『ドキドキプリキュア』 東堂いずみ著 11−12話 自立と依存の比率のバランスについて

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■キャラクターを好きだと、他のことってどうでもよくなるよね?(笑)

あまり感想の記事を書いてこそいませんが、ドキプリにはとってもとってもはまっています。まだ全体を通してハトプリのようなダイナミックな物語としての引き込まれ感があるかわからないのですが、等身大のキャラクターたちの描きがとてもよくて好きです。物語やシリーズもののエンターテイメントとを「好き」でたのしむときに、僕の中の体感アンテナで最も重要なのは「そのキャラクターが好きかどうか?」みたいですね。物語の質(=マクロの展開力)や主軸テーマにはいろいろあるし、受け手側の感性や受取の姿勢などもいろいろあって、何が面白か?というのは結構、相対的に云えてしまえると思います。LD教授がよくいう「いい張り可能な世界」ですからね。ここは。とはいえ批評したり価値基準を持って感想を書く時に難しいのは、一般化して普遍化して言えるかどうか?が問われるところだと思うのですが、この価値観が多様化して基準が相対化している中で、何かを断言するというのはなかなか難しい。

そんな中で、そういったすべての細かいこと(でもないんだけれども…)を、ぶっ飛ばしてくれるのは、そのキャラクターが好きかどうか?だと思うのです。キャラクターが好きならば、背景や文脈や脚本など、そういったロジカルなものはどうでもよくなってしまうので(笑)。しかしながら、そういった文脈を超えて、キャラクターが等身大に感じられて好きになるという感覚は、なかなか僕には訪れません。目が肥えているのか、それとも、そういう物語るスキルは非常に高くて政策が難しいものなのか、、、、わからないのですが、とにかく久々に胸がキュンキュンするようなキャラクターへの愛情を感じるので、僕はこの作品がとても好きなんだろうと思います。スマイルなんかは、全体的に、とっても時代の文脈を押さえてあって、とても素晴らしく楽しんだ作品でしたが、キャラクターが偏愛するような感覚は一度も起きませんでした。これが感じられるのって、僕にはあまりないので、そういう意味では、この作品はとっても見ていると、心が癒されます。久しぶりに、ぐッと入れる感じで。まだ10話程度ですが、ぜひこのまま進んでほしいです。


さて、11−12話のコンボが、胸がキュンキュンしてしまって、ああいいなーと思いすぎたので、いつもの如くこの過剰な思いを、文字で吐き出そうということでこの記事書いています。まぁ、はっきりいって、バカ!なので、よほどこのブログに興味がある人でなければ、いつもの如く読むのが無駄な駄長文です。プリキュアこんな分析してどうするんだよっ!とか、自分で突っ込みたくなりますが、いいです、これも愛ゆえ!です(←だいじょうぶかおれ)。まぁ、1000年も昔から、好きこそもののあわれなりけり、と言われていますんでいんですよ、たぶん。



■マナのもつドラマトゥルギーを軸として〜具体的なエピソードの積み重ねで生まれるそのキャラクターの立体感

さて12話の「マナの決意!あたし弟子をとります!」と11話の「めざめよ!プリキュアの新たなる力!」のコンボがとても素晴らしかったので感想を。というのは、この物語は相田マナという女の子が、僕的な言葉でいうとアンカー(錨)的な位置づけのキャラクターなのですが、そういったMY用語はわからないかもしれないので、一言でいうと彼女の持つドラマトゥルギーが大きくこの物語のテーマを支配しているんだと思うんですね。それが11−12話で、とってもきれいにまとめてあって、ああ、きれいだなーと感心したんです。そのテーマは2つです。

1)なんでも救おうとする過剰さ〜極端な目的の持つ危ういドラマトゥルギー


2)大きな目的や課題は一人では対応できない〜リーダーシップとチームビィルディングの関係


マナのドラマトゥルギーとは、他人の笑顔が見たい!というような平易な言葉で描かれていますが、これって、とてもおかしな目的・動機です。通常で考えれば、人間がそんなに利他的にはなれるとは思えないからです。ただ「現象」として「事実」として、この子はそういう子だと描かれています。過剰な説明をするのは、物語としては悪手なので、この子をそういう存在として描くのは別におかしくないですが、こういうエピソードが積み重なれば、



・当然に論理的に、なんでこの子はそういう思いを持つにいたったのか?という動機の探索のなぞ解きが発生します



また



・この子の持つこの極端な目的・動機がどういう構造なのか?どういう危うさや問題点を持っているのか?



ということは、脚本上、どうしても作り手側も見ている人も意識せざるを得ません。もちろん脚本や構成上、またテーマ上、これを描くかどうかは別の問題なのですが、どうしてもこの子とは論理的に考えれば、好きで感情移入していても確実に感じると思います。この11−12話って、とっても短いし、よくある小さな上手くできたエピソードなのですが、全体的な大きなマナの持つドラマトゥルギーのコアを丁寧に描写して、丁寧にその構造を等身大のエピソードで描写しているんですね。それが素晴らしかった。


12話の「マナの決意!あたし弟子をとります!」は、そもそもこの過剰に人を救済したい!とおもっている設定のマナの日常が描かれます。・・・おいおい、そんなのヘトヘトだよと思うような活躍の連続ですが、これって1話から連続している話なので、何度も強調されると、ああ、そういう子なんだなーと思うものです。ただ、これはとても難しい。安易に、スタッフが理解が甘いと、え?そんなのおかしいよとすぐ見抜かれてしまうからです。少なくとも、大概の作品は、「人を救いたい!」とかいうキャラクターを設定したときに、そのエピソードの小さなものの一貫性の無さ、解決方針のステレオタイプさ、行為・アクションに関する哲学の無さ(=共通性のことね)で、そんな人いないよーーーーと余計に強く感じてしまうことが多いのです。けれども、日常を微細に描いて、しかもそれぞれの個別の課題の解決方法を見せることで、マナという子の極端な動機・目的に対する日常のクンフーというか、日常に積み上げている行為の共通点をよくよくわからせてくれると思うのです。特に、このエピソードは凄く一貫性があったと僕は感じました。確かに無理なことの連続だけれども、ああ、決して不可能ではないなという具体性を感じました。スタッフがよく考え抜いているんでしょうが、そのおかげで、僕はマナちゃんの等身大の振る舞いを凄く感じました。

ああ、生徒会で、学校で、彼女こうした「振る舞い」をして、リーダーシップを発揮しているのね、ということがすごく強くわかりました。完全に自分から物事を関わってアクションを起こす率先型のリーダーシップですね。まずは自分が巻き込まれるアクションを起こすことが彼女の行動パターンの基本です。そこで1)のなんでも救おうとする過剰さ〜極端な目的の持つ危ういドラマトゥルギーについてなんですが、ここで「危うい」という言い方をしているのは、これは物語なので、物語を進めてフォーカスする上で、この彼女の「こういうの積み重ね(=クンフー)」が、いったいどういう構造を持って、どんな射程距離を持っているのか?ということを明示的に見せてほしいのです。現実ならば、それは結果で現れてくるのを長期間待てばいいですが、物語では、そのスピードをドライブして、わかりやすく示すから、物語なのですから。僕は最初の数話を見た瞬間に、このドラマトゥルギーの持つ問題点と美しさをとても感じました。まぁそれが正しいかどうかではなくて、僕はそう感じたんです。

「この幸せの王子!広場に立っている王子の銅像には困っている人達に金箔を配るツバメが必要なのよ! あたしはあなたのツバメにはなれない!?」(六花)


ここで存在しているテーマは、六花との関係性に集約されています。それは、毎回出てくる幸せの王子のエピソードです。もうこれ、キーワードになっていますね。この物語を思いおこせば、ここにある「危うさの構造」というドラマトゥルギーは、とても明示的です。毎回同じ構造を持っているので、当然にこういう問題が発生すれば、六花との関係性も差異反復される構造になります。六花が「やれやれ・・・」という反応をするのは、こういう話がいつもいつも発生するので、もう慣れっこだからでしょう(笑)。ちなみにマコトがびっくりしているのは、本来はこれがとっても異常なことだからです(笑)。マコトって、かわいいよねー。クールで地頭めちゃよくて強いけど、バカって、、、たまりませんねぇ。


つまりね、幸せの王子様の話は、



・他人を救おうとする王子様自体(=マナ)はだれが救うの?という命題


それに


・その王子様を大好きな周りの人(=つばめ・六花)に関する迷惑という命題


というドラマトゥルギーの構造があります。これは、もう最初の最初の時点で、はっきりと示されていますね。このドラマトゥルギーのエピソード展開の一つが、この11-12話になります。良い物語は、全体を貫くマクロのテーマが何度も異なる形で反復して登場してきます。なぜならば、同じクンフー(=毎日のこういうの積み重ね)が継続していれば、さまざまなこと異なる問題、課題に、この信念が試され続けるのが人生というやつだからです。そして、毎回異なる問題に出会うということは、少しづつ自分が「いまいる地点」から物事がずれて移動していくことも示しています。毎回同じことなどないし、何よりも、人間は年齢を重ねるからです。時間が過ぎ去るということ自体が、そもそも変化することなのです。


えっと、この言い方は現実っぽいなー。現実でもそうなんですが、物語の演出においても、視聴者・受け手・消費者というのは、そのメインの層は、ぶっちゃけ頭がよくありません。エンターテイメントは常に、そうです。単純に頭がよくないというだけではなく、そもそも、受け身で見ているので「文脈を解釈しよう」というフィルターを通していないので、さらにアホになります。ぶっちゃけ、クリエイター側やメーカーサイドは、どこまでバカに合わせるか?ということを常に迫られるのです(苦笑)。いい方が露悪的ですが、要はマスのどの層の理解力レベルに焦点を合わせるか?というのは常にエンターテイメントでは重要な問いです。エンタメは、質と量をバランスさせなければならないので、どの辺が理解力のポイントか?ということは常に意識せざるを得ないのです。そういう時にとてもいい手法は、大きなグランドテーマを具体的なエピソードで異なる例で反復させることです。こうすれば、大きなテーマが、じわっと浮かび上がってくるし、何度も何度も説明するので、多少難しいことでも理解しやすくなるのです。特に、テレビアニメーションのような媒体の形式ならば、30分で完結するエピソードを繰り返すことが多いわけですから、この手法はいい感じです。ただし、同じテーマを、異なる具体的エピソードで演出することは、凄く難しいので、なかなかできないんですけれどもね。

この2話の物語の根幹というのは、プリキュアになって世界を守るという非常に苛酷な仕事に六花を巻き込むかどうか?という設問が設定されているんですよね。これについて、マナはすぐに六花をに話をしようとします。これってさっき言った「他人に迷惑をかけない」というルールからすると、非常に酷い行為です。妖精たちが言っているのは、とっても重要なことで、非常に難易度の高い課題に、能力もない一般人を巻き込んでしまうと、その人たちにとって地獄でしかないし、対処できないことに押しつぶされて不幸になるといっているんですね。



僕はこの設問を、特に切実に受け止めました。


さて、ではおさらいでこの命題、構造に関して、いったいどういうところまで物語は語っているかということを、おさらいしてみますと、

とはいえ、ここで言われている倫理は、ようは、深い絆がある場合は、仮にお互いの「巻き込み」によって、死ぬようなことがあっても、それはそれで本望だ!という、共に倒れる意識です。はっきりと、六花の側に自覚がある。それに、マナは当然のごとく、自分が地獄を見る時に、一緒につきあわせて、六花が死んでも、それは仕方がない、、、とは言わないが、共にその苦しみを迎え撃ち、それを苦しむことこそが、二人の絆のコアにあるということをよくわきまえているようなんですね。ここでは、他者に迷惑をかけなければ何をしてしまえばいいなどというような小ぎれいでレベルの低い倫理はぶっ飛んでいます。そこでは、本当に愛して絆を刻んできた相手とならば、共に運命の苦しみを立ち向かい、たとえそれによって滅びることがあろうともそれはそれで、やったろうじゃぁないかぁぁ!という決してマイナスの受け入れではない、ポジティヴな強い使命感があります。


ドキドキ!プリキュア(Dokidoki! Precure)』 第2話「ガーン!キュアハートの正体がバレちゃった!!」 共に倒れても他者を巻き込む気概が絆をつくりだす
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130214/p1


こう僕は書いています。自立と依存のお話なのですが、人間というのは自立したほうがいい!(=他人に迷惑をかけず依存しない)というのが第一原則ですが、第一幻想が達成された後のステージとして、だからこそ、自立している人間同士が、自立の原則を意識しながら依存し合って共に倒れるのは美しいのだと言っています。


????って思いません?(笑)。


ここちょっと敷衍しようと思います。このあたりって、まだ考察が進んでいない部分で、じゃあ、共に倒れるということって、具体的にどういうことなの?って話です。一緒に死んじゃうんじゃぁ、対幻想における心中ものになってしまいます。けど、それでは、袋小路のバットエンドであって、あまり意味がありません。僕には、このへんのテーマが、凄く意識されているようで、そのへんはいっしゅうさんとスイートとドキドキの話をしていて、とても強く感じました。だから、六花がとてもとても好きなんですね♪。彼女は特に、自覚的だもの。・・・というか、ドキプリの3人は、凄い関係性に再帰的というか自覚的ですね。そこが、とてもいい。


スイートプリキュアを振り返って〜何が理想の関係性なのだろうか?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130216/p1




■自立と依存の比率のバランスを求めること

そこで、11話の「めざめよ!プリキュアの新たなる力!」に話がいきます。ここで描かれているのは、率先型のリーダーシップを発揮するマナには、当然に、「全部一人で抱え込みすぎてしまう」という問題が常に発生します。他人の目やフォロワーを意識しないで、自分から問題に突っ込んでいくんですから、そりゃー当然です。「みんな」がやりたくないことを、火中の栗をガンガン拾いに行く人だからです。この問題点への告発は、本の物語ではよく見ます。空気読まないで前に出るやつは損だということ、出る杭は打たれることを何度も再確認したのは、民族性というか伝統なので。この辺りは、『採用基準』を読むと、とてもよくわかります。・・・このアニメ見ながら、理解するのにこの本を薦める俺って、、、と思わないでもないが。。。(苦笑)。


採用基準


11話では、ソフトボール部の助っ人を頼まれたマナが、敵の罠にかかってしまい、ソフトボールの試合に間に合わなかったという話です。


このエピソードがとてもよかったなーと思うのは、マナが部員のユニフォームの選択をしていると、1年生がそれは私たちの仕事ですのでと申し訳なさそうに言うのですが、チームのみんなが頑張らなければ、ダメなんだとマナがさとしたところです。これ自体は、よくある「いい人エピソード(=上下の身分や能力の高さ低さにこだわらない)」かとタカをくくってみていたのですが、そうじゃなかった!。マナが、ソフトボールの試合に間に合わなかったため、この1年生のピッチャー(候補)が自分で投げると申し出て、チームを勝利に導くんですね。ちゃんと伏線として、マナの言葉に刺激を受けて、この1年生たちや、チームののレギュラーではないメンバーが頑張る動機を持ったという描写も入っていました。


なにをいっえいるかといえば、このエピソードで主張したかったことは、能力のあるなしや、助っ人に来た人への嫉妬やルサンチマンというよくある物語に回収されて、そして、マナが一人よがりでチームを意識していない独善的な人間であることの告発する「ことではなくて」、マナのような率先型リーダーシップ(=とても独善的)を取る人間には、チームを育てておくこと、チームの動機づけをしておくこと、チームとの自立と依存の関係を整備しておくことが、重要だってことを言っているんですよね。そして、マナの友達たちは、それを、もちろんマナ本人も含めてよく理解して行動している。これをして、自立と依存の比率のバランスがいい、と僕は言っています。


ほんとうは、重要な試合の助っ人を引き受けたのに、どんな理由があろうと、それに間に合わないというのはリスク回避としてひどい話。また、他のプリキュアに何もしゃべらずに、赤ちゃんが誘拐されたからといって一人で行くのは、あまりに独りよがりで仲間を信じていない行為です。にもかかわらず、そのことについて、この回では何一つ言及がなされません。いや、ほんとは、そこ突っ込まれてもいいから、と思うんですが(苦笑)、、、、でも、これは小さいエピソードですし、なによりも、ここが主題ではないのは明白なんですね。ちょっと雑な脚本な流れではあるが、力点というか強調したい部分を考えると、わからないでもないのです。ようは、マナは、自分が独善的で突出型のリーダーシップをとって自滅しやすいことが、自分自身の経験からよく理解しており、つねに自分の仲間やフォロワーに、自分が突出した時に自立して判断して動いてくれるように意識して関係性を取り結んでいるので、そもそも、彼女自体の独善的な行動が結果としてマイナスにならないのですね。私もいろいろあった的な、彼女が「いまの自分」のスタイルを確立させるのに、様々な失敗を既に繰り返しているということが、随所でにおわされていることがそこを強調していると思います。これって、重要です。


自分の「本質的な行動スタイル」を認識したうえで、それを変えたり修正するのではなくそれを突出させながら(=欠点は直さない)、周りの人間関係の網の目を、構造的により良い結果になるように自分で関係性をリデザインしているということだからです。これって、凄い大人だし、、、なによりも、マナの指導者としての自覚と風格を感じるとともに、そういった関係性を共に築いてきた六花やありすが、マナと同じくらいそういう関係性をリデザインするのに自覚的で、自立していながらも依存しているってことですからね。自立しながら依存しているって、それは、ほんとうの友達だと僕は思いますよ。ちなみに、この話見てて、最近読んだ(僕は英語版で読みましたが日本語版も最近出たはずです)ストレングス・ベースド・リーダーシップを凄く思い出しました。

Strengths-Based Leadership: Great Leaders, Teams, and Why People Follow
Strengths-Based Leadership: Great Leaders, Teams, and Why People Follow



■いっしゅうさんの微細な解析から読み込む関係性の機微

この辺のドキプリの関係性の描写は物凄く自覚的で、大人です。びっくりするほど。このへんは、僕が尊敬するプリキュアマイスターのいっしゅうさんの記事を継続的に読んでいると、とても微細に解説されていますので、この辺りは必須で読むことをお勧めします。

ドキドキの特徴は人間関係が非対称なことです。前回のマナと六花がそうであるように相手に対する要求水準が各々違います。過去シリーズではこのレベルはほぼ同じでした。だからメンバーの誰か一人が困難に直面して解決したら、それは全員に共有されると言って差し支えありませんでした。多少の差はあっても基本的にはプリキュアにおける仲間(親友)は均質で均等な関係であることが前提にありました。


ところがドキドキは各々異なっていることが物語の主軸に置かれています。個人レベルに解体されている。


同じようなことはスマイルのときにも書きましたが、ドキドキはそれがより顕著です。もうちょっと分かりやすく言えば、マナ達は今のところ「プリキュア(友達)」という共同体を作っているというよりは、個人個人が網の目のように繋がった関係を形成しています。これはシリーズを長期的に見てもそのように変化していることが見えます。プリキュア5はのぞみを中心としたコミュニティでしたが、同じ5人組であるスマイルは個人が前提にあって協力しあっている関係として描かれています。これは物語の課題が自立と依存(自己と他者の関係)について言及の度合いを深めているからだと思われます。チーム(仲良しグループ)として何が出来るのか、ではなく、一人ひとりにとって友達とはどういうものなのか、に焦点が当てられています。つまり他者性の意味を問う物語構造になっています。


(強調・改行ペトロニウス

第11話「めざめよ!プリキュアの新たなる力!」 六畳半のすごしかた
http://www.geocities.jp/isshuu_a/dokidokiprecuretop.html

これ、いっしゅうさんが、10話の「転校生は、国民的スーパーアイドル!!」 の解析で、六花のマナと真琴の関係に嫉妬する文での解析とつなげてみると、本当にいろいろなものがわかって、感動します。最近、僕は「友達がいない系」というテーマがどういう構造になっているのか?というのを仲間内で追っているんですが、まさにその重要な補助線となる視点です。試験に出ますので、読み込んでおいてください(笑)。僕の文章はが非常に抽象的でいまいち何が何だかわからない部分があるとあるんですが、LDさんやこのいっしゅうさんのように、ちゃんと具体的なものでコツコツ積み上げる人を定点観測的に継続してよむと、いいですよー、よくわかって。

前回、マナと六花を中心に学校での様子が描かれましたが、このふたりは付き合いが長く物理的にも近い関係をずっと続けています。どちらが上か下というんじゃなしに、対等で、相性の良い関係にあります。このふたりの姿はそのまま真琴やありすから見える姿と同じです。


 今回のお話しの見事な点は、ありすの視点と位置関係です。視聴者である私自身盲点でしたし、また六花ですら盲点だっただろうと思います。時系列的に言ってマナと六花の出会いが最初で、小学校でありすと出会ったのだと思われます。ありすは今回六花が味わった気持ちをずっと前から感じていたことが分ります。彼女がその気持ちをどのように、どれくらい時間をかけて消化したかは分りませんが、それを経た彼女の精神的な強さ、寛容さが今回のエピソードの中で遺憾なく発揮されています。


 ありすも六花と同じようにマナのことが大好きなはずです。それは4話でマナが傷つけられた際に激怒したことでも明らかです。しかしマナと六花の関係は強く、そこに無理矢理入っていくことは難しいでしょうし六花を傷つけかねません。ありすがマナに対しても六花に対してもほとんど等距離に自分を置いているのは彼女なりに腐心した結果なのかもしれません。一般論的に言っても三人というのはなかなか微妙なのではないかと思います。なりがちなのが2人+1人という形です。これは会話をする際の物理的な位置関係(歩きながらの会話、テーブルの並び順)にも表われやすくて、三人均等にはなりにくい。三人それぞれが同じだけ互いのことを好いているということも希でしょう。マナ、六花、ありすは付き合っている時間、距離が不均等なのでどこかでバランスを調整する必要がある。ありすがその役目を担っているように思います。思い返すと、三人構成で学校が別々だったフレッシュは上手く均等化してバランスを取っていましたが、ドキドキは敢えて不均等にすることでその歪みに向き合っている。シリーズの蓄積と発展を感じます。


 友達との友情をプリキュアシリーズは重んじてきましたが、今回のような焼き餅、嫉妬を取り上げたことはありませんでした。そもそもケンカすること自体が希なシリーズで、スイートに至ってはケンカ(ディスコミュニケーション)を物語の主体にすることでようやく克服できたほど友達内での不和は難しい課題と言えます。スマイルでも友達との別れを最後の課題にしたほどです。それらを踏まえて、本作でようやく扱えるようになったのだと思うと感慨深い。


 マナと近すぎたせいで今まで気づかなかった気持ちに六花は気づき、逆にありすはそれを最初から知っていたために今では安定して関係を維持できる。という対照性がとても面白い。決して人間関係というのは上・下、優越・劣等という言葉で一義的に表せるものではありません。場合によっては逆転を繰り返す関係もあります(恋愛はそれが強いかもしれません)。六花が感じたように、今まで心地よく感じていた関係が仇になって不満や痛みを感じてしまうことだってある。人も、関係も不変ではない。必ず揺らぎや歪みが生じる。それは様々な形で日常の中に現われてきます。


(強調・改行ペトロニウス

第10話「転校生は、国民的スーパーアイドル!!」 六畳半のすごしかた
http://www.geocities.jp/isshuu_a/dokidokiprecuretop.html


この辺を読むと、友達関係というエコロジカルな関係性のパターンが、どのように形成されていくか、どういう力学でそれが揺れ動いていくかの、素晴らしいモデルになっています。おおー大人だなーと思います。成熟した大人というのは、こういう距離感を、人生を通して学び、自立と依存の関係をコントロールして人生を支配していくことにあります。主体性、というやつですね。特に、やらなきゃいけないこと=行動の支配と、感情のコントロールが別物であることなど、しびれる指摘ですね。いっしゅうさん、凄すぎます。そして、そういう指摘ができるような演出の組み方、しびれます。それらは、別々に学び育てなければいけないことなど、いやー本当によくできている。


そして、このプリキュアの物語が見事なのは、行動と感情をコントロールして律していこうと努力しても、マクロの命題(=トランプ王国を救うこと)というドラマトゥルギーによってこれらのコントロールは常に破壊され続けていくことです。人生なんて、コントロールできないんだもん!。僕がよくいうのは、それが、時という試練に関係性の強さが試されるという言葉です。ただし、コントロールできないことと、コントロールを意思しないことは、全然別の問題です。出来ないからといって、やらなければ、翻弄されて人生を自分以外のものに支配される奴隷に成り下がるだけです。まぁ、その奴隷となった人生を、「受け入れて飲み込む」ことも人生の醍醐味であり重要な成熟ではあるんですが、それは、そうでないように意思したという前提があって生まれる話だと僕は思うのです。

ちなみに、これ、六花のフォローを聞いて「六花愛してるー」とマナがいうシーンですが、この回のこのエピソードのテーマが嫉妬ということを考えると、こういうのを何年も見せつけられてきたありすの精神が異常に成熟して安定している、という13話のエピソードが凄い凄いうまいのですよー。いやーあっぱれと思う。スタッフ見事すぎます(笑)。



■友達とは?〜絆の構築をめぐるボンド(=接着剤)の命題

ちなみに、、、下記の記事は、まだ課題を挙げただけで、次の展開があるのですが、まだ記事を上げていないので、、、。

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。7 (ガガガ文庫)



やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』  渡航著 (1)スクールカーストの下層で生きるこ
とは永遠に閉じ込められる恐怖感〜学校空間は、9年×10倍の時間を生きる

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130406/p2

ちなみに、この上記のテーマは、2)大きな目的や課題は一人では対応できない〜リーダーシップとチームビィルディングの関係・その王子様を大好きな周りの人(=つばめ・六花)に関する迷惑という命題、というのと凄くリンクしているとわかると思いますよね。この友達との関係は、自立と依存の比率を認識していくことが、重要だということが、このプリキュアの物語でわかってきました。


特に、自立がテーマになると、これは承認が必要ない自己完結型の話になって、自立が目指すところは、友達がいらない!という方向性の結論です。これは、最近LDさんが提出した方向性ですね。


同時に、依存というのは、僕は自立の第一原則が成立した後のステージだという前提をつけましたが、そうした場合には、そもそも、一緒にいること自体の強度をどう感じるか?、それと、一緒にいることでどんな目的を成し遂げることを共有するのか?という命題に敷衍されるようです。依存は、目的と関係があるようですね。プリキュアのドキプリのいまの4人、、、というか、3人の関係性の在り方は、友達系で目指す完成形の姿なんだと思うんですよね。別に、「本当の(=絶対に裏切らない)友達」というわけではなくて、いろいろ悩んで上下左右に振られるんですが、でも自立と依存の比率にある種の覚悟がある。そして、その上下左右に揺れ動く心理のあやを共有していくことこそが、その人と一緒にいることの豊かさであり、醍醐味だとしている。これ以上話って、展開しないですよ。だって、これ答えだもの。


でも、それをどうやって獲得するか?


と考えると、例の「持てるもの」と「持たざる者」の議論が出てくるんですよ。ようは、最初期に、幼児期に家族の承認が得られなければ、こういう自立と依存の比率を考えるところにさえまったくいかないという話です。ちなみに個々のテーマが、まさに、この記事では全く言及されていない、ちなみに、このなんでも救おうとする過剰さ〜極端な目的の持つ危ういドラマトゥルギー・他人を救おうとする王子様自体(=マナ)はだれが救うの?という命題が、まさに家族の解体と絆の再構築の議論と繋がります。

ヒミズ コレクターズ・エディション [DVD] ヒミズ 1 (ヤンマガKC)



ヒミズ』 (2012年 日本) 園子温監督 (1) 坂の上の雲として目指した、その雲の先にいる我々は何を目指すのか?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130419/p1

ロマンチックラブイデオロギー解体の視点で恋愛を描いた物語を眺めてみる(1) あなたにキラキラはありますか?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130405/p1

ただ、プリキュアシリーズは、この命題には、非常に答えにくい。なぜならば、物凄い幸せな家庭に生まれているのが大前提の幼児向けのドラマだからです。ここで家族のトラウマの話を書くのは、いくらなんでもありえない(苦笑)。もちろん、ハトプリのつぼみちゃんやゆりちゃん、、、というかハトプリのような展開は可能なので不可能とは思えませんが、最も重要なポイントである、最初期の承認をどこから調達するか?という時に、両親からという前提は消えません。なので、その先のアダルトな(笑)物語とは、制約が違うことになりますねー。


僕は、この回を見ている時に、ちょうど『輪るピングドラム』をぶっ通しで見ていたんですが、、、、

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この作品って、登場人物がのすべてが、親からの承認をめちゃめちゃに破壊された状態で人生を過ごしています(苦笑)。まさにそれがテーマなんでしょうが、家族から得られるはずのポジティヴな承認が、全部逆の極端なネガティヴな否定であった場合、それをOSとしてインストールされてしまった人は、どう生きればいいのか?というのがこの作品のテーマになっているとおもいます。いま、18話の「だから私のためにいてほしい」までしか見ていないので、この評価とか文脈読みでいいのかはまだわからないけれども、、、

しかしながら、上記の親から動機の構造を破壊されることから人生がスタートした人が、どういう風に自己を認識するかといえば、この子供ブロイラーの映像は、すげぇ!天才だ!!と思いましたね。何となく村上春樹風な、世界観が凄くうまくて、監督の才能を凄く感じさせます。これ、以前にtwitterでも書いたのですが、

しかし、、、ドキプリとピングドラムを同時に見ていると、なんというか、家庭から愛情をもらって育った人とそうでない人の差があまりに悲惨すぎて、、、、いやーこりゃーすげぇ、なぁ、、、と思うなぁ。でもどっちも現実だよなー。

これって、しかし非常に似たというか、まさに同じテーマの裏表ですよね。そして、この18話でももかちゃんという女の子が出てくるのですが、この子がまさに、いまのところは、マナと同じアンカー的なポジションにいる。つまり言い換えれば、



他人を救おうとする王子様自体(=マナ=桃果)はだれが救うの?という命題


というテーマにならざるを得ないと思うんですよね。僕は、まだ18話以降は見ていないから、このすべての恵まれない子供たちの救世主になるポジションで登場してきた桃果ちゃんのあまりにスター的な、アンカー的なポジションの演出を見て、彼女は、いったいなぜそう思うようになったの?彼女自体はだれが救うの?ということを強く疑問に感じましたよ。


このへんは、非常に重なるテーマなので、注意深く追ってみたいと思います。いま、こつこつピングドラム見ているので、燃えます!!。


なお、このピングドラムでは、「カエルくん東京を救う」という話が出てくるのですが、これって、村上春樹の下記の短編集が出どころです。ぜひ読んでみることをお勧めします。たぶんずーーっと後に、ピングドラムの記事が出ると思うので、その時の予行演習で。ちなみに、このブログでは何度もいっているんですが、僕の物語批評というか感想のスタイルは、自分なりのテーマを持って分野を越境して考えて楽しむこと、です。なので、たとえば、いまは「友達がいない・欲しい系」というや「家族の解体と絆の再構築」というテーマがブームだというのがわかると思いますが、ぜひ、このスタイルが興味深いと思う人は、もしくはちゃんとこのブログを理解したいと思う人は、ぜひここで上げられている作品は、できれば僕と同時期ぐらいに体験するのがお薦めします。そんで、一緒にこのテーマを考えてほしいのです。リルタイム感や共有は、同時でないとシンクロニシティというか、何つーかそういうのが生まれないので、ぜひともそれを薦めします。出来れば僕が感じている、考えている全体像を共有して話したいと思うので、、、ってそういうの興味がない人には、まぁ、しかたがないですがねぇ。なのでここの記事に上がっているの全部見ると、いろいろなことが思えるはずです。あと、いま記事を書いていますが、黒澤明監督の『素晴らしき日曜日』と小津安二郎の『東京物語』はぜひともおすすめです。

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)