『放課後のトラットリア』 その2 結局人間理解の幅と観察力の差が、筆力の差を生むのかも

放課後のトラットリア 1 (メテオCOMICS)


『放課後のトラットリア』 その1 異世界トリップものコアの一つは、世界をもう一度インプロヴィゼェーションに戻すセラピー効果
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130315/p1

続きです。

2)人間理解が、描写とその後の設定の展開の違いを生む

最近、ずっと『小説家になろう』の作品ばかり読んでいたからだろうか、この漫画についているままれさんの『閑話その1♯2.5語られない言葉で語る約束』が凄い良かった。いつも思うんですが、「情報の価値」とでもいうのでしょうか、背景のバックグラウンドに対する深い理解と人間観察力があると、普通の人と見えるものが全く違うことがあります。たとえば、卑近な例でいうと、僕が部下を連れて商談に行ったりすると、まぁ語られた事実は同じ議事録になるのですが、そこから読み取った情報は、信じられないくらい差が付きます。


(A)一つは事実の解釈力


もう一つは、


(B)人間理解・人物に対する観察力



(A)は、業界の知識、過去の経緯歴史である縦軸、そして現在の業界構造やマップの横軸という背景知識(バックグラウンド)を知っていると、さらっとした一言やニュアンスで、さまざまなことが関連付けて物事を背後の言いたいことを読みとれます。たとえば、


「あれってさー、、、あまり、、、ね」


とか、担当者が言ったとします(笑)。指示語しかないので、たぶんさっぱりわからないですが、、、、わかる人には、背後の言葉やニュアンスでマイナスかプラスかで、ほとんどすべてがわかってしまったりします。これって、バックグラウンドの知識がなければ、絶対に通じません。こういうことが、呼吸をするようにできるのが営業力というやつです。御用聞きじゃないんだから、いって話だけ聞いて事実を話だけ聞いて、買ってくださいーとかいうのだけが、営業じゃありません。。。ってその程度のことがわからん新人が多すぎるんだよなぁ、、、。教えても、???って言う人多いし、勉強も全然しない。情報収集もなしに、人に会いに行く神経が理解できないが、、、。あぁ、、HUMINT(スパイのことね)は、才能だからなー。。。。

スリー・アゲーツ 三つの瑪瑙 (集英社文庫)

まぁ、それはいいや、、、こういう背景知識の構造マップを持って、コミュニケーションに挑んでで情報をとってくることをインテリジェンス(諜報)と呼びます。まぁ、わかりにくいかもしれませんが、これが、文脈を読む力、であるというのはわかると思います。ずっとこのブログでも言っているんですが、文脈を読む力というのは、日本の場合世代ごとに低くなっているようなんですよね。これは僕の実感でもあるんですが、世界はどうなんだろうなぁ、、、。まぁ、視覚情報優位なのが現代文明なので、背景の関連付け能力が失われて直接的反射による理解、ユーザーインターフェイスが非常に反射的なものが多いので、そういう能力が身が磨かれるのが減っているかなぁ、、、。CIAもそういう能力が激減しているっていうしねー。


とはいえ、(A)の事実の解釈力、背景知識から連想する事柄で、何が語られているのかを大きく捉える能力は、行ってみれば普通の能力です。これって、営業職や対人交渉では、必須の能力なので、社会人で働いている人ならば、多かれ少なかれ持っている能力です。なければ生きていけません、社会からはじかれてしまうだけです。もちろん、レベルが高いほど非常に有用な武器になります。本当にレベルが高くなると、まるで予知者みたいな感じになっていくからです。また努力である程度底上げできる技術で、いわゆるビジネススクールでのロジカルシンキングやツールを勉強していけば、感度の差はあれ、レベルは上がっていく可能性が高いです。


しかしながら、(B)となると、ぐっと持っている人が少なくなります。これって、人間の本質を見抜く力なので、これを仕事で生かそうとなると、経営者に必須の能力のようです。ようは、自分がやるのではなく、相手にやらせようとするときに、その人の持つ人間としての本質、、、どこまで信頼、信用できるのか?何によって動機が駆動されているのか?その人にとって最も大事な、最もイヤなことはなんなのか?、どこをどうすれば裏切るのか?などなど、その人の人間存在のコアを見抜く力です。またもっと幅広く、もっともこの才能が結晶化するのは、文学者や物語作家です。ようは、「人間存在」というものを描きつくして、この世界を再現するためには、他者を理解できなければならないからです。ちなみに、なので、僕は、真に優秀な経営者と小説家というのは、非常に似た才能を持っていると思っています。

これを学ぶのは非常に難しい。コミュニケーションに対する才能が必要だからです。努力であまり生まれるものではないようです。ただ一つだけ言えるのならば、どうも幅広く本を読んでいる人、物凄いレベルの高い古典などの本を、信じられないほど深く精読、熟読し続けて、何年もモノを考え続けていると、この才能が宿ることが多いようです。

努力のパターンでは、このパターン以外には僕は見たことがありません。それ以外は、生まれもってというか子供の頃の原体験による才能だけですね。ちなみに、古典を深く熟読って、レベルの高い思考パターン=モノを考えていく力)を学ぶにはこの方法しか僕はないと思っています。なので、基本的に、速読はNG。特に古典や価値のある本に対しての速読は害悪で犯罪的だと思います。まぁ基本的に、速読は百害あって一利なしだと思います。絶対にやめた方がいいですよ、速読。人生の無駄になるし、下品な多読に堕してしまうだけですから。どのみち、本を凄い量を読んで、深く読み込む癖がつけば、速読なんかしなくてもスピードは凄く上がりますし。物事に王道以外の道なしです。


話がすごく長くなったんですが、ようは、なろうの小説って、人間理解が、なんというか普通なんだよね。えっ、そこの背景に、そんなものまで見えちゃうの?というような洞察力を感じない。普通に人がいたら、「そこに人がいる」という事実で話を続けていきやすい感じがする。これは、現代の作品にはとても多いような気がする。それは、ずーーっと昔に江国香織さんと辻仁成さんの『冷静と情熱の間に』を読んだ時に、こんな、、、、こんな内容のない小説でいいのか!と当時の僕は語っていて、、、いま思えば、あれでも相当ましな方だったんだよな、、、(苦笑)、それは角川系列の作品系統に多いのだけれども、どうも、文章が解釈や意味ではなくて、映画を見るように場面の描写のみで、下手したらそういった地の文すらなくなる傾向が現代の小説にはあるようだ、と当時の僕は予測していました。

冷静と情熱のあいだ―Blu (角川文庫)冷静と情熱のあいだ―Rosso (角川文庫)

まさに、これは、ライトノベルの興隆によってほぼ正しかったと僕は思っています。文学によって狭い領域に押し込まれれていた物語が復権することは、その後の時代が、正しかったことを証明していると思いまうが、同時に、文学的な非常に高踏的な人間や世界の存在の理解を伴う「文脈を読んで解釈を行うスキル」というのがこれほど衰退してしまうとは思いませんでした。もちろん、言い方が間違いですね、、、、これを衰退というのではなく、媒体の変化、またはユーザーインターフェイスの変化にすぎないこともわかっています。本質的な人間存在に対する理解のレベルが下がったわけではなく、より広くの大衆、もう大衆とは言えないかもしれませんが、広い層に広がったために濃度が薄まっただけにすぎません。


けど、やはり、ぴりり!としたものを、時々は見たいよなーということで、なんというか過去の文学作品、とくに古典といわれる作品い少しリバイバルを感じる今日この頃のペトロニウスです。あっちなみに、世の中が、ではなく自分の中で、です。世の中は、まだ薄まる方向が継続するでしょう。


なんか、極端なことを語ってしまったのですが、このままれさんの閑話を読んでいて、ああーこの人は人間存在を読み解く人間の洞察力をよくわかっているなーと、ぐっときたのです。ようは(A)と(B)のリテラシーが高くないと、こういう話は書けないなーと思うのです。異世界の領主のエルスタインと、日本から異世界に飛ばされてきたあやめとの会話なんですが、エルスタインが、あやめ、といういってみれば、ただの庶民なんですよね、ただの高校生?(だよね?)ですし----------そのあやめを見て、彼女の背景にある現代文明ををどんどん類推していくんですよね。これは、エルスタインという男が、本質的に高い知性を持っていることを、とてもよくわからせてくれます。物語は書こうと思うと簡単で、


「エルスタインは、あやめが×××であることを理解した」


と一行書けば、終わりなんですが、HOWの部分、それをどのようなロジックと文脈で「わかっていく(=腑に落ちていく)かのプロセスを描くことは、凄い難しい。本質的に物事を理解していない人には、この「語られていない部分」を類推することができないからです。また、HOWは、構造的に理解していないと描けないんですよ、小説家が。だって、HOW(プロセス)は再現が可能なんだもん。


それと、この分析の中で、実際のところはただの高校生にすぎないあやめの中に、非常に高いリーダーシップや高いコミュニケーション能力、戦略眼などを、エルスタインは、丹念に読み取っていきます。。。。ここまで読み取れると、もうなんかエッチだなーーー(笑)って思ってしまいますよ。だって丸裸にして、抱いて感度見ているようなもんじゃないですか(笑)。まぁ、それはさておき、ここで語られる


異世界の為政者の視点(=マクロの国益を求める意志)



異世界の文明の高い価値を理解しているが、自分の個人としての存在はそれを利用することもできない弱者である(=異世界からのトリップ者の存在に対するメタ認識)



が、余すところなく展開しているんですよね。これって、異世界ファンタジーものに対する構造的な理解と批判精神なくしては、描けないとモノだと思うのです。この辺の構造メタ的な意思は、橙乃ままれに特徴的で、僕はとても好きですねー。


具体的にはね、たとえば、、、、僕は、アメリカ建国以前のアメリカ大陸でのネイティヴアメリカン(インディアン)とイギリス系の移民のことを思い出します。細かいのをはしょると、アメリカが、なぜUnaited states of Americaという連邦国家であるというかって知っているでしょうか?。もともとモデルとなる旧大陸ヨーロッパには、連邦制はありません。これって、インディアンの部族連合にヒントを得て、広がっていった考え方だといわれています。また、そもそもネイションステイツであるとか、広範囲に同盟を形成して、大きな敵と対抗するような合従連衡の手法は、インディアンは、西洋文明から学んだといわれています。いまは、マクロ的にこういう大きな構造と歴史と文明の流れはわかっています。
 しかし考えても見てください。まだ大陸の橋がどこかすらわからないし、地図もないし、相手の言葉もわからないような新大陸の環境で、最初に出会った人々は、いったい何をどう考えどう行動したのでしょうか?。そんな時期が100年は軽く続いているわけです。この場合は大きな武力格差があったのですが、異世界の住人がやってくる!というただそれだけ出凄まじいインパクトがあったと思います。だって、


「おれはイギリス人だ!」


と一言いっただけで、国の概念(=ネイションステイつ)であるとか、わざわざ名乗るということは、他の国があること、などが一発でわかってしまいます。「なんで移動するの?(=定住生活をしないの?)」といっただけで、何を食料基盤としているかなど戦略的なことは丸裸にされてしまいます。つまりは、その存在やたわいもない会話の知識だけで、洞察力にすぐれたインテリジェンス能力があれば、凄まじいことが分かって、巨大なインパクトをその社会に与えることになるのです。


クアトロ・ラガッツィ (上) 天正少年使節と世界帝国  (集英社文庫)

ちなみに、この異世界の文明をと出会うときというエピソードをでもっとも、僕が面白いと思ったのは、宣教師のカブラルと信長の出会いです。そのことが個々で描写されていますが、これがもう信じられないほど面白いです。これが、史実で記録に残っているというのだから、正直、世界ってすげぇ、と思います。

行く先は屋敷ではなく、工事現場だった。信長はこのとき二条城を建設中だった。その建設現場には七千人以上の人間が働いていたと彼は書いているが、それは信じがたいような光景である。信長は造成中の堀の上に架かった橋の上の板に座って、神父を待っていた。神父が近づくと、彼は橋の上の板に座って、日が当たるから「帽子をかぶるように神父に命じた」。信長はそこで二時間以上神父と話した。

 まずは信長はフロイスに、何歳か、日本に来て何年になるか、何年勉強したか、親戚はまたポルトガルで彼と会うことを期待しているか(祖国に帰るのか)、毎年ヨーロッパやインドから書簡を受け取るか、ヨーロッパやインドからの旅程はどのくらいあるのか、日本に留まろうと思っているのか、ということを尋ねた。フロイスは、これらの質問を「あまり重要ではない前置き」と書いているが、信長にとっては非常に重要なデータであった。相手の素性、教養、ポルトガルと日本のあいだの距離、旅行の仕方、相手がどの程度外国のオーソリティと公式に結びついているか、つまり相手がポルトガルやインドのしかるべき公的な権威のある宗教機関の中枢から派遣されたのか、または勝手にやってきた個人なのかは、これでわかるからである。


中略


さらに信長は、「神父がそんなに遠い国から来たのはどういう動機か」と聞いた。これも信長が確認しておきたいことであった。なぜなら松永は神父らは日本お国を滅ぼすために来ていると言っていたたからである。神父は、「日本の人々に、この救済の道を教えること、それによって、世界の創造者であり、人類の救い主であるデウスの御心にかないたいという熱望以外にはいかなる考えもなく、またいかなる世俗の利益を求めてもいない」と強調した。「ただそれだけのために、これほどの長い道程を航海し、、はなはだ大きな、考えるだけでも恐ろしいいろいろな危険を自ら進んで引き受けたのか」と信長は聞いた。フロイスは全くその通りだと答えた。
 この答えは信長をひどく喜ばせた。なぜなら、彼らの会話は戸外で大勢の群集の前で行われていたので(それが信長の狙いだった。密室ではなく、工事現場を借りて、公開の引見を行うことで、群衆でそこで何が話されたかを知らせることが最初からの目的だった。むろん、そのなかには心配して紛れ込んでいた仏教の僧侶たちを指さし、大声でこういった。「そこにいるこの騙り者どもは、そなたのような輩ではない。彼らは庶民をたぶらかし、いかさまも、ウソつきで、尊大はなはだしく、思い上がった者どもだ。四は何度も彼らを皆殺しにして根絶やしにしようと思ったが、民心を動揺させないために、また、彼らを気の毒に思って、彼らは夜を憎み嫌っているのを承知してはいるが、彼らをうっちゃって置いているのだ。』といった。


中略(パードレとそれを連れてきた和田が銀の延べ棒を渡そうとすると)


すると信長は笑って、自分には金も銀も必要ない、なにぶんパードレは異国の人だから、免許状を出すためには彼らからなにがしかの謝礼をもらったりしたら、予の品位が傷つくであろう、「パードレに対してそんなさもしい、非人情なことをしたら、インドやパードレが生まれたヨーロッパの国々で世の名前の響がよかろうはずがないではないか」といった。


p349 『クアトロラガッティ』 信長と世界帝国

これを見ると、織田信長という人が、若くして、いかに世界のマクロ構造を理解していたか、その慧眼には、驚きを隠せません。この本の「信長と世界帝国」という章は、とんでもなく面白いので、お薦めです。キリスト教の宣教師たちに対する出会い、面談を見ていると、大航海時代南欧グローバリゼーションの大きなマクロの波を、織田信長が非常に深く理解しているのがわかります。はっきりいって、物凄い変な人です、織田信長。この時代に、なんでそんなことがわかるんだよっ!ていうような反応です。その他の武士や貴族がほとんどそれに対応できていない事実を見るだけで、彼がいかに時代のメンタリティの中心だったのか、マクロの歴史の波に選ばれた人間だったのかがわかります。彼は、中世から絶対王政に変化する時代の流れ、またアジア的華夷秩序へ全く異なるヨーロッパの国家概念が流入していることに対してのビビッドな反応、、、、本当に凄いです。これとっても、織田信長が、目の前の具体的な「出来事」を通してその背後にあるものを見抜いているのがよくわかるんです。

たとえば、信長は、上記のように宣教師に、さまざまなただの自己紹介的な背景質問をするのですが、彼が、外国から来た宣教師たちが、どのようなオーソリティの背景を持つかの理解を通して、外交官として、国際的な秩序の外交交渉として、彼らとの会話を位置づけています。銀の贈り物(要はわいろ)を持ってきた宣教師に、そんなものはいらないという理由が、はっきりとそれを意味しているのが分かります。要はお金などで転ぶような蛮族では自分はなく、背後のヨーロッパの人々や国王の宗教性の権威や様々なものが理解できるということを示し、かつそういった人の「視線」を意識してふるまっていることをはっきりと述べています。また、宣教師にプレゼントを贈るときも、日本でいう豪奢品というのは、ヨーロッパからの輸入物が多かったので、そんなものを上げては失礼にあたると、いろいろな方法で、宣教師を歓待しています。これは明らかに、別の国家、民族、文明に対する外交官に対するふるまいです。ちなみに、こんなことができたのは、信じられません。同じ時期の光海君の朝鮮半島や明の中国が、ガチガチの華夷秩序のもとで、対等な国家同士の外交という概念が全くないことを考えると、、、。この時代のアジアにおいて、このような対等な国家に対する「国際関係」という概念を理解しているだけで、ありないことだと思う。

そのほかの誰もが、ただ単位キリスト教の布教を許す許さないといった「目の前のレベル」の話をしている中で、はっきりと信長だけは、宣教師の背後にあるヨーロッパの国家群や、それをこえるローマ教皇の権威や、中国的華夷秩序の向こうにある「国際」の概念を前提に話を進めている。当のヨーロッパから来たカブラルのような頭の鈍い宣教師には「ほとんど意味のない」と考えている会話で、それらの背景が丸裸にされているのだ。また上記の会談は、公開のもとに行われたのだが、これが彼に敵対する自社勢力や仏教勢力に対する対抗勢力として、キリスト教で中和する目的であることや、さらには、キリスト教を完全否定している天皇に対する自身の権威の優越を、国内的にも国外的に既成事実化させていくための布石でもある、、、、それが、宣教師たちの日記や記録を見れば、はっきりと見て取れる。・・・・織田信長という人が、この時代にあって、目の前の出来事からは直接に読み取れないその背後にある大きなマクロの変化を完全に読み取っている離れ業をやっている人だというのが、、、彼が特別な人間だったというのが凄くよくわかる。


物語を見る時も、僕は同じものが見たいのです。だって、異世界から来た人間を見る時に、人がどう振舞うか?ってことでしょう。今回のこの物語って、異世界ファンタジーものの、異なる文明との接点になることの繊細さを、よくよく捉えていて、僕はとても面白かった。ちなみに、若桑みどりさんの『クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国』は、ライフネット生命の社長の出口さんの本の巻末でお薦めになっていたのだが、、、こんな素晴らしい本は!!!と叫びたくなるほど素晴らしい本です。変な右翼的な言説ではなく、司馬遼太郎のようなやっぱり少し偏っているよなーとかでもなく、本当に、しみじみと、日本人とはなんてすばらしいのだろうと、感動すること間違いありません。この本は、まじで凄いですよ。

クアトロ・ラガッツィ (上) 天正少年使節と世界帝国  (集英社文庫)