シェアードワールドの厚みを体感する物語群

コードギアス 亡国のアキト 第1章 [DVD]

先日(といっても、もう3か月はたっているかな?・・・・)、コードギアス亡国のアキトを第2章を見に行った。シェアードワールドの見事な展開を見た。この作品は技術的にこだわった圧倒的なクオリティがあって感動させるんだけれども、これが「単体」の作品ならば非難ごうごうだったと思うんだよね。


だって、背景が全然わからないから。


このような物語の組み方ができるのは、すでに本編の『コードギアス反逆のルルーシュ』で世界観や歴史が共有されているという前提で、それを見ている人向けのミニマーケットのセグメントを絞っているので、できる行為なんだよね。サンライズは、ガンダムに慣れているので、これ上手いなーと思う。特に、ほんとうにターゲット層をかなり絞ってきていると思う。明らかに戦闘シーンの動きの素晴らしさ、あと全体の比率における戦闘シーンからいって、こういうのが好きな男の子にギュッと絞っているよね。普通テレビでやるようなアニメーション作品は、ましてやオリジナルは、そこまで絞れないと思うんだよね。いくらなんでも。


ふとおもったのは、僕がマブラヴのクロニクルズシリーズに望んでいたのもこれなんだよなー。


マブラヴ オルタネイティヴ クロニクルズ04


シェアードワールドを体感できるってことが、僕にとっては大きなポイントの一つのようなのだが、、、、なんでかっていうと、そこに世界が「ある」ってことを感じさせるものが見たいんだろうなーって思う。グインサーガに言っていたことと同じで、究極的には、物語ではなく、別の世界がそこに「ある」というような感じを抱かせてくれるものが見たいんだろうと思う。


それっていろいろな要件というか条件があるんだけれども、僕が究極的に物語に求めている、というか傑作たる条件としているのは、マクロとミクロがバランスよく組み合わせてあるものなんだけれども、『風雲児たち』なんかの分析で出てきたんだけれども、一つには群像劇を支えきるだけのマクロ背景の重厚さが必要で、それって、一言で言えば「歴史」があるかどうかなんだよね。なかなか深いマクロ背景を構築するのは難しいので、現実の歴史を下敷きにするか、それをパラフレーズするかになるんだろうけれども、現実ではなくてファンタジー世界で構築する場合には、ガンダムファーストから逆襲のシャアなどの、ほんとうに骨太のオリジナルがあって、そこから派生を描くいていく構造がもっともうまいやり方なんだよね。骨太の軸があれば、広がりと歴史を、秀作レベルで(それが超ド級の物語でなくとも)広げていけば、商売的ににもおいしいし、後身を育てる訓練にもなるし、なによりも、秀作レベルで描いたり、ある程度典型的な物語の類型(さっきった秀作レベルね)に絞り込めても、骨太の広がり感を感じさせるので、面白さの納得感が全然違う。

ログ・ホライズン1 異世界のはじまり ログ・ホライズン 西風の旅団 1 (ドラゴンコミックスエイジ) ログ・ホライズン外伝 HoneyMoonLogs 1 (電撃コミックス)

最近では、前回解説で書いた、橙乃ままれさんの『ログホライズン』の広がりは、明らかにこのシェアワールドを意識して設計している感じがするよね。小説家になろうで、前に紹介した木根楽さんの堀川恵美理とイシュリーンのシリーズなんかは、まさにこのシェアワールドの感覚を感じさせてくれます。シェアードワールド要件がどういうものかは、まぁコツコツと考えていきたいのですが、これが見たいんだよねぇ!僕は。


堀川恵美理の慕情 
http://ncode.syosetu.com/n1262bh/

堀川恵美理の花嫁修業 
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レジェンド・オブ・イシュリーン
http://ncode.syosetu.com/n9673bl/


僕この話って、栗本薫が最も読みたい本は、「終わらない物語」なんだということをどこかのエッセイで読んで、モンテクリスト伯とか三国志とか、とにかく長くて、重層的で、読んでも読んでも終わらなくて、スケール(地理的な大きさ・横軸)もデカくて、時系列も長くて(歴史の流れ・縦軸)というようなものが読みたいんだぁぁというのは、僕も本当に同感だったので、すごくよく分かった。その具体的な展開が、まさにグインサーガであったわけだ。実際に、3巻の最初の巻頭部分の話は何度も読み返しているが、まさにこれは、歴史の部分を意識した時系列の構成を作っているんですよね。こういうのは簡単なんだけど、これを具体的にまさに展開するのは、生半可なことではできない。いやーグインはすごかった。

グイン・サーガ 100 豹頭王の試練 (ハヤカワ文庫JA)


そこに世界が「ある」という感覚の要件には、僕はいくつかあると思っていて、いまそれをコツコツ考えているんだが、前回書いた「小説家になろう」の分析で、


1)主観視点で、時系列の組換えをしないで一直線に、垂れ流し型で描写する


また


2)WEB形式がとても向いていて、とにかく短い頻度で長い期間にわたって定期的に配信されるのを連載形式として読み込む


というのが、要件としてあり得ると思っている。ちなみに、小説家になろうの形式が、世界がそこに「ある」と感じさせてしまうのは、この辺の理由だと思うのだが、グインサーガはこれには当たらない。1)の部分は、完璧に神の視点(=第三者視点)の小説空間で描いているわけだからなんだけれども。


ただ、これは『風雲児たち』の


3)歴史的背景をベースに大きなマクロの流れの中で、ミクロの群像劇を超精密かつ人生を一生涯すべて描写


することで、歴史と群像劇が浮かび上がってくるという重厚さ=そこに世界がある、という感覚を生み出すという部分と、とても似ている部分だと思うんです。なろうは、ライトノベルに近い感じなので、主観視点で作られているので、その中で世界の実在感を求めると、、、、えっと、逆だな、、、そうではなくて、そもそも個人がセラピーと二次創作、個人の妄想の世界の展開を目指しているので、そもそも小説を書こうというような、技巧的にパッケージにして物語を提示しようという意識がほとんどない中で書かれているものなので、主観視点の一人称による「体験したものをそのまま見てきたように写し取る」形式で以外の表現ができないんだろうと思うんですよ。


風雲児たち 幕末編 22 (SPコミックス)


そこにはいっさいに、物語を作るという「技巧」の部分がはいあらないのが理想。いってみれば、自分が行って来た、異世界の体験記の形式をとっているわけです。そしてそれが、いみじくも、歴史背景を構築して、そこにミクロの人間を微細に描いて人生をすべて描くという群像歴史劇と同じような効果が生まれてしまっているわけです。


この三人称視点(=神の視点)の究極系と、一人称視点の究極系(=体験記)が、ほぼ同じ効果と意味、、、世界を再現するという効果において、同じことを再現してしまっているんだろうと思います。


かつて評論家の中島梓は、物語の究極の目的、もしくは理論の最果ては、世界を再現することにある、と喝破しました。同じことを栗本薫(=評論家の中島梓と同一人物)は、物語作家として、最も読みたく、そして作りたい物語は、「終わらない物語」であり、かつ、自分は巫女のように、別の世界があるのを、見て来たままに、夾雑物なしに写し取ることのできる自動筆記装置のようなものであることが、物語作家としての目指す最高到達地点だといっていました。ちなみに、橙乃ままれさんのウェブで最初の出た時には、自称「聖フランシスコ幼稚園卒業の自動筆記マクロ」といういいかたをしていましたね。僕はこの肩書きを見たときに、、、ああ、、この人はわかっているなぁーーーと思ったものです…。ちなみに、世界を再現することが、別の世界にある「世界」をそのまま書き写すことが物語だといってしまうと、いわゆる文学はすべてこれに非該当になります。・・・・この辺の話は、ぜひとも中島梓さんの『文学の輪郭』や『道化師と神』という素晴らしい評論を読んでもらいたいな、と思います。僕の神様と呼べる本です。


おっと話がずれたんですが、この物語の定義としては極端なものですが、この定義にしたがったときに、グインサーガのような三人称で構成された長大な歴史大河小説と、一人称で極端に視野が狭く描かれたなろうの小説が、ほぼ同じものを表現することになっている、というのは、僕はとても面白いことだな、と思っています。