『GATCHAMAN CROWDS』 中村健治監督 ヒーローものはどこへ行くのか? みんながヒーローになったその先は?

GATCHAMAN CROWDS   Blu-ray BOX

評価:★★★★星4つマイナス
(僕的主観:★★★★★5つマイナス)

読了。海燕さんに紹介されて無理やり見たが、うん、見させられてともよかった。総合評価は微妙、といったところ。・・・のわりには、かなり高い星の数だけれども、、、。物語としてこの作品は、カツェにはじめちゃんがどう対処するか?がコアなはずだが、そこはカタルシスある形で描くことができなかったので、完全無欠の傑作とは言えない。もちろん、ここでの「対話を続ける」というのは、現時点での最高峰の答えなので、間違ってはいないのだが・・・・しかし、仕組みとか抽象的にすべてがいいといっても、感動した!面白かった!とならなければ、エンタメとしては、いまいちだ。


すごくいいのだ、、、しかし、無制限にいいとはいえない。無制限に僕がいいといえるのは、大体に二パターンあって、個人的に刺さったので、とにもかくにも細かいことや問題点がどうでもよくなってしまったケース。大体の場合、キャラクターがかわいくて、あはまってその人の物語がうまく書かれていると、背景とかどうでもよくなるんだよね(=つまりはミクロが素晴らしい)。もう一つは、ペトロニウスとして、評価する意識で、マクロ面とミクロ面のバランスが高い水準で一致している!と感じた時。この場合は、僕は「ペトロニウスの名にかけて傑作です!」というフレーズで書くケースが多いです。この場合は、ほんとにすごい!と思ったときのみですね。


この作品が微妙というのは、珍しくどっちのケースでもない、という感じ。


というのは、どっちかというとマクロとミクロのバランスが良い系統の、ウルトラ傑作の文脈で語るべき話なんだろうけれども、『C』の時も思ったのだが、この中村健二監督は、とってもマクロ側の表現によってしまっている人で、ミクロがとてもおろそかになってしまい、テーマ自体の文脈性、その追求は素晴らしいのだけれども、いまいち共感に欠ける。もっというと、このキャラクターがかわいいーーとか萌える〜とかそういうのがない。全話見たが、やはり、そこらへんのミクロのキャラクターの「積み上げ」関係性の積み重ねが、やはり得手ではないんだなーと思う。とはいえ、『C』は、僕は、僕の趣味あるんだろうけれども、ぜんぜん好きになれなかったんだが、はじめちゃんは、とてもいいキャラだったと思う。細田守監督のように全然内面描けなくても、物語を見事に構築する方法もあるわけで、必ずしもキャラクターの内面をもっと描け、とか関係性を積み重ね、というような教科書どうりの素人意見は多分役に立たないだろうけども、まぁ、やっぱ、全話みると、そこがいまいちだよなー。12話しで冗長にまとめないようにするには、というか終わらせるには、このスピードぐらいないと難しいのもわかるけどなー。


・・・・くさしてばかりですね、、、、。


でも、この作品は、すごいなんというか文脈が痛いほどわかっている上に、それをアニメーションのエンターテイメントの文脈にドンピシャで標準を合わせている作品です。その「凄さ」は、トータルではいまいちであっても、消えるものではないと思います。


ヒーローものの物語類型をどう見るか?、どういう文脈で批評するか?という視点のオンパレードです。また、現在のエンターテイメントの水準で表現できる類型のギリギリの最前線がコンパクトに、わかりやすくまとまっています。これは、個人的に、これから物語を作る人の教科書的にぜひ見込んでほしい作品だなーと思います。橙乃ままれさんの『まおゆう魔王勇者』のメイド姉の話とか、もうこのブログでは今更なので、ヒーローの文脈の話(=脱英雄譚の英雄譚の類型)は、書いていると長くなるので端折ります。下記の結論や流れに「至る」話は、別の記事を読んでください。


ヒーローになるにはみんなでなればいい!=ヒーロー一人だけに責任を押し付けるな、という大きな前提が今のヒーローものの文脈にはビルトインされています。このテーマは様々な展開を、それぞれのお国柄や文化の動向によってスパイスが違いますが共通の文脈になるように思えます。


この前提は、ヒーローものをつくろうとしたときに、どこが人々に受けるか?のコアの部分、勧善懲悪であり、名もないヒーローがスカッと世界を救う部分のカタルシスのコア中のコアと、真っ向から反対するものなので、ちゃんとこのヒーローものを、表現者として表現しようと当事者意識で引き受けて反問していないと、通常のロジックでは全く出てきません。言い換えれば、マーケティング的な、コンサル的な、といってもいいのですが、論理ゲームで考えると、そもそも反発している話なので、「ヒーロを一人にしてはいけない」という文脈をわざわざ付与しようとはまず考えません。なので、普通にまじめに組織でたぶん協力してロジカルに作ると、これ無理やり入れようとしないんだと思うんだよね。・・・・新製品でいいものがなかなかマーケティングやロジックや組織から出てこない理由ととても似ている。僕も考えてて気づいたんだけれども、会議でこのテーマだしたら、絶対通らないと思う。まず、コアの価値に反発するマイナスのものだし、なによりも、結論がない(=売れたり受け入れられる保証がない)から、こんな脚本プレゼンできないもの。


さて、先に進もう。


GATCHAMAN CROWDS』は、物語の出来としては、もう一歩ではあると思うのだが、しかし逆に言えばこれだけ先鋭的なテーマをエンタメで成立させて、ぎりぎりパッケージになっているのは、中村健二監督の凄腕だと僕は思う。なので、次回作には、凄い凄い興味津々だ。


特に、いくつか新しい進捗が見れる。



一つは、みんなをヒーロにーする!と考えたときに、どうやって?という問いには、


ネットで善意を拾おう!それを収集するアーキテクチャーを作ればいい!


という方向があった。


これは既にあったものですね。けれども、この「隠れたアーキテクチャー」は、Xが乗ったられたように、アーキテクチャーが、どこかでシステムを集中管理す限りは、それを管理する、指導する執行部が悪に染まったり乗っ取られれば、容易に世界把握に導かれてしまうという問題点がありました。


よくある、マザーコンピュターを乗っ取られたら、アウト!というやつですね。



これに対しては、はじめちゃんとるいくんは、はっきりと対処方法を、出しています。それは、


すべての人に情報公開をする


ということです。クラウズ(群衆)は無軌道ですが、すべての情報公開をしたうえで、ある程度、方向性を集約すれば、基本的には善意ある存在が人間だ、という人間に対する信頼があります。



これ、2ちゃんとか悪意ある匿名性ばかりある少数のラウドマイノリティではなく、全員に背景と情報をすべて公開して共有して、課題・問題を投げかければ民意は、ある程度集約的にポジティヴな方向に行くと宣言しているわけです。




思想的に、政治思想とかで、これが正しいのかどうかは置いておきましょう。少なくともエンターテイメントの最前線の文脈で、



ヒーローを一人にするような倫理的に卑怯なことはしない


ヒーローが本当にヒーロー足るのは、自らのヒーローの義務を他者とシェアした時だけだ



というような現代的ヒーロー文脈の流れからすると、ネットのインスパイアなんだろうと思いますが、ネットのようなアーキテクチャーの構造を用いて、より広くの善意を募る仕組みで、世界の責任を広く薄くして、苦しみと課題をシェアしよう!という元気玉的な発想です。


しかし、るいくんがXをカッツェに乗っ取られて、逆にそのアーキテクチャーを使って悪意や犯罪を拡散させたり、そもそも、ヒーロー足る意思(=内発性のある意思)を持っていないクラウズ(=群衆)にそういう道具を与えるほうが、よりひどいことへ混乱や犯罪に向かってしまいなにも世界にとって善意ある形のことは起きないという身もふたもない現実が発生してしまいます。


そこではじめちゃんが、身バレすればいっすよーーーってテレビに正体を明かすんですが、これは、なにかといえば上記で言う情報公開をしているわけです。情報の非対称性の問題とか言いますが、まぁ要は、適切な判断をするために「適切な情報」が利用可能な状態で手元にあるかどうか?ってことなんだけれども、一般の大衆・群衆には、そんなものないよね?。


プロフェッショナルな判断は、プロにしかできない。たとえば、医者を考えてみよう。また日銀の総裁でもいい。人の命や世界の命運を握り人の判断は、専門的な知識と、それの長期の訓練、また巨大な組織のバックアップなどがなければ、なしえません。また、その巨大な判断の担保するために、彼がその権力を行使す上での、選出のプロセスが非常に重視されます。首相の決定も、どんなに陳腐でも、彼が選挙で選出されたからなしえるわけです。


しかし、大衆には、そんな能力も選出のプロセスもありません。なので、彼らには権力の行使の権利が与えられません。そんなのいちいち与えていると、世界が混乱するし、なによりも、衆愚ということで研究されていますが、基本的に民衆に権力をばらまくと国はすぐ壊れます。ギリシア古典の歴史からドイツのヒットラーまで、衆愚政治の果ての独裁者のプロセスは、すでに理論的に証明されているといってもいいくらい、自明のことです。


けれど、、、このXのシステムは、善意をクラウド的なシステムによって、最適配分する、最適判断するバックアップが巨大コンピュターとソフトウェア、ネットワークでできるのではないか?と考えているわけです。これは、現代ネット社会の希望の最前線ですが、ようは、衆愚になるのは、適切で使える形に情報の最適配分、判断をするのが、そもそも無理なんで、共和制的な一部のプロフェッショナルな人間にマクロは運営させるのが正しいというのが、人類の大きな流れです。


マキァヴェリアン・モーメント―フィレンツェの政治思想と大西洋圏の共和主義の伝統
マキァヴェリアン・モーメント―フィレンツェの政治思想と大西洋圏の共和主義の伝統


しかし、ネットワークとソフトウェアの技術的な方法で、何とかなるんじゃねぇ?そういう情報の非対称性は?という希望が、あるんでしょうね。ちなみに、現実には全く無理、という論調が基本で、世界的に国家の機能が強まっている傾向がある気がします。単純に国家主義に戻るのではなく、そもそも帝国化する企業が、世界をグローバルにならしてしまって協会がめちゃくちゃ曖昧になっていることへの強烈な反発として、国家機能の再定義が始まっている気がします。また結局のところ、ファガーソンが論じるように、法の支配にまさるマクロ管理手法が、まだ人類にはないんじゃねぇ?とかいうのが、いまの大きな流れですねー。


劣化国家


とはいえ、できない!と結論付けられたわけでもなく、ネットワークの技術が、世界の在り方を変えつつあるほどの大きな流れになっているのもまた事実。ここは、ではどう描くか?というのは、まだまだ注目のポイントでもあります。



さて『GATCHAMAN CROWDS』の最終回は、はじめちゃんが、ガッチャマンの正体をメディアで明かして情報公開することで、なぜそういうことが起きているのか?。


また、それを解決するべくデリゲート(=権限移譲)されたヒーロー(=ここではガッチャンマン)や内閣総理大臣らの、スペックの上限を示します。その内発性(=動機の在り方)までも含めて。


どういうことかというと、まさに情報公開です。今回の人類の危機に対して、対処できる技術レベルは「ここ」までですという「事実」を公開するのです。理由は、まず一つは、期待しないでね!!!ということ(笑)。できることには限界があります。匿名性の群集の問題点の一つは、当事者性がないことです。誰かがやるだろう!と考えて、自分がしなければいけないという行動と意思を放棄するのが、大衆です。近代社会は分権社会なので、このように分業するのは、効率を高める上で正しい行為で、それぞれの人にはそれぞれの人生があり、好きなこと特異なことに集中するのが近代の分業社会なので、何も間違ったことではありません。しかしながら、そんなこといっても、そもそも、解決不能な大問題は、たくさんあるのです。現代の科学レベルでは判断できないもの、また価値判断によるものなど、共和主義的なクンフーを積み上げたプロフェッショナルでも、そんなこと無理って大規模な難題はたくさんあるのです。


ここで、共和制的なプロに任せてというのは位相が違う話で、オープン・イノヴェーションの考え方があります。


世界の知をクラウドで集め始めたグローバル企業
http://blogos.com/article/66914/

ユニバーサルサービス」こそ、イノベーションとクリエイションの源
http://blogos.com/article/71117/?axis=b:92


重大な結果を招くプロが必要な領域を、囲い込んで権力を独占させて、クオリィコントロールするという発想と、こうしたより広くユニバーサルに広げていこう「仕組み」をつころうというのは、どっちも実は同じことを目的としている進捗の度合いと僕は思っています。


ただ、傾向として独占している場所に生息する人は、基本的に既得権益の亡者になります。また、ユニバーサルでオープンイノベーションを志向する人は、現状価値の破壊者的な革命者として、現在をずたずたに壊します。どっちも、その弊害はとても多きいので、単純にどっちがいいとは言えないし、どっちも、物凄くつ強い運動として存在しているので・・・・まぁ人類の推進力なんかは簡単に止められないよね(苦笑)。なので、この二つの大きな流れは、究極的には同じことであっても、局面、現実では、全力でのガチバトルになるだろうなーと思う。


えっと話が行き過ぎた、はじめちゃんが、期待しないでね!といったのは、スペックなど情報を完全公開するので、現状のトラブルに対してそれで対処できるかどうかはあなたが判断してね!といっているわけです。



それに対しての課題・目的・トラブルは、人類の滅亡(笑)。



もし、スペックを見たうえで、ガッチャマンや日本政府に任せるのなら、それはOKだよ。ただし失敗したら、人類滅びちゃうので、それも了承してね!ってことです(笑)。だって情報は公開しているから、隠しているわけでもないし、それに対するリターン(報酬)とかも、少なくともガッチャマンにはないし、日本政府や自衛隊でも給料分だけだけどね!ということで。ちなみに、税金払わないと、公共機関も動かないっ!って感じで(苦笑)。殺されそうになっても、警察行かないっ!ぞ。全部公開しているので、わかないとか、いわせないぞっ♪。って感じです。


これが、情報公開の真意です。


完全に情報を公開して手元で利用可能にしているので、その責任はあなたが持つんだよ!ということです。まずはこれがないと、支配されている!とかそういう陰謀論になってしまうし、そもそもヒーローが、裏から世界を都合のいいように守る(=資源配分している・優先順位を決めている)というヒーローの既得権を益を独占して守るこういうになってしまいます。今のヒーローはそれほど得はないですが、それでも、世界のどこを優先順位をつけて守ろうか?とか、人類の滅亡に関する情報を独占して優先して閲覧しているという既得権益!があります。それも、全部公開しよう!という話です。


ちなみに、共和主義的伝統では、判断能力のない群衆に情報を公開するとパニックになって秩序と共同体が壊れるので、それはまずやってはいけないことです。だって方針も、実行も決まっていない中で、情報だけ垂れ流しても、どうにもならないでしょう?。フィレンツェとかヴェネツィアとかの共和主義的な伝統からすると、ある程度貴族、執行部が権力を握り、その中での権力の制限(法の支配)を行って新陳代謝を行う方法が、もっとも国が安定して長く続くと考えられていました。そして、たぶん現代の国家論のトレンドでもあります。


さらに、カッツェの悪意をまき散らしてネットの内発性の低い人間を集団で扇動したことにたいして、上記の情報公開を前提として、その権力も情報もすべてをネットを媒介にばらまくという手段にるいはでます。ここでの問題意識は、みんなをヒーローにするためにネットで拡散・リクルーティングすると、内発性の低い奴らも一気に参加してくるけれどもこの無意識に近い悪意をどうするの?という問題です。さらっと描かれているますが、Xの生み出している運営しているシステムは、善意をカウントして、それによる地域・限定通貨的な有用性を持つ形にして、そのポイントを獲得する評価社会的なシステムになっています。


評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている
評価経済社会 ぼくらは世界の変わり目に立ち会っている

これって通貨のような市場を機能させる機能を、評価に関しても機能させようとする仕組みを構築しているということになります!。ここ、すごく斬新なんですが、最後なのでさらっと流されていましたね。


なので、この立川の戦争された群衆の匿名性の悪意を駆逐するために、情報公開をして、すべての人に情報を与えた後、好きなようにその権力(=クラウズの機能)を行使する権利を与えます。


しかし、、、自由にはあたえていません。


一見自由に好きに使ってと与えているように見えますが、このギャラックスというシステムは、善意をポイントで稼ぐと、そのポイントが評価・レピテーション・限定通貨として帰ってくるということで、そのトータルが世界を善意によってアップデートして当事者として生きる価値のある市民的生き方であるという思想が設計されています。


そこで、悪いクラウズを倒すゲームアプリが、個別の開発者で自由に開発されたりして、ゲームとしてどんどん個々でインストールされて、という最適化が起きています。市場では悪貨が良貨を駆逐してしまいやすいですが、きちっと整備された市場にある程度の設計思想が機能されていれば、安定した神の見えざる手が機能するのは、すでにわれわれは歴史的な知見を持っています。



このギャラックスの評価を制度設計された市場によって自由に機能させる・・・・これは、もっとも人類にとって重要な「他社の視線評価(=社会性、秩序)」の価格が何によって決まるか?という、そもそも殺し合いで権力と武力によって決まっていたものを、市場という機能に置き換えることによって人類が発展してきたことと同じことをしようとしているんですね。ようは、価格決定のメカニズムというものを、需給で適正に配分する市場を制度設計してやれば、全体的に最も少ない資源で、巨大な広がりをすべて網羅することができる。ソ連の計画経済や共産主義的な、設計主義的なものは、この市場の持つ圧倒的なコストの低さと大規模な機能に、太刀打ちができませんでした。


というお話。


しかし、最後のギャラックスの制度をどう設計しようか?という部分



この制度を設計するというところに悪意が潜むこと自体は否定できません



また、悪貨が良貨を駆逐するように個別に悪意が善意が上回るような突発の熱狂をどう管理するか?



さらには、アダムスミスが、『国富論』のあとの『道徳感情論』で描いたような、市場の制度設計にビルトインされている人間像の思想そのものを、どこから調達するのか?(=教育しかありえないんですがね・・・・)



などなど、そこの部分は、描き切れていないし、、、、別に抽象論を見るならば、本を読めばいい。わざわざ物語を見たいのは、そこでどのようなミクロの人生が描かれるのか?です、、、、それは、まただまだったなー。



GATCHAMAN CROWDS中村健治監督 見始めました。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130822/p2

物語三昧:絶対悪とは、時間軸のない(弱い)物語であり、目的はテンションの転換であって世界を再現することではないのでは?】
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20090616/p3

西暦2013年の最前線。『ガッチャマンクラウズ』がテン年代のコンテクストを刷新する。
海燕のゆるオタ残念教養講座
http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar322009

【絶対悪ってなに?(´・ω・`)悪の化身編】
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魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」 ママレードサンド(橙乃ままれ)著  

その先の物語〜次世代の物語類型のテンプレート (1)

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『放課後のトラットリア』 その1 異世界トリップものコアの一つは、世界をもう一度インプロヴィゼェーションに戻すセラピー効果

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130315/p1

『放課後のトラットリア』橙乃ままれ著 その2 結局人間理解の幅と観察力の差が、筆力の差を生むのかも

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130319/p1