『王になった男』 韓国/2012 チュ・チャンミン監督 朝鮮半島における真の王とは?

【映画パンフレット】 『王になった男』 出演:イ・ビョンホン.リュ・スンリョン.ハン・ヒョジュ

評価:★★★★星4つ
(僕的主観:★★★★☆4つ半)

僕はもともと、1993年に公開されたハリウッド映画でアイヴァン・ライトマン監督の『デーヴ』がとても好きで何度も見返しています。なので、例によってノラネコさんの前半部分の構造が似ていると、という記事を読んで、興味を持って見に行きました。


ノラネコの呑んで観るシネマ/王になった男・・・・・評価額1650円
http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-607.html


いわゆる権力者が偽物と入れ替わってしまう物語で、こうした入れ替わりの物語は、男性と女性で性別が入れ替わったりするものもありますが、その「入れ替わり」を通して、その存在の本質が浮かび上がるということ、そして、それに気づき、その本質に立ち返るという部分に面白さがあります。

デーヴ [DVD]

『デーヴ』は、アメリカ大統領の影武者をやることになった男が、その素朴で人間味あふれる振る舞いで、周りの人間に、その仕事の本来やるべきことは?、理想を追い求めることを忘れているのでは?といった影響を与えていくドタバタコメディーです。ちなみに、アメリカ大統領にまつわる政治風刺映画の系譜は、『チョイス(SWING VOTE)』を見た時に記事に書いたので興味がある人は読んでみてください。アメリカ大統領というのは、現代社会の「王」のようなものなので、だから彼らの内幕を暴露することに人々の興味が集まるのか、たくさんの風刺映画が今も作られ続けています。文化人類学的に権力のバランスを維持するために、宮廷に道化を住まわせるケースが多く、この本音(ホンネ)と建前(タテマエ)のギャップを演出、表出することは、人間が求めるものなのでしょうね。17世紀の実在の朝鮮の王を扱ったこの韓国時代劇も、もちろん同様の類型といっていいでしょう。


チョイス! [DVD]

『チョイス(SWING VOTE)』2008年アメリカ ジョシュア・マイケル・スターン監督
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20101026/p1



さて、権力者の偽物入れ代わりによって王の役割を再確認する、という大きな骨格は既に決まっているので、この物語の評価のポイントは、


1)権力者とそれの影武者を務める(=大抵は同一人物の俳優が演技)者のギャップを通して、実際に、権力者のあるべき姿、を感じられるか?


というところに、重要なポイントがあります。これは難しい。同一人物が演じながら、暴君の王と道化の役を演じ分ける必要性があるからです。その意味では、今回のイ・ビョンホンの演技は素晴らしかった。明らかに同じ人物が演じているにもかかわらず、ギリギリに追い詰められた王の迫力と、軽やかに世界を生きている道化の素朴さが見事に演じ分けられている。彼がユーモラスさと男臭いマッチョさの両方を持つ俳優だったから、きれいに演じ分けられたのだと思います。腰をフリフリ賤しい身分なのを示しながらも、下品さに堕落しないのは、本人の魅力でしょう。

そして、その道化が、社会の不正や苦しみを見ていくことで、それを何とか変えていこうとする姿勢を通して、真の王へと振る舞いを変えていくその「変化」も見事でした。自身の変化もだが、同時に、そのユーモラスな振る舞いやエピソードで、王命を家臣へと伝達する都承旨の職にあるホ・ギュンや冷え切った関係になってしまった王妃が、少しづつ心を開いていくプロセスは、エピソードとしてはいくらでも作れるが、演技力が要求されるもので、それを違和感なく作り上げた監督と俳優の力量は、見事でした。

なかなか興味深いのは、ノラネコさんの指摘であるように、韓国ドラマの娯楽超大作として、いつものごとく、何十時間もの長期のドラマシリーズにしてもいいような重厚で分厚い構成なので、それを131分という常識的な上映時間に各パーツをわかりやすくまとめたのは、よくやった!と思います。ダイジェスト的になってもおかしくないエピソードの多さです。エピソードが少なければ、イ・ビョンホン演じる影武者のハソンを中心に、周りの権力に関わる人間の心がどう変化していくのか?という納得性が得られなくなるし、多すぎれば長くてダイジェスト的に堕してしまう。いいバランスでした。


この1)は、ギャップを表現して、そのギャップにまわりの人間が気づいて、理想に戻っていくところ、言い換えれば、登場キャラクターたちのミクロの心の動きが変化して、熟成していくところを感じさせられるか?が重要なポイントです。ギャップとは、目の前の理想につながらない(=民を苦しめる権力闘争だけ)の現実と、本来あるべき王としての意味、価値の差分を示すことです。これは同時に、見ている観客の我々が、ああ、、、彼(=影武者のハソン)のような人がそばにいて、あんなふうにふるまわれたら、きっと、気持ちが変わっていってしまうだろうな、心の動きを違和感なく受け入れられるだろうか?につきます。


もう一つの評価ポイントは、上記のミクロの心の中での変化をベースとして、ならば、彼らは国の頂点に立つ人々ですので、それでは、自分たちは、何をなすべきなのか?という


2)存在の本義を示すことができるか?


というポイントにつながります。存在の本義とは、朝鮮という国にとって、人々にとって、それを司る王にとって最も大切なことは何か?ということを指し示すことです。ノラネコさんも指摘していますが、韓国で公開された2012年9月は、大統領選挙を直前に控えている時で、真の王とはなにか?、真のリーダーシップとは何か?という強い政治的メッセージであったのは間違いないと思います。


特に、17世紀の李氏朝鮮時代の第15代国王光海君(クァンヘグン)が選ばれているところが、なかなか興味深いと思います。この人は、暴君として、つまりは、酷い王様だったという歴史評価のようなのですが、、、正直言って、実績からいって、とてもそうには思えません。朝鮮の歴史が韓国国民の中でどう一般に理解されて、どのように歴史が教育されているのかわかりませんが、この人、かなり凄い理想肌の王様だったんじゃないの?と思います。

http://news.kstyle.com/article.ksn?articleNo=1953086&categoryCode=PU

業績の1つ目は戦乱の収拾である。壬辰倭乱(文禄の役の朝鮮側からの呼称)が起こった当時、先代の王である宣祖(ソンジョ)が鴨緑江(アムノッカン)の近くに逃げ、急いで皇太子に定めたのが光海君だった。国王である父親まで逃げてしまった状況の中で義兵を励まし、民心を治めた光海君はリーダーとしての資質を持った人物だったのである。戦争が終わった後も光海君は昌徳宮(チャンドックン)や慶熙宮(キョンヒグン)などの宮廷の修復にも力を注いだ。


http://news.kstyle.com/article.ksn?articleNo=1953086&categoryCode=PU

まずなんといっても、壬辰倭乱(文禄の役の朝鮮側からの呼称)において、秀吉の軍隊に対抗するリーダーだったみたいなんですよね。・・・父親にどうもうとまれていた感じがするし、その後、朝鮮の歴史の中でも大きな改革である号牌法(朝鮮時代に導入された身分証明・戸籍制度)や大同法(国に捧げる特産物を米に統一する法律)の施行、税の徴収に貨幣を試験的に導入するなど、内政の功績も大きい。

5つ目の業績は中立外交だった。光海君の死後、王座についた仁祖(インジョ)は丙子胡乱(1637年に清が朝鮮に侵入した戦い)で清に屈辱的な降伏をした。これはもし光海君が中立外交を行わなかったら、どうなっていたのかを見せてくれる結果であった。最後まで明を頼っていた仁祖は、勢いを強め、ついに朝鮮を攻めてきた清によって屈辱を味わった。しかし光海君は国内外から批判されながらも中立外交を行い、戦争のような混乱を避けることができた。ソル・ミンソク講師は「今日、政治的な観点から評価すれば中立外交も大きな業績だと言える」と述べた。


http://news.kstyle.com/article.ksn?articleNo=1953086&categoryCode=PU

そしてなによりも、明に従え!という朱子学イデオロギーに染まった奸臣の大合唱のなか、後金のちの清に対して中立外交政策をとるというのも、当時の朝鮮に置いては、いや、朝鮮の全歴史の中においても非常にバランス感覚の優れた画期的な方針だったと思う。軽く見ても、これだけの業績がある。名君じゃない?と思う。それが、なぜ暴君として廃位されなければならなかったのか?。歴史的に見ても暴君として評価がマイナスなのだろうか?。とても不思議だ。次の王が、明に従うという無理な政策を続けた結果、朝鮮は、清に屈辱的な講和を迫られることとなる。ちなみに、この時の話を書いた司馬遼太郎は、『韃靼疾風録』で、光海君(クァンヘグン)を「不出世といえるほどの外交家」と絶賛している。宗主国明に偏ることなく、後金との友好を維持し、また断絶していた日本との国交を回復した朝鮮王でもある。

韃靼疾風録〈上〉 (中公文庫)

朝鮮半島における真のリーダーとは?ということを考えれば、光海君(クァンヘグン)は、十二分にその資格を持っていると思う。一つは、門閥貴族層や官僚群ではなくそこに住む民そのものにとってプラスである政策をしているかどうか?、もう一つは、外敵の侵略を退ける軍事リーダーとして優れていることがあり、同時に、軍事的に対抗できない場合の外交政策に関するバランスがあるかどうか?ということだ。この外交政策のバランスは、重要だ。朝鮮の歴史を見ていると、とにかく内政の混乱も強く影響しているとはいえ、外交感覚の現実認識の欠如が多い気がする。これは、朝鮮半島、特に李氏朝鮮が非常に安定した平和国家で、中国皇帝官僚システム(中央集権システム)がほぼ完成している国家であったことがその理由だろうと思う。小中華としてのシステムが完成されすぎているが故に、中華帝国への盲信ぶりが激しかったのではないかと思う。ここでも、明に従うという、あきらかに、外交の現実感覚のない話で宮廷(要は政府)がもめにもめている。そんなのはおかしいのだ。騎馬民族の後金(後の清帝国)の軍事力の強さを考えれば、中立政策しかありえないのだ。ましてや、日本の豊臣秀吉に攻められた直後であるのだから、いつ後背を突かれてもおかしくないはず。こうした外交バランス感覚は、中華帝国という大陸国家や草原の騎馬民族、そして海の向こう側から日本列島という強大な軍事国家に囲まれている半島の地政学条件から考えれば、絶対に必要なものだ。特に大陸国家や騎馬民族は、軍事力としてはとても敵に回せるものではない。中華帝国冊封体制に従うのは、仕方がないとはい、それを骨抜きにし、いかに民族としての自立を自尊を保つか?というのが、ここでは命題になるだおう。


これらの条件はいまだ全く変わっていない。一国の地政学的、歴史的条件というのは、簡単には変わらないものなんだなぁ、と思う。李明博元大統領にしても朴槿恵(パク・クネ)大統領にせよ、政治的課題の構造は非常に似ている。一つは、財閥に支配されている韓国経済がそのままでいいのか?ということ。真にそこに住む民衆の利益になるのはいったいどういう経済構造か?という問題。必ずしも財閥を解体すればいいわけではなく、そんなことをすれば国際競争力は失われて、よりひどいことになってしまう。しかし、、、。まぁ、この国際競争力と民衆の生活空間のレベルの維持やケアって、国家の常に難しい問題ではあるんだけれどもね。でも、中産階級で一国が塗りつぶされる幸福な時代が終わって、メガリージョンごとに競争が行われるこれからの時代は、一国中の格差による分断が激しくなると思うのだ。また、政治的には、超大国となりつつある大陸国家中国と北朝鮮、そして日本、ロシアという国々に囲まれている。今回の中国の大気汚染の問題などこうした広域環境に関わる中心に、100年スパンで東アジア共同体とは言わないが、そういった東アジアのナショナリズムを超えたバランスが要求されるときに、キーとなれる国家は、朝鮮半島が妥当だと思う。地政学的に、どうしてもそうなると思うのだ。まっ、それは先の話だけれども、アジア全域の中国の衛生的な位置にいる民族、国家は、そのすべてが、自国の独立と、圧倒的超大国である中国との距離とのバランスをどう保つか?が最も重要な政治的、外交的命題だ。それは、中国という巨大文明が中心に位置する限り、ずっと変化することはない。そこでは、盲目的にへつらえば、いいように操られる。かといって、軍事的に対立することは、その規模からいってほとんど不可能に近い。なかなか難しい問題だが、この超大国中国、”華”とのバランス問題は、北東アジアに自国の領土がある限り、永遠に逃れることのできない命題でもある。


そうした時に、やはりその外交バランスがどのようにできているのか?は、最も不安定で最も国際政治の力学が働いた時代を、広く鳥瞰的に見ることが最も良い理解をもたらすと思う。私もまだまだ朝鮮の歴史はまだまだ知見が薄いのですが、この16世紀末の北東アジアというのは、以前書いたと思いますが、非常に面白い時代です。北東アジアの中国、朝鮮、日本が入り乱れ国際政治が展開された時代だからです。織田信長の野心から引き続く豊臣秀吉朝鮮出兵、それに後金の成長と明との対立。そして清の建国。このあたりのダイナミズムは、なんといっても物語的にも最高に面白い。この辺の話は、荒山徹や上記にあげた司馬遼太郎、それに清の建国の話である『海東青―摂政王ドルゴン』や、あとはなんといっても、浅田次郎の『蒼穹の昴』『中原の虹』 が素晴らしい。それに、豊臣秀吉の話に、あとは、お薦めなのは、織田信長の野望がなんだったのか?を説明している『クワトロ・ラガッティ〜天正少年使節と世界帝国』が非常におすすめです。ようは、夷のリーダーである日本や朝鮮など、中華帝国の辺境の野蛮人とされる王が何を望むのか?ということです。司馬遼太郎が書いているように「ヨーロッパの概念で言えば、朝鮮は属国とはいいがたく、独立国であった」が「ただ、アジア的概念い置いては、明の版図であった」というこのアジアの支配秩序を、どう考えるか?、ということです。若桑みどりは、『クワトロ・ラガッティ〜天正少年使節と世界帝国』で、ヨーロッパの国家と国際の概念を知った信長が、何を考えたかと丹念に推察していますが、、、この思考の順序は、辺境の蛮族といわれる王たちの考えとほぼ同じです。すなわち、華とは、中国の中原を支配したもののの、もの。ならば、夷として辺境で宗主国の犬となるか、主人となることを目指し支配されるくびきから脱出するか?。この辺りは、この同時代のすべての周辺国のリーダーたちが深く考えたことのようです。そのうちの一人、女真族のリーダーは、ついにそれに成功し、漢人を打ち破り、清という中華帝国を打ち立てることになりました。僕は、これは、ヨーロッパの概念が東アジアに流れ込んできたことによる、夷のリーダーたちの意識の変化だったのではないかな、という気がします。まっ、適当な思いつきですけど。そうすると、この優秀な外交家だった朝鮮王・光海君や織田信長豊臣秀吉、そしてヌルハチホンタイジらの「丘の向こう側にあるもの」が見えてくるような気がします。ちなみに、ドルゴンも含めて、ここに書かれている人がほぼ同時代人というのは、16世紀末の東アジアには綺羅星の如く英雄がそろっていたのがわかります。数隻の船で、日本のだ大艦隊を破った李舜臣も同じ時期の人ですしね。

海東青―摂政王ドルゴン (中公文庫)クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国不滅の李舜臣 第1章 前編 DVD-BOX



蒼穹の昴』『中原の虹』 浅田次郎著 物語がつながる時〜16世紀末の北東アジア
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20090305/p1

中原の虹 (1) (講談社文庫)


『柳生大戦争』 荒山徹著 北東アジアの視点からみたこの時代の歴史
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20090515/p1

柳生大戦争 (講談社文庫)

16世紀末の北東アジアの国際政治状況について、荒山徹の『柳生大戦争』では、まさにこの軟禁状態に置かれている光海君(クァンヘグン)が、述懐するシーンがあるのですが、この国王の理念や挑戦お歴史における位置づけがわかっていれば、さらにおもしろさの濃度が増すこと請け合いです。僕としては、どこかで下記のドラマも見てみたいなーと思います。『ホジュン 宮廷医官への道』、『宮廷女官チャングムの誓い』、『イ・サン』を手掛けたイ・ビョンフン監督による「朝鮮王朝500年シリーズ」の一部ですね。あー見てみたいんだよなー。見ると、たぶん東アジアの歴史感覚が、凄い変わると思うんだよなー。朝鮮史も、全体像がきっとかなりクリアーになるだろうし。まだチャングムしか僕は見ていないんだよなー。もの凄いおもしろいとの話なんで、どこかで時間を作りたいです。

暴君 光海君 DVD-BOX 1

以前、海燕さんが、韓国は、朝鮮の歴史をすべてドラマにしようとしている!と喝破していましたが、まさにそうだろうと思う(笑)。ちょっと一つが長すぎる気もするが(韓国ドラマは面白いけど長いんだよー(涙目)それだけ、素晴らしいアーカイブがたまっていくということなので、楽しみでたまりませんね。

IRIS[アイリス] <ノーカット完全版> BOX I [DVD]

『IRIS』でイ・ビョンホンの男臭いまっちゅの中にも、艶やかなユーモラスさがあって、とても好きな俳優ですので。ちなみに、マッチョで男臭い俳優は、韓国映画やドラマでは、独特の魅力を放っていると思います。徴兵制があるのでマッチョ系が好まれるというのもあるでしょうが、良きにしろ悪しきにせよ、男尊女卑の感覚がまだまだ根強い社会だからかもしれません。ポリティカル・コレクトネスはさておき、世界というのは難しいなと思うのは、こういう時です。男尊女卑というのは、今後のリベラリズムが浸透し、多様性を重要視する方向性から、好ましいものではないでしょう。けれども、それが故の「美しさ」というのもまたあるわけで、韓国の俳優のあの感じは、そういう土壌の中からしか生まれてこないものなのでしょう。いやー、イ・ビョンホンかっこいーもん。まぁ、そう考えると、同じように強烈に男尊女卑が根深い日本社会には、ああいうマッチョ思考がないのも不思議な気はします。日本の男性は、伝統的にも歴史的にも、あまり強い感じがしませんよね。その割には、1900年代前半には非常に獰猛に領土拡大、戦争拡大をした帝国を形成したわけだし、秀吉の朝鮮出兵にせよ、決して本当にか弱いわけでもありません。なんだか不思議な感じがします。あまり、男臭くてマッチョな男性像が理想像としては、社会にはないですよね?なんでだろう?。


あと、もう一つ、ビックリしたことがある。この映画がどれほど時代考証をしているのかわからないのだけれども、見事なほどに宮殿の建築や空間配置、生活の在り方、権威の示し方などなど、宮廷のシステムが、中国の皇帝制度のそっくりなことだ。チャングムやいくつかのドラマを見ていても、なんとなくそんな気はしていたが、これは映画で撮影されているだけあって、その壮麗さが見事に大規模なセットで再現されていて、まさに清朝の『ラストエンペラー』の映像とほとんど一緒だ。これは中華の皇帝官僚システムがほぼそっくりそのまま移植されているといってもいいんだろうなーと感心した。日本の天皇制の仕組みなどは、まったくこれとは異なる。仮に時代考証がそれほどなされていなくとも、その違いはよくわかる。ビジネスや観光で何度も韓国や中国にいったが、宮殿の建物の配置や構造が中国のものとまるで同じなんだから。それにも少し感心した。

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