『ココロコネクト』 庵田定夏著  日本的ボトムアップの世界でのリーダーというのは、空気の圧力を結集する特異点

ココロコネクト アスランダム 上 (ファミ通文庫)

評価:★★★★★星5つ
(僕的主観:★★★★★5つ)

■高い論理的整合性を維持する物語

ココロコネクト』の作者は、非常に論理的だ。全作品の構成が、きちっとロジカルに関連付けられている。描写力としては、1巻などを読むと、まだまだ若いなという感じがあるけれども、こと「構成力」に関しては、超一流だ。これは作者の才能と努力だろうと思う。それが最終巻にまできちっと積み上げられ展開されているので、非常にクレバーですっきりした印象を受ける。僕のように知的に読み解きたい、テーマの消化や止揚を見たいと思う読書家タイプの読み手にとっては、強い満足感を感じさせる作品でした。


前回記事にあげたときにも書いたのだが、はがない、俺ガイル、俺妹などなど昨今のライトノベルの重要なテーマのひとつとして、ラブコメの系譜からハーレムメイカーへ至り、男性視点主軸からヒロインの逆襲という視点の切り替えが行われて、恋愛が至上価値の優先順位を持つラブコメマトリックス(=母型)から脱出するという意味で、恋愛よりも友達との関係性・絆に優先順位を置くという系譜が存在していることがこのブログで話されてきました。これは漫研のLD教授と分析して練り上げてきたものです。この系譜は、マーケットにおけるラブ・コメディーの器において展開しているもので、その究極の動機は、「孤独から脱出すること」なのですが、対幻想、いいかえれば、異性との閉じられたラブラブ空間を形成しても、決して人は救われないという感性が働いているのだろうと思います。だから、恋愛をよりも友達との絆が優先順位として主張される、はがないのようなテーマの収束が見られます。


しかしながら、いまのところ、この系譜の一つの分岐の「系」のエンドまで見通した作品はありません。単純な話、最終回を迎えた作品がないからです。もうすぐ俺妹が、最終巻を迎えると思いますが(この記事の7割ぐらいの構成は、俺妹の最終巻が出る前に書かれています。なので、2013年の最初のほうですね)、この系統は、やはり妹系とラブコメの方向にテーマが収束していっていると思います。これはこれで興味深いので、もちろん分析しようと思いますが、まずは、この『ココロコネクト』のアスランダムの収束ポイント、行き着いたオチが、非常に論理的納得できる地点に来ていることをもって、この作品が素晴らしい作品だ、と僕は主張したいと思います。この作品が描いた射程距離は、この「友達が欲しい系」の過去の果実を余すところなく利用し、踏破し、展開して、新しいフィールドに到達しているからです。


■絆を構築するための手法の具体例の描写〜あざやかなマクロ視点とミクロ視点の切り替わりの描写

一つ主張したいといというか、作者に一言、言いたいのですが、特にこの最後の作品で非常に洗練されているのが、本当に素晴らしかった。読んでいて感心しました。映画を見ているような凝縮度と完成度でした。それは、上記のような、高い論理性や高い構成力を誇る作家は、知的なのでしょうが、マクロでしゃべってしまい、ミクロ(=等身大のキャラクター)がぜんぜん書けないケースが多いのです。テーマが、マクロ側やテーマ側によって、それを「上から目線」で、論理的に説明してしまいがちだからです。けれども、この作品は、ライトノベルの特徴であるキャラクター造詣の文脈をちゃんと押さえて、もう一歩いうと、各キャラクターたちが等身大のミクロの領域を丁寧に表現されながら、それでいて、全体の物語として言いたいマクロ領域に収束して語られている。とても稀有の作品です。たとえば、いま仲間内ではやっている『ガッチャマンクラウズ』(今日は、2013年9月1日ぐらい?)などが、典型的なのですがこの中村監督という人は、『C』でもそうでしたが、そもそもで「マクロの話」が書きたい人なので、たぶん個々のミクロの人間のドラマトゥルギー自体にはあまり興味がないんですよね。『ガッチャマンクラウズ』は、ものすごい見事なマクロの文脈、英雄がいなくる現代で、どう英雄足りうるか?、そもそも英雄になる必要さえあるのか?といった悪の系譜、脱英雄譚の英雄譚の系譜、善意を直列につなげることの可否など、我々が、海燕さんやLDさんと練り上げてきた文脈をことごとく押さえているのですが、僕にはいまいち超ド級の傑作に「ド」が入りにくいなーと感じてしまうのは、やはりこの作品がミクロををう丁寧さ、というか意識が弱いからでしょう。もちろん、アニメの12話で物語を書こうとすれば、これは仕方がない部分もあります。割り切りは必要ですしね。また、はじめちゃん(主人公)というキャラクター造形を考え抜いて作って設計しているので、『C』よりも格段に良くなっているけれどもね。・・・・・この命題はいつも重要で、マクロを描きたい人は、マクロだけに偏って、ミクロ(=個々の人間の心や関係性)がどうでもよくなってしまうんですよね。なので、マクロをかける人は、ミクロを書くことができないということがすごく多い。また、ミクロだけ!という傑作はたくさん生まれるんだけれども、マクロだけの傑作!というのはほとんどない。人間の生きる世界で、個々の人間の存在を忘れると、ろくなものが描けないのだろうと思う。なんでこんな関係ない話をするかというと、このマクロとミクロのバランステーマは、作家の資質を図るときに重要なポイントで、この庵田定夏さんは、そのバランスがとてもうまい作家だという点です。そもそもほぼミクロ構成のみで設定舞台が限定されている、学園モノ系のライトノベルで、ここまで広げたのは、とてもよかったです。決して、SF設定に引きづり込まれることなく、このテーマを追求しきっているのは、素晴らしい。


■学園ものにおいて友達の絆やぼっちの話をすると、実は日本社会の本質的問題点が浮き彫りになる


学園ものにおいて友達の絆やぼっちの話をすると、実は、日本社会の本質的問題点が浮き彫りになるのだ、ということが凄くよくわかった気がしました。もちろん、「そこ」まで到達しなくても、日本の学校空間・スクールカーストとは、日本的共同体の在り方の縮図なんだ、というのはよくわかります。それは、僕ら自身の姿。


一つ僕がとても強い既視感を持ったのは、こういういじめやぼっちの問題を考えると、ああ社会に出ても、日本の会社はほぼすべて同じだな、ということでした。日本的経営の問題や意思決定の問題の系譜をずっと追っていると、このことはよくわかります。アソシエーション(=結社)が、共同体的ムラ社会に転嫁して、リーダーシップが取れなくなって、派閥抗争化すること。目標設定の必要性がないときは素晴らしく平均値が高く(=同調圧力が高く)一気に成長するが、外部環境の極端な変化や、船頭が道を決めなければいけない時には組織が迷走して何も決められなくなること。僕のブログのテーマでいえば、たとえばアメリカとの戦争などという意味不明かつ不可能なことを誰が意思決定したか?ということを追っていくと、「誰が決めたかわからない空気の問題」に行き着きます。これって、同調圧力そのものの話です。同調圧力って、空気を読めという圧力で、これって、まんまいじめのことですよ。このいじめの恐怖に屈して空気が濃く濃密に生まれてきて、意思決定が歪むのです。特にリーダーですらも、このボトムアップから生まれる空気に抗えずに屈していくのが日本の特徴です。なので、意思決定が、誰がしているかわからない不透明性と、ただよっている漂流感覚が生まれるのです。これは、空気に関する下記の論考を読むと、よくわかります。

「空気」の構造: 日本人はなぜ決められないのか
「空気」の構造: 日本人はなぜ決められないのか

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

それと、このいじめや空気やぼっちの話って、そっくりです。まぁ、当然ですよ、同じ日本の組織の、集団の、問題点をいっているわけですから。ちなみに、非常にこの問題が難しいのは、この日本的共同体の特徴は、もちろんのことと美質との裏返しなところです。日本的な「和」を尊ぶ志向性など、日本の「よさ」がこの裏に張り付いているために、単純に、これをなくせ!という手法は、うまく機能しないのです。日本的な特徴を失わせるだけですから。害悪がなくなる代わりに美質も消える。ここに手をつけるには、とてもマクロ的な社会工学の意識が必要で、実際のところこれを計画して設計することは、ほとんど無理に近いでしょう。頭で考えて知恵を絞ったくらいで帰られるのならば、とっくに変わっていると思うからです。これって、たぶん稲作の作業や速水さんの分析している勤勉革命から生まれた民族性というかカルチャーなのでしょうねぇ。 
近世日本の経済社会



■結社と共同体の違いを明確に意識しよう!

ちなみに、会社・社会と学校空間には、大きな差異があります。これはよく覚えておいて欲しいのですが、組織における同調圧力の強さは、


1)参入・退出の自由があるかどうか?

2)外部と競争をしているかどうか?

3)目的がある組織かどうか?


で決まると思うのです。会社は、自由競争環境下で競争をしているので、その競争ということになれば、内部の論理(=いじめ=派閥抗争による万人による万人との闘争状態)は吹き飛びます(理論上は)。また、目的があるかどうかということは、アソシエーション(=結社/目的を下に集まった集団)なのか共同体(=目的を持たずに自然発生的に生まれた集団)かの違いのことを言っているのですが、アソシエーションは、目的がはっきりしています。なので、その目的をベースに、これは意味がないということが容易に主張して組織の方針を変えることができるのです(理論上は)。そして、それがイヤならば、できないならば、非効率で遅いにならば、出て行けばいい!という自由もあります。学校空間と社会が、同じ日本人により日本人ばかりで運営されていても、極端に腐らずに健全性を持つのは、目的と外部性と参入退出の自由があるからだろうと思います。むしろ学校空間こそが特殊であり、特別に作られた人為的空間だといえるかもしれません。


しかし同時に、日本社会のこの共同体同調圧力による息苦しい伝統は、主に徳川時代鎖国によって作られたといわれています。鎖国は、日本全体を、外部のルールによる圧力なしで運営するための、壮大なマクロ政策です。このことを非常に強く主張しているのは、司馬遼太郎の『徳川家康』です。直ぐ傍にいたにもかかわらず尾張平野を中心とした開放的な織田家と山岳の閉じられた強烈な同調圧力で形成された三河の徳川松平家との違いを、非常に微細に描いて興味深いです。日本人というものを考えると、海や平野で自由に行動するウルトラ開明的な個人重視の気風と内部で強烈に結束して濃い関係性を結ぶ気風と、エートスがとても極端に分かれていったりきたりしていることが見て取れるように僕は思います。


■派閥間争いが”万人の万人に対する闘争”とかして北斗の拳的無法地帯となる


ここに、何がないかといえば、リーダーシップがないのだ!。ボトムアップで空気を読んで、それを操るリーダー、いいかえれば、西郷隆盛的な、みんなの空気に殉じる人を、組織の長として認める傾向が日本社会にはある気がします。これなにかっていうと、ようは、リーダーを生け贄にして、みんなの空気の責任を取らす代弁者とするってことなんじゃないか、と僕は最近感じています。日本の天皇制にも同じに匂いを強烈に感じます。このことの「美しさ」というのも当然あるわけで、単純に否定はできないところがとても難しいところです。これって、日本人の美学を形成しているコア中のコアでしょうから。


僕もこのメカニズムが学者じゃないのでよくわかっていないのですが、長く日本人をやっていると(って、生まれたときからですが(苦笑))、いじめってどういう構造で生まれるかというと、派閥(=ムラ)・・・・集団の中で派閥が形成されて、その派閥間での抗争と勢力争いの中で、


(1)派閥の構想の力学や問題点を理解できないやつ(=空気が読めないやつ)が、排除されるってこと


と、


(2)誰かを犠牲の羊に仕立て上げて、擬似的に敵(=全員で攻撃してカタルシスを得る)をつくりだして矛先をそらしたり踏み絵(=いやなことをやらせて仲間意識の確認)をする


ってことなんだなって思っています。これは、会社でもよく起きます。日本的な古い組織は。ただし、共通の敵を作ればいいって(2)の論理は、これが外部にいる場合には、以外に組織は健全性を持ちますので、必ずしも日本の組織がみんな腐るわけではないし、内部の敵を血祭りに上げることばかりではありません。ちなみに、アメリカのセーラム魔女狩りとか、人類社会は共同体ごとに、こういうサクリファイス(=犠牲)を行って共同体の安定を得るのは、人類学的な性質なので、日本人だけが極端におかしいとか言うわけではぜんぜんありません。ものを見るときは、横軸(=地域の広がり)と縦軸(=時間の流れ)をみないと視野が狭くなるので、いじめの構造、ムラ社会の派閥論理が、日本特有だとは、僕は思いません。



さて、日本社会の特徴は、ほっておくとすぐにムラ(=派閥)を形成して群れたがる癖があるようです。日本の会社に入ると、多かれ少なかれ眼に見えるか見えないかはありますが、この現象が背後に隠れているはずです。そこで、僕が、ホッブスの”万人の万人に対する闘争”っていっているのは、戦国社会の惣村のの争いがイメージになっています。戦国時代の長きにわたる期間は、日本社会に、統一的な基準が生まれなかった時代です。織田信長豊臣秀吉徳川家康の統一が生まれるまで、鎌倉・室町政権が緩やかに崩れていく過程で、日本社会は、下克上の世界を作り出しました。この中身は何か?といえば、さきほどいった、惣村ごとにネイションステイツに近い強烈な国家、領土、縄張り意識を持って殺しあい続ける世界です。


渡辺京二傑作選① 日本近世の起源 (新書y) 日本的革命の哲学 (NON SELECT 日本人を動かす原理 その 1)


このへんの世界って、ようは、部族社会ってことなんだろうと思います。統一的な基準がなければ、サバイバルのために、集団(=ムラ)を形成して、その集団の利害だけで殺しあい続ける。なので、この戦国時代の惣村の形成に仕方、その果てに生まれてくる戦国大名という地域統一政権のあり方は、日本的秩序形成の原理を示していると思います。この辺は僕はまだまだ不勉強で、よくわからないのですが、山本七平さんの本を読むと、日本社会が、強烈なボトムアップの集団で、独裁やリーダーを物凄く嫌う社会だというのが、どうもあるようです。お上お上、というけれども、日本はとにかくリーダーに従うのを物凄く嫌う強烈な個人がひしめいていて、ほっておくと殺しあうのがデフォルトな強烈な個人主義の社会のようなのです。


まぁ、こまかいところはいいんだけど、ざっくりいって、秩序がない世界を現出させたら、、、ここでは物語の世界では、『北斗の拳』とか週末の世界の中での暴力を描くときは、どうなるか?ってのの、日本的文脈から発生するのカタストロフってのを学園ものでどう描くか?ってことなんですが・・・・



■友達の絆の構築というテーマを誠実に展開すると、リーダーシップの話になる


さてさて、これ全然、『ココロコネクト』の話じゃないじゃん!と思っているあなた!正しいです(笑)。というか僕の読書と感想というか批評のスタイルってこういうのなんだよね。今ここまで話してきた文脈は、僕がこの物語三昧でずっとテーマにしてきたことでもあるし、僕自身が日本の大組織に勤めるものとして、子供の親として(どう教育するか?という意味で)、ずっと考え続けていることなんですが、、、、この大きな文脈とキーワードや概念の「文脈から」このココロコネクトの最終巻は、すごく面白いと思ったんですよね。まずね、この物語の状況ってのが、この”万人の万人に対する闘争”的な状況なんだよね。秩序が維持されないって行っている。これアニメーションだと、『Angel Beat』とかだし、小説だと橙乃ままれさんの『ログホライズン』なんかが思い出されるよね。


こういう作品は、テーマは二つあって、


(1)とにかく秩序が失われた世界を見たい


(2)こういう無秩序の世界に、どのように秩序をもたらすか?


この二つのテーマが構造的にビルトインされてしまう。


んでもって、この日本的な文脈での「無秩序状態とはどういうものか?」というのと、「無秩序の状態から秩序が確立されるときにどんなメソッドがあるのか?」というのが、『ココロコネクト』のこの小説で、なかなか興味深い舞台設定と展開をしていたので、僕はおおうまいって思ったんです。

一つは舞台設定で、日本的な無秩序の文脈を学園物でやるときの設定がとても秀逸だった。とはいえ、これ自体は、今までもたくさんある類型なので、必ずしもオリジナルではない。


けど、どうやって秩序を生み出すのか?がとても興味深いものだったんですよ。上記の(1)の文脈は前提の話なんで、これ理解していますか?って話なんだけど、解決編はオリジナルなんで。


ちなみに、1980-2000年代までは、これまであった秩序や国家などの、「固定化された権力装置」を解体すること、それが幻想で、思い込みであることを世に知らしめて実際に壊すことが時代精神の主流派でした。ラブコメや青春ものとか関係性で言うのならば、たとえば、小説家のワナビーがさんざん自分に才能がないことを絶望する話を延々としたり、好きな女の子と結ばれないので違う女に手を出してお互い無味乾燥で漫画が長い巻を経て、、、、何もなかったね、俺の青春真っ暗だったと、身もふた無なく・・・・そら、これが、これがお前たちの現実だ!!と突きつけるような話です。まぁ、確かに現実だけど、、、現実がわかって、だからってやること変わらないんですよ。どんなに腐っても権力装置や国家がないわけにはいかない。警察など権力のイヌだカスだ!!と叫んでも、けっきょく世のPTAのお母さんやお父さんは、何かあれば警察に頼るんです。いくら官僚が屑だゴミだ、といっても、ほんとうはちゃんと高いノブレスオブレージがあるがんばりやさんおエリートが、少し位は彼らが恵まれていても、国家の運営や権力を運営したほうが、庶民は安心して生きれるんです。そんなの当たり前なんですよ・・・・そんなあたり前のことが、一周してわかってきたのが「いま」だと僕は思うんですよ。宮崎駿が『風たちぬ』で少年の夢をもう一度描いているのは、とても象徴的です。彼は少年を主人公に描けなくなったと、ずっと少女を主人公に物語を紡いできましたが、ある意味、それは少年の夢の行き着く果てが、帝国主義であったり世界を滅ぼすことであったりという身もふたもないことがわかっていたからでした。少年の夢、立身出世の夢、軍国少年の夢はすべて同系のものであり、マッチョイズムと帝国、そして全体主義と世界の破滅にストレートに接続されちゃうんです。その原初が、この映画で描かれたように、きらきらするような「飛行機を作りたい!」という素朴で美しい夢であってさえも。

風立ちぬ』 宮崎駿監督 宮崎駿のすべてが総合された世界観と巨匠の新たなる挑戦Comments
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130802/p1


いまは、再帰的な時代です。しかしながら、かといって、妄想でも、エゴイズムでも、それでも「夢」を持たないで結局人間は生きていけるのか?と問えば、やっぱりいるんですよ。過去のような罪の自覚なしには持つことができないので、とても重い十字架を背負った再帰的なものであっても、やっぱり夢がないと、成長を求めないと、人は、なかなか動機が生まれません。なかなか、というか、まったく生まれません。この80−2000年代の物語は、動機の解体を描く物語ばかりで、人から夢を奪い、現実のリアリズムを刷り込んで認識させると、だれも生きる気力がわかなくなるというのは、これでもかと描かれてきました。果てには、バトルロワイヤルものと僕が呼んでいるように、動機が生まれないもんだから、殺し合いにまでさせてサバイバルの意識を、生物の根源的な、死にたくないという本能に訴えかけて、動機を生み出そうと舞台設定を考えてきました。『ハンガーゲーム』とかがあるので、アメリカでも同じ文脈があるのですよね。


自殺島』 森恒二著 生きることをモチヴェーションに
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110407/p2

自殺島』 森恒二著 バトルロワイヤルの果てには、新たな秩序が待っているだけ〜その先は?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110601/p7

『たった独りの引き揚げ隊 10歳の少年、満州1000キロを征く』 石村博子著 Comments
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20120726/p2

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けど、これって考えると、物凄く原初に戻りすぎ、なんです。どういうことかというと、人間が動物であった時代に戻って考えているんですよね。秩序の最初に生まれるところを描くには人間から言葉や文明を奪ってやればいいというのは、まぁよくわかる発想なんですが、、、、ユナボマーみたいなもんです。でも、それってゼロか100かの話で、発想としては極端すぎます。もちろん、時代というのは振れ幅何で、極端方向に振れるのは、わかるんですけれどね。けど、よくよく考えれば、何もそこまで戻らなくてもいいだろうと思うんですよ。世界も滅びなさそうなのは、いま見ていればわかるので。あっと、本当はこの終末がこなさそうというのも重要な時代文脈ではあるんですけれどもね。


さて、では『ココロコネクトアスランダム』は、上記の(1)とにかく秩序が失われた世界を見たいと、(2)こういう無秩序の世界に、どのように秩序をもたらすか?をどのように料理したのでしょうか?。


それは、各派閥のリーダーシップを、その無秩序の中での、評価して競争するという手順をふんだんです。ね?日本的でしょう。日本社会は、すぐに人々がここに群れてムラ社会を生み出す傾向があります。そして、そのムラの派閥ごとが抗争して秩序を作り出すんです。ここで言う派閥って、生徒会と文化部ですね。この二つが、派閥抗争をやったんです。そして、どっちのリーダーシップが、どのように選ばれるか?で、この世界を脱出できるというシナリオにしたんです。英雄や主人公が、謎解きをして、閉じ込められた世界から脱出するという手順を踏む物語の類型はたくさんあります。しかしながら、派閥のそれぞれのチーム毎の「支持の度合い」を脱出のメトリクス(=評価軸)にするってのは、とても新鮮だった。


そして、これってまさに日本社会の本質であり現実だ!って思ったんですよ(笑)。



■日本社会の問題点のクリティカルポイントはリーダーシップにある


さて、そこで生徒会の生徒会長が、責任感ゆえに周りの空気の圧力を濃縮して自分の身の内に纏っていく過程は、おおっ、うまいっておもいました。日本的ボトムアップの世界でのリーダーというのは、空気の圧力を結集する特異点になるので、自分の意思はまったくありません(苦笑)。そういったことを受け止めて殉じて死ぬ(=自己犠牲)器が要求されるのです。西郷隆盛が僕は典型的だと思っているんですが、自分が、それは意味がない、ダメだ、と思って入れも、自分に所属している派閥の空気の結集点となることが求められるんです。


ちなみに、この物語を読んで、そして、正義の器としての弱者救済のリーダーという特異点を考えるときに、もちろんこの物語三昧の文脈を読んでいる人は、もしくはラジオとかで話を聞き続けている人は、「これ」が、『東のエデン』や『まおゆう』のメイド姉、そしていまであれば『ガッチャマンクラウズ』の話に接続されるものであることはわかると思います。ちなみに、下記の海燕さんの記事は、僕らが文脈の基礎としているLD教授の悪の系譜、脱英雄譚の英雄譚の系譜について非常によくまとめられているので、ぜひ読まれるといいです。ほんとは、物語三昧オフのLD教授の数時間にわたる講義を聞くと、これが物凄くよく整理されてつながるのですが、それは今のところ非公開なので、残念です。どこかで映像にとって、公開したいなとは考えているのですが…。

GATCHAMAN CROWDS中村健治監督 見始めました。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130822/p2

物語三昧:絶対悪とは、時間軸のない(弱い)物語であり、目的はテンションの転換であって世界を再現することではないのでは?】
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20090616/p3

西暦2013年の最前線。『ガッチャマンクラウズ』がテン年代のコンテクストを刷新する。
海燕のゆるオタ残念教養講座
http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar322009

【絶対悪ってなに?(´・ω・`)悪の化身編】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/26fcde56a318ee8ac05975c93cde11b1

【絶対悪ってなに?(´・ω・`)善悪逆転編】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/a58f2370c3f40af6e878fcdc2c97b64a

【絶対悪ってなに?(´・ω・`)悪の終焉編】
今何処(今の話の何処が面白いのかというと…)
マンガ、アニメ、特撮の感想ブログです。
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/8aa3fcc617eed515159fc4903fc82b67

日本テレビ系アニメ 「ガッチャマン クラウズ」オリジナル・サウンドトラック


現在、1クールの物語はまだ中盤ですが、それでも、ゼロ年代から(もっと前から)脈々と続いている「ヒーローの孤立」の問題を扱いながら、その解答として示された「クラウズ(群衆)による解決」という回答の問題点をも把握し、おそらくは前代未聞の「第三の解決策」を提示しようとしているところなど、震えるほどスリリングです。


中略



LDさんによると、この問題にひとつの解決をもたらした作品が『まおゆう魔王勇者』であり、『魔法先生ネギま!』です。


 なかんずく『まおゆう』の解決の鋭さは素晴らしいものがあった。


 この物語のなかで、「メイド姉」と名付けられたキャラクターは「勇者の苦しみを共有したい」と云いだします。


 つまり、彼女はヒーローとしての勇者ひとりにすべての責任を課すシステムの限界を悟り、それを自分でも背負いたいと云い出したのです。


 ヒーロー(個人)からクラウズ(集団)へ。


 全員が少しずつ痛みと苦しみを背負うことで勇者がいらない世界を生み出す。これは画期的な「脱英雄」の物語でした。


 まさに傑作と云っていい。しかし、ここにもやはり限界があるのですhttp://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar322009


まさに、ここがこのあたりの問題意識に対する究極のポイントなのです。僕はジャイアニズムの『まおゆう魔王勇者』の特集記事に、このような文章を載せました。

ただし、最後にひとつ指摘しておくと、メイド姉の解決方法には大きな問題点があります。それは、「すべての人が勇者になろうとすること」という解決方法は、基本的にエリート主義(=すべての人が英雄になる)の考え方であり、大衆化して数に埋もれた人間の醜さや個人の持つ深いルサンチマンの闇などを考えれば、そもそも、ほぼ不可能に近い選択肢だということです。それは、歴史が証明しています。なので、この次を描く作家は、作品は、どうなるのか楽しみです。

ジャイアニズムDX (エンターブレインムック)


えっと、文脈が整理なく二つ混在しているんでわかりにくくなっていますが、この『ココロコネクトアスランダム』の生徒会長に回りの不満や負の意識が集中して強烈な派閥支持を生み出すというのは、


1)空気の結集点となることが日本的リーダーシップの特徴パターンである


というのと、


2)ヒーロー(指導者)とクラウズ(大衆・群衆)との関係性が、脱英雄譚の英雄譚の重要なスキームである


というのが混在しています。ただ、神山監督の『東のエデン』の滝沢くんを思い出せば、これが、非常になんというか、現代社会でのリーダーシップを考える上では普遍性を持つものであることがわかります。政治学的に言えば、ポピュリズムのことを考えればいいのだろうと思います。また日本の派閥抗争は、日本的特異点ですが、こうした部族社会ごとの永遠の殺し合いは、アフリカや中東の一大問題点だし、民主主義の意思決定がぽポピュリズムによって歪むことは、我々人類のフロントランナーである先進民主主義国家群の共通問題点です。

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というような文脈を、この本を考えながら、、、、思い馳せていました。いや馳せるなよっ!とか言わないでください。そういうこと考えるの趣味なんで、仕方がないんです。考えちゃうので。僕はいつも文脈読みして、自分の持つ固有の文脈と相互比較して読む癖があるんだよね。これが、いいかどうかはまったくもって、?ですが・・・


さて、これって、まさにここでの香取生徒会長の話とまったく同じですよね。しかも決してリーダーとして腐ったダメなやつという描写でもなんでもない。健全で、正しく、本当にいいやつで一生懸命。それが、空気に押されて聖性を帯びるようなリーダとなっていく。この描写、素晴らしいと思いました。描写もそうですが、どういう理由で、どういうロジックで、彼がそういう風な不思議な雰囲気を帯びてくるかが、著者は実感としてわかってプロセスを分解して描写しているので、そこがしびれました。物凄くマクロの問題意識なのですが、ちゃんとミクロに変換されて香取君の気持ちや、参加者たちの気持ちが等身大で伝わってきました。うーん、このプロセスを描写した作品を、僕は見たことがほとんどありません。似たようなので、村上龍の『愛と幻想のファシズム』の鈴原トウジの演説のシーンが思いだされました。・・・・・ここのポイントって、独裁者がどう生まれるのか?という部分、民主主主義が衆愚化して全体主義に転嫁していくプロセスがそのまま当てはまるからだろうと思います。

愛と幻想のファシズム(上) (講談社文庫)


■リーダーシップによる権力の奪い合いとは、まさにいじめのエコロジカルな空間への最終対処ポイント

実はここへきて、物語三昧の思考プロセスは新しい概念というか、新しい部分に足を踏み入れてきている気がします。それは、リーダーシップとは何か?というものです。僕はこのあたりの思考を深めるために、内発的なものとは何か?。主体性をもって世界の物語を生きる喜びとビビットさ(=インプロヴィェーション)。また同時に、関係性主体に置く社会でのチームを率いる意識は、容易に比較級の世界(他者の視線に敏感である空気読みの行為)に埋没しやすく内発性が失われる。しかし、社会で生きるということは、他者の視線をどう組み上げていくか?ということであり、特に日本社会においては、他社の視線に強烈にセンシティヴで、内発性を無視した強烈な「空気へのコミット」が強い聖性を帯びる構造がある、、、などなど、そういうことを思いをはせるようになりました。


このあたりは、まだもやっとしているのですが、ここは重要な思考の塊だと思うのです。ここで問われている問いは、リーダーシップ(内発主体性のある意思はどこから生まれるのか?今はどういう構造なのか?そして今後どうなっていくのか?行くべきなのか)は、どのように作ることができるか?という問題意識です。この場合は、自分の心の中に作り出すことと、社会的な関係性の中で作り出すというミクロとマクロの問題視点があります。この問題意識を持ったのは二つの流れがあります。

採用基準

ひとつは、この本とちきりんさんのブログのリーダーシップに関する記事を読んだことです。それまであまり考えたことがなかったのですが、僕自身も企業のハイクラスのマネージャーですし、若いころからずっとリクルーターやー面接に駆り出されているために、なんというか、社会に入ってくる若者の最初の動機がどういうものか?そしてそれが10年単位でどう変化していくか?というのを、自分の心の動き、体験による変化と同時に、数々の新入社員の入社時の動機からそれがどう「結果」に結びついていくかをずっと観察してきました。何度も書いていますが、僕は、子供のころからなぜか人間観察マニアなので、そういうのはずっとじっくり観察して考え込んでいるんですよねー。そこで日本人には、日本社会には、リーダーシップが欠落するようにない、というちきりんおよび伊賀泰代さんの指摘は、目から鱗が落ちるような感じでした。衝撃といってもいい。


というのは、読めば日本人ならばみんな思い当たる節がありすぎて、衝撃があるとは思うのですが、日本の大組織、、、に限らず組織(=人が集まるところ)の問題点は、イニシアティヴをとる人、積極能動的に賛意を表す人の少なさです。いないというわけではないんですが、シンプルにリーダーシップ(=自分がやりたいこと)を示すことは、空気が支配する日本社会においては致命的な危ない行為です。これは、本当に僕らは刷り込まれている。なので、日本人の会議の運営効率の下手さは世界有数です。またディスカッションなど意思決定の非効率さと、アンクリアーさも。・・・このあたりは、エンターテイメントでない僕の物語三昧の記事、、、戦争における意思決定のおかしさの系譜などを読んでいる人には、ピンと来るんじゃないかな、と思うんですが・・・・。僕は、中学高校時代に、生徒会や文化祭の実行委員長などそういうのをいくつもやった経験があるんですが、この生徒会長みたいにはできませんでしたが、人を動かし、動員するポイントは、自分の動機や意思を表に出すことではなく、「なんとなくみんなの空気を作る」という自分の手には負えない部分に大きなスキルがあるというのは痛切に意識していました。わかりますかね?。この世の中で「何かをなそう!!!」と思うときに、、、そんなにおうぎょうなことではなくて、友達と何かをやろう!でもいいのですがアクションを起こす時に2名を超える(対幻想を超える)時のレベルになると、「みんなの空気」をどう形成するかが、そのチームがどういう結果を得るかを支配するんです。決して、動機の正しさ、結果(=目的)の正しさ、プロセスの合理性とか、そういうものじゃないんです。すべては、「みんなの空気」がどういう構造で形成されているか、という空気の大きなマクロの流れで、その後の在り方が決まってしまいます。これって、自分史の中で、すごい発見でした(中学の時の僕の日記に残っています)。つまりは、自分の内発的な意思なんかどうでもよくて、空気をどう構成するか、またはその空気にいかに「自分が溶け込めるか?」で生きやすさや居場所の確保(=嘘のものではあるが絆)が決まってしまうってことなんです。これって何度も言いますが、いま思うと、すごいおかしなことなんです。生きていくにおいて、主体性よりも、空気を読む(=他社の視線を内面に織り込む)方が圧倒的に重要だ、といっているからです。このあたりは、ベラーの『心の習慣』でもデイヴィッドリースマンの『孤独な群衆』でも、現代社会がとても他者の視線折込(=空気を読む)によって支配されるという分析がされていて、この分析主体は欧州とアメリカですので、別に日本だけではない現代的な問題点だというのはよくわかります。しかしながら、日本社会においては、これが物凄く圧倒的であり、かつ「和(=みんな仲良く・異物を排除しましょう!)」というイジメの伝統(苦笑)の流れもあって、この反対物である内発性と主体性によるリーダーシップという社会的装置・社会的伝統・また教育システムがマクロレベルで致命的に欠落しているということも、この本(=採用基準)で、そういえばそうだ!!と気づいたのでした。


ベイビーステップ(27) (少年マガジンコミックス)


この内発性というキーワードは、ここ最近この記事(この記事は長く打ち捨てられてて…なかなか書く暇がなくて・・・・)の後半を書いているときに、『ガッチャマンクラウズ』(るいるいは、内発性のない群衆を排除しようと最初していますよね)と『ベイビーステップ』のえーちゃんが、プロになるということに関する自分の気持ちを考える連載の回にあったりして、、、、特に『ベイビーステップ』なんですが、大会で優勝できたらプロになる!と宣言して、結果はベスト4。決めたことを守るえ〜ちゃんとしては、大学進学を選びます。


ちなみに、ここで、プロを目指さない俺はなっちゃんと一緒に歩いて行けるパートナーではないよね?という、それほど重くなくさらっとウルトラ重いことを電話で聞いたときに、なっちゃんが「うーん、、、でもなにがあってもえーちゃんは、えーちゃんでしょ?」という返しは感動したなぁ、、、本当に愛というか相手を思いやる関係性が積み重なると、その人の外面的な肩書や結果って、二次的なものになってしまうんだよねぇ。だからえーちゃんは、凄い赤面しているのは、本人たちも気づいていないけれども(作者は気づいている)これって、とても深い愛の告白だからなんだよね。えーちゃんが、照れてしまうのはそういう意味。いやー作者上手いです。これも、相手の外面や結果が好きなのか、相手自身の持つ内発性(=その人の動機の根源と構造)が好きなのか、というとても大きな違いの問題です。


えっとはなしがそれています。重要なのはそのあとで、えーちゃんが、コーチに周りの人間に誠実になることも重要だが、自分自身の本当の気持ちにも誠実にならなきゃいけないんだ。自分い人はうそをつきたがる生き物なんだ、というようなことを言われます。これは、感動的なよくあるセリフですが、この文脈で読むと、すごい物凄い深い意味を持つことがわかるでしょうか?。『ベイビーステップ』の文脈で言えば、この作品は、自分の中にある内発性を重要視している作品であることが、僕はずっとこの作品を注目しているポイントです。僕の言い回しで言うと日常の目的も希望もない中で続ける『それ自体が楽しい』積み重ね・クンフーのことです。ベイシックスキルの記事群でもスポーツ漫画の系譜でも、僕が言う「新しさ」という部分は、この目的意思を持たないで行為を積み重ねられる強度が、目的意識が社会的に共有された高度成長期の時代背景とのずれというのが、僕のいつもの分析のポイントです。スポーツ漫画としては、こうした目的(大会で勝つ!)というような『巨人の星』的な目的や結果を至上価値とする、、、いやもう少しいうとトーナメントの中で一番に上り詰め勝ち抜き強者になる「成長」を目指す高度成長期的な生き方と、そうではなく、目の前の「手ごたえ」(=目的とリンクさせない)に根拠を置く生き方との対比がすごく重要だと僕は分析していて、その中でも、ベイビーステップは、強烈にこのことを体現している漫画、物語です。その文脈の中で、何度も出てくるポイントが「自分の本当の気持ちに正直になる」というポイントです。以外に、人間はこれをすごく忘れるようなのです。最初は肉体的な意味で、自分の肉体が好むことと、行動というのは意外に相反したり複雑に反発する反応を示すので、それをよく見ようという話でした。しかし、今回のは、プロになることの決意についての話は、まさに上記でずっと書いてきた、日本人は他者の関係性を意識しすぎて、自分の本当の気持ち(=内発性)を無視してしまうという傾向を凄く付いています。


ただしここで難しいのは、えーちゃんの内発性には、根拠があります。どういうことかというと、テニスをする、プロになる、というのは自己決断で決断しており、そしてその決断を「事実にする」というプロセスが経験としてある部分です。えっと、なにをいうかというと、ワナビー的な、俺はまだ本気を出していない!的なものってみんなよくいうんですが、言葉や決断なんか意味がないんです。どれだけやったか?なんです。You are what you do.なんです。行為の積み重ねしか、世界も自分も変えない。内発性を、自分の意思とだけ取るとだめです。意思と行為がセットになった時間的に積み重ねた「重さ」と「量」が。これにあたる。なので、えーちゃんのプロになるという、ここでの決断には、物語を読んだ人はよくわかると思いますが、エーちゃん自身も自分の心の中に蓄積されている「経験の重さ」「重いとこういうの重さ」は、無視できないほどの厚みがあるのです。見ている我々だってそれは強烈に感じるはずです。みんな、この背後の裏打ちされたこういうの蓄積なしにドーピング動機を捏造するので、人生が失敗します。よく、俺は社長になる!とかそういう動機が重要みたいな自己啓発セミナーとか自己啓発本を読んでみんな、俺はできる!とか思いこみたがりますが、あんなの無駄です。自分の積み重ねの「結果」として、動機に裏打ちがされなければ。動機もくそもないんです。習慣化された素振り、クンフー、行為の積み重ねだけが、自分と世界を変えていくんですから。


まぁそこは置いておいて、僕のこの記事の文脈からいうと、日本社会は自分の内発性を重視するという伝統がとても弱いというのがあるということです。いろいろな理由があると思うので、この部分の系譜や歴史的構造、社会科学的評価、、、、そういうのも追っていきたいとは思うのですが、いまはそこまでいっていないので感想なんですが・・・・ちなみに、この内発性がないのに、空気に従って社会の、大衆の、クラウズ(群衆)の、無限責任と要求にこたえようとして自滅していくリーダーというのは、『ガッチャマンクラウズ』のるいるいであり、『東のエデン』の滝沢君であり、上記のポピュリズムにつぶされて狂っていくリーダーの系譜です。また、ヒーローの系譜にも同じ構造があって、内発性がないのに英雄たろうとして空っぽな自己に気づく物語類型は、まさに『ココロコネクト』の以下の記事で指摘した話です。


『コロコネクト ユメランダム』 庵田定夏著 あなたには思想がない〜Fate/staynightの衛宮士郎のキャラクター類型と同型(3)
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20121030/p2


ココロコネクト7 ユメランダム (ファミ通文庫)

ちょっと記事を書く時間がなくて寝かせすぎてしまったので、『ココロコネクト』の具体的なテキストを引用しながらできなくなってしまったので、超わかりにくくなったし、その割には抽象的な部分の思考が進んでいないとっかかりなんで、わかりにくいと思うのですが・・・・何となく???と思う人、この系譜を知りたいと思う人は、あげられている本を、、、特に、『採用基準』は必須ですよ。すごく有用な本です。読みやすいですしね。


まとめきれないですが、、、、日本社会には、特に日本社会の凝縮点であるスクールカーストの世界では、内発性を無視しやすいという傾向がありこれが、構造としての重要なポイントになっている。社会的には、こういうものを生み出すような社会的教育装置を作っていくことが、日本社会のマクロトレンドとしてぜったに重視されるようになります。また同時に高度成長が終わり、成熟低成長、ずっと衰退していく100年のフェイズに入った日本社会(先進国すべて)においては、社会的に共有される「立身出世」言い換えれば少年の夢が単純には見れなくなりました。社会的に合意できる巨大なマクロの目標が消失した時代なんです。わかりやすいフロンティアがない時代と言い換えてもいいかもしれません。こうした社会では、成熟の方法が模索されるようになると僕は思っています。どうやって?。この目的レスの成長していかない世界を生き抜いていくことができるのか?。それは結局、「手ごたえ(=個々の中にある根拠のない内発性」に戻るしかないということなんだろうと思います。上記のスポーツ漫画のトレンドの方向性や宮明駿の『風立ちぬ』だって、ようは、自分の本源的に好きなことに人は戻るしかないという決意表明です。「そこ」を明確にする方法、「そこ(=内発性)」を作り出す方法とは何か?ということです。そして、にもかかわらず日本社会、先進国のポピュリズム社会は、個人の内発性を摩耗してすりつぶす傾向があります。ではどうするか?というのが大きなマクロトレンドのテーマになるんじゃねーの?というのが最近僕の意識です。



ココロコネクト』 庵田定夏著 自意識の病の系列の物語の変奏曲〜ここからどこまで展開できるか?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20121003/p1

ココロコネクト ミチランダム』 庵田定夏著 伊織の心の闇を癒すには?〜肉体を通しての自己の解放への処方箋を (2)
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20121126/p1


『コロコネクト ユメランダム』 庵田定夏著 あなたには思想がない〜Fate/staynightの衛宮士郎のキャラクター類型と同型(3)
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20121030/p2


やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』 渡航著 (2) 青い鳥症候群の結論の回避は可能か? 理論上もっとも、救いがなかった層を救う物語はありうるのか?それは必要なのか?本当にいるのか?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130603/p2

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』  渡航著 (1)スクールカーストの下層で生きることは永遠に閉じ込められる恐怖感〜学校空間は、9年×10倍の時間を生きる
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130406/p2

ヒミズ』 (2012年 日本) 園子温監督 (1) 坂の上の雲として目指した、その雲の先にいる我々は何を目指すのか?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130419/p1

ロマンチックラブイデオロギー解体の視点で恋愛を描いた物語を眺めてみる(1) あなたにキラキラはありますか?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130405/p1

第12話 「僕は友達が…」  そうか、恋人じゃなくて、友達が欲しかったんだ!これはびっくり目からうろこが落ちた。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130329/p1

マリア様がみてる ハローグッバイ』 今野 緒雪著 ついに祐巳・祥子編の終わり、大好きだが一点不満があります!
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20090110/p1

モテキ』 久保ミツロウ著 本質のコミュニケーションか・・・
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110611/p6