ロマンチックラブイデオロギー解体の視点で恋愛を描いた物語を眺めてみる(2) あなたにキラキラはありますか?

Landreaall 21巻 限定版 (ZERO-SUMコミックス)


ロマンチックラブイデオロギー解体の視点で恋愛を描いた物語を眺めてみる(1) あなたにキラキラはありますか?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130405/p1

(1)の続きです。


ちなみに、最近僕の中でもっとも典型的な、ロマンティックラブをベースに核家族を形成しながら、それがとっても板についている理想の夫婦像のモデルは、ファレル&リゲインルッカフォード夫妻。作者のおがきちかさんが、ちゃんと「騎士道というものの本質」をわかっているので、リゲインの理想の騎士っぷりには、いつも脱帽します。

また少女マンガではなかなか見ることのできない、恋愛で結ばれて、その後の夫婦生活と子供が育ってからの家庭における「夫婦の愛」や「あり方」までが一貫して描かれているところに、このカップルの良さというか、なかなか興味深いところがあります。

あとで言及しますが、少女マンガの問題点は、恋愛の始まりから性愛までは描けるのですが、その後の「その恋愛のキラキラ感をベースにどのように老いてゆき子育てをする過程が継続されるか?」が、スポット抜けている点にあります。要は、恋愛の「はじまり」だけ強調して、終わりや途中における困難を無視しているのが、僕にはとても不満でした。


ちなみに、そういう中で、この21巻のドラマCDの付属として、エカリープにおけるリゲインとファレルのショートストーリーがあるのですが、このエピソードが、ああ、中年の夫婦におけるキラキラ感を持つためにどういうものが必要かを、凄くよくぁわかっているなーと感心しました。この漫画って、たしか、ろきさんが新年会で見せてくれたやつだー。良くて買ってしまったよ。。。。えっとね、リゲインが、ファレル(奥さん)にドレスを贈るんだけど、それって社交界で必要なものだからと言われてファレルは自分で買うようになってたんだよね。そんで王城の社交界で「男がドレスを女性におくるのは脱がせたい下心があるからだ」というのを聞いて、「笑えるねー」とリゲインに言うんですよね。すると、リゲインは、不機嫌になって


「奥さんに下心があって悪いのか!」


と、むっつりするんですよね。これを見て、ファレルは、しまった―自分で、ドレスを買うのはやめようと思うんですね。。。これねぇ、、、女性から見たら、旦那さんかわいいと思うだろうなー(笑)って思うんですよ。僕は時々、思い出したように奥さん花を買って帰るんですが、「食べ物の方がいい!」とすぐ却下されるんですが(苦笑)、このリゲインの気持ちはよくわかるんですよ。


いくつになっても、結婚しても、リゲインにとってファレルは「かわいい自分の大好きな女の子」なんですよ。


これって、僕がいうキラキラ感ってやつなんですけど、女性に対してこの感覚が生きていると、時々見ているのもまぶしくなるように、なんてかわいいんだぁ、、、と胸がキューーっとなるんですよね。これって、いま、、、僕は40歳近いですが、奥さんももう子どもも二人もいるしちょっと年下なだけなので、要は中年なんですが、いまだ、少女マンガでどっきーんんと胸が高鳴るような、なんか、背景にキラキラした感じの強調がかかる感じの(笑)あれが発生するんですよねー。僕は、おじいさんのばあさんになっても、こういうチャーミーグリーンCM的な関係が理想であったんですが、、、、


まぁ周り見ても、そんな中年の夫婦なんて、まず90%ぐらいの確率でいないんだよね(苦笑)。つまりは、全然そんなやつはいない!。もっといえば、構造的にそういう風には慣れない関係性の仕組みがあるの、日本には。日本社会の夫婦モデルってこのパターンは、どうもほとんどありえないみたい。特殊な芸術家のカップルや、子供がいないカップルとか、あと浮世離れしている大金持ちとかそういうケースでは、まれにあるんだけれども、、、芸術家って、たとえば、ジョンレノンとオノヨーコを思い出してみればいいですが、ああいう感じです。そういう特殊例外例は、いくつか見ているんですが、中産階級からそれ以下では、要は社会の過半では、それはほとんど無理と僕は思っています。


みたことねーもん。


まぁ、僕の世界がそういう人がいない世代なのか、若い世代になると変わるのかは、わかりませんが、、、、少なくとも、団塊の世代やJrぐらいの1940-1980年代までの生まれの層では、少ないですね。ようは30代の真ん中までぐらいだと、ほとんどそういうのは無理みたい。すぐ、お父さん、お母さんになって、セックスレスに陥る。どうも、こういうリゲインのような、騎士道のモデルのように女性に対して、一対一の姿勢の愛を貫くケース、それも年齢を経ても、というのは、なかなか日本社会の家族では難しいようなのですね。日本では、絶対性があまりモデルとして意識されていないし、宗教の下地もないので、夫婦というロマンチックラブで形成された核家族が、家共同体に転化してしまうんですね。これは、人類の基本みたいなもんですが、西洋近代社会では、この本能的なものに逆らう宗教、社会的な基盤がそれなりにあるのだろうと思います。


ちなみに何度も言いますが、西洋社会の方が優れているとか、だから倫理的にいいモノだなんて、話は一切していないですからね。そこ勘違いしないでね。よくいるんだ、この話を、だから西洋は偉い!的な、ゴミなレベルに理解する人が。。。そういうことは云っていません。アメリカ社会の60年代以降の離婚率の上昇や家庭の崩壊など、こういうロマンチックラブイデオロギーによる核家族形成の歴史的基盤はあっても、それが、解体しないかというのは別の話。女性の権利拡張と経済的自立や中産階級の形成、リベラリズムの浸透によって、核家族のような最小単位のものでも、共同体が破壊され崩壊していくのは、近代都市社会の分業をベースにする個への分断という意味では、どれも同じなのです。が、その「現れ方が歴史的社会的条件で違う」と言っているだけなので。西洋にしても東洋にしても(なんという大雑把な区分けか!)、どっちにせよ、資本制が浸透して近代成熟社会になっていけば、同じ機能的なるものに支配されていくと思うのです。資本制社会が人類のほぼ共通のフォーマットになりつつあり、それ以外のオルタナティヴ選択肢は、どうもいまのところ見えないんだから、そう考えてもいいんじゃないかなーと思います。まぁ、少なくとも、僕が生きている間には、それを以外の社会が、ユートピアが出現することはなさそうです。・・・ほんとはネットの世界には、異世界が形成される可能性は高いので、、、、ってその話はまた今度。


まぁちなみに、そういうリゲインですが、外に子供説(笑)が作中で大いに盛り上がっていますが、基本的には、その程度のことではゆらがないんですよね、この二人の愛は。それは、酸いも甘いを噛み分けている長年の夫婦の歴史と相互理解と、あの年齢(も50台近い?)になってもお互いへのキラキラ感(=愛の唯一性を重視する絶対性)が維持されていることを考えると、そんな軽いことでは揺らぎません。揺らぐように見えないもん。色いろあるとは思うけどさ―男女だから(苦笑)。


話がずれた、、、また盛大に、、、話。を戻すと、、、、とはいえ、僕は、1970年代に生まれた、日本社会が世界の最先進国、ストックでまわる豊かな成熟都市社会に育った子供です。いろいろ問題はあるし、未来もそんなに明るいものではないとはいえ、それだけの成熟社会でリベラリズムが行きついて、ロマンチックラブイデオロギーに支えられた核家族が完全に成立した、言い換えれば、古き形の村共同体や伝統的な大家族や一族が解体され、さらに90年代以降は会社共同体も信用できなくなる流動性の高いこの人間がバラバラに孤独で生きる社会に生きています。

それが、僕らが生きるいまであり日常なんです。

人類の最先端先進国である、西ヨーロッパ、北米、日本の3地域は、資本主義が浸透し、議会制民主主義を経て150年以上たつ、、ストックでまわる後期資本制を基盤とする成熟社会です。それは、見方を変えると、リベラリズム(=入れ替え可能性)が行きついた、誰もが等分に無価値な、真っ白な社会です。虐げられて個人の権利がなかった時代は、リベラリズムによる個の解放と、個人の自立は意味があるイデオロギーでした。いまもまだ世界は十分に不平等で、このリベラリズムイデオロギーはとても価値のあるものです。けれども、じゃあ、それがいいことだけなのか?というと、いきつくと凄い問題があるものであることもわかっています。マルクスではないですが、個人を成立させると共同体のブランケットが奪われ、人は疎外(=アリエネーション)されていきます。また人に迷惑をかけなければ!という言葉にあるように、徹底的な自己責任(=これも現実社会では成立しにくい純粋概念です)によって、絆や紐帯を奪われます。そして、過去の古い意味でのビルトインされた村共同体の自明性に支えられるような「絆」はもうありません。流動性にさらされた再帰的な絆しかありえない。まぁ、なんにせよ、なんでも完璧ってイデオロギーはないもんで、「生きていく」ってのは、何を選んでも問題だらけなんで、血反吐を吐きながらそれでも空を飛ぶ鳥のように飛ぶしかないのかもしれません(byナウシカ)。



とはいえ、では、



「ここ」で生きていくうえで、どんな振る舞いや、どんなあり方が、良いのか?って



いいのか?ってのは、どういうことをすれば、自分が幸せになれるのか?って問いが重要です。



これを、中学の頃から高校の頃にかけて、ペトロニウス少年は悩んでいました(笑)。ちなみに、ペトロニウス少年は、少女マンガをずっと愛する少年でしたので、ロマンチックな恋愛をずっと、夢想していて、、、運命の女の子が空から降ってくるものだと信じていました(笑)。というか、降るってくるわけではないけど、もしかしたら、相思相愛の好きな子ができるなんていう奇跡みたいなことがあるかもしれない!(←この辺が乙女モードです)と、ドキドキしていました(笑)。けれども、そこは何でも深く無駄にネガティヴに考えるペトロニウス少年は、数々の物語や、現実の話を収集したり、その思索の結果、


その時に、ずっと注目してのは、、、というか当時はそんな分析的に考えていたわけではありませんが、後から振り返ると、この問題に重要なヒントと示唆を与え続けてくれたのは、少女マンガとエロ漫画でした(笑)。なんて、両極端な(苦笑)。



このことの代表例は、ずーーーっと昔に書いた吉住渉さんの『ママレードボーイ』に関する話です。

http://ameblo.jp/petronius/entry-10022131582.html

http://ameblo.jp/petronius/entry-10001816233.html

ママレード・ボーイ 完全版 1 (集英社ガールズコミックス)

前にも書いたけれども、とりわけ『ママレードボーイ』の家庭環境が、凄い複雑なのが、とても興味深かったと書いた。というのは、以下があらすじ なんですが、、、、

>主人公の小石川光希は、ある日突然両親から笑顔で「私たちは離婚することにしたの。」と告げられる。何か怪しいと思った光希が問い質すと、ハワイ旅行に行った際に松浦と言う夫婦に出会い、母親がその夫と、父親がその妻と恋に落ち、ちょうどいいからお互い伴侶を交換しようとなったと言うのだ。今度その松浦夫婦と話し合いをすることになっていることを告げられた光希は何とか離婚を止めさせようと一緒についていくことに。だが結局、離婚再婚は食い止められず、新松浦夫婦と新小石川夫婦のそれぞれの子供、光希と遊を含めた6人の奇妙な同居生活が始まる。


どうです?(笑)。おかしいでしょう?。まぁ実はこのパートナー交換には、複雑な背景があってことだというのが後で明かされるのですが・・。僕は、りぼんのような低年齢層の女の子向けの雑誌に、さも当たり前のようにこういった複雑な家庭環境が載ることが、すげーなーと驚きでした。こういう複雑な関係性を書く人は、たぶん低年齢向けでは飽き足らなくなって、もう少し大人の世界に目が行くのではないかなーと思っていたのですが、今回は、かなり年齢層が上な『コーラス』で中篇を書いて、このたびクイーンズコミックスで出たので買った見ました。中篇が、2つ載っているのですが・・・・表題作の『チェリッシュ』は、やっぱり複雑な家庭環境が好きなようで(笑)、シングルマザーの母親が死んで、その同居相手で親友だったゲイの青年に引き取られた女の子の話です。その後、彼女の義理の父親は、ゲイなんで、男性と結婚して・・・・彼女には父親が二人いるという状態なんです。アメリカならばありえる可能性大ですが・・・日本では、ありえないでしょうねぇ、、まだ。そこで主人公の千紘(ちひろ)が、高校生の時に好きになった男の子が、「生理的に受けつけない」との手紙を残してふられてしまい、家族と彼氏とどっちが大事かという選択を迫られるという話です。・・・・・・・けど、ザンネン。つまらなかった。中篇で物語を上手く構築できていないというのもあるけれども、たぶん本質はそんなことじゃない。

チェリッシュ (クイーンズコミックスDIGITAL)

ママレードボーイ』の凄かったところは、そして僕が凄い好きだ!って思った部分は、パートナーを交換しちゃうような常識に反することをして、しかも親族から大バッシングを受けても、平気で(平気でなくとも実力で)まったく怯まない、あっけらかんとした人生の肯定をする光希の両親の態度だった。

その強い確信。大事なものを見失わないで、常識に反することでも、あまり苦もなく平然と貫いてしまうナチュラルな部分に、とっても感銘を受けたのだ。


が・・・・チェリッシュは、たしかにゲイの両親を持ったら世間の目が厳しかろうし、いろいろ拒否する人もいるだろうけれども、そういうのはよくある話だ。そこに恋愛モノとして新しいものも強い感情も存在しない。だから、あまり面白くなかったなぁ。吉住渉さんの画風は、さっぱりしていて繊細だけれども、どこかスカスカ感があるのだが、そのスカスカ感が、『ママレードボーイ』の光希の両親や、『ハンサムな彼女』の熊谷一哉のようなクールでさっぱりわりきった人格が見る世界観をテンポよく表現できていたと思う。

ハンサムな彼女 1 (集英社文庫―コミック版)


ここで僕が見ている視点は、少女マンガという『恋愛=ロマンチックラブイデオロギー』を唱道する媒体の関係性のモデルの変遷を注目していたってことなんだって今を思い返すとわかります。だから、僕の恋愛観や家族簡易衝撃を与えた本のひとつは、『THE BBB』です。

THE B.B.B. 1 (フラワーコミックス)

この分野が『THE BBB』のようなカリフォルニアで重婚!!(男二人と女の子一人の結婚で、ちなみに男同士もゲイのカップル(苦笑))などの多人数の愛や、BL(ボーイズラブ)やゲイの話にジャンルが展開していったのは当然のことだろうと思うし、僕は非常にノンケでつまらない人間なんですが(そこはがっかり、、、、)運よく、僕にとっての神様であった栗本薫中島梓さんがBLの創始者にあたる人で、この分野の神だったので、この人を理解するために小学校から中学期に、全力でBLの黎明期を読み漁った(なんでそんなことしてたんだろうねぇ、、、我ながら・・・・(笑))ので、偏見がほぼなくなってしまったというのが大きいと思う。ほんとに数百冊は読んでいると思うし、調べまくっていた(爆)。だから、少なくとも物語において、僕にはこういうN×Nの関係性やゲイやレズビアンなどの関係性は、ほぼ自明であって何の違和感もない。少なくとも物語の世界や頭の中のイメージでは。これは、僕の性的な好みが、あまりにストレート真ん中なのを考えると、なかなかに珍しい人だと思う。


僕にとって、最も美しい恋愛は?という質問を自分い投げかけると、栗本薫の『終わりのないラブソング』の二葉と竜一が真っ先に上がってくる(笑)。


もう栗本薫がBLなのかとかは、よくわかりません。最先端のBLとかを読んでいるわけでもないし、相当かわってしまっていると思いますので。けど、僕にとって、恋愛=ロマンチックッラブの基礎モデルになるのが、この話なんです(笑)。

終わりのないラブソング〈2〉 (角川文庫―スニーカー文庫)


僕は恋愛を常にこう考えているし、彼らの愛の在り方が、僕にとっての理想の一つになっています(笑)(←ほんとかよっ)。・・・・・いま書いてて、ビックリ、、、僕の恋愛感の基礎って、おわらぶとか『翼あるもの』とか『真夜中の天使』だ、、、、。つーことは、ボーイズラブ(笑)。

真夜中の天使1: 1

というか、恋愛を、一つの精神のパワーゲームで捉える傾向が強いのは、栗本薫の恋愛感によるものだろうなぁ、と思う。あっとですね、恋愛をパワーゲームとしてとらえるのは、栗本薫の恋愛世界の一つの特徴と僕は思っていてそういった、精神のパワーゲームのバランスがとれてい時だけが、ほぼありえない、本当の愛で、、、、って、要は本当の愛、


お互いが対等で本質を認め合っているような状況は、ほとんどありえないことである、という前提


が僕にはあるってことですねー。この精神のパワーゲームの話、、、これって、要は僕がずっと言っている、恋愛における「つくるもの」と「つくられるもの」の逆転劇の話ですね。話すと長くなりすぎるので、この話は割愛。ちなみに、栗本薫を除けばこのテーマに敏感なのは、吉田秋生さんですね。二人が、結構仲好さそうだったのも、よくわかります。。。価値観一緒だもん。ちなみに「つくられるもの」と「つくるもの」の葛藤の物語として吉田さんの作品は、なんといっても『BANANA FISH』ですね。

屍姫』 赤人義一著 『「つくられるもの」と「つくるもの」の葛藤の物語をどこまで追いつめられるだろうか?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20090828/p2

TURN 6 『太平洋 奇襲 作戦』 〜つくるモノとつくられるもの、守るものと守られるものの葛藤のドラマツゥルギー2
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080512/p3

GUNSLINGER GIRL』 相田裕著 静謐なる残酷から希望への物語(1)
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130103/p1

GUNSLINGER GIRL』 相田裕著 静謐なる残酷から希望への物語(2)〜非日常から日常へ・次世代の物語である『バーサスアンダースロー』へ
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130104/p1


えっとねー話を戻すと、少女マンガってのは、ロマンチックラブイデオロギーの、内面深化と、それにおける関係性のモデルケースを提供していたんだろうと僕はおもっています。関係性のモデルケースとは?要は、誰を好きになってもありなんだよ!という話です。ロマンチックラブイデオロギーは、リベラリズムの展開と同じ力学で動いている双子みたいなもので、ようは、n×nの変数であるnは、何を挿入してもいいんだということを示していたんだろうと思います。少女マンガを見ると、大きなテーマの一つに教師との恋愛ものがあります。僕は、上田美和さんの『Oh! my ダーリン』が好きでしたねー。教師ものだと、真っ先のこれが思い浮かびます。

Oh! my ダーリン (5) <完> (講談社漫画文庫 う 4-5)

これって、ようは、誰を好きになっても、いいんだとモデルケースをいろいろなパターンで、シミュレーションしてくれているわけですよ。教師って聖職幻想がありますし、いってみれば権力の上位者ですがそれへのタブー破りと逆転劇の構造なんですが、こういう風に、常識や社会慣行上ありえない関係性をいっぱい場合分けしてみせるのが、恋愛の物語における、おもしろさです。それはもうありとあらゆるバリエーションがあるのは、わかると思います。もちろん、この派生として、男同士や女同士や、多人数など、さまざまな形に展開していきます(笑)。これを読むと、ああ、何でも有なんだな、恋愛って、ておもうだろうなー(笑)って僕はいつも思うのですよ。


そういうのをずっと、少女マンガを読んでとレーニングしていた気がします(笑)。


・・・・・具体的処方箋に辿り着かない(苦笑)。


ながくなったので、次へたぶん続きます。・・・・まだ続くのかよ(苦笑)