『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』(Life of Pi)2012年アメリカ アン・リー(李安)監督 人間の内面の中に宇宙を見ること


評価:★★★★☆星4つ半
(僕的主観:★★★★4つ)

台湾の監督アンリーによる異色の映画。宣伝や売り方が、まるで内容と一致していないところが、見終わってみると笑いを誘う。しかし、この内容で、売れる形に仕上げ、なおかつもともとの原作が持っていたであろうこの物語の核心部分を失わない、なかなか不思議な作品であった。アンリー監督は、とても挑戦的な人だな、と思います。これは、凄いチャレンジングだよ(苦笑)。大コケしても、おかしくないもの。


この作品を解釈するのならば、核心ポイントは2点。一つは、ノラネコさんがいうように「壮大で哲学的な神性を求める冒険」であり、人間の内面の中に宇宙を見ていくことを映像で表現すること。その帰結として、その内面に変化に観客が納得性を感じることができるか?という部分。もう一つは、『ビックフィッシュ(ティムバートン監督2003年米)』のように、この世界を物語として見る時に、物語とはどういうものなのか?ということに対する答えを見せることです。この視点に共感できるかが、この作品の良し悪しを感じる基準になると思う。


まずは、(1)人間の内面の中に宇宙を見ていくことを映像で表現すること、について考えてみたいと思う。


まったくの事前情報なしでこの作品を見たのだが、残念ながら、いつもの如く海外出張中の機内の小さな画面で見たため、この作品の息をのむような壮大なファンタジー的な映像の魔力を感じることがあまりできなかった。それは、ちょっと失敗だった。この作品の核心の一つは、内面に宇宙を見る系統の作品なので、その映像美が重要なポイントであって、それが堪能できなかったのは失敗であった。ぜひこの作品は、大画面で見ることをお勧めします。


さて、人によっては、この作品を見終わった時に、いったい何の話だっただ???と混乱する人はたくさんいると思います。この系統の作品は、とってもマイナーな分野なので、これをメジャーなハリウッド作品として見ると、どういう意味なの?と訳が分からなくなった人は多いと思います。上記の核心ポイントの1で、「人間の内面の中に宇宙を見ていくこと」とかいっていますが、そもそも、これが非常に訳が分からない(笑)。ノラネコさんは、「壮大で哲学的な神性を求める冒険」と表現していますが、これは、とっても宗教的、哲学的なテーマで、人間の神性に関することを扱ったものです。この用語系統は、宗教や哲学をまじめにやったことがあったりすると、ああっ、とすぐわかるものなんですが(笑)、近代国家の都市社会に住む合理的なブルジョワシーの生活の中で、時計に人生を刻まれて生きている大多数の中産階級には、???ってものでしょう。マイナーではあるが、確実にこれに魅かれる人は一定数いるので、決して滅び消えゆくものではなく、人間存在を考える上での重要なテーマなので、いろいろなところに顔を出します。人間の霊性について、とかいうと、普通の日本人は、なにそれ???って思うでしょうが、これは、とてもメジャーな問いかけで、宗教に理解がある人、感覚がわかる人ならば、非常に普遍的でよくあるテーマです。


一言でいれば、不合理なものをどう納得して飲み込むのか?人間という不合理なものはいったいどんな存在なのか?という問いなのですが、これが映画や文学作品などの物語になるときには、暗喩によるメタファーという形式をとることが多いのです。なぜか?って、それは、科学や事実では説明しがたいものだからです。だって、人間の心の中に訪れる「納得」とか、そういう現象が、なんなの?と問うても、それって、人間存在とは何か?という質問と同じで、答えようがありません。答えを探したければ、キリスト教、仏教、ヒンズー教イスラム教でも何でもいいですが、それら宗教の考え方のベースを利用するのが最も有効でしょう。それを、物語の形で、どう見る人に「納得性」をもたらすのか?という時に、映画という映像とと音楽を使ったメディア媒体では、人間の内面の中にある「動き」や「プロセス」を暗喩メタファーの形式で表現することになります。


このことをアンリーは、よく理解しているようで、ノラネコさんも指摘しているが、クリシュナが口を開けた時に口の中に宇宙があったという映像と、リチャード・パーカーと共に大洋の深淵を覗き込んだパイが見たものは、まさにこのことを示している。このテーマを映像で物理的に表現しようとすると、イコンなどに見られるような宗教画の形式になるのは、なるほどと思わせます。

幼いパイに、母親がヒンズーの逸話を語るシーンがある。
赤ん坊の頃のクリシュナ神が、友達に土を食べたと濡れ衣を着せられ、養母のヤショダが子供の姿をした万物の神の口を開けさせると、そこには悠久の宇宙が全て、ヤショダ自身をも含め、存在していたという話だ。
同じ様に、物語の後半でリチャード・パーカーと共に大洋の深淵を覗き込んだパイは、そこに時空を超えた森羅万象の全てを見る。
本作において、時として雷を放ちながら荒れ狂い、愛する者たちを奪い去り、時として極限の静寂と共に、生への希望を与える天と海は、そのまま不可思議な神のメタファーなのである。
故に3Dによって迫力満点に描写される本作の自然は、ナショナルジオグラフィック風のリアリズムというよりは、むしろ宗教画の様に華麗にして荘厳で、見る者を驚嘆させて畏怖の念を感じさせる物だ。

ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日・・・・・評価額1800円
http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-604.html

似たような心の中の出来事をメタファーで表現する作品で、私がふと思い出したのは、2009年のスパイク・ジョーンズ監督の『かいじゅうたちのいるところ(Where the Wild Things Are)』でした。これも、主人公のマックスの内面の旅に出るという設定でした。マックス少年が、さまざまな怪獣(=人間の感情のメタファー)に出会う中、キャロルという自分に似た存在に出会うことで、自分自身を知っていくことになる、、、。もちろんそう云っているわけではないので、あくまでそう解釈しているのですが、映像、エピソードの意味を、そういった解釈の切り口で整合性を求めていくという作法がないと、これら作品を「理解する」ことはできません。

かいじゅうたちのいるところ』(Where the Wild Things Are)2009年アメリカ スパイク・ジョーンズ監督 マックスの心象風景としての詩的世界
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100216/p1

かいじゅうたちのいるところ [DVD]

とはいえ、そうやって、整合性を合理的、論理的に求める見方が、これらの作品を「感受する」ことになるのかどうか、もしくはこれらのテーマに沿った受け取り方なのかは、なかなか悩むところです。イコンについて昔読んだ本で、イコンを図像学として読み解こうとする姿勢は、それはそれで一つの見方だが、そういったパーツの分析から意味を読み取る姿勢では、イコンが持つ奥深さは全く理解できないであろうというのを読んだ時のことを思い出します。


まぁ、とにかく、この作品構造は、パイという少年が、映画の前半部分で、非常にセンシティヴな性格をしていて、子供のころから、神の存在とはどういうものか?というこの宇宙の謎を、真摯に追っている少年であることが、細かい家族関係や背景から積み重ねられます。この作品お重要なのは、一見、最初に見ると、この物語がなかなか始まらないで、なぜ、この少年の生い立ちを丹念に物語るのかがわかりません。しかしこれは、この作品全体を貫く大きな疑問である、神とは何か?という問いを抱いた少年が、その後の体験で、それを体感していく、その「体感」を追った物語なので、これは重要なのです。この疑問に、その後半の映像が答えになっていると観客が感じるかどうか、がこの作品の肝となります。その圧倒的な映像美は、ぜひ、作品をご覧になって感じてください。

そしてもう一つの核心は、


(2)アンリー監督の物語論として、物語とはどういうものであるべきなのか?


の答えが出されているところにあります。

ボートに乗ったのは、パイと母親、船のコックと負傷した船員の四人の人間で、やがてお互いに殺し合い、最後に残ったのが自分だと。
ここでは四頭の動物たちはそれぞれに人間に置き換えられ、リチャード・パーカーがパイ自身である。
ここでパイは問いかける。
どちらが事実だとしても船は原因不明のまま沈み、家族は全員死んで、自分は苦しみをたっぷりと味わった。
結果が同じならば、どちらがよりよき物語、語られるべき物語なのか?
答えは明らかだ。
なぜなら神を求め続けた少年は、227日間の内なる神との対話を通じて人間とは何かを知ったが、片方の物語に神はおり、片方にはいないからだ。


ノラネコの呑んで観るシネマ ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日・・・・・評価額1800円
http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-604.html


ここで語られている、物語とはどういうものなのか?に対する答えは、まさに僕もノラネコさんと同様に、ティムバートン監督の『ビックフィッシュ』を思い出させました。この作品も、現実なのか物語なのかよくわからない境界を感じさせながら、その曖昧さが、最後に、主人公の父が見ていた世界のメタファーだったこと、そして、そのメタファーの物語を現実として生きていたことを、人がその人生を生きることの圧倒的な多様さと複雑さをまざまざと見せつけてくれて、僕は深い余韻に浸りました。


このパイの物語も、漂流の中でただ単に4人が殺しあって自分が生き残っただけの端的な事実があるのかもしれません、しかし、まさに「どちらが事実だとしても船は原因不明のまま沈み、家族は全員死んで、自分は苦しみをたっぷりと味わった。結果が同じならば、どちらがよりよき物語、語られるべき物語なのか?」という主人公の問いは、非常に正しい問いかけです。


人間の内面の最も深い部分を問う時に一つのテーマに、死の個別性、があると僕は思っています。死、というものは万人に訪れる普遍的なものです。しかしながら、人は、その死を虚心に受け入れることはできない。それは、死というものの普遍性は理解できても、なぜ、自分に「他の誰でもない自分だけ」に訪れるのかということに納得性がないからです。このような偶発性に対して人は恐怖して、さまざま宗教を作り上げてきました。死の個別性というものに説明を与えてくれる何かがほしかったから。しかしながら、では、それを「受け入れる」、、、そういった個別性、、、他の誰でもなく、なぜ自分の家族だけが死ななければならなかったのか?、なぜ船が沈まなければならなかったのか?、なぜ恋人と別れなければならなかったのか?、そういった他の誰でもない自分に「訪れる出来事」に対しては、僕は、人は自分の身の物語を紡ぎ、その物語の中で解釈して生きていくことしか、人はできないと思うのです。だって、その謎は、解かれようないものであり、科学で説明つかないものなんだもの。人がなぜ死ぬかは科学的にはいくらでも説明できます。しかし、他の誰でもない自分が、なぜそうなるのか?の納得は、心の動きの問題は、科学の対象外です。ここでパイが言っているのも、同じことです。もしかしたら調べつくせば、船が沈んだ科学的理由は、見つかるかもしれません。しかし、それが、自分にもたらした喪失については、どんな説明もその意味を解き明かしたことにはならないのです。その意味とは、人が自分の中の物語として、その巨大な喪失や個別性の謎、、、、世界がそのようになっているという、存在の重さと深さを納得して受け入れていくしかないのです。その時に、人は、物語を必要とする、と僕は思います。


この最後のエピソードに、ともすれば、作り話のほら、ファンタジーととられかねない美しいベンガルトラとの漂流に対して、なぜパイがそのように感じ、受け入れ、物語ったのかが、凝縮されています。それは、まさにティムバートンが、父と息子の葛藤から、父の人生を「受け入れていく」過程でまるでほら話のようなビックフィッシュ(=大ぼら)を夢想のように見ていくという暗喩を使用するのかは、この世界の深さを感受するには、人には物語が必要だということを高らかに宣言しているのだろうと思います。世界は、存在は、合理や科学では説明できない。個別性の問題は、心の問題であり、ここでいう心の問題は心理学的機構の話ではなく、人々の世界に対する納得だからです。


このLife of Piは、π・・・割り切ることのできないこの世界の不思議を、ともすれば、ベンガルトラをπの心として記号的に読み解けば、ロジックで説明できるかもしれませんが、そういう論理的なものではなく、その圧倒的な映像美と存在の美しさ(=ベンガルトラのネコ科のしなやかさはどうだ!、まさかこれがすべてほんものではないとは思えない!)を通して、感受させていく物語なのだろうと思います。そして、原作の神学的なコアを、この作品は、非常に見事に表現しつくしていると思います。これも映画館で見る、映画なので、ぜひ劇場へ。

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