『ヒミズ』 (2012年 日本) 園子温監督 (2) スラムに生きる幸せを描く方が、正しい道なのではないか?

ヒミズ コレクターズ・エディション [DVD]

評価:★★★★★星5つ
(僕的主観:★★★★4つ)


■「いま」を、我々はどう受け止めるべきなのか?〜1990から2010年までの失われた20年の先に何が見えるのか?


ヒミズ』 (2012年 日本) 園子温監督 (1) 坂の上の雲として目指した、その雲の先にいる我々は何を目指すのか?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130419/p1


続きです。前回の(1)は、ある意味とても古い話です。90年代から00年代までの20年間ぐらいの完全に高度成長とバブルが終わって、日本社会が時代のフェイズの大きな端境期であった時の話です。その時支配したテーマというのは、核家族の解体による承認の消失。そのことによるアノミーが社会に広く共有され、生きる自尊心が失われていったこと。そしてそれは、高度成長期が終了して緩やかな低成長時代に入ったすべての先進国での、中間所得層の成熟化、新興国への富の移転による衰弱化という、人類共通の問題であるようです。そしてこの事実は、2010年代の入って、既にもう半ば常識というか、特に目新しくもなく「通常の状態」であるという認識になってきました。決して、悲観して嘆くほど、特別な悲劇ではなく、淡々と受け入れるしかない端的な事実であるということが、実感されてきているのだろうと思います。なので、もう特別にフォーカスるすることでもなく、ああ、そういうことだねとみんな自明していることなので、いまさらことさらにあげつらう時期ではない感じがします。故に、(1)の記事は、「これまで」の話でした。しかし、ここで次に当然に問われるのは、その次はなんなのか?つまり、


この「いま」を、我々はどう受け止めるべきなのか?、ということだろうと思います。


この作品に関する評価というのは、「いま」をどう位置づけるか?ということのような気がします。これにはアメリカ、日本的な文脈もあり、それらの端境期のメモリアルとなる分岐点をどこに置くかは既に決まっています。アメリカ社会であれば、911、セプテンバーイレブンです。日本であれば、311、FUKUSHIMAです。・・・・西ヨーロッパはどこになるのだろう・・・・。正直な話、これをどう位置づけるか?は、まだ僕の中では消化し切れていない大きな課題なので、この記事で自分の結論は出せません。ただし、ヒントになるであろう「感覚」はいくつか掴んでいる気がします。


この『ヒミズ』の映画では、希望というのが重要なポイントとなっている。基本的に、90−10年までの20年は、ほとんどこういう問われ方はされてこなかった。少し前に発表された古谷実さんの漫画版の『ヒミズ』を見ると、前回LDさんがいっていたカンダタの糸でほとんどの人は救われるはずだが、理論上最後の1%の救われない層が想定されて、、、という話を僕のブログを読んでいる人は覚えていると思うが、まさに、その層をストレートに主要共感ターゲット層として想定したのが漫画版で、一言でいえば、世界は不条理に満ち、意味はなく、絶望しかない、という世界認識だ。テレビ版の『新世紀エヴァンゲリオン』も同じことを語っていたと思う。それが、この時の広汎に共有されていた意識だったんだろうと思います。


ところが、ここへきて、希望というキーワードをよく聞くようになった。「希望」と関連して、よく言われるようになってのは「絆」という言葉だ。これらのキーワードは関連しているのだろうと思う。これはなんなのか?を考えることが、「次の時代」を考えることなんだろうと思います。


これは、要はアノミー的にバラバラになった個人を再度、結び付けるボンド(=接着剤)をどこかに見出したいという、バラバラになって孤独に打ちひしがれている個人が共同体の再形成を希求する反動意識なんだろうと思う。

高度成長の後の低成長時代の閉塞感において、キラキラした未来(=倍加する所得を背景にする高度成長)はもうないことの絶望が、しかしそうはいっても既に物質的には豊かになっている事実性が、ある種の「終わりなき日常」といった感覚を生み出していました。この時代にずっと要求されたのは「終わらない」言い換えれば「終わってほしい」という終末への要求でした。「終わってほしい」が言い過ぎならば、なにか、強烈な変化を人々は欲していました。しかし日本的文脈で言えば、阪神大震災東日本大震災福島原発など、大規模災害が我々に降りかかって、この世界の終わりのような出来事を体験しても、それでも世界は何一つ終わりませんでした。それは、きっとアメリカ的な文脈の911でもアフガン戦争でも同じだったと思います。大きなマクロの出来事は、北斗の拳的な終末的状況の出現による一時的な絆の復興を感じさせる(=実際はそんなものはない)のは、よく言われるますが、それ自体もすぐに風化して流れていってしまうのを、私たちはすでに知っています。園子温監督の自作の『希望の国』は、どこまでも変わりはしない日本社会の終わらなさに、変わらなさに、強い苛立ちを怒りが叩きつけられています。どんな大きな出来事も、人間の営みを終わらせることは、既にできないのです。

希望の国(Blu-ray)


■家族は常に壊れて行き、新しい形での絆が再構築され続けているのが我々の世界


この希望と絆という言葉に最近僕が感じるのは、円環の輪です。


というのは、最近、僕は、小津安二郎監督の『東京物語』と黒澤明監督の『素晴らしき日曜日』という映画をこの園子音監督の『ヒミズ』『希望の国』と同時期に見たんですが(超偶然ですが・・・)この古い日本映画の2作品の現在の我々が持つテーマあまりの類似性に驚いてしまいました。

簡単にいって、僕は『ヒミズ』の映画を、この主人公は、高度成長期がもう来ない社会で「当たり前の日常」を美化しすぎているために、逃げ道がなくなったというようなことを書きました。けれどもまったく同じような自尊心がない文脈で、『素晴らしき日曜日』の設定では、素晴らしく希望がキラキラ輝いて見えたんです。それは、同じ、男女のカップルがいて自尊心が壊れるような欠乏状態にいても、未来が信じられる(=実際にその後は高度成長が待っている)これほどに感じ方描き方見え方が違うんだという驚きでした。

もう一つの驚きは、『東京物語』です。この作品は、家族が壊れていく!様を描いた作品だ、と言われています。これって、戦争後、1953年に老夫婦が、広島の尾道から自分たちの子供たちを尋ねて東京に出てくるというお話でした。この話は、新しくできた子供たちの世代の「核家族」がそれぞれに成立していて、親のことを全く顧みなくなっているというお話でした。年をとった老夫婦が、その家族のつながりと、それらが失われていることに気づく喪失感を叙情性を持って描くのがこの作品のポイントです。ちょっと自分で見ていて驚きだったのは、僕は、ちょうど1990−2010年の20年間のテーマが、核家族の崩壊だ!ということと、次はその崩壊した個人がもう一度家族の絆を再構築する(=ボンドを探す)といういっていたからでした。そうです。日本を代表する映画監督の小津安二郎の『東京物語』が、高度成長直前の日本社会の重要なモチーフが、まったく同じ家族の崩壊だったんです。

東京物語 [DVD] 日本名作映画集05 素晴らしき日曜日

ここから僕が強く感慨を持ったのは、そうか、人間というのは、いつも同じことをしているんだなというサークル・円環のような既視感でした。もう少し細かく解説すれば、高度成長というマクロ的な動員の差異変数によって、その変数にリンクして関係性の絆・ボンドは崩壊をして再構築されることを繰り返しているんだということです。これを映像ではありますが、僕は「実感」した感じがしました。何かがつながった感じがしたんです。

そしてこの後に強く僕を捉えた感慨は、なんだ家族の崩壊なんて言うことは、何もぜんぜん特別なことじゃないんだ!という、いまさらながらなことでした。もちろんのこと、家族の崩壊をスタート地点とする親の承認の消失から始まる、自尊心の喪失・動機の破壊なども、僕は団塊のJrの世代なのでこのあたりのルサンチマンは痛いほどわかるのですが、、、残念ながらなんら特権的でも特別でもない、普通の出来事だったんだ、という相対化でした。人は、自分を特別に思いたい生き物です。不条理、絶望、世界へのルサンチマン(=恨み)の正当性も、それが、特別に「あなただけ」に起きた出来事、「自分だけ」に起きた出来事であったればこそ、恨み節も強いシンパシーの要求となって意味を持ちます。けれども・・・・それが、何ら特別のことでなかったら?。はっきりいって、恨み言をいうのも恥ずかしい出来事なんですよね、、、、(苦笑)。だって、そんなのは、あらゆる時代の人間が、常に感じている、マクロの動員の変化にさらされた関係性のゲームの上下左右のゆさぶりにすぎないんだってことですから。僕は、これらの日本映画の落差と差異で、そのようなことを感じました。もちろん、その時を生きる僕らが、それでなくなわけでもないし、その絶望がどれほど深いかは、この時代を生きている人間としてよくわかります。しかし、「次」を考える時に、次の世代の人間にとっては、そういった絶望は、既にあまり共有できないものなんです。



■住田君がいう普通の日常は既に日本にはないのではないか?

僕はこの映画を見ている時にずっとおもっていたのは、住田君が勘違いしているじゃないのか、という違和感だった。もう既に日本には、普通や日常はないんだ、いいかえれば、「あるべき家族像」なんて言う「きれいな像」はもうないのに、、、それなのに、無理にそういうの像を追い求めて無理に苦しんでいるように見えたんです。

先ほど言ったように、僕はこれをして、もう家族は壊れてしまったという「絶望」を言いたいわけではありません。なぜなばら、いつの時代も大きなマクロの変動要因にリンクして家族は、関係性は動揺し続け壊れ続けていくものなんですよ。高度成長期という特別に大きな時代の端境期には、そのギャップや動揺はとても大きなものになりましたが、決して極端におかしな話ではなかったのです。だって、我々の祖父たちの時代は、第二次世界大戦があって、日本だけでも300万人は死んだ極端な時代だったんです。ずっと帝国が戦争をし続けている時代に日常と青春時代を送った人の人生はどんなものだったんでしょうか?。その祖父たちの祖父になれば、明治維新!に近代日本建国!ですよ(苦笑)。サムライから近代人になるのに、どれほどの葛藤と過去あった関係性や役割が崩壊したことでしょう。我々がすごしている現代が、特別に激しいわけではないんですよ、考えてみれば当たり前すぎる事実なんですが・・・・。なので、僕はこの家族の崩壊に関して、絶望という文脈をもう適用できません。


この映画の演出構成は、一人の少年がすべての希望を奪われて、社会から可能性を奪われて、追い詰められていくところにその肝があります。漫画版の脚本は、まさにそうでした。この映画も、家族が崩壊していく様をずっと追求して映像に描いている園子温監督らしい構成です。が、最後の最後で、その文脈に反して、主人公が自殺をしない。まだ生きていこうとするシーンが描かれます。これ、脚本構成上は、凄く変です。ただし、ここで、死んではおかしいという強いメッセージ性を感じます。この是非は、たぶんこの作品単体では、評価できない。僕はまだ結論が出ていません。というのは次作の『希望の国』で、徹底的に変わらない日本に絶望しているテーマを描いているのので、希望が「いったいどこにあるのか?」が描けていない気がするのです。文脈上、どこにも希望・出口が描かれていない。新しい作品にも。ならば、何をして、この主人公は生きる意志を持ったのかが、僕にはわかりません。いまのところ、とても不思議な感じがして、まだ僕の中では結論が出ていません。きっと、もう少し先の作品を見ていかないと、わからないと思います。


■日本的文脈でのスラムというのはどういうところなのか?〜暴力の連鎖という視点から北野武監督を見直したい!

さて、この『ヒミズ』という映画単体では、僕は、この結論に対してまだ評価できません。なので、ここから先は、僕自身がこの映画の持つ圧倒的な力によって感じたことです。あっと、ラストの構成の意味が分からないというだけで、この作品お映画的なパワーは素晴らしいと僕は思います。さまざまなインスピレーションを感じさせる映画的な体験でした。僕がこの作品を見ていて感じたのは、住田君、お前なんか期待しすぎじゃねぇの!ってことでした。これって、10年以上前のマンガを見た時には、強烈な共感を感じたので、時代の違いなんだろうなーと思います。というのは、(1)の記事で長々書いたんですが、上記の結論と合わせると、もうさーそんな日常なんて戻ってこないんだから、ぐだぐた絶望とか言ってねーで、あきらめちゃえよ!ってということでwす(苦笑)。こいつ現実認識できてねーなーって思ったんですよ。彼は「日常」に行きたくて、「非日常」を拒否しています。けど、もう日本社会は、「非日常」こそが日常なんだもの。それって、ないものねだりなんじゃないの?って僕は感じたわけです。


では、具体的に云って、その「非日常」ってなんなの?いいかえれば、僕らが生きている日常ってなんなの?って質問です。


「非日常」、、、これははっきりと、どういう世界かが指定できるけど、スラムに生きているんだ!という現実が理解できていないんだ、と僕は思いました。これキーワードだと思っています。スラムの定義とかまだイメージだけなので(笑)、あとで僕の持つイメージを次の項目で描きますが、まずは話を進めましょう。けど、何が言いたいかといえば、壊れてしまった「まま」で、生活がそのまま維持されてもいいじゃないか、という肯定感覚を付与してこの言葉を僕は使用しています。たとえば、住田君は、釣り堀を営んで生きていますが、、、、まぁこれで確かに日本の中産階級の生活を維持するのはできないでしょうが、生きていくのはできると思うんですよ。何も心を壊して、アパシー気味に生きなくても、楽しいことはいくらでもある。日本の中産階級が描くような、いい大学いって、いい会社いって、結婚して子供と一戸建ての家に住んで、とかそんなもうねえよーというような希少価値の高い無理目なロールの関係性を至上とするのはやめて、壊れたままでいいじゃないか、人間どんなに這いつくばっても、ご飯と睡眠があれば意外に強度ある幸せは生きられるはずなのに、なんでそんな「手に入らない幻想・妄想」に固執するの?ってことです。

未来の働き方を考えよう 人生は二回、生きられる
未来の働き方を考えよう 人生は二回、生きられる

ニートの歩き方 ――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法
ニートの歩き方 ――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法


ここでいうのは、極端に普通の中産階級の生活モデルの対比としてスラムという言葉を使っています。なので、現実のスラムというわけではないと思うのですが(僕の中で)、けれども、現実は参照に値すると思います。たとえばスラムといえば、南米の大都市、ファヴェーラ(ブラジルの貧民街)とかフィリピンのマニラのトンド・ スモーキー・マウンテンなどが、思い出されます。その救いようの無さのイメージで特徴的なのですが、要はこの世界が二極化されている下の極に住んでいる人の世界を想定しています。ちなみに、その二極化が極大すると、世界の救いようの無さがあまりに酷くて、そこに逆に「聖性」が生まれるようです。なので、このスラムの世界と接続性と親和性がいいのは、なんといっても崩壊する家族と暴力の連鎖というテーマです。この崩壊する家族と暴力の連鎖って、まんま園子温監督のこれまでの作品ですね。この「崩壊する家族」と「暴力の連鎖」というキーワードの果てに「聖性」が見いだされるという構造が、どうもキーワードのようです。これすぐ連想するのは、邦画であれば当然にヤクザ映画です。


暴力と関係性の崩壊というと、、、もうストレートに北野武監督だと僕は思うんですよ。そういう意味では、正しく邦画の伝統的な系譜をやはりついているんだなぁ、と思います。暴力というものを日本的に展開すると、ヤクザや極道の世界の倫理が挿入されてくるのも、またとても日本的です。


キッズ・リターン [DVD] アウトレイジ [DVD] ソナチネ [DVD] HANA-BI [DVD] あの夏、いちばん静かな海。 [DVD]


ちなみに僕は、スラムというイメージを喚起する最も強烈な作品は、この『キッズ・リターン』なんです。僕にとっての日本的スラム、というのはこの感じです。これ、スラムじゃねぇよ!という意見もあるでしょうが、僕はこれからの社会はさらなる都市化が進展していって、後背都市や田舎が完全に没落する構造のメガリージョンの時代だと思っています。これは予測なので真実かどうかは僕はどうでもよくて、現実、僕が仕事で世界を回っていると、「そうなっている」と自分では感じますし、それを補強する意見や理論も世界中に多いです。論証するつもりは僕には皆無なので、そう思っている、として話を進めます。

消費するアジア - 新興国市場の可能性と不安 (中公新書) 老いてゆくアジア―繁栄の構図が変わるとき (中公新書 1914) ワーク・シフト ― 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉

そうした後期資本制の成熟した社会で、かつ高度成長の未来がない、ヨーロッパ病の時代が・・・・ヨーロッパはこの冬の時代がEU成立まで200年近く続きました、、、未来がない(=高度成長がない)停滞した世界が100年単位、言い換えれば自分の生きているうちに終わらない時代が来るのです。そこで「下の階層」に所属した時に何が起きるか?ということです。いまの日本お若い世代には、その兆候がはっきり表れています。


まずは、僕ら団塊のJrのようなまだ高度成長期やバブルの残り香があった世代は、極端な動機の欠落と、生きる意志の喪失を示しているように思います。バブル世代には、その反面としてのイケイケ感も強く残っています。そしてその後の80−90年代に生を受けている世代は?というと、もう高度成長期のような、共有される強い動機が、そもそもない平坦な世代が生まれ始めています。このギャップが「いまの若者な・・・・」的な議論になりますが、それは世代格差のノスタルジー議論であって、僕は意味がないと思っています。ようは、この団塊のJr、僕らの世代までが高度成長の残り香をそのアンチテーゼも含めて保持しているが、それ以降の世代には、そういうものはないという「境目」の感覚が重要なことです。高度成長がないということは、「明確な目的が社会に共有されていない多様性の時代」だということでもあります。

この環境下で「下の階層」に位置すると何が起きるかというと、上下の社会的流動性の極端な低下と地理的な流動性の高まりだと思うんですよね。えっともう少してきとーな言葉でいうと、人は、一度その階層に生まれると、その上に行く可能性はほとんどないのです。これは、松井博さんの『帝国化する〜』でもいっていましたし、仕組みを創る階層は極端に少ないスーパーエリートで、そこにはまずはいることはできないと、ちきりんさんも書いていましたよね。

企業が「帝国化」する アップル、マクドナルド、エクソン~新しい統治者たちの素顔 (アスキー新書)

『企業が「帝国化」する アップル、マクドナルド、エクソン〜新しい統治者たちの素顔』 松井博著 これからの時代に必要なものとは?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130503/p3

けれども、地理的なものはどうか?というと、これからは単純労働は、世界中につらばっていくと思うんですよね。個人が労働者になって、仕事があるところへ運ばれていく時代。仕事がある「都市」へ人が移動させられるのではないか?と僕は感じます。ここは議論の余地があって、かつてヒットラーとかスターリンだったか「人生に一度思い出にベルリン(モスクワ?)とかにお参りに行ければいいんだよ、それ以外は土地に農奴のようにしばりつけられた人間だけがいればよい」とかいう話をどこかで聞いたことがあります・・・・村上龍の『愛と幻想のファシズム』だったかな?、これって高度なレベルで世界がデザインされる人類の未来をよく予見していると思うんですよね。「仕組みを創る側」と「その仕組みの中で使役」される人間に分かれるという発想です。

愛と幻想のファシズム(上) (講談社文庫) 愛と幻想のファシズム(下) (講談社文庫)


だから、一か所に縛り付けられて動けないで、ワーキングプア的になるということも考えられます。『1984』でもハックスレーの『素晴らしき新世界』でも『未来世紀ブラジル』でも、こうした管理社会モノは、暗くダークなテイストで息詰まる社会を描きだしますが、現代は違います。隠れたアーキテクチャーによって裏側から支配される現代社会は、『マトリックス』やディズニーランド的な空間管理手法によって運営されているからです。この最も見事な高度な設計管理社会は、アメリカ合衆国です。最も高度な管理社会を作り出したのが、アメリカという最も人類の最先端の自由と人権を意識する民主主義社会であった、というのは、なかなかに皮肉です。まぁ、カール・マルクスも、ほんとうの共産主義は高度に発達した後期資本社会の後に来る、と言っていたから、そういうもんなのかもねーと思います。

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫) すばらしい新世界 (講談社文庫 は 20-1) ディズニーランドという聖地 (岩波新書) Matrix Trilogy, the [Blu-ray] [Import]

えっと話が飛躍しすぎました。最初の問いに戻りましょう。未来がない(=高度成長がない)停滞した世界が100年単位、言い換えれば自分の生きているうちに終わらない時代が来るのです。そこで「下の階層」に所属した時に何が起きるか?という話で、そこでの動機にあり方って、非常に閉塞感に溢れて、「変化がなさ」の中で行き詰っている空間じゃないかと思うんですね。端的に思い浮かべると、イギリス病を描くイギリス映画です。たとえば『ブラス』や『リトルダンサー』ですね。『トレインスポッティング』や『時計じかけのオレンジ(A Clockwork Orange)』とかもその系列に入ると僕は感じます。

リトル・ダンサー DTSエディション [DVD] ブラス! [DVD] フラガールスタンダード・エディション [DVD] 時計じかけのオレンジ [DVD] トレインスポッティング [DVD] 未来世紀ブラジル スペシャルエディション [DVD]




フラガール』 李相日監督 いまの日本映画の魅力が凝縮
http://ameblo.jp/petronius/entry-10017996846.html


ヨーロッパ病の文脈では上記の記事を書いたなぁ、と思います。これって炭鉱モノの物語が、とてもテイストに合うようですね、要はある一つの社会システム、文化みたいな完成されたものが、世代とおもに一気に崩壊していくときに生まれるものなんだろうと思います。そして、もう「未来はない」という絶望感と、既に生活していくことが依存することになってしまって、ボロボロに崩壊している親の世代がいて、親は政府の補助金や企業のなけなしの援助金なので、自立しないで依存して生きているダメ人間のなれ果てで生きる希望を無くしています、大抵は、父親はアル中か自殺ですね。このテーマが、未来があるはずの子供が、すでに壊れてしまった家族、親によって、何も未来を用意してあげられない。何も親として教えたり、与えることができないという「家族の継続性の断絶という悲劇」のテーマでもあるのです。


・・・・それが、都市で起きるとどうなるか?というと、さっきいった北野武の『キッズ・リターン』になると僕は思うんですよ。もしくはマンガだと、遠藤浩輝さんの『オールラウンダー廻』です。アメリカでいうのならば『ボウリング・フォー・コロンバイン』の世界です。その世界はどういうところなのか?どんな感覚に満ちているのか?そして、、、そんな世界でも、人は喜びと希望を見出していけるのだろうか?という問い。親の世代にフォーカスを当てれば絶望の物語になり、子供の話にフォーカスすれば、そもそも希望が全く実感できない、見えない話になります。ただ、子供にはまだ出口の可能性はあるんですね。『リトルダンサー』が典型的なんだけれども、子供は新しい世界に出る可能性があるんだけれども、親の生きている世界、価値観、文化と全く異なる極端に「断絶している」世界に飛び出していくことになるので、それはすなわち、親の否定、決別と同義になってしまう。という構造があります。ここにも家族の持つ最も小さい親密圏の持つ文化の継承が途絶えている問題がるんでしょうね。


オールラウンダー廻』 遠藤浩輝著 絶望の底の後に、あきらめきった乾いた明るさが生まれる時、人は何をするんだろう?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110327/p1

オールラウンダー廻(1) (イブニングKC) ボウリング・フォー・コロンバイン マイケル・ムーア アポなしBOX [DVD] スマイルBEST シッコ スタンダード・エディション [DVD]

この作品の結論、このドキュメンタリーで訴えたいことの本質は、「生活世界の紐帯を壊すな」ということに僕は思えた。イギリスは微妙だが、ここで対比されているフランスやキューバを特徴付けるマクロの政治理念は、『生活世界の紐帯』もう少し違った云い方をすれば、共同体やコミュニティーレベルでの発生する「自然で伝統ある人間関係のつながり」を死守しようとすることだ。フランスの農民の結束の強さやストライキの多さ、キューバの再配分の考え方は、この感覚に基づいて生まれて生きているものだ。キューバは僕は不勉強でよくわからないが、フランスは、フィジオクラット(重農主義)をベースとする土地とそれに関わる人間の絆を、価値の根本に置く考え方の系譜だと思う。


『シッコ Sicko』 マイケルムーア監督 素朴な善悪二元論的動員手法への違和感
http://ameblo.jp/petronius/entry-10046175929.html

『シッコ』の時に書いた記事の文脈は、この記事との文脈とはずれますが、このポイントは、この記事の文脈テーマを考える上では凄く重要な視点だろうと思う。今後の世界は、QOL(=クオリティ・オブ・ライフ)の問題、生活世界の紐帯の防衛こそが、帝国化する企業群に支配される後期を過ぎる高度資本制の都市社会に生きる我々の主要テーマになることは間違いない、と思うからだ。そしてこの問題は、広義の意味での低成長時代に入った成熟社会におけるヨーロッパ病の問題(=日が沈んでしまった成長がない世界で人はどう生きる喜びを見出すのか?)の問題の構造と文脈を明らかにしてこそ、議論をすることができると思うのだ。

自殺島』 森恒二著 バトルロワイヤルの果てには、新たな秩序が待っているだけ〜その先は?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110601/p7

自殺島』 森恒二著 生きることをモチヴェーションに
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110407/p2

『たった独りの引き揚げ隊 10歳の少年、満州1000キロを征く』 石村博子著 
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20120726/p2

自殺島 1―サバイバル極限ドラマ (ジェッツコミックス) たった独りの引き揚げ隊  10歳の少年、満州1000キロを征く (角川文庫)


ちなみに、バトル・ロワイヤルものについてのテーマで追っているこれらのテーマの記事は、まさにこの問題の構造を読み解いている話だと僕は思っています。一見関係ない感じがするかもしれませんが、まさにここの、目的が消失してアノミーな状態が、人間の生きる気力を奪うのだけれども、それに対して抵抗しようとするとどのような方法があるか?いったいどういう構造でそういった気力・モチヴェーションの減退がサバイバルのレベルで発生するのか?という問題意識だからです。


話が飛びすぎて、、、『キッズ・リターン』に行かないんですが(苦笑)、えっと、ようはね、ここに出てくる男の子の二人の、この世界から抜け出せない閉そく感と、いまここにいることの絆感みたいなものが、こうした閉塞して閉じられた世界に生きる若者の、自分で気づいてすらいない絶望に感じるんですね。それが大げさなドラマティツク絶望ではなくて、本人すらも気づいていないような、乾いた空気のような当たり前の「絶望」。当たり前すぎて、本人も見ている側も、それが絶望とは思わないような絶望。もっというと諦観、あきらめかもしれません。


■スラムで生きる希望を〜希望がなければ生きられないというのは弱者なのではないだろうか?

スラムの定義はもう少し後に譲るとして、この世界を、上と下に二極に分けた時の下の底辺の世界にいるという抽象的な想定でまず考えてみたいと思います。それは、基本的に人間のあからさまな欲望が脊髄反射的に生まれる世界なので暴力と不幸の連鎖になっています。そして弱いものが抑圧され狩られていく世界です。経済の二極化は、いままさに我々の足元で起こっている現象なので、このへんの感覚はたぶんわかると思います。この世界は不幸が連鎖していて、『輪るピングドラム』のテーマではないですが、連鎖する不幸から抜け出ることができないでで死んでいく子供たちの世界ですね。

輪るピングドラム コンプリート DVD-BOX (全24話, 540分) ピンドラ アニメ [DVD] [Import]

ここで僕が最近感じているのは、こういった「希望がない状態」というのが、本当に地獄か?ということです。どういうことかというと、日常と非日常の話、そして高度成長がない(=経済成長がない)とか、このあたりの話を積み重ねてきて、日本の、というか先進国のこういう状況って、凄く贅沢なんじゃないかと思ったわけです。それは、アメリカにいた時に、アフリカン・アメリカンの友人に、この先進国の若者に動機がない、希望がないんだ、というような半紙をしてきたときに書きのような答えが返ってきたんですね。

「そもそも、未来がないなんて、アフリカンアメリカンにとっては、ずっと数百年そうだったんだよ。奴隷制度があって、なくなっても強烈な差別が残っていて、とアメリカはもの凄い酷い国だったけど、ここ30年ぐらいで、本当に変わった。だって、弁護士や、大学の教授や、医者、、、まあなんでもいいんだけれども、社会の主要な職業にたくさん黒人を見るようになった。挙げ句の果てに、大統領まで黒人だよ。いま、全世界で最も黒人にとって素晴らしい国はどこかと聞かれたら、黒人の誰もがアメリカだぜ!と答えるね。他のどこの国に、黒人がそんなに自由がある国がある?。けど、こういう未来は、地道な、それこそホープなんか全くない環境の中で、一歩一歩、歩いて来たことによって成し遂げられている。希望がないから頑張れないなんて、そんなのはおかしいんだよ


先進国の持つ病〜社会が成熟していくと失われるモチヴェーションー希望がなくても頑張れるか?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20111203/p1

The Audacity of Hope: Thoughts on Reclaiming the American Dream (Vintage)
The Audacity of Hope: Thoughts on Reclaiming the American Dream (Vintage)

ほんとうは、ここに行くのは飛躍しすぎなのかもしれません(笑)。けれども、アメリカの友人たちで、先進国からきている若者がみんな一様に言っていた希望と動機の無さの比較として、この黒人の友人の言葉は、僕には強いショックを感じさせました。

高みへと向かう希望(The Audacity of Hope) ― 2004年民主党大会でのオバマ氏基調演説全文翻訳
http://blogs.dion.ne.jp/keis/archives/8016461.html

これ、オバマさんの2004年の民主党大会の基調演説ですが、、、これは英雄的な物語に収斂していってしまっていますが、それでもやっぱり、いいたいことって、このへんだよなーって思うのです。えっとうまく伝わっているかわからないのですが、結局のところ、アフリカン・アメリカンのこの話や歴史を思って、やっぱり人って「生きていく」ってことが重要なんだな、と思ったんですよね。


そして、生きていくことの強度の祖モノ、「いま、ここで」生きていることの実感は、本来は、希望や将来の目的などを反映させてはいけないんだ、ということに気づいてきました。それは、未来によって、「いま」を盗まれる行為だからです。


・・・・まだ、このへん固まっていないので、曖昧なんだけれども、とにかく思考の過程を出してみます。この途中さらけ出しが、いつものごとくの物語三昧クオリティ。・・・・海燕さんの、記事が未完成でも、打ち捨てないで出してくれよーっていつも言われるので、この記事も打ち捨てそうになっていたけど、とりあえず出してみる。


(3)に続くかな?


ちなみに、友人には強烈に進めていますが、この思考の流れで、下記を読むと来ますよ。必須の課題図書なので、ぜひ。


里山資本主義  日本経済は「安心の原理」で動く (角川oneテーマ21)