなあぁ、とずっと思ってきた。


最近分かってきたのは、、、、というのは、この科学技術などの「近代化」による戦争と植民地争奪の競争は、ペリーが強引に眠っていた日本を開国したと同時期には、イギリス以外のすべての列強諸国(=パワーズ)が、その渦中にいたものだったと歴史をよく見ていると思うからだ。というのは、たとえばプロイセン(=ドイツ統一以前は、バラバラで食い物にされかけたいた?)など、その他の諸国も、この弱肉競争にエントリーされて、逃げることもなしに、ある種のグローバル化というか「降りることの許されない近代化のラットレース」に叩きこまれている近代日本だけが、強引に近代化されて、弱者として逃げられない競争にエントリーさせられたわけではないのだ。ヨーロッパ諸国も、死にもの狂いでこの近代化競争の逃げられないレースで、怯えながら全力疾走していたのだ。それは、イギリス以外のすべての国にとって同じようなものだ。大英帝国さえも、自国の「帝国」の衰退との長きにわたる崩壊の戦いを繰り広げている。

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それを、日本だけが被害者意識でいるのは、あまりに歴史的に情けないと思う。だから、事実である側面はあっても自衛戦争という概念で、侵略の歴史=近代化競争の弱肉強食の歴史を正当化するのは逃げだ、と思う。たとえば、物凄い卑近な例なんだが、いま、サムソンとかを韓国のメーカーでも中国のハイアールでもなんでもいいが、国際的に後発で、日本の技術を盗んだ!と言って蔑む傾向があるとしよう(これ仮定ね)。後発国は、確かに何でもやる。人材を引き抜いて、日本で冷遇された技術者をどんどん雇用して、自らの成長のために資する。よくこういうのも、あいつら技術を盗みやがって、卑怯なやつらだ、とかいう物言いがあるけれども、、、でもこれって、明治の日本がヨーロッパから招いたお雇い外国人と何が違うの?と思う。もちろん、パテントや発明の問題は、軽々しく盗んで何が悪いとは言えない部分があるとは思う。しかし、パテントの概念が、独占として機能することは間違いない。独占は、人類の発展にとって健全ではないんだ。純化できないから総論では言えないのかもしれないが、しかし、競争を独占で阻害する行為は、健全ではないんだよ。そこでは、良い悪いの問題ではなく、競争で打ち勝つ以外にはないのだ。日本だって、そうやって先に走っている連中を全力で盗んできたのだから。ましてや、拉致するとかはさすがに許されないけれども、高給で雇うのならば、そこに何の問題がある?と僕は思う。考えるべきは、ナショナルな次元だけではなく、同時に、それを超えた次元でも見れないと、成熟した国の人間として恥ずかしいと思う。


けど、そこには人類社会に貢献するという大きな価値がなければ、価値を持ちえない気がする。たとえば、戦前の近代日本には、アジアの小国がアジアのマーケットを開拓・整備・拡大化・深化していくという「正しさ」があった。もちろん膨大な矛盾は隠されていても、資本主義の運動として、マーケットを、より微細に、深く、広くしていった運動であったのは間違いない。Samsungや中国の発展も、中国市場の世界史における『あるべき姿』への復帰や新興国の興隆、マーケットの拡大という「大きな構造というか人類史のトレンド」を捉えているからこそ、流れに乗っている。もちろん1950-1990年代のSONYや日本の自動車産業の発展の流れもそうだ、、、。ちなみに、人類史1000年ぐらいのトレンドで見ると、平均して世界市場における中国の存在感は常に3割以上ある。だからいま中国が成長しているのは、別に成長しているというよりは、通常の状態にもどっただけだ。ここ100-200年が異常値だっただけだと思う。そう思わない人がいるとしたら、歴史が全く見えていないとしか言いようがない。そういうトレンドに乗っているかぎり、どんなことでも、やったが勝ちの部分はある。日本だって、東アジアの辺境の小さな国(=中華帝国と比較して)だったのが、このトレンド、西洋文明の東アジアの導入の先駆けになったからこそ、非常においしい目を見たのだ。そういう「人類史の転換」みたいな流れに乗れるかどうか、それと接続していることをできているかどうかが、重要なんじゃねーかなーとかとか思う。まぁこのへんは、まだ試行がまとまっていないなんちゃって戯言だけど。


えっと、話が壮大にずれた。えっとね、日本の近代の物語には「資源がなかった国の悲劇」という安全保障の物語が存在している。自己防衛の歴史ね。でも、僕はずっと、自衛戦争という自分に酔っている物語以外に、それ以外に自分たちの「存在」を肯定する物語をあまり見つけられなかった。やっぱり、日本人としての自分が誇りを持てないのも恥ずかしいので、それ以外ないのかなぁ、、、と思っていた。けれども、やはり、この安全保障のための自衛戦争という物語は、どうも、軍人や政治家や、官に非常によって「世界の見方」なのかもしれないといま思い始めている。ようは、日本の国家(=ナショナリズム民族主義)という部分に偏ったものの見方だ。前に、この時代の軍人や官僚の本はたくさんあるのだが、明治期から戦前、戦後の経営者の生き様を追うことこそ、この時代を理解するキーになるのではないかと思っているということを書いたのだが、僕の嗅覚は正しかった気がする。

石油カルテルは悪いものかというと決して悪いものではない。これがあったから世界の石油資源が開発され市場も大きくなって今日の石油事業が存在するのである。メジャー・カンパニーがやっているカルテルは大功労者である。けれどもこちらが隙を与えると独占されて高く売りつけられる。こちらが実力を持って隙を与えないようにして向こうを利用していけば、向こうも喜んで日本のために尽くす。これがカルテルの本当の姿である。であるからこちらは実力をしっかり持っていなければならない。


出光佐三


このセリフには、福沢諭吉が言った自尊独立の概念がしっかり生きていると思う。上記にも書いたんだが、この出光の創業者の生き様は、その人生にほぼ曇りない感じがする。それは、この人が、根っからの商売人で、商売の本質以外にはかかわりがなかった人だからだと思う。商売の本質とは、資本主義競争の健全さだ。そして、彼の様々な困難や問題が、大英帝国セブンシスターズといった現在の世界を支配する組織に対して真っ向から勝負を挑んでも勝てるのは、なんというか「正義」があるからな気がする。この人は一貫して、商売としてのフェアネスを貫こうとしている。もっとわかりやすく言うと、商売における中間搾取の排除や独占構造への抵抗など、資本主義の競争として「真っ当なこと」を貫いているだけだ。けれども、まったく純粋にこれを貫こうとすると、相当の困苦が存在する。統制経済というのは、いってんみれば、資本をナショナリズムの中に閉じ込めていく行為であって、それは、たぶん「人々」という単位で考えると正しくないことなんじゃないかな、と思う。日本人とか中国人とか、想像の共同体のカテゴリーでの寡占独占を志向することだからだ。



たぶん、ここでやっと、自由主義とは何か?という問いが生まれるんだろうと思う。


やっと、ここまでつながってきた。自分は、リベラリストだと思っていたが、必ずしもすべての拘束を解き放つ運動力学としての自由主義が好きではないのだが、それでも、歴史を読み込む中でこの言葉とイメージには、抗いがたい魅力を感じて、非常に何らかの「正しさ」を感じていたんだが、やっと自分の思考の流れがすべてつながってきた気がする。これは、自分の中になかった、近代史とは何か?近代日本とは?というテーマが、やっとそのの全貌を表してきた気がする。


最初に僕が立てた問いは、現代資本主義社会の商人には、善悪二元論の果ての永遠の殺し合いを超える可能性があって、近代の商人たちが目指していたものは、そこなのではないか?という問いでした。これはきっと自明的な目的ではなくて、商人というものの本質にかかわる存在の命題なのだと思う。それがすべて正しいとか善なるものという気はさらさらない。商人の目指すものは、今ある世界を作りかえること、言い換えれば今の世界の破壊だから、それがすべて血で購われるレベルのものであるのは、当然だ。人類の発展や進歩がそうでないはずがない。そしてその具体例として、渋沢栄一の話が一つあった。そして、この出光佐三の生き方には、この渋沢栄一の「その先」が描かれていて、それはストレートにいまのぼくたちにつながっている。そしてこれらの商人の生き様を見る時に問わなければいけないのは、きっと上記でいった「自由主義」とはなんなのか?なのだろうと思う。言葉の具体的定義なのではなくて、僕は学者ではないので、そういう細かいことはどうでもいいのだが、この「問い」自体は、僕はいい問いだと思っています。もう少しここを問い詰めていきたいと思いますが、本当にこの本はその文脈でよったです。