『ヒミズ』 (2012年 日本) 園子温監督 (1) 坂の上の雲として目指した、その雲の先にいる我々は何を目指すのか?

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評価:★★★★★星5つ
(僕的主観:★★★★4つ)


僕は原作をいまはよく覚えていないし、園子温さんの作品を他にまだ見ていないし(早く『愛のむき出し』『希望の国』を見なければ!)この作品を語る文脈は特に持っていないので、まずは素直な印象を。ちなみに、非常に監督の「意思」を感じる作品で、隅々まで論理の整合性がとれているところ、そしてそれがラストシーンの意味に完全にリンクしているところなど、これは原作をただ実写化したものではなく確実に「園子温」という監督のオリジナルだと考えていいと感じました。原作と違うものだと考えていい。演技も含めて、昨今の日本映画は珍しい「映画的な」感覚を受ける作品で、僕は素晴らしいと思いました。癒しを求めるには見るのがつらい映画だけどね(苦笑)。


■俳優二人の演技が素晴らしい

茶沢さんを演じた二階堂ふみという女優がとにかく素晴らしい演技だった。僕は全く知りませんでしたがこの役柄は素晴らしかった。たぶんすごいかわいい人なんだろうと思いますが、パンチラ、というかもうモロだよね、それみたいな物凄い体当たりな演技の連続で、これ素の等身大の本人とたぶんすごい違うんじゃないかなと思う。言い換えれば、それほど見事な演技、映画的な素晴らしい実在感があって感心した。たぶん誰もが思うんじゃないかな。僕が抱いていた原作のヒミズの茶沢さんとは少し違うが、むしろ見事な完成度だったし、こっちの設定の方が整合性を感じる。とても魅力的でした。胸の強調とかスカートめくれあがって坂を転げ落ちるとか主人公と殴り合いし続けるとか、とても肉感的に描いているのに、とても清楚さを感じて、いやこれは見事な演技だと思いました。第68回ヴェネツィア国際映画祭最優秀新人賞にあたるマルチェロ・マストロヤンニ賞を受賞したのがとてもうなずけます。主人公の素晴らしい演技なのも染谷将太もそうなんですが、これはもうほんとに役の化身という感じで、逆に実在感の無さが凄い見事だった。ちょうどの同じ時期に黒澤明監督の映画を見ていたんだけれども、昨今の日本映画いのテレビドラマ的なカットに慣れた役者の演技ではなく、映画的、もっというと舞台を撮っているような、少しオーバーな演技だが強く他の世界、他の時間を描いているんだと思わせる「別世界感」を感じさせる「演技力」を引き出せる監督なんだな、と感心しました。あっ、もちろん黒澤監督はそういうのが素晴らしい上に当時の日本の役者は演技力が素晴らしく、それと比較すると、昨今の俳優は基本的にナチュラルな等身大の姿を演技する方向にシフトしているので、映画にすると、役柄ではなく、その人自身に見えてしまうというある種作家主義的な世界の構築からいえば、許せないだろう(笑)ことが多いのですが、、、、えっと、キムタクを映画に出すと、役の人物ではなくキムタクが「そこにいる」という風に見えてしまうという現象です。これはこれで、日本のドラマ主導の現実、映画の社会的支持の喪失、演技よりも等身大のナチュラルさで人間や家族の関係性を追うドラマへのクローズアップなどの傾向の適応の結果なので、それはそれで必ずしも駄目だとばかりは言えないけれども、自分の箱庭世界を完結した作家主義的な能力を持つ映画監督ならばそういう役者は嫌いだろうねぇ。話がそれたので戻します。


■1990年代後半から2000年代前半に集中した脱社会的な存在の不透明な動機をいかに説明するかの物語類型

この系統の作品を見ると、僕は、社会学宮台真司さんが言った「脱社会的存在」というキーワードを凄く思い出します。この人、コピーライトやキーワードのセンスがうまいんだ。これは、僕が「自意識という病からの脱出」というテーマでずっと追っている系統の分岐の一つと、考えています。「脱社会的存在」というのは、僕の理解では、社会との紐帯を認識できない動機・人格構造を持った人間という意味。社会とのつながりを意識できないということは、すなわち「人を殺して何でいけないんですか?」という質問に代表されるように、社会として群れを生きるルールが欠落している自意識を持っているということ。この概念自体は、僕が学生の頃、、、だから1990年代に広がったものだろうと思う。

透明な存在の不透明な悪意

特に、1997年の「酒鬼薔薇聖斗事件」事件で、こういう動機が不透明な犯罪が注目されるようになってゆき、それが映画や物語の題材にされるようになっていった。こういう作品で重要なのは、とにかく主人公の動機の不透明性の解釈の主題がビルトインされている。ようは、そのような意味不明の行為をなぜすることになったのか?という説明・解釈にこれらの物語の文脈を鑑賞するポイントになると思う。黒沢清監督の『キュア』とか岩井俊二監督の『リリイ・シュシュのすべて』がこれらの代表作だと思っています。青山真治監督の『EUREKA』などもその系列かな。アニメーションで言えば、やはり『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジくんですよね。これらの作品は、主人公や登場人物の動機がとても不透明でわかりません。カフカの小説みたいなものであって、その内面をめぐる謎を考えないで見ると、共感か意味不明のどちらかになるので、たぶん鑑賞するのが難しい作品系統だと思います。頭で考える作業という一ひねりがいるからです。そういう意味では、これらの作品は、とても高踏的かもしれませんね。庵野秀明監督の『新世紀エヴァンゲリオン』が画期的なのは、エンターテイメントで広範なマーケット層を呼びかけるフォーマット(よくあるガンダム系のロボットもの)を使用しながら、たくさんの人をここに呼び込んだところに、時代的なパワーを感じます。僕はここにあげた作品は、全部に共通性があると思っています。古谷実さんのマンガ『ヒミズ』もね。同じ系統の背景から生まれている想像力だと思う。


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「自意識という病からの脱出」というテーマ建ての「自意識」という言い回しは、非常に説明のしにくい、貧・病・苦的なわかりやすく共有しやすい根拠では「ない」自意識が形成されてきて、その不透明性、共感不可能性が、いったいなんなのか?という問題意識が、ずっと90年代以降に強く広まったことで立てたテーマです。ちなみに、90年代から00年代前半は、この不安感や不透明感はあったんだけれども、2013年のいまぐらいの時点だと、もうこうした不透明感はとても少ないように感じる。ああ、こういう風に社会の紐帯から外れていて自意識が壊れている人って、それなりにいるよね、という社会的合意があるような気がするのだ。実際、確か日本全国の重犯罪って凄い減っている代わりに、意味不明の猟奇的な犯罪が増えているんですよね。けれども、2013年のいまは、僕の感覚としてですが、そういった自意識が壊れてしまって、社会とのつながりを自明性には感じない、他者とのつながりを価値があるものだと思えないという心性は、非常に一般化して、、、ああ、、、そういう感覚ってわかるよ、あるよね、という感じがする気がします。原作の『ヒミズ』を読んだ時は、この壊れている動機はなんなのだ?と恐れおののいたのだけれども、いまは、映画で同様の強いレベルでの動機の不透明性(=主人公は、自分から底を抜け出そうという意欲がない=自意識が壊れている)を見せつけられても、ああ、わかるよ、理解できるよ、そういうのはみんな抱えているよね、多かれ少なかれ、という共有感覚がある気がする。これは凄い違いだ。少なくとも僕は、そう「感じる」し、社会的にもそういう不透明感はすでにないと思うんだけれども、皆さんどう思いますか?


■住田君が目指していた「普通」「日常」というものはなんなのか?


さて、もう一度分析ポイントに戻りましょう。

こういう系統の作品は、主人公の動機が壊れているのがなぜなのか?という理由の部分に、主題が、監督が一番言いたいところが現れていると考えればいいと思います。染谷将太が演じる住田祐一という存在は、「普通」をめざし「日常」を生きていくことを求めています。この作品では、二階堂ふみが演じた茶沢景子や渡辺哲が演じた夜野正造が、なぜ住田を崇拝して慕っているのか、強くかかわろうとするのかの根源は、この住田が求めるものが、彼らにとって欲しい、非常に素晴らしいものに見えるという崇拝の構造を持っている。なので、彼ら全員が求めている


普通と日常


というものがどういうものかを、文脈上理解するところからこの作品を理解する下地が始まる。そして、これは監督がインタヴューでも言っていますし、しかも311後のファンタジー的?世界設定を考えれば、この意味は非常にシンプルです。彼は「ぼくらは終りなき非日常に突入した」ということです。これは、端的に言えばその通りだろうと思います。


僕たちはもはや『ブレードランナー』のようなSFの世界に住んでいる


と、園子温監督は、いっています。311の大津波そして原発事故によって放射能で人が住む土地を追われるようなイメージは、これまではSF的なファンタジーでした。この作品では明示していないけれども、福島は放射能で住めなくなって、大量の難民が発生しているという前提です。冒頭のシーンが、津波でがれきの山になった街をなめるように映し出していくところから物語は始まります。これは、すでに現実に起きてしまった、局所的に云えば滅びのようなもの、その現実が我々の前提にある、というメッセージでしょう。住田君の家の周りの浮浪者たちは、単純な浮浪者ではなくて、仮設住宅で暮らしている福島からの避難者たちです。

それまでであれば、『北斗の拳』や『風の谷のナウシカ』『AKIRA』『ドラゴンヘッド』じゃないんだから、そういうことを希求する人々はいたけれども、それってありえない。永遠の日常が続いていくんだよね、というのが1980-2010ぐらいの間を支配していたイメージだったと思います。こうした廃墟のイメージの追及や地球が滅びた後の共同性を描く系統の物語は、オウム真理教ノストラダムスの予言のようなある種の終末論と同期していましたが、それでも、世界は終わりませんでした。「終わりなき」や「永遠の」という形容詞、修飾語は、いまが変わらないで継続してしまう息苦しさに溢れていました。しかし、この永遠の日常、終わりなき日常がずっと続くというのはすでにありえないことを我々は認識しているはず、という前提がポスト311にはあります。

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ブログを追っていてくれる人は、この「日常」をどうとらえるか?という設問に対するスタンスが、それぞれの時代を支配しているテーマじゃないか?という視点は理解してくれると思います。けれども、そういった永遠に続く無味乾燥な日常に生きられない、絶対性を追求する人々が、この時代をとても息苦しく生きてきたことよくわかっています。同時に、現実は、日常の生活の美しさや楽しさが広がって均質なブルジョワジー空間が資本主義によって整備され、そこで戯れるのが正しく楽しいのだという物語が現れ始めます。いまであればサブカルチャーのアニメで言えば『らきすた』『日常』『けいおん』などの日常を謳歌する、日常の美しさを楽しみ、その中でのマクロとリンクしない狭い等身大で手触りのある人生を楽しんでいくという部分にスポットライトが浴びています。この系譜をさらに追うと、ライトノベルで『僕は友達が少ない』『ココロコネクト』『やはり俺の青春ラブコメは間違っている』『俺と彼女と幼なじみが修羅場すぎる』などなどですね。

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この文脈読みも、それ以前のラブコメの発展系として、ヒロインがサブヒロインに下剋上される形式から、ハーレムメイカー的なたくさんの種類のヒロインが並列して、その果てに、ヒロインではなく友達との関係性の絆を構築したいという大きな文脈の流れに沿っています。これらの大きな類型の系譜、ラブコメという、一対一の男女の関係、言い換えれれば、ロマンチック・ラブ・イデオロギーの解体や再構築、無意識から再帰化の大きな振れ幅の中で位置づけられると思います。しかしながら少なくとも、サブカルチャーの若者の文脈では、強く日常の関係性に焦点を集める類型が支配的になっていることは、言えるだろうと思います。それは、80年代に日本社会がストックでまわる本当の意味での先進国のレベルに到達し、中産階級が巨大なボリュームゾーン(=団塊の世代!・ベビーブーマー!)を形成して、それで内需が回っていた特殊に幸せな時代だったが故に肯定され得たイメージであるのは、いまでは既に分かっていることです。今後、世界は二極化し、先進国の中産階級は、新興国中産階級形成によって職を奪われていき、ありうべき、ロマンチック・ラブ・イデオロギーの延長線上にある核家族による幸せ像」が崩壊することはほぼ間違いないでしょう。この


ロマンチックラブイデオロギーに支えられた核家族像の解体

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130405/p1


というのを、どう捉えるか?ということが、この「日常」と「普通」の基準となるものだと僕は思っています。自意識の病というのは、この家庭の関係性が混乱していく過程における、そこで教育を受けた子供たちの混乱だ、というのが、これらの作品系統の根幹にあることは、私のブログを追っている人は、理解してもらえるのではないでしょうか。

ちなみに、僕の意見ではなく、まずは園子温監督の主張を確認してみましょう。私は他の作品をまだ追ってはいないので、たぶん囲碁界もあるかもしれないですが、この1作を見て彼の主張を解析してみたいと思います。まぁ仮説ですね。しかし、上記でも書きましたが、この『ヒミズ』は、漫画の原作に比較して、さまざまな部分が改変されてしますが、その分、論理整合性が非常に高くなっていて、容易に監督が言いたいことが分析できます。そういう意味では、これが好き嫌いはあるとしても、素晴らしい技術であり才能ですね、この監督。原作モノの解体と再構築をこういう見事な技術でできるのは、才能です。実際に、こういう暗い話は僕は好きではないんですが、とても引き込まれて映画的な体験をさせてもらって、凄いご満悦です。さて話を戻して、園監督が何を考えているかを考えましょう。

ここで、住田君は、日常とか普通というものを追っていて、その「追っている姿」にまわりの人間が畏敬の念を感じて崇拝しています。それは、端的に考えれば、いま住田君が持っていないもの、反対物を考えればいいです。そして、それは、茶沢さんも夜野さんも等しく持っていないものなので、非常にシンプルです。それは、住田君は、母親に捨てられ、父親におまえなんかいらなかった子供のころからいわれ続け、釣り堀屋のボート貸しで生活していくのがかなり大変そうな貧困の状態、、、、ようは家族が全く機能していないさまを示しているんですね。特に、母親と父親の役割を完全に放棄している様、それによって、本来、核家族として、ささやかながらも暮らしていけるはずの家計も、これだけ親が自堕落に生きれば、難しいです。金を寄越せとせびりに来る父親、父親の借金、母は男と出ていってしまう。なんというか、貧困家庭に非常にありがちな、悲惨な状況です。茶沢さんも明らかに家庭が崩壊している様が描かれていますし、夜野さんに至っては、311の震災で家も家族も会社も流されてすべてを失っている。


こう書けば、夜野さんや茶沢さんが、住田君が目指す「普通」に何を託しているかがよくわかると思います。


そして茶沢さんなどは、はっきり、言葉でそれを説明してもいます。「二人で結婚して愛し合って子供を作って、、、」と、それが典型的なロマンチック・ラブ・イデオロギーに支えられた中産階級核家族であることは明白です。それが壊れている人、それを喪失している人が、それを未来に向かって取り戻そうとしている行為が、住田君への共感と支持になっているわけです。そして、この未来でもう一度幸せな家族像を取り戻そうとする願いを指して、明らかに「希望」であるという意味を込めています。キーワードにおける普通、日常、家族、愛し合う二人、希望の定義はこれではっきりしたと思います。これはとてもタンジブルなので、少なくともこの定義が違う、とは思えません。


いきなり大きなネタバレに飛んでしまいますが、最後のシーンで、住田君は、なぜか自殺をしません。これは、監督の明確なメッセージであり、すべてのこれまでのパーツをつかってあらわしていることの価値判断です。


この『ヒミズ』という作品のコアは、主人公の住田君が、社会という大きなもの流れに自分の人生をすべてを食い尽くされていく様を描いた作品です。漫画の結論は忘れてしまいましたが、この時、僕は茶沢さんのような女の子が、とても愛してくれて、いくらでも日常に復帰できる可能性があるのに、この主人公はなぜそこで拒否をするのか?それがわからないと強烈に思ったものです。これを指して、僕は動機の不透明性と壊れていると呼んでいました。ただ生きるという意思が見いだせなくなるのは生き物としての根源の動機である、生きよう!より良くなりたい!というポジティヴな本能を持ててないということでから。書いたはずだが、、検索しても見つけられないのですが、当時10年ぐらい前かな?僕は凄くそう思っていました。たしか漫画は、2002−2003年ですね。このころは「復帰しようとも思えば出来るんだ!」と僕は思っていたことになります。

まだこのころは新興国が急拡大して、中産階級を形成し、そこに職を奪われて先進国の中産階級が没落して未来がなくなるなどまだ思わなかった時期です。たしか2000年ならば、まだ中国やアジアの経済は合計でも、日本の規模よりはるか小さかったはずです。それが数年で大逆転され、しかも何倍にも規模の格差が広がるとは、予測はできていましたが、事実になるとその重みは凄いものです。その事実によって、実は、もう、そう云った幸せな高度成長や、その果てに夢として完成した「愛によって結ばれた男女が子供を愛して育てる先進国の中産階級の正社員的生活」は、もうボリュームゾーンとして成立することはありえないことを、我々は実感してしまっています。


僕は今なら同じ漫画を見ても、ああ、、、そもそも住田君のようなスタート地点に立ってしまったら、もう、いかに茶沢さんがいても「普通の日常(=安定した中産階級核家族)」になるのは、かなり難しいだろうなと感じます。いまは、格差が固定していく時代です。そしてそれを壊す倫理的理由もありません。ちなみに、1930−60年代まで、格差の固定は悪でした。そして敵もわかりやすかったのですよね。資本家が敵だ!といえば、それは合理性が少なくともありました。シンプルでわかりすく透明な資本家と労働者の対立。しかし、もうそれを壊す正しさはありません。なぜならば、先進国内の中産階級がいくら保障やら何やら求めても、それが新興国や先進国以外の国々の搾取によって成り立っていたこと、その部分の豊かさは、もっと貧しい人々が豊かになっていくことのリソースにシフトしてしまっているという構造が見え見えだからです。先進国で既得権益を守ることは、新興国の搾取になるので、倫理的正統性はもうありません。新興国や途上国の労働者と同一賃金のレベルで国際競争をするのが正しい在り方です。それが平等!だからです!!(←凄い皮肉のつもりです)。過去は技術の格差があって、後進国にはできないことをしていたから!という言い訳が成り立ちました。しかし、いまはそれがIT化(アウトソースの管理システムの発達・国境を越えて瞬時に接続できるネットワーク体制の整備)の進展や技術の世界的広がりによって、もういくらでも代替が効くのです。

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だから、住田君が目指している『普通』と『日常』はもう、日本人には取り戻すことができない幻想ということになります。しかしながら、住田君を最後に監督は自殺させませんでした。この『ヒミズ』の本質は、住田君のあらゆる出口を奪っていくことなので、その「救いようの無さ」が具体的にすべて示されて、住田君の心が完全にアパシーになっている状態まで追いつめられているにもかかわらずです。


これは、僕は非常におかしい!と思いました。


なぜならば、ここでいう希望=失われた過去の日本の普通の核家族の安定への復帰、がもうすでに不可能な以上、社会の底辺でゴミのように生きていくしか、、、もしかしたら、虫けらのような生活を余儀なくされることは想像に難くありません。もともとそのスラムの人生の中で生きるしたたかさを持って生きているのならばともかく、もうありえない脆弱な日本の「幸せ像」がベースに生きている住田君が、そのサバイバルを生き抜けるとは思いません。


■高度成長の夢が描いていてた中産階級の普通の日常のキラキラする美しさ=日本人が坂の上の雲として目指した、雲の先にいる我々

先日、黒澤明監督の『素晴らしき日曜日』を見ていたのですが、戦後すぐの貧乏どん底カップルが自分たちの貧しさをこれでもかと打ちのめされる映画でしたが、全体的になぜか一貫した明るいトーンがありました。それは主人公がお金がなくて恋人と結婚もできない、暮らすこともできない、まったくの底辺の労働者の生活の中で、自尊心がボロボロになって、これならばまともな職(=当時はまともな職では生活は難しかった)ではなくて、闇市の仕事をしようかと悩み続けているのですが、、、、しかし、中産階級のプライドを維持している主人公には、確実に明るい将来が訪れることは間違がないことを、僕らは知っています。我慢して今の、正社員!の生活をやっていれば、会社が、日本経済が、倍々ゲームで成長していくからです。ベビーブーマー世代、団塊の世代が持っていた夢と希望が、どれだけキラキラ光り輝いていて、そしてそれが、完全い現実化していく様は、まさにおとぎ話のようです。日本に至っては、中国を侵略して、大英帝国より巨大な帝国を築き、そして世界最強のアメリカと国民の死力を尽くして総力戦を戦って得られなかった豊かさが、たかだか20−30年高度成長で、アメリカの経済を抜き去るレベルまで獲得するのです。1980年代の日本バブルの絶頂期と、この戦後の闇経済の苦しかった、何もなかった、、、それこそまさに東京は廃墟でした、、、それさを見ると、ため息が出ます。だってたかだかが40年の間に、歴史の流れからすると一世代が全力で働き続ける、瞬間にも等しい時間で、それが成し遂げられてしまうのです。凄いことです。

デフレの正体  経済は「人口の波」で動く (角川oneテーマ21)

1930年代の日本は、戦争に負けてボロボロでした。その時は闇市のやくざなスラムのような仕事が優勢かもしれませんが、高い教育を受けて真面目な正社員!!として働く彼には、日本経済が行動成長によって、闇で働いている人ではありえないような豊かさがこの残りの人生を過ごすことになることが、既に我々には分かっているからです。たぶん、この映画を作っている時期の黒澤監督ら製作者陣も、その手ごたえを知っていたと思います。この『素晴らしき日曜日』の主人公の貧乏さもたしかに悲惨です。ボロボロの下宿に住む友人に片隅に住まわせてもらっている状態で、人としての尊厳がとても保てる感じがしません。いってみれば、住田君と同じ状況。ふてくされて、主人公は、アパシーになる寸前なくらいに自尊心が壊れています。しかし、そこには住田君にとっての茶沢さんと同じように、とても素敵な彼女がいます。そして、いまは全く先が見えないやみな停電状況ですが、彼と彼女が自分の尊厳を失わないで頑張っていれば、無理と言っていた10万円の広い住宅やかわいい子供、正しい職について高い給料をもらい豊かな生活を送れるようになることは、ほぼ間違いありません!!。ここでは、ロマンチック・ラブ・イデオロギーに支えられた核家族が、素晴らしい夢と幸せな豊かな暮らしを約束しているのです。

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ああ、なんという違いでしょう。物質的な未来がないというというステージに居合わせた住田くん世代の若者には、希望(=中産階級の豊かな核家族・それを支える高度成長)というのは、もうないんですよ、端的に言って。


その中で、監督は、希望がある!と断言しているのです。


住田君を自殺させないというのは、そういうことです。ですので、僕は最後の結論の整合性をとても疑います。それは、ありえない、と。そこは僕の批判なので、下記で別項を設定して説明しますが、とはいえ、園子温監督が、はっきりと希望を肯定している物語を作成した、というのは、非常に興味深い事実です。なぜならば、今後の作品で、この肯定した希望を語らせることになるからです。そうでなければ、おかしいし、論理的におかしくとも、そういう体感があるからこそ、このような結論を描いたのだろうと思います。この時期に311や原発の難民の話を書くのは、とても視線が気になる厳しい決断であって、それでもそれを貫くような人ですから、ここを追求するのは間違いないでしょう。


ちなみに、僕はまだ見ていないのですが、過去の作品のあらすじや設定を見る限り、園子温監督の作品のテーマは、明らかに「壊れていく家族」です。近親相姦や暴力の連鎖などは、彼が、そこを見つめている作家なのは明白です。日本の昨今の作家は、上記のような家族像が崩壊していく過程に、その幼少期を過ごしている人が多いので、とてもこうした家族が崩壊していくことで受けていくトラウマというものに焦点があっています。家族の崩壊、再生そう云ったものが強い文学的なテーマを持って存在しています。その意味で、たぶん間違いなく、この監督の過去の作品は、これでもかっ!と家族が壊れていくことを何の救いようもなく描いてきたと僕は想像します。なぜならば、この『ヒミズ』の解釈、家庭の描写は、それを追求してきた人が描くモチーフに溢れているからです。ちなみに、この高い文学性と、素晴らしく深い思索と魂の叫びがあるこの系統の作品群は、僕はあまり好きではありません(苦笑)。だって、疲れるんだもん。そういうのは現実で頑張って戦っているので(僕は、団塊のJr世代。もっとも団塊の世代に心を壊された犠牲者の世代です(笑)頑張ってもマクロが成長しないのに、死ぬほどの頑張りを要求される世代)、休みぐらいは癒しの萌えが見たいよ、なっています。僕は(笑)。マーケットが二極化するのは、この両方が見たいという心性があるからではないかと、僕は感じています。


ここで描かれる「希望」とはどういうものなのだろう?。


ポスト311の世界において、過去のノスタルジーとしての「日常」に戻ることはできない。その中で社会的底辺に追い込まれている主人公の住田くんが、どのような未来を獲得していくのか?、彼がもし未来における彼なりの「普通」を手に入れることができれば、それは、それこどが、希望というのはよくわかる。園子温監督は前評判的な感じでは相当きつい暴力や救いようがなさを追求する人のように思えたが、意外にロマンチストで、前向きな視点に少しびっくりした。いや、しかし、緩やかに崩れていく家族の、底辺の世界の絶望に比べて、311の津波と放射は監督にとってそれを超える絶望だったのかもしれない。その絶望の強度故に、希望を描かなければならないと志すほどに。


その2に続く


ヒミズ』 (2012年 日本) 園子温監督 (2) スラムに生きる幸せを描く方が、正しい道なのではないか?

まだ掲載していません。後日します。