ラスボスのいなくなった世界では、日常が続いていく関係性の物語へと変化する


この魔王と勇者の存在は、1986年に最初に発売されたファミリーコンピュータ用のゲームソフト『ドラゴンクエスト』が大人気となったあたりから、ファンタジー系ゲームや小説などにおいて多用されるようになったと思われる。勇者は戦士と賢者の要素をバランスよく織り交ぜるとともに、他者が得がたい特別な能力なども持ちあわせた物語の主人公であり、魔王は主人公の勇者が倒すべき最終目標、いわゆる“ラスボス”として君臨する。この図式は、今や説明の必要がないほどに浸透していると言っていいだろう。

ところが、近頃はその不文律が狂い始めているようである。特にライトノベルの世界では、魔王や勇者が庶民化された作品が人気となっている状況だ。


庶民化が進む? 最近の魔王や勇者たち
http://ddnavi.com/news/141406/

これって、僕がいつも言っている善悪二元論の超克ラスボスのいなくなった世界というものの具体的な展開版だよね。この記事書いた人いいところついているなーと思いました。ここって、注目すべきポイントなんだと思うよ。


僕は、このアニメは見ていないんだけれども、ちーちゃんのかわいさを主張するtwitterが何度も流れてきているんだよねータイムラインに。見ようかなーと思うけど、いまの僕の日常のタスクだと、もう精一杯なんだよなー。ウテナ見るのもギリギリだし。と、佐々木俊尚さんの毎朝キュレーターを眺めていたら、下記の記事を見つけた。

この作品を面白いと思う為には、勇者と魔王がそれぞれ持っている感情を理解し、面白いと思うほどにそれらの世界観を共有していて、そして日常的に彼らマックのアルバイトでの仕事が想起できるくらいに日常的にマックに行く生活スタイルを取っている、そういう二つの価値観を前提背景として持つくらいに、これの分類に染まった人たち そういうセグメント、そう、結局このアニメは最下層を主たる対象としたアニメである。

そう、どこかの会社の会長がいうように、ネットの向こう側にぶらさがっている最下層の人間がこの作品の視聴者して想定されている対象だ。


半径50メートルの世界に安寧する最下層の人たち
http://d.hatena.ne.jp/tokunoriben/20130530/1369929868


僕の視点とは違うけれども面白いなーこの文脈は、と思って読んでいたんだけれども、よく考えると同じことなのかもしれない。


なぜならば、魔王や勇者というのは、英雄の世界。


もう一つ下って近代的な洗礼を受けても、『まおゆう』のメイド姉のように、個人が英雄たろうとする発想。

まおゆう魔王勇者 1「この我のものとなれ、勇者よ」「断る!」

けれども、ラスボスを倒すのをあきらめてシステムの奴隷となった最下層の人々は、「現状に満足(=英雄を目指さない)」する生き方を選ぶことによって、日常を謳歌するという方向性を選択しつつある。というか、英雄を目指すことの苦しさが、その凄まじいモチヴェーションモンスター的な人生が、器の無い人気にとって人生を棄損するだけで、かつほとんどの人々は英雄になれない事実から、そういうトレンドを生み出している。


資本主義社会は、消費する大衆をつくりだすことによって動的な安定を得ている社会なので、「消費者」として、ただ受け身で消費するだけでもシステムの必要要因として、それなりに保護される。もちろん、システム、世界のマクロ構造に翻弄される奴隷であることには違いないが、人権思想と資本主義思想(=モノを買う消費者が必要な社会)が浸透している現代では、時折生贄に捧げられる層が出ても、おおむね悪くないと、社会の大多数は判断してしまう。


だから、このシステムの奴隷である自分を無視して、英雄たろうとして仕組みを変えようと戦う苦しさを目指さず(だって、ラスボスはいないんだもの、何が正しきことかはわからないのだ!)と無目的に生きても、まあ、それでいいじゃないか、という方向性は、、、、


日常を満足して生きる


という、現状のトレンドと、これまでの考察に行きついた果ての一つの仮説としては魅力的なイメージだ。ふとそんなこと思った。なぜならば、なろうの異世界ファンタジーも、これまでの英雄譚の解体の物語のトレンドも、ラスボスがいないことを実感していく物語類型も、すべての類型を抽象化すると、作る側にまわろう、責任をとる側にまわろう、英雄を目指そう、動機を鍛えようということを解体していく過程を描いている物語であったと、ひとまとめにできる感じがするのだ。

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解体することの過程の行きつく果てが、日常に埋没して生きることだ。これは、いい悪いの両方で評価できるので、単純に言えることではないと思う。しかし、必然ではあると思う。ここでいうように、悪く言えば最下層の人々の馴致になって自尊心を崩壊、慰撫して衆愚に貶めるいる側面はまさにだろうし、しかし同時に、僕がいってきた側面では今まで無視されていた人々に権利と自由と尊厳がもたらされたプロセスでもあるんだよねー。これが同時なので、なかなか難しい。



さて、なぜそうなったのか?



1990−2010年の20年間を、僕は「失われた20年だ」だといま感じています。何が失われたかというと、世界とのアクセス、だと思っています。


日本社会はムラ社会かしやすい共同体化の権化のような社会なので、世界とのアクセスが失われると、急速に内向きになって、ムラ社会同士による「万人の万人により闘争」状態になります。これは「ひたすらに内ゲバで殺しあう下剋上的戦国社会」か「何一つ自由がないロールに押し込められた徳川期社会」のような極端な社会になりやすい。侵略を受けにくい地政学的的条件ある日本は、極端に走るんでしょうねぇ。

日本近世の起源―戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ (洋泉社MC新書)
日本近世の起源―戦国乱世から徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へ (洋泉社MC新書)

「日本史」の終わり 変わる世界、変われない日本人

ではなぜ、全世界が、極端な人口爆発によって全球化(=グローバリゼーション)していく過程で、日本だけがそこに乗り遅れて取り残されたのか?というと、実は、必ずしもマイナスではなく、日本の規模が当時世界第2位の経済規模があり、そこのバブルが崩壊を起こして(=このタイプの崩壊は人類史上初めての出来事だと思う)その内需のケアに20年間日本人は注力しすぎたんだろうと思う。なので、それは、間違ったこととは言えないと思う。韓国や東南アジア諸国を見るといいと思うが、内需の規模がそこまでない国は、徹底的にグローバリゼーションに、いいかえれば、世界の変化に自国を磨り潰してでも適応しなければ生きていけなかったから、やるしかなかった。また、日本社会には、世界に対してGNP世界第2位の経済規模をソフトランディングする(できたかはどうかは疑問だが)義務もあったしね。その後、アメリカのリーマンショックやいまの欧州のソブリン危機は、日本の経験のバブル崩壊のをとてもよく生かしていると思う。こういうのは、フロントランナーの義務であり責務なので、単純に良かった悪かったはないと思う。この失われた20年があったればこそ、日本の負が一気に噴き出して、様々に見えたもの、それに適応すべく経験が積まれたはずだ。人類は、歴史は続いていくのだから、万事塞翁が馬で、何が良きことか悪きことかは、わからないものだ。僕らはただ信じればいい。「僕ら」がそんなにバカじゃない、と。だってねぇ、歴史が証明しているもん。日本を悲観する必要性は、まったくないと僕は思う。


とはいえ、この20年間、世界への適応を日本は完全に無視してガラパゴス化して生きてきました(苦笑)。このことは、上記でいったように、長期のトレンドでは良くも悪くも言えないと僕は思います。日本が最も極端にガラパゴス化して、司馬遼太郎がいうところの奇形化したのは「徳川期の300年の鎖国」でした。けれども、悪く言えば、日本人の悪い特徴のすべての原因はここにあるといっても過言ではないくらい、ロールの固定化した抑圧的で閉鎖的なムラ社会であって、、、明治維新のころにそのつけを日本人払わされて、悲惨な目にあいました。

覇王の家〈上〉 (新潮文庫)

『覇王の家』 司馬遼太郎著 徳川300年の安定社会をつくった三河武士集団を通しての日本人とは何かという評論
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20081123/p1

・・・・が、じゃあ、良かった点は?と問えば、日本の最も素晴らしいところ、偉大な文化、さまざまな美質や歴史的ヘリテージは、、、特に「そのオリジナル性」は、ここで涵養されました。渡辺京二の『逝きし日の面影』での当時の最先進国のエリート外交官たちの外国人の嫉妬と羨望のまなざしを見ても、それが、素晴らしく価値が高い「オリジナル性」でありクリエイティヴネスであることは疑いようもないと思います。その後の、日本の人類の歴史への爆発的な影響力も含めてね。なので、ぼくは、そんな50年単位のことでガタガタ、いい悪いといっても仕方があるまいって思うようになってきました。いいか悪いかは、「いま」においてであって、それは、その時の評価です。

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)


重要なのは、「蓄積」。どれだけ試行錯誤されたか?だと思います。日本のガラパゴス化は、特殊文脈で行動に集中して試行錯誤していることなので、それは世界のグローバルスタンダードではありえないようなクリエイティヴネスの文脈を世界に提供すると思います。なので、良い悪いは相対的。


・・・ですが、20年分の世界の変化へのアクセスを失った分は、おもいっきり、その「つけ」は払わされるのも、また事実ですよねー(苦笑)。


これからのフェイズは、この「つけ」を、再適応は、先に進んでしまった全球化(=グローバリゼーション)に日本社会が追いつかねばならない時期です。明治維新もなんでも、日本は内にこもってガラパゴス化しては、外圧(=外部の変化の影響)で急速に身をひるがえすのは、もう日本史の基本構造みたいなもんですね。自分が事業を担当していても、いや、まーうん、、、それを感じますよ。2010年を過ぎたごろに、一つのステージが変わって、日本がついに外に目を向け始めた(=というか逃げ切れなくなった(苦笑))感じがしますね。自分も、本当に、いまグローバル化のために、死ぬほど逃げていた勉強やなどで、追い詰められているのを感じます。武士から明治維新みたいなもんで、ここで振り落されて人は、抹殺されて人生を失うだけなんでしょうねーそういう意味では、生き抜くには怖い変化の時期です。まぁ、60−80年ぐらい生きていれば、これくらいの変動は1回や2回は受けるのが現代ですから、まぁ呪っても仕方がないですね。WW2のような戦争がないだけ、全然ましだよ、と思わないと。まっいまは、大きな時代の潮目が、日本社会で超えたんだろうと思います。でも、大丈夫。追いつくことは十分可能。どう考えてもそれだけの蓄積がある国なんだもの。規模もね。

世界は急速に拡張し進化し続けている。

Googleの検索ボックスの向こうには未だかつて無い人類の叡智が広がり、

FacebookTwitterのネットワークの向こう側には世界中の十数億人といつでも自由にコンタクトができる世界が広がり

iIphoneの端末の向こう側には、新しい無限のライフスタイルが広がっている。

上記の文脈でいうと、全球化(=グローバリゼーション)のトレンドは、この世界の急速な拡張と変化だろう。


ビックリするほど速いスピードで人類が変わっていく。いや、ほんと、目もまわるほどすごいよ。こんな時代に生まれて、僕は幸せだなーと思ういます。面白くて仕方がない。サバイブするのは、大変だけどね(苦笑)。でも、ネガティヴになっあら、不安に押しつぶされて動けなくなるだけなんで、そういうのは無駄なので考えない。ほんとうに。まぁよく考えると、親の世代は高度成長、祖父母の世代はWW2と敗戦、その前になると明治維新とか、、、、まぁ、苦しくない世代なんかないわな!と思いますけどね。


この上記のブログの記事では、日本の最下層のネット住民が、ここから振り落とされているというイメージで描かれているけれども、何もそう二極分化に描く必要はないと思うよなー。「振り落とされる人」は常にいます。それをどうすべきか?どう思うか?は、また別の話。いつの時代にも。マクロのトレンドでは、全員がそうなったらダメだけど、ちゃんとこの変化についていく人もいれば、新しい世代は適応していくものです。社会のシステムが壊れてさえなければ。だから、振り落とされないで、この変化を嬉々として捉えたり、僕のようについていくのはしんどいけど、生きていくには仕方がないし、まーがんばろうってする人もたくさんいるでしょう。なんといっても1億を超える人間がいる国ですから。僕はマイナスを捉えるだけじゃーない方がいいなーと思う。性格的に。重要なのはボリュームゾーンがどこか?ってことだと思うよ。政治運営ではそれではいけないのかもしれないが、歴史と事実はそこを見るしかないんだもの。だって主軸のマクロトレンドを見る以外に、どんな方法がある?、特に一個人にはさ?。いまはラスボスがいない時代なので、誰かのせいでそうなったわけじゃない。それは歴史の大きな動きだもの。


・・・・魔王も勇者も、最下層のマックの店員的な生き方をしているかもしれないけれども、けどさ、英雄であった時にはわからなかった、恋や人間としての、小さな正しさやそういうものを、魔王や勇者は見つめていないかな?。マクロを支配するためには、殺し合いを続けていなければいけなかったことで目をつむっていた矛盾をもう一度見つめ直したり、敵を敵としてしかみれなかった善悪二元論を超える見方を経験しつつないかな?。これで終わりじゃないんだもの。彼らが、「これ」を蓄積として、次に行けばいけばいいじゃないか・・・・というか、時は過ぎ去るんだよ。確実に、時は変化して、いまを変えて知ってしまうんだもん。変化が嫌いで、いまここの既得権益を守るとしたり、生きていくことのしんどさを引き受けなくなったら、そりゃー磨り潰されても、まぁしたがないけどねー。それは、もうなんというか、人が判断することではなく、人類ってそうやってきたんだもの。マクロの部分は、人の気持ちや倫理では動かないし、政府や国や誰かやラスボスは、そんなことはしてくれないのは当たり前だしね。国やラスボスだって、誰かが責任とってなろうとしない限り、ないものなんだから。自分がリーダーシップをとって、それになろうという意識で生きなければ、まぁぁ、、、ねぇ。


とかとか思ったのでした。相変わらず何が言いたいのか意味不明の文章だ。。。。


ちなみに、『はたらく魔王さま!』の記事じゃないね、これ(苦笑)。アニメは少ししか見ていないけれども、この作品、好きですー♪


はたらく魔王さま!(1) (電撃コミックス)