『半東一利と宮崎駿の腰抜け愛国談義』 

半藤一利と宮崎駿の 腰ぬけ愛国談義 (文春ジブリ文庫)

風立ちぬ』というのは、昭和を振り返るというか歴史を見ている物語なので、そこへの入り口は無数にあると思うんだけれども、こういう経験者で、、昭和のあの古き日本の香りを受け継ぐ人の会話は、とても楽しい。たぶん日本文学や歴史が好きな人にはとてもたまらない本だろうと思う。宮崎駿というのは不思議な人で、趣味がえらい古臭いというか、古き文学のかほりみたいな、あの辺の匂いがとてもするんだよね、この人のエッセイを読むと。対象としているアニメ市場の人の日常にはない感じなんだよね。なんかこのギャップいつもいいなーと思っています。


ちなみにこの本で、とても印象に残ったのは、宮崎駿さんの父親や祖父の時代を描きたかった、、、というくだりで、というのは、世界大恐慌なんて言っても、1930年代の日本は近代最高の到達地点まで反映していた時代で、あと海軍軍縮交渉のために鉄が余って、その余った鉄を使ってのものすごいインフラストラクチャーが整備された時代で、、、あの時代の日本は、本当に良かった、楽しかった、というあの時代を生きた人の感想が残っていて、、、そういえば、僕、祖父も似たようなことを言っていたっけ、、、戦後の我々の視点からすると、1930年代から1940年代って、生き地獄のような腐った人い時代のように見えるけれども、彼らが生きた日常はそんな単純じゃなかった、というのは、まさにおっしゃる通りで、宮崎さんが単純に戦争の話とか『火垂るの墓』みたいなものの再現をしたくなかった、、、そうではないものを描きたかった、、、というようなことをかいているのは、凄くよくわかる理路だと思った。


というのは、LDさんの悪の系譜の話で戦後日本のエンターテイメントの話を聞いた結果、絶対悪、純粋悪を求めていった結果、その問答自体には袋小路になっていった、、、という話を昨日聞いたが、これは僕の善悪二元論の話で、究極のハルマゲドン、、、純粋善と純粋悪がぶつかる話になると話が止まって、そこを超えられなくなるという話と同じことで、そうなった時に、結局は、そういった究極の二元思考自体がお払い箱になり、、、日常がグレーなまま良くも悪くも続いていくことを肯定して、生きることの肯定となっていくとなる、、、とこのロジックの分析を続けている物語三昧は、語ってきたんですが、、、ここでいっている、昭和モダニズムの頃の日本社会って、そういう部分もあったし、人の生活って、基本はそこだよなって感じがしたので、なるほどなーと思いました。このへんは、『風立ちぬ』ラジオを、海燕さんとLDさんと、近々するので、その時に是非。


ああ、半東さんの昭和史を読みたいなーーと思いつつ、、、中々時間が取れない。もう手元にはあるので読むのは間違いないんだが。。。。せっかくだから、ゆっくり読みたいと思いつつ、、、

昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー)