『異世界迷宮の最深部を目指そう』 割内@タリサ 著  魂が求める自由を探す時

異世界迷宮の最深部を目指そう 1 (オーバーラップ文庫)


異世界迷宮の最深部を目指そう
作者:割内@タリサ

http://ncode.syosetu.com/n0089bk/

評価:★★★★☆星4つ半
(僕的主観:★★★★★+α5つ)

126話まで読了。ほんと、なろうの上位って、はっきりいって、下手な商業のライトノベルや小説よむより満足度がはるかに高いのがあふれているし、多様だし凄いなーと思う今日この頃。なによりも、量が多いというのもいい。長い奴を2-3個読むだけで、ライトノベル30−40冊分に簡単になる。ぼくずっと(ってまだ2週間)、体調悪くて(風邪が抜けきらないーーー)、余裕があるとぼーっと身体休めるんだけど、このごろ、そんときにずっとなろうの小説が、心の支えです。てれびん、さんきゅー。特に疲労していたり病気の時は、外に買いに行くのも苦しいものね。


しかし、またいい小説を読んだ!!!。素晴らしい作品です!。127.「親愛なる貴方へ」まで、胸アツで、最高だった。ってまだ続くけど。ちなみに、僕は、なろうの小説は、そうはいっても、どうも★5つつけるのに抵抗があるみたいなんですよ。それは、僕の物語の評価基準のコアが、マクロとミクロがバランスよく交錯する物語というのがあって、非常にミクロに特化していて、マクロの設計、およびマクロがどうミクロと重なるかの設計が複雑になされている物語でないと、物語(=世界がそこにある)という風には認めないようなんだよね。僕の勝手な自己基準。なので、日常系の物語は、気分的にどうしても、★が下がってしまう傾向がある。これはいつもいっていることですね。その面白さがどんなにダントツであってさえも。けど、例えばこの作品は文句なく★5つが出るんだよね。これ、話が日常垂れ流し系に比べると段違いに構成が複雑だもん。Re:ゼロもそうなんだけど、マクロとミクロの交錯をするためには、プロットが複雑にならざるを得ないだろうと思うんだ。その複雑さが、長く読んでいると主観的な文章であるにもかかわらず強く実感されてくる。そうすると満足感を覚えるんだろうと思うんだよね。「世界がそこにある」条件の一つとして、長い物語であるというのも、実は重要な要素。もちろん長いのは、冗長でうざくなりやすいし、描写力が優れていないと文字数が多くなると極端に読みにくくなる人も多いので、これはとても難しいスキルなんだけどね。「世界がそこにある」というような臨場感と実在感を感じさせるには、文字を読む行為がストレスになると一発で覚めてしまうので、感覚と描写がずれにくいような技巧がすごく要求されるのだ。そして、主観系だと「垂れ流し」の言葉通りに、特に全体の構造を俯瞰せずにそのまま描写する形と、そうはいっても、実は見事な神の設計がされているんだけどあえて主観で感情移入しやすいように「垂れ流し」形で作るのと二つタイプがある。Re:ゼロは、圧倒的にこの後者。この複雑な構造は、見事!と叫びたくなる。『無職転生』もそうだね。そして、この最深部も、そう。


とはいえ、今、主人公は、30層まで到達したが、そうとう物語が進んだにもかかわらず、次の目標をどう見せるのか?というのが、実は不安。Re:ゼロの時もそうだったんだけれども、あれは3章のレムの話があまりに素晴らしすぎて、これ4章以降かけないんじゃないか?という危惧が生まれたので満点つけられなくなったんですよね(Re:ゼロは、それも越えて素晴らしすぎて、満点だったけど・・・・)。ここの迷うポイントは、素晴らしい物語は、うまく収束させてこそ文句がない点数だ!というルールも僕の中にはあるようで。まぁ、不安といっても、これだけの超ど級の物語を見せてくれるんだから、大丈夫だとは思うけれども、、、でも、連載途中は何があるかわからないと思うので、とりあえず少し減点気味で。まぁ、たぶん次の章がある程度描かれたら、すぐ消える杞憂だとは思うけれどもね、ここまでかけるわけなので。


にしても、剣士ローウェン・アレイスの物語は、超ド級だった。剣士の話って、いい話が多いなぁ、と思った。僕が大好きな『Re:ゼロから始める異世界生活』の第三章60に出てくる『ヴィルヘルム・ヴァン・アストレア』も素晴らしい話だった。これ本当に泣けるよ。。。。剣に賭ける人生、というのは日本人にとっては、類型的にいいものが出てきやすい生き方なのかもしれない。沖田総司も、千葉周作も、宮本武蔵も、そうそうたる物語があるわけだしね。リアルの歴史で。剣士という話の類型が、日本にはあるのかもねぇ?。『無職転生』のエリスもまさに剣に命と人生をかけているよねー。

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それにしても、ローウェンの性格が最高なんだよね。剣と理想に生きる−−−−−という壮絶な人生を生きながら、実は、ほんの小さなことで満足して成仏しかけてしまう、このミクロに生きる心の豊かさ。。。。素晴らしい、と泣けるよ、、、。それが戦場ですりつぶされて使いつぶされて死んでいったとか、、、、。ふとずっと、『Fate/StayNight』のアーチャーを思い浮かべていたよ。

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彼の生き様は、これは、全体的に、この作品の主軸をなすドラマトゥルギーの一つとして出てきているんだけれども、家(=貴族のノブレスオブレジュ)とか人生のしがらみによって、本当にしたいことを見失って、義務と役割の中に閉じ込められて生きることがいいのか?って話。他のヒロインのテーマも主人公もすべてそう。


特に、「3章.報われない君が為に」の構成は、秀逸だよ。この人のほぼすべてのテーマが、このテーマに収束されていることがよくわかる。このへんの、演出の構成力は、ほんとうに見事だと思う。そこで主人公のベースとなるほんとうに大切なものから目をそらす楽園の世界にまどろむことを決然と拒否する意思は、非常に強いメッセージとして届く。たぶん、なろうの読者には、主観の視点からこれをやられると厳しいので、絶対文句が来ると思うのですが、いろいろな物語のできる経緯と結果を見て、間違いなく言えるのは、それは無視したほうがいい、どうでもいい意見だ!と思います。意味がなく厳しいのは意味がないと思うし、全く明るい世界観で描く(下記で言う桂かすがさんの『ニートだけどハロワにいったら異世界につれてかれた』とかね)ことだって悪くない重要な類型フォーマットだし、そういうことが見たいという人が癒しを求める部分は、もちろん否定していいわけではないとは思うんですよ(ちなみに、こっちもとっても面白いです!)。そっちが劣る、ということでは全くなく、赤裸々な欲望で、原初のエネルギーとか欲望を肯定する荒々しいプリミティヴな物語というのも、素晴らしいものですし、それこそが物語!とも言えます。でも、それは、ドラマトゥルギーの具体的な中身にかかわる。結局は、「コアで何が語りたいか?」という部分とのリンクや、その演出が同構造とリンクするか?とかそういうことのバランスなのでしょう。割内@タリサさんの描く世界は、そういうテーマを、そして目的と動機を主人公に付与しているので、それで厳しくならなかったら、そもそもおかしんだよ。それは偽善だもの。なので、この流れからいうと、このテーマを追求するには厳しくするのが正しいんだと思います(笑)。「3章.報われない君が為に」は、とっても厳しい。というのは、2章.「聖誕祭の終わりに」の構成からいえば、ラスティアラを救い、シスもそばにいて、マリアもそばにいて、やっとなろう的な、というか、ハーレムメイカー的なハーレムの安定が(ここにいるメンバーのすべての救済が終わっている)始まって日常イチャイチャが始まるんだよな!と読者が安心しかけた後に、もっとひどい話が始まるんだから、肩透かしに感じるのはわかるよ。でも、やっぱりそうじゃないんだ。作者は、自分が書きたいものとドラマトゥルギーの自然な展開に忠実だと思うよ。


桂かすがさんの『ニートだけどハロワにいったら異世界につれてかれた』が面白くて、うわーいっぱい読めたーと思っていたんだが、

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まぁ。両方とも、なろうの基本的な文脈である異世界転生ものの類型、まぁよくあるファンタジーものなんだろうけれども、前にも書いたけれども「群」で読むと、なんかいろいろわかって楽しい。これどっちも典型的な異世界に行く、ここではないどこかに連れていかれる系統の類型なんだけれども、長く書くと、作者の世界認識、対人関係の認識、生きることのへの目的など、そういう意識がまる代わりで出てくる。そうすると、ほとんど同じ話で、同じ設定で、同じようなことでも、全然違って見えるんだよね。


異世界に行ってチート設定、という基本は同じなのに、この世界理解の違いは何なのだろう?って。


まぁ、人間理解の差なんだろうね。『ニートだけどハロワにいったら異世界につれてかれた』は、とっても癒される。なろうの快感原則にとってもそっている。ジェットコースターもないしね。これ以外にもたくさんあるけれども、この二つを読み比べると、設定の違い「群」で読むことの「差異を見る」面白さがすごくわかると思いますよ。

ニートだけどハロワにいったら異世界につれてかれた 1 (MFブックス)

あと、Re:ゼロのレムの話もそうだけれども、厳しければ厳しいほど、逆に、ちょっとした時の心のつながりとかのシーンが、物凄いデレに感じるものなんですよねー。僕はそっちの方がいいです。そっちの方が、はるかに深く萌える。たとえば、いま、アニメでやっている『勇者になれなかった俺はしぶしぶ就職を決意しました。』とか、、、何にもないんだよね(苦笑)。いや設定はわかるけれども、設定で人々を巻き込んだ後に語るべき内容が、とても構造が悪い。僕は本を読んでいないので、そこまでダメだって言っていいかわからないけれども、、、、

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でも、これじゃーなーって。。。なんでそう思うかっというと、、、、アニメの方のフィノがっもうむちゃくちゃかわいいの(笑)。萌えのためだけといってもいいほど文脈ないので、見る価値はほとんどないと思うんだけれども、、、でもかわいいのっ(笑)。けど、、、逆にこれだけかわいいなーと思うと、なんか設定がひどいなぁって、、、物語のドラマトゥルギーが発動しないし、しても、このテーマじゃあぁ、、、と思ってしまうんだよね。なんか、かわいそうに思えてしまう。だって、それじゃ、生きていることに至らないもの、、、、。


生きているって、ほんとうの目標を探すこと、だと僕は思っている節があって、その世界観から、この作者、割内@タリサさんの世界観い凄く共感するのね。そしてそのための、第一ステージとして、自分の役割が世界と社会から何が与えられて、自分がどういう構造の中にビルトインされているかを知らなければならない!というのがあると僕は思っているんですよね。別に物語だけではなく、人生も同じ。


どういうことかというと、スノウなんかが典型的なんだけれども、彼女は、ウォーカー家という大貴族の責務を最後まで受け入れられないのね。これはこれで、僕は、ある意味、無責任だなと思う部分もあるわけですよ。彼女は養子ではあるけれども、彼女がその教育と生活を受けるには、国民の血税が使われているわけで、上に立つ者には、上に立つもの責務があるわけですよ。それを全然理解しようとしない彼女の姿勢は、僕には、自分がビルトインされている構造にむとんちゃくだ、と思う。それに比べると、ローウェンは、最後までアレイス家の、剣に生きる人生の役割を全うしましたよね、それはそれでとても胸が熱くなる。けれども、同時にとても悲しい人生でもあると思うんですよ。何が?といえば、自由(個人のミクロの人生が)がないんです。たしかに、非常に責任放棄で、ダメな生き方ではあるが、スノウ・ウォーカーが求めているものは、自由なんですよね。なぜ、束縛されないければいけないのだ?、一度しかない人生に、と。自由を考えるときに。。。。この辺対比があるのが素晴らしいんだよねぇ。




僕はこれを見るときに、『風雲児たち』の平賀源内や特に、悲惨な最期を遂げた高野長英の人生をすごく思い出すのです。風雲児たち』を読んでいると、高野長英の人間的な傲慢さや情の薄さ、そういうものを凄く感じます。なぜそこで、というような、極端な行動に彼はよく出るのです。はっきり言って、周りとうまくやれない態度の悪さも、傲慢そのものです。いくら天才的な才能があるとはいえ、、、。たぶん身近にいると、とても嫌な奴でしょう。けれども、長く彼の人生を見つめていると、、、、そこまでして、なんでそこまでして、自分を追い詰めていくような選択肢を、とるんだろう???というような極端な行動は、単純に、縛られるのが嫌いなんですよね。そのシンプルな行動原理は、シンプルで周りとの不和を招いてさえ、長い人生のスパンで見ると、切実で、、、、たったそれだけのことのために、、、と思わせるいじらしさと深さを感じます。実は、そういう束縛がないところでは、カラッとした、さっぱりな人なんです。封建制度の時代、周りの仕組みに合わせて自分を曲げられないまっすぐな思いは、そして才能は、ほんとうに生きていくことがつらいことだったでしょう。そして、日本社会は、徳川の社会は、彼の人生を追い詰めに追い詰めて、彼の業績も家族もほぼ抹殺して捨て去っていきます。・・・・・けれども、彼が残した業績は、日本を近代化させ、日本を世界に通用させる梯となりました。それは、彼が、彼の持つ自由への希求が、時代や世界の既得権益化したアンシャンレジームの向こう側ある「新しいもの」だったからです。・・・それを、外から眺めていたさまざまな同時代の人々は、たしかに高慢で態度が悪い奴だったかもしれない、でも、それは社会が彼を受け入れなかったからであり、彼の才能を認められなかっただけであり、もし「そういう社会」でなければ、彼は偉大なイノヴェーターとして、日本を指導する人材として評価されるべき人でした。

風雲児たち 1巻 (SPコミックス)

これね、、、ほんと長く読んでいるとわかるんですが、、、、そうか、『自由』ってこういうことなんだ、と思うんですよ。自由って、前に、「〜へ」の自由と「〜から」の自由の二つがあります、とフロムの本について書いたことがあると思います。


自由からの逃走 新版


ローマ人の物語』 塩野七生著 41−43巻 政治が不在の日本社会のこれからは?〜キャリアの複線化が人材育成の重要な仕組み
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110920/p1

僕は、基本的に「〜からの自由」というのが嫌いな人なんです。ようは、責任から逃げて、とにかく「拘束されること」を嫌うというシンプルな自由です。これどういう文脈で見たのかというと、僕は、1980−90年代に学生を送っているので、既得権益化した社会で、その既得権益に居直るたくさんの集団が日本を雁字搦めにして食い物にしており、、、その頂点にいるのが、左翼でした。もしくは社会党的なるもので、要は野党と自認して、与党として責任を取るということを最初から放棄している、ケインズ的なものをベースに金を要求するクレクレ集団という感じのものです。別に、こんなに露悪的に書く必要はなく、自由がなかった時代や、戦前の時代では、こうした左翼こそかっこいいことの代名詞でした。それは、国家なるものが、すべてをコントロールする封建社会から全体主義的なものがスキームであった時代であったので、そうした行き過ぎた国家の力から、民衆や虐げられた人の自由と権利をどう獲得するかが命題の時代であったからです。しかし、日本でいえば、高度成長が行き着き、ある程度、所得が再分配がす済み、中産階級が育った社会では、そうした左翼こそが、既得権益をアンシャンレジーム化して、不公平に富を収奪するということが起きるようになりました。そのなかで、責任も取らないくせに、自由ばかり要求するという構造が常態化した上に、、、その再分配するべき所得が未来世代からの収奪(借金や国債のことね)になって、、、、


・・・・・えっと、難しいこと言いすぎた、ようはね、僕は野党根性(=責任取らない無責任な自由)が大嫌いで、与党精神(=限界はあっても、責任を取り、結果を出す立場)の方にシンパシーを感じるんですね。今でもそう。どちらが正しいというわけではなく、好みや育ちの問題だと僕は思うってこと。そんで、僕はずっと、野党的な、役割から「今ある拘束」からただ逃げるだけを志向する精神というものが大嫌いだったんですよ。無責任で、見るに堪えないクズだ!って。それは、僕の批評というか、分析の履歴にもとてもあらわれている。

ランドリオール』10巻 セリフに凝縮された深み(・・深すぎる(笑))
http://ameblo.jp/petronius/entry-10034681174.html

Landreaall 22巻 限定版 (IDコミックス ZERO-SUMコミックス)


僕の記事の基本となっている考え方に、80−00年代ぐらいの間に、庵野秀明監督の『新世紀エヴァンゲリオン』を、わかりやすい代表例に、責任取ることを回避する、外側から決めつけられる役割を拒否するという傾向の分析があります。上記で書いたように、僕はこれをとてもマイナスのものとしてとらえてきました。特に、00年代から10年代に入る流れは、この物語の主人公となることを拒否する、責任をすべて放棄するという物語のドラマトゥルギーをどう脱却するか?が、重要なモチーフであったため、当然に、役割を拒否するに至った「経緯」についてのリスペクトは起きつつも、それでは限界があるよね、という表現の仕方だったと思う。


1990年代から2010年代までの物語類型の変遷〜「本当の自分」が承認されない自意識の脆弱さを抱えて、どこまでも「逃げていく」というのはどういうことなのか?

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100521/p1

世の中も、90年代以降は右翼と国家論の台頭の時代だった。なぜならば、左翼とケインズ的なバラマキが、既得権益のアンシャンレジームとなり、進歩と未来を壊す温床になったからだ。それまでは、所得の再分配こそが、正義だったんだけど、、、時代はまわるだよね。なので、僕は、素直に、この責任と役割の逃避、、、、フロムの言うところの「からの自由」に対して、とても嫌悪感を抱いていたし、基本的にはだめだと(理解するふりをする言説を交えつつ)思っていました。


けど、それが、上で書いたみなもと太郎さんの『風雲児たち』の高野長英の人生を見て、ひっくり返るくらいの自分のなかに大きなパラダイムの転換があったんですよ。一つには、ただ単に、拘束されたくない、いっさいに縛られたくないというシンプルな動機の原理は、人間に生得的な根源の動機の一つなんだ、ということがよくわかったこと。どういう意味かというと、この拘束されたくない!という自由意識は、役割や責任の拒否と逃走という結果を導き出すことが多いが、それは所詮「二次的な効果」にすぎなくて、ほんとうにピュアな本質としては、役割があろうがなかろうが、そういった外面的な環境要因に左右されることなく発動されることなんだ!ということ。


もっといいかえると、高野長英という人が、もし徳川時代ではなく、現代の自由が許される時代に生きていれば、たぶんスティーヴ・ジョブスのような生き方をしたであろう、というようなことです。これは適当な例ですが、ようは、非常にがちがちのボス山のサル的なムラ共同体という狭いいやらしい日本的ながちがちの徳川社会の封建的構想に圧迫にあったからこそ、高野長英は、非常に衝動的で、露悪的で、傲慢で周りとの不和を招いたいたけれども、、、、それは、彼の動機の根源が、強烈な抑圧を貸す社会の中で、どうしてもそれに対する抵抗を表すと、その時代の秩序を乱してしまうだけであって、別に「秩序を乱して他人を攻撃したいから」そういうふるまいをしていたのではなくて、どうしようもない魂の要請だった、というのが見ていてわかるからです。特に彼は、自分を抑圧する権威や拘束以外には、お人好しでお金を貸して逃げられたり、カラッとした本当にさっぱりした奴です。


もちろん区別は難しい。ただ単に、バカで人間が腐っているだけで、周りに抵抗する人もいるでしょう。でも、『風雲児たち』で、高野長英の生まれたから死ぬまでの人生のすべてを見ていると、彼がとても気高く自由を、拘束からの自由を求めた人であることがわかります。彼も、エヴァンゲリオン碇シンジくんと同じに「僕は乗りません!!」と高らかに宣言して、日本中を逃げ回った人でした。自分の幼馴染?の婚約者を、ずっと待たせたままで悲惨な目に合わせたごくつぶしでした。親からの薦められた縁談が嫌なんですね。家にも関わりたくない、、、、。まわりの諸先輩方や仲間に、おれは優秀だ!と叫んでいやな思いをさせる、テキトーな人物でした。しかし、彼のその責任を逃げ回る闘争の日々の中で、オランダ語の翻訳で『三兵答古知機』など、日本の近代化を進める偉大な業績を次々に上げていきます。彼が、しかるべき立場を得たら、もっともっと巨大なイノヴェーションを日本にもたらしたのは間違いありません。そして彼の業績は、家族すらもみんな悲惨な末路で死ぬような、そんなひどい仕打ちを受けるような、そんな小さいものではなかったにもかかわらず、、、、。


これを見て、自由のなかで、野党精神的な、、、ひたすら拘束から抜けること「だけ」を目的とする自由の在り方を嫌っていた僕は、そうか、魂の自由を求めるありかたというのは、こういう形もあるのか!と驚いたのでした。それは、ある一面だけを見ると、既存の秩序に抵抗して、周りに不和を巻き起こすものにすぎないとしても、それはケースバイケース。特に、社会環境が、既得権益で縛られて圧迫されている時には、強い輝きをもたらすものなんだ、ということがわかったんですよね。僕の生きた80−00年代の時代は、逆にそれが行き過ぎて、既得権益や公共財へのフリーライダーが蔓延った時代だった(今でもその傾向は根強い)ので、そうは思えなかったんですよね。これからの社会は、モザイク状に、どっちの在り方がいい、とは言えない時代に入っていっているのだろうと思います。与党精神的に、責任を重視しすぎれば、結局のところ他者を圧殺して弱者を切り捨てる独りよがりになるし、野党精神的に責任を回避して拘束からだけ逃げ回っていれば何もなせない既得権益フリーライダーが増加して社会自体が壊れて沈む、、、どっちが正しいという時代はもうとっくに終わったんだと思います。これからは、先進国が築き上げてきた国家が劣化していく時代になったんですから。

劣化国家 政治の起源 上 人類以前からフランス革命まで

・・・・・・話が長くなった(笑)。ようはね、やっともとに話が戻るんだけれども、スノウ・ウォーカーって女の子のドラマトゥルギーを見ると、ウォーカー家の家の強烈な縛りとのブレスオブレージュという家の縛りからの脱却という「からの自由」という側面と、彼女が人として一人で立つという成長と自立という「への自由」という、両方がセットされているんだな、と、思ったんですよ。たぶん、昔の僕ならば、責務から逃げているスノウはだめだとかいって、好きじゃないって切って捨てたかもしれない。でも、上記のような、拘束から逃げたい!と純粋に思う動機があり得るんだ!、そしてそれは、長きにわたって気高く人を輝かせるんだという物語を発見したぼくには、そうは思えなくなってきたんですね。なぜならば、いま書いたように、碇シンジには、その他になしたいこともなければ、他者とのつながりも(TV版の時にはね)なかったけれども、スノウは、そうじゃないんだよね。かなりダメダメではあるとしても(笑)。でもそういうもんでしょう、人間って。


そして、この作者の割内@タリサさんの物語の中の登場人物に付与してるここのドラマトゥルギーは、基本的には、運命を弄ぶな!、いいかえれば、偽りの幸せを拒否せよ、たとえそれが才覚の苦しさを直視することであっても真実を直視して、最も大事なものへ至れ、ということ。トムクルーズの『ヴァニラスカイ』とかジムキャリーの『トゥルーマンショー』を思い出す話ですね。

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それがとってもいいなーと思ったのは、、、ここではスノウの話し出しているけれども、すべての登場人物が、同じドラマトゥルギーを持っているんだよね。だからこそ、カナミ(主人公)に、他の人が巻き込まれていくし、ハーレムメイカー的に女の子が寄ってくる。けれど、これはカナミが、ハーレムメイカー的に女の子を救済しているわけではないし、依存しているわけでもないと思うんだよね。この辺の微細な差は、最近の最前線の物語は本当によくわかっているような気がする。


話がそれた。


ようは、スノウの話をこの例に出したのは、僕が上で言っている、自由へのとらえ方が両方ミックスされてこの物語のドラマトゥルギーが動いているってことが、とてもよくわかるんで、いい例だなーって思ったんですよ。スノウは、高野長英の上記の「人生をすべて見た上で俯瞰して」彼がただ逃げたいだけのやつではなくて魂が自由を求めていた人だったというのがわかったけれども、スノウは、別にそこまでじゃない。人生一局面しか(読者としては)見えていないわけだからね。まぁ、過去の繰り返しの人生の大失敗を設定しているところは、さすがわかっているなーとうなるけれどもね。そういう風に、スノウが、ほんとうに魂が自由を欲しているのか(=死んでも、自分が人生をすべて失敗する方向に行くとわかっていても、止めることのできない衝動という意味での動機)ってのは、わからないし、彼女が、この拘束からの自由を手に入れた後に、自立して生きていき「自分が本当に追い求めるものを探し出す」ことができるかは全然わからないんだよね。けれど、それは、大丈夫というのがよくわかる。それは、カナミが、他のヒロインが、下手をすれば脇役たちも、すべての人が、バランスよく両方を求めているからなんですよね。なので、物語の構造上、カナミに関わってしまえば、そういう方向に行かざるを得ない。おーなんというか、作者上手いなーって。


この自由ってどっちに偏っても、いまの時代では、もうバランスが悪いのね。ただ単に支配されたくない、拘束されたくないといわれたら、、、お前に責任取らずに逃げんのかよ?フリーライダーは許されないんだよ?っていわれる。かといって、じゃあ責任取るためにマッチョイズムになって英雄になろうとすれば、弱いものや秩序の合わないものを圧殺するのか!って話になる。この対比は、たぶん重要な概念わけなので、よく覚えておいてほしいなー。試験に出ます!。日常と非日常、「目的を持つこと」と「目的を持たないもの」の区別を作るときに、ほんとうにいいポイントは、ミックスされたグラデーションだというのは、もう実は結論が出ているんですよね。ただし、ミックスってただ混ぜればいいわけではなく、個別具体の状況とミクロの動機とマクロの仕組みに合わせて、どう組み合わせるかってことなんでしょう。

しかし、リーパーは僕の意を汲んでくれなかった・・・・・・・・・。


「アタシは・・・・『誰かに与えられた使命』に抗うからね、お兄ちゃん」


 リーパーは誰も見ていなかった。
 ただ、空を見つめて、自分のことを話す。


 どこか苦しそうに、自分のことだけを話し続ける。


「絶対に『自分の願いは間違えない』から――」



3章.報われない君が為に
99.相川渦波が手に入れた決意


このリーパー(死神)の女の子の話なんか、まさに見事ですよ。マリア・ディストラスやディアブロ・シスの話にしたって、どれも、支配から拘束からの自由を経て、では、どう自分の本当にしたいこと、目的へ至るべきかという問いが全編に走っている。うーん、いい。僕は、思ったのは、主人公が追いつめられる鬱展開こそを僕は望んでいる!!ということでした(笑)。僕が愛してやまない、基本形の物語として『マブラヴオルタネイテブ』があがるのも、なんというか、主人公の生きる欺瞞が告発されてこそ、人生だ!というような、とってもマッチョイズムな価値観が僕の人生哲学の基本のようなんだよね。

マブラヴ・オルタネイティヴ(通常版)


なので、★5つ級です!。久しぶりに凄いいい小説を読みました。


続きが楽しみです。


まだまだ書きたいことあるけれども、とにかく、とりあえずは、これであげておきます。