『フルメタルパニック ずっと、スタンド・バイ・ミー』 賀東招二著 なんて幸せな物語だろう 

フルメタル・パニック!12  ずっと、スタンド・バイ・ミー(下) (富士見ファンタジア文庫)フルメタル・パニック!11  ずっと、スタンド・バイ・ミー(上) (富士見ファンタジア文庫)


先日、twitterでも書きましたが、読了しました。友人に、楽園の物語(=日常)から、楽園にはずっといることができない(=非日常)というのを真摯に受け止めた物語なので、ぜひ読んでみてほしいと言われて読みました。まさに、その通りでした。1998−2010年の12年間でシリーズ長編が完結して、物語としては終止符が打たれています。そして、たぶん、楽園の日常、終わらない日常への過剰なコミットが始まったこの10年間を、ずっと真摯に、しかもたぶん人気を保ちながら、悩みぬいて描かれた物語です。素晴らしい物語でした。この物語を書き上げた、著者の賀東さんと、それを愛したファンの人々に、感謝を。これはとても幸せな物語ですね。その両方が、誠実に長く、ゆっくりとした時間が酒を熟成させるように、積み重ねて至るものだからです。この作品は、12年間、本当に要所要所で、誠実に、誠実に積み重ねてその最後にいたっている。素晴らしい終わりで感動しました。


ただ物語として、楽園からの脱出という問題設定、いまで言い換えるならば、日常から非日常へのスライドと循環、非日常でメメントモリを感じる構造から、日常の美しさに純化埋没する感覚(カルペ・ディエエム)から、日常の中で死の匂いを感じる現実感へ、その並行世界からの脱出・逃走劇といった2000年代に追及されたテーマとしても、悩んでいるが故に洗練されていません。なので、物語の構造としての面白さ、特に新規さとしては、★3つ半です。しかし同時に、この物語類型の可能性を見つけた王道の骨太の物語であるために、その骨太感、、、なんというのでしょうかねぇ、なんのてらいも、テレも、へじりもなくストレートにこの物語を開拓しようとする強靭さは、★5つ感覚です。実際に、凄くよく見てきた設定だし関係性だなーと思いつつも、12巻を僕は一気に読み切っています。たぶん、サイドストーリーやアニメも楽しむことになるでしょう。この「系列(コロラリー)」を骨太に、しかも木の幹からたくさんお葉と花が花開いている構造なので、とても楽しむことができます。

魔法先生ネギま!(38)<完> (講談社コミックス)

・・・・ただ惜しむらくは、リアルタイムにこれを知って、作者の苦しみと、この系が広がって花咲くその同時リアルタイムの感覚を味わえなかったのは、とても残念です。赤松健さんの『魔法先生ネギま!』もそうでしたが、そのリアルタイム感を感じることこそ、最高の面白さ、という作品は多いものです。そこで構造が明らかになり、フロンティアの開拓が終わると、後の時代の人にとっては、その果実を使って、もっと感度の高い純度の高い作品がつくられ始めるので、同時代的にはそっちの方が面白く感じてしまうので。


この「問題意識」に対して、悩んでいる分だけ迷走とは言いませんが、悩んでいるだけに最初から設計された洗練さはないです。たとえば、並行世界からの脱出、肥大化した自己による世界の改編の阻止、という物語類型のテーマは、このこの10-20年ぐらいに相当出ており、たとえば『魔法少女まどかマギカ』や『紫色のクオリア』、『ココロコネクト-ユメランダム』など、短くこのテーマを洗練してまとめて、しかもオチまできちっと展開したうえに、エンターテイメントとしての面白さが失われないという、凄い作品群に到達しています。

『コロコネクト ユメランダム』 庵田定夏著 あなたには思想がない〜Fate/staynightの衛宮士郎のキャラクター類型と同型
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20121030/p2

紫色のクオリア』 うえお久光著 アルフレット・ベスターへのオマージュ
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20091008/p2

魔法少女まどか☆マギカ(PUELLA MAGI MADOKA MAGICA)』 監督新房昭之 脚本虚淵玄 まどかは何を救ったのか?〜世界には解決すべきでないことがある
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110430/p5

Fate stay night』 人を本当に愛することは、愛する人の本分を全うさせてあげること、、、たとえがそれが永遠の別れを意味しても
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080802/p2

ココロコネクト ユメランダム (ファミ通文庫)紫色のクオリア (電撃文庫)魔法少女まどか☆マギカ コンプリート DVD-BOX (12話, 283分) まどマギ アニメ [DVD] [Import]Fate/stay night (Realta Nua) -Fate- [ダウンロード]


あと、問題点を挙げるとすれば、設定やキャラクターの関係性もとても古く感じました。マクロの設定自体もです。そもそも、いまの新しい時代においては、マブラヴシリーズなどもそうですが、ソ連とそれにまつわる米ソ対立の冷戦構造が出てくるだけ、ひどく同時代から現代史になりかかっている古臭さが鼻についてしまう部分があります。ソ連を設定に出すのは、危険なんだな、と思う今日この頃です。

シュヴァルツェスマーケン 1 神亡き屍戚の大地に (ファミ通文庫)

もっと、時代が古く、冷戦が完全に「現代史」言い換えれば「歴史」になってしまうと、この感覚は変わり、もう一つの「ありえたかもしれない現実」というファンタジーの様式美になるかもしれませんが、まだあと、そうですね、最低でも5−10年くらいは、時間がかかるかもしれません。特に僕は、幼少期の頃、冷戦のど真ん中を過ごした団塊の世代Jrなので、核戦争で世界が滅びるかもしれないという終末論。自由主義陣営と悪の帝国の戦いという2元的戦いが基本の世界を生きてきました。たぶん1980年代以降の生まれの人には、この感覚がさっぱりわからないでしょう。団塊の世代以上の、超老人世代、、、アメリカと戦争をした昭和初期に青春時代を生きた世代にも、この世界最終戦争的な二元的な思考は色濃くわかるはずです。しかし、時代は全く変わってしまった。ブッシュ元大統領の世界新秩序宣言(あれは冷戦の終わりを導いたブッシュ・パパ大統領とゴルバチョフソ連大統領を思い出しますねぇ)以降、世界は、まったく違う次元に突入しました。そして、2000年代の新興国の台頭による、先進国に限られて固定化していた中産階級の世界的な拡散とメガリージョンの分散的な高度成長が、人類を全く違うステージに変えてしまっています。そうしたマクロ設定に関係がないと、「世界の謎」としては、同時代的な・同時代史的なテーマとしては、物凄く陳腐になってしまうのです。一世代前の世界観・パラダイム・マクロ設定は、もうそんなの古いよ(=興味がないよ)という感覚を人に抱かせてしまいます。まだ歴史的に仕組みが解明され評価が定まり、ある種のノスタルジーとしてファンタジー化して様式美にいたるまで、最低一世代30年はかかります。実際に、同時代史から、ちゃんとした歴史になるのは、2世代くらいの感覚が必要な気がします。同時代史では生々しいし、歴史評価が定まらないので、非常に語りにくいと、猿谷要先生もおっしゃていました。

検証アメリカ500年の物語 (平凡社ライブラリー―offシリーズ)


こうしたこの楽園追放の類型の骨格が明らかにされ、それをメタ的に意識したうえで作られた作品群と比較すると、冗長であるとは思います。ただまぁ、それはフロンティアの苦しみであり、マイナスというべきものではないとは思いますけれどもね。これらの作品が、かなりの展開をショートカット的に扱うのに対して、フルメタルパニックは、コツコツ誠実に展開しますから。それに答えが出ないところで模索している作者の緊張感は、非常に真摯につとたわってきます。たとえば、これはエヴァンゲリオン人類補完計画が最近では最も大きな課題として提出されましたが、SFの定番の問題意識である、全体と個の優先はどっちにあるか?という問題提起が、ラストのエピソードでは、展開されます。洗練されていないが故に、ともすれば、何を言っているかわかりにくいところですが、この類型の問題点に作者が全力投球で挑んでいることがうかがえます。ようは(1)「起きてしまった出来事を巻き戻して元に戻す」ことの倫理性を個人の内面に問うミクロの問題や(2)「既に起きてしまったという事実性を消し去ることをどう扱うか?」というマクロの問題です。



(1)は、Fate/staynightの記事で描きましたが、起きてしまった最悪の出来事を度白紙に戻すことが、許されるのか?という倫理を問う問題です。これを個人的な意思の問題に還元すると(=要はセカイ系のことね)士郎とセイバーの問題意識になります。ようは、個人が、最も苦しいことを白紙に戻さないで「受け入れる」という勇気を持つことが人としての尊厳を守る最終ラインなのだ、という話です。フルメタルパニックは、どちらかというと個人の話より、世界のマクロの話にシフトしているので、(2)の「起きてしまった事実性」を、言い換えればこの、いまいる、我々の世界の、罪も苦しみも他者が経験しているかけがえのない「唯一性」であってそれを侵すことは、他者の命を奪う以上の罪悪であるという世界への冒涜の問題になります。はっきりと、テッサに、世界を元に戻すことのために戦う理由は「あなたたち(=この世界の人)にはありません」と告げるのは、なんと勇気(テッサにとって)が必要でしょうか?。感心しました。また物語のダイナミズムを奪う行為でもあるので、作者自身にも勇気のいることです。だって、あきらかに、参加している兵士の使命感がガタ落ちにしてしまうし、読者自身にも肩透かしを感じさせてしまうものです。にもかかわらず、それを誠実にストレートに描く作者は、本当に誠実だな、と思いました。


ちなみに同じ問題設定でも、(2)のほうにシフトするのは、この作者が、主要キャラクターであるカナメとソースケに、悩みよりも行動を重視する人格を与えているところが大きいと思います。特にソースケは、あまり頭がよくない、、、というより、頭で考えることではなく、行動して、動いて、戦って「生き抜いてきた」人なので、常に、悩むことをよりも前に進む行動を、それが間違っていそうであっても優先します。だからこの物語が前に進んだのでしょうね。ソースケは、あまり「善い悪い」といった善悪の基準でものを考えません、そうではなく、カナメをもう一度学校に連れ戻す、などの非常に具体的で、手触りのある、わかりやすい目的を自分に設定します。そういう意味では、この楽園世界に留まれない時に、その矛盾に満ちた世界で、善悪の判断基準がつかなくなる中で、どのように物事を打開していくか?という時に、考えすぎてはだめなのだ!動け!という解決が、唯一とは言わないまでも、ほぼ正解に近い方法なのだ、ということをまざまざと見せつけてくれます。


ソースケが、自分が日常では生きられる種類の人間ではないと気づかせるために、さまざまな、ありえないようなバランスで成り立っていた1-7巻ぐらいまでの日常の楽園構造が破壊されていきます。人死にこそ出ませんでしたが、「日常の楽園」があり得ない欺瞞であり、ウソに満ちたものなのを、あからさまに露わにします。そして、、、8巻で、再度物語を前に薦める時に、ナミをあっさり殺してしまいます。僕は、これにはショックでした。こうした日常の楽園系の物語では、まず自分サイドの人が死ぬことは、あまりありえないし、何らかの強い動機獲得のための「積み上げ」があるはずですが、それが全くなかったからです。仕掛け上、そして動機の設定上、ナミが死ぬ必要性は今でもなかったと思うので、僕はとても悔しい気がします。。。何も彼女が死ななくても、、、と思うんですよ。でも、なぜ殺したかはわかる気がします。誰も死なないというのは、あまりに欺瞞だ、って作者が感じてしまったのでしょう。カナメとソースケが還る場所を確保するために、学園サイドで人が死ぬのは、さすがに設定できなかったのでしょう。それでは物語が終わらない。日常に還ってこそ、この系統の物語は終わるから。。。けれども、その物語のご都合主義の欺瞞が、作者には許せなかったのだろうと思います。というのは、物語上の必然性が凄く弱いのに、、、、僕は、この死でショックを受けて、ソースケがいかに欺瞞の世界に生きていたのかが、ありありと感じられました。もちろん、ナミが生きていたら、ソースケは、このもう一度見つけた小さな楽園に埋没して逃げてしまったかもしれませんが、それは、何らサガラ・ソースケという人格の物語を貫徹することにはなりません。人の物語は、完結され、全うされるべきなのです。。。


というように、とにかく、誠実にこの系統の物語設定、人格設定に発生するであろう問題点を、きちっ真正面から向き合って、昇華していく、素晴らしい物語でした。これが「描き切れた」というのは、とても幸せなことだと、僕は思います。読者にとっても作者にとっても。良い物語でした。


フルメタル・パニック!戦うボーイ・ミーツ・ガール(新装版) (富士見ファンタジア文庫)